長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ハリウッドへの名刺がわり? ヒッチコック第2のデビュー作 ~映画『海外特派員』~

2024年10月13日 13時19分19秒 | ふつうじゃない映画
映画『海外特派員』(1940年8月公開 120分 アメリカ)
 『海外特派員』(原題:Foreign Correspondent )は、アメリカ合衆国のサスペンス映画。アルフレッド=ヒッチコック監督のアメリカ・ハリウッドにおける2作目の作品である。

 1939年3月にアメリカに移住したヒッチコックは、翌4月からハリウッドの映画プロデューサー・デイヴィッド=O=セルズニックの映画会社セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズに所属した。1940年3月の『レベッカ』の完成後、セルズニックはしばらくプロデューサーとしての活動を停止し、契約した俳優や監督を他社に貸し出す方針をとったため、ヒッチコックも1944年まで他の映画会社に貸し出されて映画を制作することとなった。
 『海外特派員』は独立系映画プロデューサー・ウォルター=ウェンジャーの映画会社に出向して制作した作品で、1940年3月に脚本が完成し、同年夏まで撮影が行われたが、製作費はそれまでのヒッチコック作品の中で最高額の150万ドルとなった。本作は、第二次世界大戦の開戦直前のロンドンに派遣されたアメリカ人記者がナチスのスパイの政治的陰謀を突き止めるという物語であり、大戦への不安を抱いていたヒッチコックは、この作品であからさまにイギリスの参戦を支持し、エンディングではアメリカの孤立主義の撤回を求める戦争プロパガンダの要素を取り入れた。
 本作は同年8月にユナイテッド・アーティスツの配給で公開されると成功を収めたが、その一方でイギリスのメディアからは、祖国の戦争を助けるために帰国しようとせず、アメリカで無事安全に仕事を続ける逃亡者であると非難された。なお、実際に第二次世界大戦が開戦したのは本作公開の翌月の9月3日だった(イギリスとフランスによるナチス・ドイツへの宣戦布告)。
 第13回アカデミー賞の6部門にノミネートされた(作品賞、助演男優賞アルベルト=バッサーマン、脚本賞、撮影賞、美術賞、視覚効果賞)。

 オランダ人外交官ヴァン・メア卿を演じたドイツ人俳優アルベルト=バッサーマンは英語を全く話せなかったため、全てのセリフを音で覚えて演じた。
 新聞コラムニストのロバート=ベンチリーはステビンズ役を演じるにあたり、自分のセリフを自ら考えることを認められた。
 ヒッチコック監督は、本編開始12分35秒頃、ロンドンで主人公のハヴァーストックがヴァン・メア卿と初めて出会う場面で新聞を読みながら歩く通行人の役で出演している。
 日本では1976年9月に劇場公開されたが、それ以前にも TVでたびたび放映されていた。


あらすじ
 第二次世界大戦前夜の1939年8月中旬。ニューヨーク・モーニング・グローブ紙のパワーズ社長は、事件記者ジョン=ジョーンズに「ハントリー=ハヴァーストック」のペンネームを与え、ヨーロッパへの海外特派員としてイギリス・ロンドンに派遣した。
 ジョーンズの最初の任務は、昼食会でオランダの外交官ヴァン・メア卿にインタビューすることだった。ハヴァーストックはヴァン・メア卿とタクシーに相乗りして戦争が差し迫っている社会情勢について質問するが、ヴァン・メア卿は言葉を濁す。昼食会に出席するとハヴァーストックは、会議の手伝いをしていた、司会を務める万国平和党党首のスティーヴン=フィッシャーの娘キャロルに夢中になってしまう。フィッシャー党首は、講演する予定だったヴァン・メア卿が急用により欠席したと発表し、代わりにキャロルに講演をさせた。
 続いてパワーズ社長は、万国平和党の会議に出席するヴァン・メア卿を取材させるため、ハヴァーストックをオランダ・アムステルダムに急行させる。ハヴァーストックはヴァン・メア卿に挨拶をするが、なぜかヴァン・メア卿はハヴァーストックのことを憶えていない。すると突然、カメラマンを装った男が隠し持っていた拳銃でヴァン・メア卿を射殺してしまった!

おもなキャスティング
ジョン=ジョーンズ(ハントリー=ハヴァーストック)…… ジョエル=マクリー(34歳)
キャロル=フィッシャー   …… ラレイン=デイ(19歳)
スティーヴン=フィッシャー …… ハーバート=マーシャル(50歳)
スコット=フォリオット   …… ジョージ=サンダース(34歳)
ヴァン・メア卿       …… アルベルト=バッサーマン(72歳)
ステビンズ記者       …… ロバート=ベンチリー(50歳)
クルーグ大使        …… エドゥアルド=シャネリ(52歳)
殺し屋のローリー      …… エドマンド=グウェン(62歳)
パワーズ社長        …… ハリー=ダヴェンポート(74歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(41歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(41歳)、ジョーン=ハリソン(33歳)、ジェイムズ=ヒルトン(39歳)
製作 …… ウォルター=ウェンジャー(46歳)
音楽 …… アルフレッド=ニューマン(39歳)
撮影 …… ルドルフ=マテ(42歳)
編集 …… オットー=ラヴァーリング(?歳)、ドロシー=スペンサー(31歳)
製作 …… ウォルター=ウェンジャー・プロダクションズ
配給 …… ユナイテッド・アーティスツ


≪本文マダヨ~≫
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

70点、70点、うっさい!! ~映画『傲慢と善良』~

2024年10月11日 23時28分39秒 | ふつうじゃない映画
 へへへ~いどうもこんばんは! そうだいでございます~。

 いやぁ、先日ついに敢行してしまいました、山形~山梨の1泊3日往復車旅、片道500km!! 去年から始めている個人的な年1ビッグイベントだったのですが、今年は夏ではなく秋にチャレンジしました。
 ほんっとうに、心の底から! 生きて帰って来ることができてよかったな、としみじみ痛感しております……今年もすばらしい旅になったのですが、がっつり風邪ひいちった……
 これはやっぱり、今年のゴールデンウィークに山形の米沢市で行われた「上杉まつり」の川中島合戦再現イベントで上杉軍の足軽になった身でいながら、武田勝頼と因縁の深い新府城跡をのこのこ探訪してしまったがための祟りなのでありましょうか……いや、単にケチって高速使わずに一般道で行って疲れただけか。
 正直、行った初日の山梨のお天気は、一日中のぐずぐず雨という最悪のコンディションだったのですが、雨の中おとずれた新府城跡や武田八幡宮は非常にムード満点で絵になっていました。く、熊の気配がめっちゃ怖かった……
 宿泊した南アルプス市・芦安温泉の宿も、昭和中期の大型旅館の雰囲気を今に伝える、率直に言うと複数回の増築による通路のカオスな迷宮化が最高なところでございました。露天風呂に入ろうとしたんですけど、宿泊棟の1階に降りてから外通路を通って別棟に行って、そこから2階に上がってまた外回廊を通って露天風呂って、あんた……昔ながらの旅館は、高齢者に当たりが異常に厳しい! 歳とってからゆっくり泊まろうったってそうはいかないから、足腰が元気なうちに行っとけ行っとけ!
 帰りの日は一転しての好天だったのですが、「長野ナンバーのドライバーさんの交通法規順守の徹底ぶり」を身に染みて感じながら、結局まるまる一日かかって深夜に山形に到着いたしました。もうちょっと早く到着する算段だったのですが……大きな声じゃ言えませんが、制限速度で走る車って、山形じゃそんなに多くは、ね……ゴニョゴニョ。
 なぜか去年から始まった山梨県への温泉旅行、元気だったらぜひとも来年もやってみたいです。でもこれ、ほんとに体力をゴリゴリに削りますんで、体調管理には十二分に気をつけて、また1年これを楽しみにして生きていこうと思います。山梨、ほんとに楽しい!

 さてさて、それでここ数日、久しぶりに体調が最悪な日が続いてダウン(しながら働いて)いたのですが、やっとなんとか快復して余裕が出てきましたので、ようやく、かねてから観よう観ようと思っていた映画を鑑賞してまいりました。

 いやほんと、ここんところ『箱男』あたりから観なきゃいけないと思ってるエンタメ作品が渋滞しちゃってて! 早くひとつひとつ消化していかなければ……船越さんの『黒蜥蜴』2024も、録画はしたけどまだちゃんと観てないのよ……今年の秋はほんとに忙しい!! なんだかんだ言って師走までこんな感じになりそう。


映画『傲慢と善良』(2024年9月27日公開 119分 アスミック・エース)
 映画『傲慢と善良』(ごうまんとぜんりょう)は、辻村深月による長編恋愛ミステリ小説『傲慢と善良』(2019年3月刊)の映画化作品。原作小説は2019年度ブクログ大賞・小説部門大賞を受賞し、2024年10月時点で累計部数100万部を突破している。

あらすじ
 仕事も恋愛も順調に過ごしてきた青年・架。しかし長年付き合った彼女のアユにフラれてしまったことをきっかけにマッチングアプリで婚活を始める。そこで出逢った、控えめで気の利く女性・真実と付き合い始めるが、1年が経っても結婚には踏み切れずにいた。
 そんな折、架は真実からストーカーの存在を打ち明けられる。そしてある夜、「架くん、助けて!」と恐怖に怯える真実からの電話が。真実を守らなければと決意し、架はようやく真実と婚約するが、その矢先に真実が突然、姿を消してしまう。
 両親や過去の見合い相手を尋ね、真実の居場所を探す中で、架は知るよしもなかった真実の過去と噓を知るのだった……


おもなキャスティング
西澤 架 …… 藤ヶ谷 太輔(37歳)
 東京生まれの東京育ち。国産クラフトビールの製造販売業社長。容姿端麗で女性経験も豊富。かつての彼女である6つ年下のアユ(三井亜優子)は理想の相手だったが、早く結婚して子供を持ちたいと望むアユの願いを先延ばしにした結果、振られて別の相手と結婚された過去がある。30歳代後半になってからマッチングアプリに登録して婚活を始め、大勢の女性と会う中で真美と知り合ってなんとなく交際を始めたものの、心のどこかでアユを引きずっている。学生時代からの友人の美奈子に真美と何% くらい結婚したいかと聞かれて「70% 」と答える。

坂庭 真実 …… 奈緒(29歳)
 東京都内の英会話教室で働く事務員。
 群馬県前橋市に生まれ育った。2人姉妹の次女。大人しく自分の意見を主張するのは苦手。利発で大学進学を機に上京した姉(岩間希美)と違い、高校から地元の女子校に進学し、そのままエスカレーター式に系列女子大へ進学。卒業後は母の勧め通り群馬県庁の臨時職員として働いた。進学や就職については母親・陽子の影響が強く、自らで深く考えたことはなかった。大学の同級生や県庁の同僚が次々と彼氏を作り結婚していく中、真美は特に彼氏ができることもなく過ごす。母親のはからいで地元の県会議員夫人・小野里が運営する結婚相談所の世話になることになったが、相手の欠点ばかりに目が行ってしまい結婚には至らなかった。その後、いつまでも自分を子ども扱いする両親に耐え兼ね、実家を出て姉を頼り上京した。

美奈子 …… 桜庭 ななみ(31歳)
 架の大学時代からの友人。仕事ができ美人で気も強く、要領よく生きてきた女性。架との付き合いも長く、遠慮なく意見を言う。架に、過去に架の彼女だったアユと比べて真美に対して70点の気持ちしかないのなら結婚すべきではないと忠告する。

岩間 希実 …… 菊池 亜希子(42歳)
 真実の姉。母親・陽子の束縛を嫌い大学進学を機に実家の前橋から上京し、今は結婚して一児の母となっている。何かにつけて母親の言いなりである妹・真美に対していら立つこともあるが、真美をなにかと気に掛けている。

坂庭 陽子 …… 宮崎 美子(65歳)
 群馬県前橋市に住む、真実と希実の母親。自分の価値観を真実に押し付け、真実を何かと束縛しようとする。

坂庭 正治 …… 阿南 健治(62歳)
 群馬県前橋市に住む、真実と希実の父親。妻・陽子の言うことに大きく反対はせず、真実と希実の子育てを任せてきた昔気質な性格。

小野里 …… 前田 美波里(76歳)
 群馬県前橋市の県会議員の妻。結婚相談所を運営している。真実の母・陽子に依頼され、真実にお見合い相手を紹介する。

高橋 耕太郎 …… 倉 悠貴(24歳)
 真実が九州地方の七山市(架空の都市)で知り合う災害ボランティアのリーダー。

よしの …… 西田 尚美(54歳)
 七山の飲み屋「FUNNY NANAYAMA 」のママ。真実を居候として受け入れ面倒を見る。

架の親友・大原 …… 小林 リュージュ(35歳)
 大学時代からの架の親友。電子機器部品の卸業を経営している。40歳近くになっても未婚の架を心配している。

美奈子の親友・梓 …… 小池 樹里杏(30歳)

真実の見合い相手・金居 …… 嶺 豪一(35歳)
 群馬県前橋市で電子機器メーカーに勤めるエンジニア。2児の父。

真実の見合い相手・花垣 …… 吉岡 睦雄(48歳)
 群馬県高崎市で歯科医院に勤める独身男性。

真実の地元の友達・泉 …… 里々佳(29歳)
 真実の中学校時代の友達。前橋で偶然、真実と金居に出遭う。

三井 亜優子 …… 森 カンナ(36歳)
 かつて架の交際相手だった女性。


 きたきたきた~! 我が『長岡京エイリアン』いとしの辻村深月先生の小説を原作とする映画作品のご登場でございます。

 辻村先生は、畏れ多いことに私とほぼ同年代の方なので、どうしても「日本小説界の若手ホープ」という印象が離れないのですが、気がつけば辻村先生も今年でデビュー20周年を迎えるという押しも押されもせぬベテランとなり、それにともない、先生の小説作品を原作とする映像作品もかなり多くなってきました。でも、今でも「映像化!」という知らせを聞くとドキッとしてしまうんですけどね。やっぱりファンにとっては気になる話題というか……本質的に小説とは全く別の作品と割りきるべきなんですけどね。

 ざっとまとめてみますと、今回の『傲慢と善良』(以下、映画版は『ゴー善』と略)も含めますと、辻村先生の小説作品はこれまでに「TV 単発ドラマ1作(『踊り場の花子』)」、「TV 連続ドラマ4作(『鍵のない夢を見る』など)」、「実写映画5作(『ツナグ』『太陽の坐る場所』『朝が来る』『ハケンアニメ!』、『ゴー善』)」、「アニメ映画2作(『大長編ドラえもん のび太の月面探査記』『かがみの孤城』)といった形で映像化されています。いや~、気がつけばこんなにみごとな花ざかり。

 これらの諸作は、それぞれ制作スタッフが全く違う作品だし別々の味わいがあるわけなのですが、共通しているのは「出演俳優にかかる真剣勝負度の圧がすごい」ということではないでしょうか。

 これはもう、原作小説の生々しいまでの「登場人物が身を切ってる感」が、辻村ワールドならではの味わいにして魅力の核心というところが関係しているとしか言えないでしょう。つまり、辻村作品を原作とする以上、どうしてもそれに取り組む俳優の皆さんも、通りいっぺんに台本に書かれた役を演じるというだけでなく、俳優である以前に一人の人間として、嘘偽りのない「過去の自分」をありありとさらけ出した上で演じなければならない覚悟を要求されるからだと思うのです。若き日にこれからどうやって生きていこうかと悩む鬱屈とした自分、他人とのコミュニケーションに苦慮する自分、プロとして生きていくための覚悟を決めた瞬間の自分、こういう生き方で良いのかと道の途上ではたと立ち止まる自分……
 お話の面白さもさることながら、多くの人々の心をむんずと鷲掴みにする辻村ワールドの魔力の本質は、登場人物たちのそういった苦悩を通じて、読んでいる人に自身の過去を、大人になってとんと忘れ去ってしまっていた自分自身の姿、その時の空気のにおいや体温の高揚、肌の汗ばみまでをも鮮烈によみがえらせるような記憶喚起力にあると思います。まさに魔力! そして、それを引き起こす対象となっているのが小説の読者だけでなく、小説を原作とした二次作品の出演者にさえ波及しているというのが、映像作品の「真剣度」を異様に高めてしまう要因なのではないでしょうか。
 なんか軽いノリで辻村作品を映像化している例も観たいような気もするのですが、なかなかね……それはそれで原作ファンの反応が怖いような気もしますよね。読者も真剣そうだな~、辻村ワールドって! 私はどうなのであろうか……

 さてさて、そんなこんなで今回の『ゴー善』なわけなのですが、当初、あの長編小説『傲慢と善良』が映画化されると知った時、私は「また難しい作品を……大丈夫かな?」という不安が先に立ってしまいました。
 なぜなら、『傲慢と善良』は大部分が「いなくなった人を探す」お話であり、ただひたすらに「いない人の思い」を想像する旅に出る男の姿をロードムービー的に追う形式になっているからです。当然、最終的に男は相手にたどり着いて物語は終わりを迎えるのですが、その路程で殺人事件のような衝撃的な展開があるわけでもないし、いない人の過去に関しても、ぶっちゃけそんなに異常な出来事があったわけでもありません。

 ふつうなんです! この物語に登場する人物たちは、主人公の男女を含めて、み~んなごくふつうの人生を送っている人ばかりなのです。

 でも、この「ふつうの人生」の中でつまびらかにされていく人間同士のすれ違い、軋轢、対立、羨望、さげすみ、愛憎の濃密さときたら……ここ! この、死ぬほど大変なことでもないんだけど、地味にボディに効いてくるような細かい起伏が延々と続く人生のディティールを異様に高い解像度で描写しているところが、原作小説のものすごいところなんですよ! そうそう、ふつうに生きるって、こういう風にとてつもなく辛くて大変で、それでもたま~にステキな出逢いもあるからやめられないことなんだよなぁと、しみじみ感じ入ってしまうんですよね。

 この原作小説を読み進めていくと、タイトルにある「傲慢」と「善良」とは、別に対立する関係にあるものでもないし、作中で言及されてもいたジェーン=オースティンの長編小説『高慢と偏見』(1813年)のように、明確に超えるべき壁として立ちはだかる話でもないらしいことがわかってきます。つまり、登場する架と真実は、性別も家族環境も生き方もまるで違う者同士でありながら、自分自身の心にいつの間にか、しかもかなり昔から強固な価値観を持っており、それこそが表裏一体の関係にある「傲慢 / 善良」という共通の何かであることが明らかになってくるのです。そして、おそらくこれは、この小説に登場する人物全員どころか、読者も含めた現代日本人すべてに多かれ少なかれ根ざしているものなのではないか、という気配が次第ににじり寄ってくるという、何か、今まで日常生活の中でごくふつうに見えていたものが、ある瞬間から異様な違和感のある何かに見えてしまうような不気味な黙示録作品。それが小説『傲慢と善良』であると思うのです。
 私、この小説の読後感にいちばん似た感覚のあった作品って、コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』(2007年)なんですよね。お話は終わるけど、提示された「なにか」の気配は消えないという、この異物感。

 もちろん、この小説における架と真実のお話は、ひとつの物語として終わりはするんですが、現実世界にいる私達の「傲慢と善良」はどうなっているのか、この小説を読んだことで何かしらの変化は起きたのか、それとも何も変わらずに心の中に存在し続けるのか……小説の中から辻村先生が読者に押しつけがましく直接呼びかけるような文章は一文も無いのですが、こういう問いかけを球速160km 台で投げかけられているような気がしてくるのが、たまらない! でも、ここまでドカドカッと読者の心の柔らかいところに入りこんでくる人もそうそういないような気がするからこそ稀有な存在なのです、小説家・辻村深月って。家族よりも家族、母ちゃんよりも母ちゃん!! ちょっ、勝手に開けんなって!!

 ともかく、この小説『傲慢と善良』は、非常に読み応えのある作品ではあるのですが、その面白さが、果たして映像作品になる時に「伝わりやすいものなのか」というと、私はかなり難しいと感じたんですよね。しかも、登場人物同士が会話するパートとほぼ同じかそれ以上の分量で、主人公の回想や心中思惟が物語の大部分を占めているのですから、セリフに頼らない相当にハイレベルで繊細な演技力も主人公の2人には要求されるわけで。これを映画化とは……こりゃ大変な難物ですぞ!

 ほら~、ここまで字数を割いといて映画になった『ゴー善』の話にじぇんじぇん入ってないよ! ちゃっちゃと観た感想を言っときましょう。映画のほうの『ゴー善』についての私の感想は、


後半が全然ちがう話になっとるが……原作小説に挑戦した勇気はたたえたい。


 というものでした。面白く観ましたよ!

 そうなんですよ。映画『ゴー善』は、物語の中盤から展開と設定が、原作小説とだいぶ違ったものになっているのです。
 ざっくり言ってしまうと、失踪した真実のおもむいた土地が、原作の宮城県仙台市ではなく、北九州地方の「七山市」という町に変更されています。これは架空の都市で、実際に撮影された地名で言うと佐賀県唐津市の七山地区となるようです。
 原作小説では、真実は仙台市で東日本大震災の復興ボランティアに従事するのですが、『ゴー善』ではおそらく、2017年7月の「九州北部豪雨」いらい毎年のように発生している豪雨災害の復興ボランティアに従事するために、真実は七山におもむいたようです。
 この変更自体は、映画の制作時期にかんがみて、より今現在リアルに災害が起こっている九州に舞台を移したのではないかと想像がつくわけなのですが、問題は、この七山で展開される真実と架との再会の経緯が、はじめからおしまいまで原作小説とまるで違うものになっているというところです。

 具体的に比較していきますと(以下、後半の展開に触れまくります。注意!!)、


≪原作小説の時間の流れ≫
1、四月。真実が失踪してから約3ヶ月後に架がひとつの「結論」に達し、失踪いらい更新が途絶えている真実のインスタグラム投稿の最終記事にコメントの形でメッセージを伝える。
2、ほぼ同じ時期に、仙台でボランティア活動をしていた真実が架のコメントを読み、いったんの返信をするが具体的な再会時期は保留する。
3、さらにほぼ同じ時期(真実が架のコメントを読む前日)に、ボランティアの高橋青年が真実をデートに誘う。
4、七月。宮城県東松島市にある JR仙石線の無人駅「陸前大塚駅」(実在)で真実と架が再会する。

≪映画版の時間の流れ≫
1、真実の失踪に関して架がひとつの「結論」に達し、真実のスマホにメールを送るが、真実は返信せず九州の七山市におもむく。
2、七山で暮らしてからも真実はインスタグラムの投稿を続けており、架も投稿をチェックしている。
3、真実が七山で暮らして2年後。真実が地元の地域振興課に「地元産クラフトビール」の開発を提言し、提携先として架の会社を紹介する。
4、ほぼ同じ時期に、ボランティアの高橋青年が真実をデートに誘う。
5、架が企画会議のために七山におもむき、その風景を見て真実が七山にいることに気づく。
6、七山の飲み屋「FUNNY NANAYAMA 」の店先で真実と架が再会する。


 このような感じになります。映画版は6、の後にもう一つの山場があってエンディングとなるのですが、そのロケーションは原作小説をかなり意識したものとなっていましたね。

 上の2バージョンを見比べてまず目立つのは、映画版の架の方が、あのエンディングを迎えるにしては行動が異様に受け身すぎるというか、2年間も何をやってたんだと不思議に思えるほど優柔不断な男に見えるという点ではないでしょうか。
 だって、どのくらいの頻度かは語られなかったのですが、連絡は途絶えているとはいえ、真実はインスタ更新してるんでしょ? しかも、どこに住んでるのかは語らないにしても風力発電の巨大タービンとか、みかんの木とかのヒントは写ってたわけだし……それをチェックしてるんだったら、普通は住所を特定して押しかけるくらいのこと、本気で結婚したいんだったらするんじゃないかな。まぁ、それに対して真実がどう反応するのかは別の話なわけですが。
 2年間ですよ、2年間。お互いピッチピチの20代前半でもなし、いつまでも若いわけでもないその時期に急がないということは、ほんとに架に原作小説のような真実への想いがあるのか?と疑ってしまうところがあります。それで結局、映画版はなんだか真実が「しょうがねぇから最後のチャンスを……」みたいにクラフトビール企画という救いの手を伸ばした感じになっちゃってるんですよね。

 確かに、原作小説のほうのクライマックスで真実は架に対して「この人は、とても鈍感なのだ。」という感慨を抱くのですが、映画版の架は、原作小説とは全く違う意味で鈍感としか言いようのない人物になっていると思います。それは……鈍感というか、「自分がない」のでは?

 あと、この現代に真実がインスタを続けているというのは、どう考えても話が「真実と架」だけに収まるには無理があるような気がします。映画に登場した人物の中でも、美奈子とか真実の母親とか小野里とか、架と同じかそれ以上の関心で真実の所在を追求しようとする可能性のある人物はいるような気がします。この状況で2年間、なにも起こらないはずがないでしょ……
 私はここらへんに、映画版の土壇場にきての整合性のなさを感じてしまうのです。な~んかリアリティがないし、架もカッコ悪い。映画オリジナルのこの「空白の2年間」が、原作小説の「濃厚過ぎる約半年間」とは全く比較にならないほど希薄なものになっているのですから。

 ついでに申しますと、架が真実のインスタ投稿にあった風力タービンの写真から七山に真実がいることに気づくという描写があるのですが、これも、田舎住まいの私からするとおかしいと言わざるを得ないというか……だって、あんな真っ白くてバカでかいタービン、海岸沿いの場所だったら日本海でも太平洋でも、日本全国どこにでもあるでしょ!? なんでそれが決め手になんの!? もっとみかん畑のある角度から見た風景とか、個性豊かなきっかけは別にあっただろう。
 何の特徴もない風力タービンを見ただけでそれをどこだと判断するなんて、人種も性別もわからないのに髪の毛が黒いだけでディーン・フジオカだと判断するようなものだと思うんだけどなぁ。

 余談ですが、私、先ほども申した通りに車で山形~山梨を往復したのですが、夜の9~10時ごろに新潟県の村上市で出くわした風力タービンの巨大な影が、めっっっっちゃ怖かったです……中央ハブのライトだけが灯台みたいに煌々と照らされていて、近づくと巨大なタワー部分が次第にぼーっと見えてくるという。周囲には歩行者はおろか車すらないし! デイヴィッド=リンチの世界みたいな雰囲気で最高でした。

 おそらく、映画『ゴー善』の一連の改変は、「みかんの木」の成長速度を考えて、真実と高橋が植えた苗木が育って花を咲かせるまで約2年かかるといったところから逆算してそういったタイムスケジュールになったのではないでしょうか。当然、小説と違って「絵」を大切にする映画なのですから、そういう判断があっても良いかとは思うのですが、問題は、その「2年間」という設定に、原作小説の「トータルでも約半年」の4倍も延びちゃってることに対する説得力充分なフォローが無かったということなのです。

 その結果、『ゴー善』の架は、真実を必死に探し出すこともせずに2年間も暮らし、それなのに真実からの助け舟をもらって再会できたかと思ったら、この期に及んで「結婚したいよう!」などと言い出す行きあたりばったりな男になってしまったのです。そして、それに対する真実の返答を受けての反応も、映画をご覧の通り、非常に受け身で消極的なものになっているのですから仕方がありません。原作小説『傲慢と善良』のクライマックスで、鈍感ながらも、というか鈍感であるがゆえの「凛々しさ」を見せてくれた架とは全くの別人と言わざるを得ないのではないでしょうか。
 映画『ゴー善』のクライマックスで、真実は原作小説と同じように、架が「70点(実際には70% )」と言ったことにこだわる問いかけをするのですが、『ゴー善』の真実がキレるべきなのは、もはやそんなことではないような気がしますよね……

 ともかく、映画『ゴー善』の後半部分は、原作小説『傲慢と善良』の架が見せてくれた一連の成長を、まるでナシにしてしまう改悪につながった部分が大きいと思います。第一、原作で真実が仙台に行ったのも、群馬での見合い相手の金居がそもそものきっかけであるという丁寧な伏線があったし、金居の発言から、災害復興支援ボランティアの現代日本におけるある種の精神的緩衝地帯、駆け込み寺という側面もきっちり描いている原作のほうが数段ディティールが細かくて面白かったと思うのですが……

 とまぁ、映画版の後半の展開について、私も見た直後は「どうして変えたのか理由がわからん!」とプリプリしながら映画館をあとにしたのですが、つらつら考えまするに、『ゴー善』は原作『傲慢と善良』におけるクライマックスの展開における「真実の受け身」感に多少の不満があったがために、逆に真実に言いたいことを言わせて架にアタックさせる選択肢を採ったのではないでしょうか。
 すなはち、『傲慢と善良』のクライマックスにおける架の、「傲慢 / 善良」の壁を突破する勢いを持った凛々しさあふれる言動には、解決しない現代日本にはびこる問題をあらわにした重い小説にさわやかな一陣の風のような奇跡的なハッピーエンドをもたらす効果がありました。それまでの架では言えなかった、できなかったことを表明する、新しい架への変身が高らかに宣言されていたのです。
 ところが、その反面で架の変身は果たして本当にその後も続いていくものなのか、単に真実との結婚という事案に関して意固地になって瞬間的な感情で言い出しただけなのではないか?という非常に意地悪な見方もできるわけで、フィクション小説ならではのきれいごとと取れなくもない甘い香りに満ちたエンディングになっているのです。当然、辻村先生もそのことを承知の上で、『傲慢と善良』の2人が選んだ未来が決してバラ色ではないということも言い置いているわけですが、そこには先生らしく「三波神社」のご加護も添えてくれています。

 おそらく『ゴー善』の選択したエンディングは、なんだかんだいって最終的には「白馬に乗った王子様」という非現実的なヒーローに変身してしまった架に救われるだけの受け身なヒロインになってしまった『傲慢と善良』の真実への反論として、最後の最後までなんの変身も見せず情けない存在のままで七山を去ろうとする架を強引に救い上げる「軽トラに乗った王女様」として、ヒロインはヒロインでもプリキュアのような行動力・主体性のある人間に変身した真実を描きたかったのではないでしょうか。だからこその『ゴー善』における脚本の改変と、演技力抜群の奈緒さんの真実役起用だったと思うのです。名前はキュアキャリイ(スズキ)でしょうか、それともキュアスクラム(マツダ)かな。

 なんとも明るい未来の見えない鬱然とした日本社会の影の側面を照射する続く展開の末にひらけるのは、決然たるヒーローとなった架がみちびく『傲慢と善良』の結末か、「70点ってなんじゃー!」と荒ぶるヒロインとなった真実がみちびく『ゴー善』の結末か。あなたは果たして、どちらのエンディングを選ぶでしょうか。

 要するに、「人間なんてそんなに簡単に変身できるものだろうか」とややシニカルに解釈し直したのが『ゴー善』の架像だったと思うのです。それもそれで一つの考え方かとは思うのですが、ちょっと『傲慢と善良』の架とは別人すぎるような気もしますよね。演じた藤ヶ谷さんがちと不憫……

 あとこれも言っておきたいのですが、辻村ワールドならではの共有世界システムで『傲慢と善良』以外の作品にも登場している「谷川ヨシノ」という重要人物が、『ゴー善』では名前こそ同じものの全く別人になっていたのは、やはりちと残念でした。
 いや、近所のみかん畑に顔を出しただけで真実に「なんで来たんですか!?」ってビックリされるって、どんだけ行動力が低いんですか……谷川ヨシノさんとは天と地ほど、サラブレッドとなめくじほどの差のあるお人になっていましたね。


 ま、そんなこんなでいろいろくだくだと申しましたが、今回の映画版『ゴー善』は、出演俳優の皆さんの演技こそ素晴らしかったものの(特に前田美波里さんが頭3つくらいズ抜けて最高でした)、やはり後半のオリジナル展開に首を傾げざるを得ない点があったことが引っかかってしまいました。原作小説に真っ向から別案を提示するのならば、作者の了解は当たり前のこととしても、原作に対抗しうる頑丈な別構造を持ったプランを練り上げてほしいですよね。キューブリック監督の『シャイニング』ほどとは申しませんから……

 あ、でも! チョイ役ながらもかなり重要な役に、あの映画『太陽の坐る場所』にも出演していた森カンナさんが出ていたのは良かったねぇ! 映像版の辻村ワールドの常連になるつもりなんですか、カンナさーん!? いい覚悟の決まり方ですね。


 いや~でも、「70点」って、そんなにぐじゃらぐじゃら言うほど問題のある点数なんですかね……と、人生のあらゆる局面において赤点を叩きだし続けておるわたくしが申しております。いいじゃん、70点! もちろん、人を評価する時に出すべき点数ではありませんけどね。
 70点、別にいいですよねぇ。『信長の野望』シリーズの武将でいったら「黒田長政」とか「細川忠興」、「秋山信友」とか「佐々成政」くらいのクラスでしょ。全然いいじゃん! 役に立ちまくりですよ。「藤堂高虎」もいいですよね、裏切りが怖いけど。

 私が大好きな足利義昭公なんか、最近の統率力はだいたい「20~30点」よ!? 生きてるだけでいいの!! それどころか、全体的な能力値が驚異の「ひとケタ~10点台」の今川氏真でだって、天下統一はできるんだぜ!!

 70点でうだうだ言ってる場合じゃないよ! 加点してけ加点してけ~!!

 そもそも論、ワケのわかんない心理テスト、滅ぶべし!! あんなん、根拠もなにも……なんだっけ、アレ、ホラ、エビとかカニみたいな、なんか今ふうの言い方の……アレがないんだからぁっっ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全国城めぐり宣言 第49回 「甲斐国 新府城」資料編

2024年10月09日 23時45分56秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 新府城とは
 新府城(しんぷじょう)は、現在の山梨県韮崎市中田町にあった連郭式平山城。別名・韮崎城。1973年に国史跡に指定され、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。2017年に「続日本100名城」の第127番に選定された。

 甲府盆地西部に位置し、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。
 石垣を使用していない平山城で、本丸・二ノ丸・東三ノ丸・西三ノ丸・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ。ちなみに本丸・二ノ丸は城主である武田勝頼の父・武田信玄の居館・躑躅ヶ崎館の本丸・西ノ丸に相当し、規模も同程度であることから、政庁機能を持つ城郭でもあったと考えられる。

 近年は発掘作業や間伐など整備がなされ、甲州流築城術の特徴である丸馬出や三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認できるようになった。また陶磁器類も出土している。支城として白山城(同市神山町)と能見城(同市穴山町)がある。

 武田勝頼時代の武田家の築城の特徴として、側面や背後を断崖や川に囲まれた台地の突端部を利用して戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流す構造が挙げられる。
 具体的には、正面の丸馬出より城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせ、そこに横矢を射て攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を排除できる構造で、同様な構造の代表的な城に遠江国では諏訪原城・小山城、信濃国では大島城がある。ただし、新府城の場合は支城である能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ、上に挙げた諸城と比べても、その規模は群を抜いて大きい。また、能見城の防塁は複雑に屈曲し、最大限に横矢を射られる構造となっている防塁が多数配置されている。
 ただし、諏訪原城は発掘調査から現在見られる縄張は徳川家が整備したことが判明しており、新府城の北側防塁も武田家ではなく天正壬午の乱時に徳川家が構築したものとの説がある。

 このように大規模な構造から、新府城とその支城群は、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提となっていたようで、実際に天正壬午の乱においては、徳川家康軍が北条氏直軍に対峙する本陣として使用されていた。
 また、新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は、江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられる。
 新府城は、使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7~8km、東西2km 周辺の自然地形全体が軍事的効果を持っていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城だった。

 戦国時代に甲斐国守護・武田家は本拠地を石和(現・笛吹市石和町)から甲府へ進出して、川田(現・甲府市川田町)に居館を移転した。
 第十五代当主・武田信虎の時代には甲斐国内を統一して戦国大名化し、古府中に居館である躑躅ヶ崎館が築かれ、家臣団を集住させて城下町を形成した。
 第十六代当主・武田晴信(信玄)の時代には領国拡張と平行して城下町の整備拡張がさらに進み、躑躅ヶ崎館は政庁の役割を持つ府中として重要な役割を果たすようになった。
 続く第十七代当主・武田勝頼の時代にも整備は行われているが、後背に山を持つ府中は防御に適しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃国、上野国西部、駿河国へと拡大した武田家の領国統治にとって不足であったため、首府の移転が計画されたと考えられている。
 新府城が位置する韮崎は甲府盆地北西端に位置しているが、戦国時代に拡大した武田領国においては中枢に位置し、躑躅ヶ崎館の府中よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられている。また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し、さらに釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、新城築造の背景にあったと考えられている。

 天正三(1575)年五月二十一日の設楽ヶ原合戦において、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗し、それ以降、武田勝頼は領国支配の強化に傾注した。
 天正時代に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』によれば、天正九(1581)年三月には甲斐国河内や駿河国江尻を領する武田家一門衆の穴山信君(梅雪)が、主君・勝頼に新たな築城を献策したという。
 その一方で、新府城の築城に関する史料上の初見は『長国寺殿御事跡稿』(真田宝物館所蔵文書)で、同年正月二十一日に、武田家重臣・真田昌幸が配下の国衆に人足動員を命じた記述とされる。この書状を根拠に新府城の普請奉行を昌幸とする説もあるが、昌幸は勝頼の命により人夫動員を通達したものに過ぎず、昌幸普請奉行説を慎重視する意見もある。
 中世~近世初期の古文書集『武州文書』によれば、同年九月に新府城の普請は完了したという。このため、穴山信君の献策は前年の天正八(1580年)七月のこととする説もある。
 普請が完了した同年末には勝頼が新府城へ入城し、武田家の本拠地は躑躅ヶ崎館から新府城に移転した。

 天正十(1582)年二月、武田勝頼は信濃国での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田信長・徳川家康連合軍に阻まれて帰国した。織田軍はさらに甲斐国へ侵攻し、武田勝頼は三月には重臣・小山田信茂の岩殿城に移るために、新府城に火をかけて放棄した。
 その後、勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(現・大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(現・甲州市)へ追い詰められ自害し、武田一族は滅亡した。

 武田家の滅亡後、織田家は甲斐国と信濃国諏訪に家臣の河尻秀隆を配置し、秀隆は岩窪城(現・甲府市岩窪町)を本拠としたという。しかし同年六月に本能寺の変が発生し、秀隆は混乱のなかで横死する。これにより甲斐・信濃両国の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生し、三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が甲斐国へ侵攻した。天正壬午の乱において徳川軍は新府城跡を本陣に、能見城など七里岩台上の城砦に布陣した。それに対して北条軍は都留地方を制圧し、若神子城(現・北杜市須玉町)に本陣を置くと周辺の城砦に布陣し対峙した。同年十月には徳川・北条同盟が成立し、北条家は甲斐国から撤兵する。
 これにより甲斐国は徳川家が領有し、甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした。
 天正十八(1590)年の小田原合戦により北条家が滅亡すると、豊臣政権に臣従していた家康は関東地方へ移封される。甲斐国は羽柴秀勝・加藤家・浅野家が領し、豊臣政権大名時代に躑躅ヶ崎館を中心とする城下町の南端にあたる一条小山に新たに甲府城が築城され、新たな甲府城下町が形成された。その後、関ヶ原合戦を経て甲斐国は再び徳川家が領し、近世を通じて甲府城は甲斐国の政治的中心地となり、新府城は廃城となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全国城めぐり宣言 第48回 「甲斐国 白山城」資料編

2024年10月09日 22時42分43秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 白山城とは
 白山城(はくさんじょう)は、現在の山梨県韮崎市神山町鍋山にあった山城。築城年、築城者は不明(武田信義の説あり)。「白山城」の名は、鍋山の中腹に鎮座する白山権現社に由来する。別名に鍋山砦、江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』では「要害城」と伝わる。国史跡。

 所在する鍋山は甲府盆地の北西端にあたり、赤石山地北東の巨摩山地・甘利山地に属する独立峰状の尾根に立地する。標高573m。釜無川右岸地域で塩川との合流地点に近く、釜無川が七里岩の崖下に押し付けられ回廊状となった地形の末端部にあたる。前面には開削された段丘が広り、谷底平野が形成されている。
 釜無川右岸には武田信義(甲斐武田家初代当主 1128~86年?)の居館跡もあり、同じ神山町の宮地には信義の菩提寺である願成寺や武田八幡宮など、甲斐武田家にまつわる史跡が分布している。七里岩上の韮崎市中田町中條には、戦国時代末期に武田勝頼(甲斐武田家第十七代当主 1546~82年)が築城した新府城が所在している。
 白山城の南に隣接する尾根には「南烽火台(ムク台烽火台)」、北に隣接する尾根には「北烽火台」と呼ばれる山城が存在している。
 周辺の主要街道としては、信濃国方面から西郡地域を経て甲府盆地南部の河内路へ通じる「西郡路(現・国道52号線)」のほか、甲州街道の一部である「河路」や、韮崎宿から七里台上を経て八ヶ岳山麓の信濃国蔦木宿へ通じる「原路」などが存在している。

 江戸時代の地誌『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川流域に土着し、戦国時代には在郷武士団である「武川衆」となった。寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編纂した武家家譜集『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木家が領有し、甲斐武田家第十四代当主・武田信縄(1471~1507年)から第十六代当主・晴信(1521~73年)までに仕えた八代・青木信種(1481~1541年)が「鍋山城」を守備したとあり、これが白山城にあたると考えられている。その後、青木家の分家・山寺家が領したという。
 その一方で、中世の文書や記録史料には白山城に関するものは見られず、もっぱら近世の地誌類や家譜などにしか見られない。寛永二十(1643)年に江戸幕府が編纂した家譜集『寛永諸家系図伝』や、先述の『寛政重修諸家譜』においては、戦国時代に武川衆の青木・山寺両家が甲斐武田家から「鍋山の砦」の守備を任されたとしている。
 江戸時代の甲府勤番士の日記『裏見寒話』によれば、武田八幡宮の南に「鍋山八幡」の存在を記している。『裏見寒話』では、この鍋山八幡を源為朝伝説に付会した説を取り、これは現在の白山神社と為朝神社に比定されると考えられる。

 戦国時代末期の天正十(1582)年三月、織田・徳川連合軍の侵攻により甲斐武田家は滅亡し、第十七代当主・武田勝頼は居城の新府城を退去して重臣・小山田信茂の領地である郡内へ逃れる途中に、田野(現・甲州市大和町)において自害した。同年六月、本能寺の変により織田信長が死去すると、甲斐・信濃国の旧武田領を巡り「天正壬午の乱」が発生し、甲斐国では徳川家康が七里岩台上の新府城跡に布陣し、同国の若神子城(現・北杜市須玉町)に本陣を置く北条氏直と対峙した。その中で武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木家・山寺家が配置され、諏訪方面の監視を行った。白山城はその時期に修築されたと考えられている。
 江戸時代初期の寛文年間(1661~73年)に廃城となった。

 現在の白山城跡には、鍋山の山頂を中心とし中腹や背後の尾根に曲輪、土塁、横堀、堀切、竪堀などの遺構が残されており、南北に烽火台・物見台が配置された、山梨県内でも類例の少ない中世城郭の遺構と考えられている。天守閣は無かったと思われる。
 山頂に位置する本丸は約25m 四方程の方形で、南東と北西に虎口が開き、土塁が巡らされている。この南側には一段下がって二ノ丸が存在し、本丸と二ノ丸の間には横堀が掘られ、西側には堀切が2本見られる。

 白山城跡の南東には白山権現社が所在し、慶応四(1868)年に江戸幕府に提出された報告書『甲斐国社記・寺記』によれば、かつて当社には慶安二(1649)年付の徳川家朱印状が伝来し、その頃には神社としての態勢が整えられていたと考えられている。神主は大村家。
 『甲斐国志』によれば、甲斐源氏初代当主である新羅三郎義光(1045~1127年 武田信義の曽祖父)が甲斐国へ進出した時期にはすでに当社が存在していたとする由緒が伝わっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

超ニッチ企画!! 『刑事コロンボ』幻の未映像化事件簿をよむ ~だいぶ遅れた読書感想文その2~

2024年09月24日 22時45分35秒 | ミステリーまわり
『刑事コロンボ』オリジナル小説作品の事件簿!! 各事件をくわしく解析
 ※TVドラマシリーズ『刑事コロンボ』の概要は、こちら
 ※未映像化事件簿の「 File.1、2」は、こちら!

File.3、『クエンティン・リーの遺言』( Shooting Script)ジョゼフ=P=ギリスとブライアン=デ・パルマの共作 訳・大倉崇裕 2004年12月~06年12月
 ≪犯人の職業≫    …… 犯罪心理研究家(映像マニア)
 ≪被害者の職業≫   …… TV番組司会者、一人芝居俳優
 ≪犯行トリックの種類≫…… 動機なき無作為殺人
・アメリカ本国で1973年7月(第2シーズンの放送終了後)に、第3シーズン用として執筆された没シナリオの小説化作品。日本における『刑事コロンボ』シリーズ研究の第一人者である町田暁雄が編集した同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』の Vol.1~3にて連載された。
・シナリオ版では、コロンボをサポートするオリジナルキャラクターとして、メカ小僧のスピルバーグ君ら3人の大学生が登場するが、小説化に当たって日本人映画監督キタカワイッペイに差し替えられている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、コロンボの部下のジョージ=クレイマー刑事とシオドア=アルビンスキー刑事(通称マック)、「バーニーの店」のバートが登場する。

あらすじ
 犯罪心理の研究家であり、常にビデオカメラを手放さない映像マニアのクエンティン=リーは、自身の完全犯罪の一部始終を録画して、自分の死後にドキュメンタリー作品として発表しようと計画した。そのために、自分の住むマンションに数多く暮らす「無益な有名人」のリストを壁に貼り、ダーツで決めた被害者をビデオカメラで撮影しながら殺害する! 事件解決に協力する映画監督くずれの日本人青年とともに、コロンボはこのあまりにも異常な犯罪を打ち砕くことができるのか!?


 私が今回の企画で読んだ、『刑事コロンボ』の未映像化作品8作のうち、唯一、一般書店で流通していた書籍でなく同人誌内での連載という形で小説化されたエピソードとなります。ただし、訳者はプロのミステリ小説家で二見書房文庫の『刑事コロンボ』ノベライズシリーズでも2作担当されている方なので、単行本化していないというだけの違いで内容のクオリティは他のエピソードと遜色ないものであると思います。だって、同人誌の責任編集者が、あの町田暁雄先生なんだもの! わざわざ町田先生に連絡して同人誌を注文購入するだけの価値は十二分にありまっせ。

 非常に不勉強なことに、私はミステリ作家としての大倉崇裕先生の作品をまともに読んだことはなくて、今回の本作と、アニゴジ2作のノベライズでしか存じ上げないんですよね……もうね、ここ20年くらいは新しいミステリ作家さんの作品を開拓してない感じなのです、申し訳ない!
 ただ、本作に大倉先生オリジナルで追加、というかシナリオの「スピルバーグ君」たちと交代で登場することとなった日本人監督「キタカワイッペイ」というキャラクターに関しては、ゴジラシリーズのノベライズを手がけた大倉先生としては許すことのできない実在の人物がいそうなことを予想せずにはいられません。ま、あの人のことだろうな……最近は『シン・ゴジラ』や『ゴジラ -1.0』の大ヒットでシリーズにも余裕が出てきたので、その人が手がけた作品も「いい思い出」みたいな感じになってきてますが、当時は私も「ゴジラシリーズの乗っ取りだ!」と憤慨したものでした。にしても、作中で彼にここまで落ちぶれた生活を強いているのは、大倉先生のそうとうな恨みを感じますね……フィクションだけど!

 さて肝心の内容についてなのですが、本作は何と言っても、かの『スカーフェイス』(1983年)や『アンタッチャブル』(1987年)などで有名な映画監督のブライアン=デ・パルマが脚本を手がけた作品であり、しかもゲスト主人公となる犯罪心理研究家のクエンティン=リーが、「ビデオテープで録画しながら殺人を犯す」という、かなりサイコで倒錯したエピソードとなっております。
 確かにそういう目立つポイントだけを見てみると、同人誌の中で町田先生も解説しているように、執筆された1970年代前半の価値観から「恨みも何もない相手を興味本位で殺す」という点が過激だったがために映像化が見送られたという経緯もあるかも知れません。

 ただ、この作品、今回大倉先生による訳を読んでみて率直に私が感じたのは、単に「他の候補シナリオに比べてパッとしないから」映像化しなかっただけなのでは……? という印象なんですよね。この点、実は大倉先生も小説化にあたってもっと面白くアレンジしようかということも考えられたらしいのですが、これはあくまでもデ・パルマのシナリオを翻訳する仕事なので、極力手を加えずに小説化したと語っておられています。例のキタカワイッペイ青年の登場も、元のスピルバーグ君達の活躍を小説という文章の世界で表現しても面白くなりそうにないという判断からだったとのことです。つまり、デ・パルマのシナリオはやはり映画監督の作品らしく、ハンディカメラを構えながら人殺しをする犯人とか、クライマックスで犯人の目を盗んで「罠」をしかけるコロンボ達のサスペンスとかいう「映像映え」に特化した作品だったということなのです。

 なので、本作は正直、ミステリ作品としてはかなりスカスカな内容になっていると言わざるを得ず、その割にゲスト犯人のリーは冒頭で「自分が死後にバラすまで絶対に解明されない完全犯罪をやってのけるゼ!」と傲岸不遜きわまりないハードル上げをブチあげてしまうので、「お前あんなこと言っといて、結果そのザマかよ~!!」とツッコまざるを得ない醜態をさらしてしまうのです。
 このリーは、ミステリ作品なので具体的には言えないのですが、まず肝心カナメの殺人の決行後に、自分の録画したビデオ内に映っていた「あるもの」を見てとんでもない勘違いをやらかし、それを隠蔽しようとして、やる意味の全く無い第2の殺人を犯してしまうのです。当然、その辺の行きあたりばったりな犯行からコロンボもリーを怪しむわけなのですが、コロンボもコロンボで捜査にはイマイチ精彩を欠き、最終的にリーを追い詰める最後の一手は「リー自身が慌てて決定的な証拠を持ち出す瞬間を押さえるために罠をかける」という定番のやつなので、はっきり言って疑わしい人物の家に火を放つのと同じくらい原始的な作戦で強引に犯人検挙をもぎ取るのでした。犯人がリーだったから良かったようなものの……

 いやほんと、今作のリーは口ばっかり達者なのに実際にやってみようとしたとたんに足元がガタガタ震え出して、疑心暗鬼からいらぬ失敗を呼び込むような典型的な犯罪チェリーボーイくんで、第一、上で言ったリーが誤認した「あるもの」というのも、そこにいくまでにリーは2回はそれを見ているはずだし(被害者が手渡される時と、部屋で放り投げる時)、それ自体A4 サイズに拡大されているものだそうなので、いくらなんでもそれを「生きている人間」のように勘違いしてしまうというのは、視覚認知機能に異常な欠陥のある人間でなければ犯さないミスなのではないでしょうか。でも、リーはビデオカメラを手放せない映像マニアなんでしょ? その彼がこんなミスをやらかすとは思えないんだよなぁ。
 この「あるもの」の要素を読んだ瞬間、私はミステリ映画の世界ではかなり有名なある作品(続編でも何でもないのになぜか日本では『 PART2』呼ばわりされてるやつ!)のメイントリックを連想してしまったのですが、あれもあれで「いや、そうはならんやろ……」と感じてしまうものではあるものの、デ・パルマの本作の方が数段ありえない誤認だし、そもそもそれをサスペンスフルに映像化するのはほぼ不可能だと思います。まともに映像化したら視聴者に笑われたんじゃなかろうか……

 もう一つ、リーは「無差別にダーツで選んだ人間を殺す」という、所さんもビックリの無差別殺人という悪魔の所業を犯して……いるようでありながらも、まずダーツの標的がリーの住むマンションの同居人というアホみたいに近い生活範囲内の人選ですし、選んだ実際の被害者もリーにかなり面識のある人物だったので、「無差別」というのは看板に偽りありで、コロンボにとってイージーな問題になってしまったと思います。

 そもそも、本作最大の「ビデオ撮影する殺人者」というのも、そのまんま「殺人者がビデオで撮影している」という事実以上なんのミステリ的な面白みにもつながっていないので、ここのビデオが「カセット録音」であっても「犯人しか知り得ない情報を記した日記」であっても全然互換可能なのが残念で仕方ありません。ただ目新しいからビデオになったってだけにしか見えないというか。その実、内容はかなり古臭いんですよね。
 せめて、ここのビデオという要素にもうちょっと工夫を足して、「たまたま撮影していたビデオの中に人死にが映り込んじゃった」みたいなていで実は撮影者が計画的に殺人を犯していた、みたいな感じになっていたら、音声や文章では代えられない独自のサスペンスを生んでいたような気もするのですが……これはこれで、松本清張の有名な短編作品を思い起こさせますね。でも、本作よりは面白そうでしょ?

 いずれにせよ、この『クエンティン・リーの遺言』は、「あのデ・パルマ監督が演出したかもしれない幻のエピソード」ということで過剰に伝説化しているきらいがあるのですが、映像化されなかっただけの十分な理由はある凡庸きわまりない作品だと思います。ただ、この「凡庸」というのは、あくまでも異常にレベルの高いエピソードが目白押しの『刑事コロンボ』シリーズの中ではという話であって、この作品が没になってしまうほど1970年代のシナリオ群はとんでもなかったんだなぁと、1990年代以降の『新・刑事コロンボ』を見て育った私なぞは驚愕してしまうのでした。

 映像化しても、評価は低めなエピソードになってたんだろうなぁ。同人誌の解説の中で訳した大倉先生は、もしこの作品が映像化されたら犯人のリー役は1970年代ならピーター=クッシング、1980~90年代ならばジェレミー=ブレットに演じてほしかった、なんて語っておられているですが、いやいや、それは作品の過大評価にも程があるんじゃないかなぁ……こんな、ハンニバル=レクター博士の足元にも及ばない、もしも「シリアルキラー甲子園」があったとしても地方予選一回戦コールド負けレベルのまぬけを、かのレジェンドホームズ名優サマがたに演じてほしくはないですよね。身の程を知りなさいって話ですよ。

 ともあれ、このエピソードの全貌をうかがい知る貴重なチャンスを与えてくださった、町田先生の同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』に大感謝!! ありがとうございました。


File.4、『13秒の罠』( The Dean's Death)アルフレッド=ローレンス 訳・三谷茉沙夫 1988年4月25日刊
 ≪犯人の職業≫    …… 大学の総長(シャーロッキアン)
 ≪被害者の職業≫   …… 大学の学部長(大学演劇部の顧問)
 ≪犯行トリックの種類≫…… テープレコーダーを使ったアリバイ工作
・アメリカ本国で1975年(第4・5シーズンの放送時期)に出版されたオリジナル小説の翻訳。
・のちの映像版第56話『殺人講義』(1990年12月放送 第10シーズン)と同様の展開がある。
・映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)と第36話『魔術師の幻想』(1976年2月放送 第5シーズン)に登場したコロンボ警部の部下フレデリック=ウィルソン刑事が三たび登場する。ただし、名前が「ジョン=J=ウィルソン」となっている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ウィルソン刑事の他にコロンボの飼い犬ワン公、獣医のベンソン院長が登場する。特にワン公は、事件解決に重要な役割を担っている。
・コロンボの行きつけのチリ料理の美味しい店も登場するが、店主の名前は映像版のバートではなく「バーニー」となっている(映像版では第2・5話に登場)。
・本作が翻訳出版された時期は、日本で『刑事コロンボ』シリーズと『新・刑事コロンボ』シリーズとの放送の中間期で、新作の放送は途絶えていた。

あらすじ
 ロサンゼルス近郊にあるメリディス大学から、犯罪捜査に関する講演を依頼されたコロンボ警部は、大学の演劇部をめぐる奇怪な殺人事件に巻き込まれる。舞台公演に使う棺に隠されていた大学学部長の変死体。その惨殺劇を演出する策謀のシナリオの謎。捜査線上に浮かびあがった、緑色の服を着た男の正体とは?


 結論から先に言ってしまうのですが、私、このエピソードはこの企画で読んだ「未映像化八部衆」の中でも、特に面白いと感じた作品でした。

 これ以前に紹介したFile.1~3は、それぞれ「交換殺人」、「ビルまるごとの密室殺人」、「ビデオ撮影しながらの殺人」という、なかなか鮮烈な独自色のあるふれこみこそありはしたのですが、その内実はどれも完全にやり切れてはいない残念な出来のものが多く、せっかく魅力的な食材なのにおいしく調理する腕がなかったとしか言えない結果のものばかりでした。まぁ、映像化されないだけの理由は充分に推し測ることのできる作品が続いたわけです。

 それに比べて本作はどうなのかと言いますと、まず第一に目立つのは、TVドラマの形で提供されるエンタメ作品としての「オチ」がかなりしっかりしている点です。コロンボ警部が、犯人にぐうの音も出させない決定打をはなって事件を鮮やかに解決させるという終幕の切れ味が、それこそ名人落語のサゲなみにスパッと決まるんですよね。この気持ちよさは、映像化されたエピソードの名作群と比較しても、あの『溶ける糸』(第15話)や『だまされたコロンボ』(第51話)にすら匹敵するものがあると思います。いやほんと、言い過ぎではないと思う!
 しかも、その決定的なコロンボの論拠、言い換えれば犯人側の致命的なミスが、「カセットテープを使ったアリバイ工作」というトリックの性質に深く根差したものであるというところが、憎らしいくらいにうまいんですよね。つまり、「音声」という点では完璧に自身の不在を隠しおおせていたはずの犯人の策略が、「音声以外」の死角からの指摘でガラガラと崩壊するというカタルシス! これはいいですよね~。
 さらに言うと、コロンボにこの会心の一撃の天啓を与えたのが、TVシリーズ版において「限りなくレギュラーに近い準レギュラー」として腐れ縁みたいに登場していた「あいつ」なんですから、TVシリーズからの『刑事コロンボ』ファンに喜んでもらおうという配慮も行き届いた余裕を感じさせます。しかもなんとラストでは、長い TVシリーズを通しても全く明らかにされることのなかった、ある衝撃の事実が……!? まぁこちらは本作かぎりの特例サービスのようではありますが、ファンにとっては大満足の幕切れなのではないでしょうか。

 このように本作は、事件解決のスッキリ感が TVシリーズの傑作エピソード群レベルにしっかりしているところが特徴的なのですが、そこにいくまでの展開の中で、「自信家でいけすかない犯人」と「爪を隠して敵の隙をうかがうコロンボ」という典型的な対立構造もまたしっかり提示されているという点でも完成度が高いです。File.1、2のように訳者の作家性を反映させてキャラが立っているのではなく、あくまで TVシリーズの味わいに寄り添った形で犯人とコロンボそれぞれの造形が掘り下げられているのです。
 具体的にそこらへんのディティールを明確にしているのは、本作では「シャーロッキアン」というキーワードでして、犯人はアリバイ工作まで周到に計画して殺人を決行するのですが、そもそもの原因は、犯人が大学学長という社会的地位にありながら大学の学生と不倫関係におちいっていたことであって、それを学長選に際して公表される前に告発者を殺そうというんですから、最早つける薬がありません。最低最悪のクズですね。
 その彼が、ことあるごとにコロンボを小馬鹿にするだしに使うのがシャーロック=ホームズ・シリーズに関する話題で、会話のはしばしでドイルの作品に関する知識(ホームズの名言とか使っていたパイプの種類とか)を披歴しては、「あたしゃまともにホームズの小説なんて読んだことがないんで……」と口ごもるコロンボに、「刑事をやってるのに、そんなことも知らんのかね~?」とからんでくるところも、非常にイヤな犯人の人間性をあぶり出しているわけなのです。

 ところが、物語の終盤におよぶ段になって、コロンボはいきなり犯人が驚くようなホームズに関するマニアックな知識(『海軍条約事件』と『マザリンの宝石』に関するもの)を持ち出してきて自身の推理を展開し、どうやらそこまでのコロンボの態度は完全なフェイクで、犯人の心理的ゆるみを引き出すためのカマトト作戦だったということが明らかとなるのでした。スカッとジャパンか、これ!? でも、このコロンボの、犯人逮捕のためならなんぼでも無能なふりをするし、いくら馬鹿にされても痛くもかゆくもないという姿勢は、TVシリーズに非常に忠実な解像度の高さがありますよね。

 このように、本作はかなり映像化作品に肉薄するクオリティを持った傑作となっていると私は感じたのですが、それじゃどうして映像化されなかったのかと考えるに、まずもともとシナリオでなく小説の形で生まれたものだったということを抜きにしても、テープレコーダーのトリックの他に中盤で提示されていた「緑色の服を着た男」の謎が、ちょっと距離感のある感じになっていたのが問題だったのかな、という気がします。

 要するに、この作品は「コロンボの大学講演を利用して殺人を犯す学長」という部分の他に「大学の演劇サークルで発生した殺人」という側面も持っていて、後者にからんでくるのが緑色の服の男という、それはそれで魅力的な謎なわけなのですが、ちょっとこの2つが有機的に組み合わされているとは言い難い乖離を生んでいるんですよね。なんか、2つの物語を無理やりくっつけたような強引さがあるのです。
 せめて、犯人の学長が殺人の濡れ衣を演劇サークルの学生に着せようとする、みたいな策謀でもあったらさらに面白くなったような気はするのですが、残念ながら本作では犯人にそこまで見通す時間的余裕はなかったらしく、棚ぼた的にたまたま殺人現場に変なやつが来たから捜査が勝手に混乱してくれて助かった~、みたいな関係にしかなっていないのです。もったいないな~!

 あと上にもあげたように、後年に「大学に講演にやって来るコロンボ」という一番おいしい要素だけが『殺人講義』にかっぱらわれてしまった、ということが、本作の映像化を決定的に闇に葬ってしまったような気もします。あわれな……部分的につままないで『華麗なる罠』(第54話)みたいに責任もって全部映像化してくれよ~!! でも、どうせ大学を舞台に映像化するんだったら、犯人は学生そのものの方がインパクトもあって面白いですよね。不謹慎だけど。

 いや~、ちゃんと映像化された本作も観たかったなぁ! 非常に惜しい、不遇の一作でありました。


File.5、『サーカス殺人事件』( Roar of the Crowd)ハワード=バーク 訳・小鷹信光 2003年4月25日刊
 ≪犯人の職業≫    …… サーカスの綱渡り師
 ≪被害者の職業≫   …… サーカスの団長
 ≪犯行トリックの種類≫…… 電波通信による遠隔殺人
・1975年12月(第5シーズンの放送時期)に執筆された没シナリオの小説化作品。ただし、作中で「1967年」のサーカス団結成を「30年以上前のこと」と示唆しているセリフがあるため、物語の時代設定は日本語版刊行時の2000年代初頭に改変されていると思われる。
・映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)と第36話『魔術師の幻想』(1976年2月放送 第5シーズン)に登場したコロンボ警部の部下フレデリック=ウィルソン刑事が、『13秒の罠』に続いて登場する。ただし、名前が「ケイシー=ウィルソン」となっている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ウィルソン刑事の他にコロンボの飼い犬「ドッグ」が登場する。
・本作の冒頭で、コロンボは甥のマイク(10歳)とトム(8歳)を連れてガーニイ・サーカスの興行を観に行く。ただし、映像版のルールにのっとってマイクとトムは登場しない。
・本作が翻訳出版された時期は、映像化新作の放送は無かった(翌2004年に最終第69話が WOWWOWにて吹き替え放送された)。
・本作は、二見書房文庫から出版されたノヴェライズ版『刑事コロンボ』シリーズで最後に出版された作品となる。

あらすじ
 非番の日に、甥たちと連れ立ってサーカス見物に行ったコロンボ警部。その上演中、サーカスの団長がキャンピングカーの中で変死を遂げた。一座のスターである綱渡り師が密かに仕掛けた空中の殺人トリックとは? 猛獣使いとピエロの証言をもとに、コロンボは密室の謎に挑む。


 本作は1970年代に原型となるシナリオが執筆された作品なのですが、同様に小鷹信光さんが翻訳小説化した File.1、2と同様に、日本で出版された時期に時代設定が変更されています。そして何を隠そう本作は、長らく『刑事コロンボ』のノベライズを手がけてきた二見書房文庫からリリースされた最後のタイトルということになります。まぁ、アメリカ本国で最終第69話が放送された時期でもありますので、それに歩調を合わせた花道的な作品ということになりますでしょうか。
 そして、そういう事情も込みで読んでみますと、本作は全国巡業するサーカス団という、時代の移り変わりとともに衰微し消えゆこうとしている娯楽業界を舞台にしていることもあいまって、何とも言いようのない哀愁を漂わせた独特な作品となっているのです。またこれが、ピーター=フォークというジャストフィットすぎる肉体を得てしまったがために、彼の人生と共に終焉を迎える運命を選んでしまった TVドラマ『刑事コロンボ』シリーズと、なんとなくオーバーラップするような気がするんですよね。もちろん、フォークから離れた形で2010年代以降に新たなる『刑事コロンボ』を再スタートさせることも不可能ではないのでしょうが(小説という形での新作もしかり)……前にも言いましたが、少なくとも今現在の私は、フォークでない外見を持った刑事コロンボの活躍は想像がつきません。

 ただし、かといって本作の中でのコロンボが、ノベライズシリーズの最終作らしく何かしらの衰えを感じさせるような描写を見せているのかというと、決してそんなことはなく、いつも通りのコロンボと言いますか、むしろ TVシリーズ伝統のパターンで「物語にいっさいからんでこないコロンボの親戚」が登場したり、サーカス団のトラ4頭に囲まれてピンチに陥ったり、さらに終盤の謎解き場面では、なんと自ら身体を張ってピエロに変装して綱渡り用の高所に登ったりと、サービス満点の大活躍を見せてくれます。

 だいたいにして、「サーカス団興行の最中に発生する不可能犯罪」というテーマが非常に個性豊かなので、これもまた、どうして没になったのかがわからない魅力的な題材のようでもあるのですが、実際に読んでみると、このエピソードの場合はメイントリックに関して「荒唐無稽すぎる」というケチがついたのではないか、という予想が容易に立ちます。
 倒叙ものとは言えミステリ作品なので、ここでメイントリックに関して詳細を語ることは控えさせていただくのですが、本作のそれは、なんちゅうかその……機械トリックの種類に入るものなのですが、読んで真っ先に「そんなに、うまくいく!?」と疑問符がついてしまうものなのです。

 ギリギリの範囲で言わせていただきますと、ほら、よくカセットコンロで使うガスボンベってあるじゃないですか、あのスプレー缶みたいな形のやつね。ああいうのを、ちょっと想像してみてください。

 みなさん、あれの噴射口に取り付けるだけで、人間の手を使わずにガスを噴射させてくれる「マッチ箱大の装置」って、ありうると思います?

 私、プライベートでも仕事でも、よくガスボンベを廃棄することがあるのですが、あれって中のガスをちゃんと全部出し切るためにいろいろ作業が必要でしょ。それをやってみるとよくわかるのですが、少なくとも日本で流通しているそういったスプレー缶って、噴射するためにはそうとうな力をかけて噴射口を押す必要があるんですよ。子どもの指の力だとけっこう難しいですよね。
 あの力を、マッチ箱大の機械ごときで出せるのか……? それ、1970年代にしたって2000年代にしたって、いっぱしのミステリ作品のメイントリックの中心に据えていいような、現実味のあるものなのかな!?

 そうは言いましても、それが無いと話が進まないので「いいから、そういう装置があるの!」といった強引な語り口で押し切られていくわけなのですが、そんな平賀源内の発明品みたいな「ツッコまないでくださいお願いします!!」的な魔法のアイテムを出すのって、私としてはにんともかんとも得心がゆかないものが残ってしまうのです。安易に「バカミス」という言葉は使いたくないのですが、そこを受け流すとなんでもアリになっちゃうと思うんだよなぁ。おそらくは、1970年代の制作スタッフの間でも、そういう常識的な判断が働いたのではないでしょうか。

 なんと言っても、見た目が非常に華やかなサーカス団を舞台としたエピソードで、しかも犯人が専門分野とする綱渡りの演目がさまざまな角度から重要なキーワードとなってくる本作ではあるのですが、やはりその中核に位置するメイントリックにおいて、まるで SFの産物のような異物が混入してしまったことが、映像化を考える時に最後まで引っかかり続ける致命傷となっているような気がしました。いろいろ惜しいんだけどなぁ!

 あと、本作に関してもう一つ気になってしまうのは、前回の File.1のゴルフ関係の交換殺人のエピソードでも触れましたが、実質的には犯人に殺人という極悪非道な選択肢をえらばせた張本人でありながらも、出すのは口ばっかりで自らの手を汚すことがないために、法の番人であるコロンボ警部ではどうしても裁くことのできない「真の悪人」が存在感たっぷりに描かれて、最後までのうのうと暮らしているという点です。そこはなんにも解決しなくていいの!? というモヤモヤ感が残ってしまうんですよね……でも、それが確かに現実の社会ではあるんですけれどもね。
 団員もどんどん高齢化し、世間にサーカス以上に手軽に楽しめる娯楽コンテンツが氾濫している今現在を生き抜いていくために、自分たちのサーカス団をどう変えていけばいいのか。本作の犯人も被害者も、その間にいる犯人の恋人も、同じ問題について日夜真剣に悩みながらも、考え方が違っていたことで殺人という目も当てられない悲劇が発生してしまうわけなのですが、その内輪もめを遠巻きに扇動しておいてなんにもお咎めなしな人物がいるというのは……天下無双の娯楽ドラマ『刑事コロンボ』として一体ど~なのよ!という気はしちゃうんですよね。

 ただ、『刑事コロンボ』の中にそういうビターな要素を入れているのは、アメリカ本国にいるシナリオやオリジナル小説の作者というよりも、File.1、2、5を翻訳(超訳?)している小鷹信光さんなんじゃないかという気もするんですけどね……訳のクセがすごい!!
 「滅びゆくサーカス団の人々」というところにスポットライトを当て、ディティールを掘り下げる着眼点は素晴らしいとは思うのですが、わざわざ『刑事コロンボ』でやらなくても……という気はします。サーカスというパッケージこそ派手ではあるのですが、ある集団の中で古い力と新しい力とが衝突するという構図は、けっこうあるあるなパターンですよね。


 さぁさぁ、こうして今回は『刑事コロンボ』未映像化小説八部衆のうちの File.3~5を扱ってみたわけなのですが、結局、一部分の展開(コロンボの大学講演)が映像化作品に使いまわされてしまった File.4以外の作品は、それぞれちゃんと映像化されなかっただけの「理由」はある、ということがよくわかりました。File.4の鮮やかな推理、映像で観たかった~!

 八部衆のうち、残すは3作品となりましたが、果たして今までの作品を上回る面白さをみせてくれるエピソードはあるのでありましょうか!?
 遅れに遅れている『刑事コロンボ』感想文企画、おそらく次回、最終回!

 遅すぎるわ……待ってる担任の先生も、退職して実家でさといも農家はじめちゃうぞ!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする