長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

挑戦か、挫折か!? クロサワ若き日の問題作 ~映画『白痴』~

2023年08月23日 22時45分09秒 | ふつうじゃない映画
映画『白痴』(1951年6月公開 166分 松竹)
 『白痴(はくち)』は、1951年に公開された日本映画である。原作はロシア帝国の小説家ドストエフスキーの小説 『白痴』(1868年発表)で、本作では昭和二十年代の札幌に舞台を置き換えている。当初の上映時間は265分だったが、製作した松竹の興行上の都合で166分に短縮された。

 脚本は黒澤明と久板栄二郎の共同執筆で、静岡県熱海市の旅館で約1ヶ月かけて執筆作業を行った。製作は松竹大船撮影所で行われ、助監督に中平康や野村芳太郎などが付いた。野村は最終的に黒澤からシーンの可否の判断まで求められるようになり、黒澤は「大船に過ぎたるものふたつ。(編集の)杉原よ志に野村芳太郎」と語ったという。1951年2月12日に北海道のロケ地で撮影開始し、5月中旬に撮影終了した。

 黒澤が完成させた当初は上映時間が4時間25分あり、前後編2部作となる予定だった。しかし松竹副社長の城戸四郎は試写を見たあとに撮影所長を叱りつけ、興行的に不利だとして短縮を命じた。黒澤は渋々3時間2分に再編集したが、さらに短縮するよう要求された。激怒した黒澤は、山本嘉次郎宛ての手紙に「こんな切り方をする位だったら、フィルムを縦に切ってくれたらいい」と訴えたという。この3時間2分版は1951年5月23日から東京劇場で3日間だけ上映されたが、同年6月1日に一般公開されたのは松竹が再々編集した2時間46分版で、オリジナル版は現存していないとされている。


あらすじ
 亀田と赤間は北海道へ帰る青函連絡船の中で出会った。亀田は沖縄で戦犯として処刑される直前に人違いと判明して釈放されたが、そのときの後遺症で、てんかん性の白痴にかかってしまっていた。札幌市へ帰ってきた亀田は、中央区狸小路の写真館のショーウィンドーに飾られていた那須妙子の写真に心奪われる。しかし、妙子は政治家に愛人として囲われていた。裕福な大野の娘の綾子と知り合った亀田は、白痴の症状こそあるものの性格の純真さや善良さから綾子と妙子に愛され、彼女たちの間で激しく揺れ動く。3人の異質な恋愛は、周囲の人々を次々に巻き込んでゆくこととなる。

おもなキャスティング ※カッコ内は原作小説での登場人物名
亀田 欽司(ムイシュキン公爵)…… 森 雅之(40歳)
那須 妙子(ナスターシャ)  …… 原 節子(31歳)
赤間 伝吉(ロゴージン)   …… 三船 敏郎(31歳)
大野 綾子(アグラーヤ)   …… 久我 美子(20歳)
綾子の父(エパンチン将軍)  …… 志村 喬(46歳)
大野 里子(リザヴェータ夫人)…… 東山 千栄子(60歳)
香山 睦郎(ガーニャ)    …… 千秋 実(34歳)
香山 孝子(ワーリャ)    …… 千石 規子(29歳)
睦郎の母(イヴォルギン夫人) …… 三好 栄子(57歳)
香山 順平(イヴォルギン将軍)…… 高堂 国典(64歳)
香山 薫(コーリャ)     …… 井上 大助(16歳)
東畑(トーツキイ)      …… 柳 永二郎(55歳)
軽部(レーベジェフ)     …… 左 卜全(57歳)

おもなスタッフ
監督 …… 黒澤 明(41歳)
脚本 …… 久板 栄二郎(52歳)、黒澤明
原作 …… フョードル=ドストエフスキー『白痴』
企画 …… 本木 荘二郎(37歳)
美術 …… 松山 崇(42歳)
編集 …… 杉原 よ志(?歳)
音楽 …… 早坂 文雄(36歳)
助監督 …… 野村 芳太郎(32歳 『砂の器』)、中平 康(25歳 『狂った果実』)、二本松 嘉瑞(29歳 『宇宙大怪獣ギララ』)、萩山 輝男(?歳)、小林 桂三郎(?歳)、生駒 千里(?歳)
配給 …… 松竹


≪まったく暑いですね……当然のごとく、本文マダナノヨ≫
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挑戦と実験だらけの時代劇!! ~映画『羅生門』~

2023年08月05日 20時15分50秒 | ふつうじゃない映画
映画『羅生門』(1950年8月 88分 大映)
 『羅生門(らしょうもん)』は、1950年の日本の映画である。芥川龍之介の短編小説『藪の中』(1922年発表)を原作とし、タイトルや設定などは同じ芥川の短編小説『羅生門』(1915年発表)が元になっている。 平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及しているが、ラストで人間信頼のメッセージを訴えた。
 同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法のひとつとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では「羅生門効果」などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が特徴的で、光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを引き出している。

 当時、東宝を離れ映画芸術協会を足場に他社で映画製作をしていた黒澤は、『静かなる決闘』(1949年)を撮影した大映から再び映画製作を依頼され、次作を模索していたところ、橋本忍による、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚本化した作品『雌雄』を思い出した。しかし、それだけでは長編映画にするには短すぎたため、橋本はシナリオを書き足すも黒澤は気に入らなかった。黒澤は2人で書き直そうと提案するが、橋本は体調を崩して参加できず、黒澤は熱海の旅館「観光閣」に一人籠もってシナリオを書き直した。黒澤は『雌雄』のエピソードに杣売りの証言と、同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードを加え、さらにラストで杣売りが捨て子を貰い受けるというエピソードを付け足し、タイトルも『羅生門』に改められた。

 大映首脳部は、内容が難解なこの企画に首をひねった。この企画に興味を示した本木荘二郎は首脳陣を説得するため、1950年の年明け早々に大映製作担当重役の川口松太郎と市川久夫の前で本読みをした。まだ企画が通ってもいない脚本の本読みをプロデューサーがするのは異例だったが、本木の劇的な抑揚を付けた本読みは川口たちの心を動かし、製作の許可が出た。また、黒澤はこの企画を渋る経営陣に「セットは羅生門のオープンセットが1つ、他に検非違使庁の塀、あとはロケーションだけ」と説得して会社を安心させた。大映社長の永田雅一はこの決定に深く関与しておらず、本作のプロデューサーも製作部長の箕浦甚吾が担当した。
 同年の初夏、黒澤一行は大映京都撮影所入りし、木屋町の旅館「松華楼」に宿泊した。黒澤は松華楼を拠点にして、羅生門のオープンセットの完成を待ちながら、撮影打ち合わせ、ロケハン、リハーサルなどの準備に取りかかった。配役は8名のみで、黒澤は三船敏郎や志村喬など一緒に仕事をしたことのある俳優で固めるつもりだったが、大映は興行的に難しい作品を売りやすくするため、当時肉感的女優として売り出していた京マチ子を真砂役に起用することを提案した。本作に出演したかった京は眉を剃り落してメーキャップテストに現れ、その熱意に打たれた黒澤は京の出演を決めた。
 羅生門のオープンセットは、美術監督の松山崇の設計により、大映京都撮影所内の広場600坪に25日間を費やして建設した。羅生門は史実の平安京羅城門を元にしているが、羅城門の構造が分からなかったため寺院の山門を参考にして建てた。そのセットは間口33メートル、奥行き22メートル、高さ20メートルで、柱は周囲1.2メートルの巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。本作のオープニングタイトルにも使用された羅生門の扁額は、高さ120センチ、幅215センチあり、字は大映や東映作品で題字などを手がけた宇野正太郎が書いた。あまりにも大きなセットになり、屋根までまともに作ると柱が支えきれなくなるため、屋根の半分を崩して荒廃している設定にした。企画時にセット1つで済むと聞かされていたため、大映重役の川口松太郎は「黒さんには、一杯喰わされたよ。1つには違いないが、あんな大きなオープンセットを建てる位なら、セットを百位建てた方がよかったよ。」と愚痴をこぼした。

 撮影が始まる前、助監督の加藤泰(チーフ)、若杉光夫(セカンド)、田中徳三(サード)の3人は脚本がよく解らず、説明を求めようと黒澤を訪ねた。映画のテーマを説明するのを嫌う黒澤は「よく読めば解るはずだ。もう少し脚本をよく読んで欲しい。」と言うも、3人は引き下がらずに重ねて説明を求めた。黒澤の説明に若杉と田中は納得するも、加藤だけは納得がいかず、黒澤の説明に執拗に食い下がったため、黒澤も気分を害した。撮影現場でも2人は険悪で、黒澤がチーフ助監督がすべき仕事を志村喬に任せたため、これに激昂した加藤は現場に来なくなり、黒澤も彼を現場から外した。
 撮影は7月7日から8月17日まで行われた。オープンセットは大映京都撮影所内に作られた羅生門と検非違使庁の庭のみで、それ以外はロケ撮影が行われた。森のシーンは奈良市奥山の原生林と長岡京市の光明寺の裏山、川ふちのシーンは木津川べりで撮影した。黒澤は宮川の撮影技術を「百点だよ。キャメラは百点! 百点以上だ! 」と高く評価した。
 7月17日から光明寺でロケーション撮影を開始したが、この撮影は羅生門のオープンセットと並行してスケジュールが組まれ、晴れた日は光明寺、曇りの日は雨の羅生門のシーンを撮影した。雨の羅生門のシーンでは、門が煙るほどの土砂降りの雨を降らせるため、3台の消防車を出動させて5本のホースを使用した。その時に雨がバックの曇り空に溶け込まないようにするため、水に墨汁をまぜて降らせた。

 黒澤は本作で、サイレント映画の持つ映像美にチャレンジし、視覚的なストーリーテリングに頼ることにした。黒澤はサイレント映画の美しさを考え直し、純粋な映画的手法を生かす方法を探すため、1920年代のフランスのアヴァンギャルド映画の撮影手法を研究した。
 宮川は、「黒と白で、グレーのないような、コントラストの強い絵を撮りたい。」と提案し、これに応じた黒澤は検非違使庁の庭を白、羅生門を黒、森の中を白と黒で撮るというイメージを固めた。宮川はこれまで得意とした、グレーの微妙なニュアンスで表現したローキー・トーンの画調を放棄し、黒と白を基調として中間のグレーを抑えるハイキー・トーンを採用した。さらにフィルムは当時主流のコダックフィルムを使わず、コントラストが出過ぎる点で劣っていた国産のフジフィルムをあえて使用した。
 宮川はこれまで勘を頼りに撮影してきたが、森の中のシーンでは光量が変化しやすい撮影に対応して光と影のコントラストの強い映像を作るため、宮川は進駐軍が持っていた露出計を手に入れて初めて使用した。また、強力な電気照明を持ち込めない暗い森の中で安定した光量を確保するため、宮川は「鏡照明」という手法を考案した。これは木の間からもれる太陽光を8枚の大鏡でリレーのように反射させて光を当てるという技法で、レフ板よりも太陽光を直接使ってコントラストの強い画調を作ることができた。さらに宮川は、地上数メートルの高さに野球用のネットを張り、その上に枝葉を適当に散らし、長い竹竿でそれを調節しながら、俳優の顔に木の葉の影がうまく当たるようにし、登場人物の精神状態を木の葉の影の微妙な変化で表現した。
 また本作では、カメラを直接太陽に向けるという大胆な撮影を行った。当時は太陽を撮影するとフィルムを焼くと考えられタブーとされていたが、黒澤は多襄丸と真砂が接吻するシーンで、2人の接吻越しに太陽を入れるように注文した。宮川は2メートルの高さの台に2人を乗せ、カメラは地面を掘った穴から仰角で撮影し、2人の接吻のアップ越しに木の葉の間をもれる太陽を入れた。宮川は杣売りが森の中を歩くシーンでも、モンタージュ用に木の葉の間をもれる太陽のショットを撮影している。

 三船演じる多襄丸が武弘を縛り付けたあとに真砂のもとへ駆けていくシーンでは、多襄丸の走りにスピード感を出すため、カメラを中心に円を描くように三船を走らせた。宮川はカメラが三船と等距離になるよう、カメラから延ばしたロープを三船に縛り付け、カメラごとぐるぐる回りながら撮影した。
 黒澤は、俳優の本能むき出しの野性味ある動きや表情を引き出そうとした。黒澤はリハーサルの合間に16ミリで古いアフリカ探検映画を見せ、藪の向こうからライオンがこちらを見ているショットがあると、「おい三船君、多襄丸はあれだぜ。」と指摘した。評論家の佐藤忠男は、「三船敏郎は多襄丸役で、旧来の時代劇の様式化された演技とは全く違う動物的精気のあふれるような本能的な荒々しい動きを見せた。」と指摘している。さらにクロヒョウの出る映画を見た時に、クロヒョウが画面に現れたために驚いた京が両手で顔を隠した仕草を、そのまま真砂の演技に取り入れた。
 本作は人間不信をテーマとした物語ではあるが、ヒューマニストである黒澤はラストに杣売りが羅生門に捨てられていた赤ん坊を拾って育てるというオリジナルのエピソードを付け足し、救いとして人間への信頼を取り戻そうとする結末にした。しかし、このシーンは公開後に国内外から取って付けたようなヒューマニズムで不自然ではないかという批評を受けた。

 本作の音楽は早坂文雄が作曲した。真砂の証言シーンでは、ラヴェルの『ボレロ』(1928年発表)調の音楽を作曲している。これは黒澤のアイデアで、そのシーンの脚本を書いている時に、頭の中で『ボレロ』のリズムが思い浮かんだからだという。そのためラヴェルの故国フランスでは余りにも酷似しているとして物議を醸し、ラヴェルの楽譜の出版元からも抗議の手紙が寄せられたが、早坂のオリジナル作品だと主張して事なきを得た。

 本作は、1950年度の大映製作作品の興行成績第4位となる成功を収め、通常は週替わりで封切られるところを、大映系列館のすべてで2週間以上続映された。当時としては刺激的な内容だったため、インテリ層に支持されて都市部でヒットした。しかし、映画批評家の評価はあまり良くはなく、この年のキネマ旬報ベスト・テンでは第5位にランクされた。
 同年末、ヴェネツィア国際映画祭から出品依頼が届き、日本映画連合会は同映画祭出品の日本の窓口だったイタリフィルム社長のジュリアーナ=ストラミジョーリに選考を任せた。ストラミジョーリはすべての候補作を見て、本作が出品作にふさわしいと判断した。
 しかし大映は出品に興味を示さず、字幕作成費を負担するのも渋ったため、ストラミジョーリは自分で字幕を作成し、自費でフィルム代や送料を負担して出品した。黒澤は自伝で、映画祭出品は「ストラミジョリイさんの理解ある配慮によるもの」と述べている。
 1951年8月23日にヴェネツィア国際映画祭で上映されると、本作は多くの映画関係者やジャーナリストに衝撃を与えた。アメリカのエンタメ雑誌『バラエティ』の記者は、「監督が素晴らしい。全て屋外で撮影されているが、カメラワークが完璧だ。」と報告したが、当時は黒澤や三船も知られていなかったため、名前を混同して報告していた。
 9月10日の授賞式で、本作はグランプリにあたる金獅子賞を受賞したが、黒澤は出品されたことすら知らず、日本から関係者は誰も出席していなかった。それどころか授賞式には日本人すらいなかったため、映画祭関係者はヴェネツィアの街で受取人にふさわしい人を探し回り、たまたま観光で訪れていたベトナム人男性を見つけて金獅子像を受け取らせた。

 本作のグランプリ受賞は、太平洋戦争の敗戦で打ちひしがれていた日本人にとって、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、古橋廣之進の競泳世界記録樹立(ともに1949年)などとともに希望と自信を与える出来事となった。また、敗戦国の国民として肩身が狭い思いをしていた海外在住の日本人にも大きな喜びを与えた。フランスのリヨンに留学していた小説家の遠藤周作は、「ベニス映画祭で日本の作品がグランプリをとったというニュースほど、留学生を悦ばせたものはなかった。彼等が木と紙の家にしか住まず、地面の上に寝るとしか考えていない日本人の創造力が本当はどういうものかをこれによって証明できたからである。」と書いている。受賞後、大映には欧米各国の配給会社から買付け申し込みが殺到し、アメリカ、イギリス、イタリアの映画会社と契約を結んだ。
 この受賞以来、日本映画には各国映画祭から出品要請が相次ぎ、日本映画の配給を要望する海外の映画会社も増えた。日本映画産業も海外市場に目を向けるようになり、「輸出映画」という言葉が業界用語となった。永田率いる大映も、受賞以降は海外市場開拓を積極的に進めるようになり、吉村公三郎監督の『源氏物語』(1951年)や衣笠貞之助監督の『地獄門』(1953年)、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)などの海外受けを狙う芸術路線の大作映画を送り出し、そのうち数本が賞を受賞したものの、社運を賭けた大作主義に走り過ぎて社の経営は疲弊したとされている。
 黒澤自身は、映画雑誌『キネマ旬報』1951年10月上旬号の談話において、本作のグランプリ受賞について、西洋人のエキゾチックなものに対する好奇心の表れではないかと指摘し、もっと日本の現実的な題材を採った作品で賞を獲るべきだと主張している。

 本作における、同じ出来事を視点を変えて繰り返して描く物語手法は、海外で「ラショーモン・アプローチ」と呼ばれ、非線形アプローチや多視点のテクニックによる映画が作られるきっかけとなった。 アラン=レネ監督の『去年マリエンバートで』(1961年)の複雑な話法は本作からヒントを得ているという。この手法は他にも、スタンリー=キューブリック監督の『現金に体を張れ』(1956年)、クエンティン=タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』(1992年)、トム=ティクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』(1998年)などで用いられている。

 本作は、リメイク作品も何作か作られた。アメリカの劇作家マイケル=ケニンとフェイ=ケニンは本作の舞台をアメリカ西部に置き換え、1959年にブロードウェイで舞台化した。この戯曲は1960年にシドニー=ルメットの演出によって TVドラマ化され、1964年にはマーティン=リット監督で『暴行』(主演・ポール=ニューマン)として映画化された。

おもな受賞一覧
1950年度ブルーリボン賞脚本賞(黒澤明、橋本忍)
1950年度毎日映画コンクール女優演技賞(京マチ子)
第12回ヴェネツィア国際映画祭(1951年)金獅子賞(黒澤明)
第24回アカデミー賞(1952年)名誉賞(現在の国際長編映画賞)
第25回アカデミー賞(1953年)モノクロ映画部門美術監督賞(松山崇、松本春造)ノミネート


あらすじ
 平安時代の京の都。羅生門(史実の平安京羅城門ではない)で、3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり 焚き木売りのこと)と旅法師は、ある事件の参考人として出頭した検非違使庁からの帰途だった。2人は実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始めた。
 3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言するのだが……

おもなキャスティング ※年齢は映画公開当時のもの
多襄丸   …… 三船 敏郎(30歳)
真砂    …… 京 マチ子(26歳)
金沢 武弘 …… 森 雅之(39歳)
杣売り   …… 志村 喬(45歳)
旅法師   …… 千秋 実(33歳)
下人    …… 上田 吉二郎(46歳)
巫女    …… 本間 文子(38歳)
放免    …… 加東 大介(39歳)

おもなスタッフ ※年齢は映画公開当時のもの
監督 …… 黒澤 明(40歳)
企画 …… 本木 荘二郎(36歳)
原作 …… 芥川 龍之介『藪の中』、『羅生門』
脚本 …… 黒澤 明、橋本 忍(32歳)
撮影 …… 宮川 一夫(42歳)
音楽 …… 早坂 文雄(36歳)
美術 …… 松山 崇(41歳)
録音 …… 大谷 巌(31歳)
助監督 …… 加藤 泰(34歳)
記録 …… 野上 照代(23歳)
製作・配給 …… 大映


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志村でも小沢でもなく、左卜全が全てをかっさらっていった ~映画『醜聞(スキャンダル)』~

2023年06月10日 00時42分29秒 | ふつうじゃない映画
映画『醜聞(スキャンダル)』(1950年4月公開 105分 松竹)
 映画『醜聞(スキャンダル)』は、松竹製作・配給の日本映画。モノクロ、スタンダード。
 東宝争議のため東宝での映画製作を断念し、他社で作品を撮っていた黒澤監督の、初の松竹作品である。過剰なジャーナリズムが引き起こす問題を描いた社会派ドラマ。当時、無責任なマスコミの言論の悪質性を不愉快に思っていた黒澤が、電車の雑誌広告のセンセーショナルな見出しをヒントに製作した。第24回キネマ旬報ベスト・テン第6位。

あらすじ
 新進画家の青江一郎は、オートバイを飛ばして伊豆地方の山々を描きに来ていた。そこに人気声楽家の西條美也子が現れ、宿が同じだと分かると、美也子を後ろに乗せて宿へ向かった。青江は美也子の部屋を訪ね談笑していたが、そこを雑誌社「アムール」のカメラマンが隠し撮りし、嘘の熱愛記事を書かれてしまう。雑誌は飛ぶように売れ街頭で大々的に宣伝された。これに憤慨した青江は、アムール社へ乗り込んで編集長の堀を殴り倒し、騒ぎは更に大きくなってしまう。青江はついに雑誌社を告訴することにし、そこへ蛭田と名乗る弁護士が売り込みに来る。翌日、素性を確かめるために蛭田の家を訪ねた青江は、結核で寝たきりの娘の姿に感動し、蛭田に弁護を依頼する。しかし、病気の娘を抱えるも治療費のない蛭田は、10万円の小切手でアムール社の堀に買収されてしまう。

おもなスタッフ
監督 …… 黒澤 明(40歳)
企画 …… 本木 荘二郎(35歳)
脚本 …… 黒澤 明、菊島 隆三(36歳)
音楽 …… 早坂 文雄(35歳)
特撮 …… 川上 景司(38歳)

おもなキャスティング
青江 一郎  …… 三船 敏郎(30歳)
西条 美也子 …… 山口 淑子(30歳)
蛭田 乙吉  …… 志村 喬(45歳)
蛭田 正子  …… 桂木 洋子(20歳)
すみえ    …… 千石 規子(28歳)
編集長・堀  …… 小沢 栄太郎(41歳)
朝井     …… 日守 新一(43歳)
カメラマン  …… 三井 弘次(40歳)
荒井     …… 清水 一郎(50歳)
美也子の母  …… 岡村 文子(51歳)
裁判長    …… 清水 将夫(41歳)
蛭田 やす  …… 北林 谷栄(38歳)
片岡弁護士  …… 青山 杉作(60歳)
木樵の親父A …… 高堂 国典(63歳)
木樵の親父B …… 上田 吉二郎(46歳)
酔っ払いの男 …… 左 卜全(56歳)
青江の友人A …… 殿山 泰司(34歳)
青江の友人B …… 神田 隆(32歳)
青江の友人C …… 千秋 実(33歳)
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黒澤映画のキーパーソン・千秋実、ぬるっと登場!! ~映画『野良犬』~

2023年05月16日 20時32分28秒 | ふつうじゃない映画
映画『野良犬』(1949年10月 122分 新東宝)
 『野良犬(のらいぬ)』は、新東宝・映画芸術協会製作、東宝配給の日本映画である。モノクロ、スタンダード。
 太平洋戦争終戦直後の東京を舞台に、拳銃を盗まれた若い刑事がベテラン刑事と共に犯人を追い求める姿を描いた、黒澤監督初のクライムサスペンス映画である。東宝争議の影響で東宝を離れていた黒澤が他社で撮った作品のひとつである。第23回キネマ旬報ベストテン第3位、昭和24年度第4回芸術祭賞、シナリオ作家協会シナリオ賞受賞。

 日本映画において、ドキュメンタリータッチで描く刑事ものという新しいジャンルを開拓した画期的な作品として、その後の同系作品に影響を与えた。また過去作『醉いどれ天使』(1948年)同様、戦後の街並みや風俗とその中で生きている諸々の登場人物が生き生きと描写されている。当時、黒澤は東宝争議の余波で東宝での映画製作を断念し、師の山本嘉次郎や本木荘二郎らと映画芸術協会に参加して他社で映画を撮っていた。本作は、大映で撮った前作『静かなる決闘』(1949年)に続いて他社で撮った2本目の作品で、映画芸術協会と新東宝の提携により製作した。
 推理小説の愛読者でもあった黒澤は、『メグレ警部』シリーズの作家ジョルジュ=シムノンを意識したサスペンス映画を作ろうと企画し、当時新人の脚本家・菊島隆三を共作に抜擢し、彼を警視庁に通わせて題材を集めさせた。そこで捜査一課の係長から、警官が拳銃を紛失することがあるというエピソードを聞き、それを採用して熱海で脚本を作り上げた。

 撮影のほとんどは、東映東京撮影所内の貸しスタジオの太泉スタジオで行われた。予算が少ない中、警察の鑑識課からどじょう屋、ホテルやヒロインのアパートまで、オープンセットを含めて実に30数杯のセットが造られた。警察の鑑識課のセットは実際に警察署を見学し、引き出しのネームプレート一つに至るまで忠実に再現された。美術助手を務めた村木与四郎によると、どじょう屋のシーンでは生簀に本物のどじょうを入れたが、画面には全く映らなかったと語っている。

 本作は、淡路恵子の映画デビュー作である。淡路は当時、松竹歌劇団の研究生であり、本作に出演した時はまだ16歳だった。並木役の最終候補には淡路ともう一人が残ったが、黒澤が「淡路君の方が意地っ張りで面白そうだ」と決めたという。また、後の黒澤映画の常連俳優である千秋実の黒澤作品初出演作でもある。
 復員服姿の村上刑事が闇市を歩く場面では、助監督の本多猪四郎と撮影助手の山田一夫が2人で上野の本物の闇市で隠し撮りを敢行し、本多は三船敏郎のスタンドインを務め、山田がアイモカメラを箱の包みに入れて撮影した。黒澤は後に「この作品で戦後風俗がよく描けていると言われるが、それは本多に負うところが大きい。」と語り称賛している。
 後楽園球場で刑事2人が拳銃の闇ブローカーを捕まえるシーンでは、実際の巨人対南海の試合映像が使われており、川上哲治・青田昇・千葉茂・武末悉昌ら当時の選手の姿も見られる。

 緊迫したシーンにあえて穏やかで明るい曲を流し、わざと音と映像を調和させない「音と画の対位法」という手法が、本作でも用いられている。例としては、佐藤刑事がホテルで撃たれるシーンで、ラジオからキューバの民族舞曲『ラ・パロマ』が流れ、ラストの村上と遊佐が対決するシーンでは、主婦が弾く穏やかなクーラウのピアノ曲『ソナチネ第1番ハ長調作品20−1』と、最後に子ども達が歌う童謡『ちょうちょう』が流れる。なお、本作では既成曲が多用されており、村上が復員兵に変装し闇市でピストル屋を探すシーンでは『夜来香』、『東京ブギウギ』、『ブンガワンソロ』などの流行歌が使われ、根負けした女スリが情報提供するシーンでは、ヨシフ=イヴァノヴィチの『ドナウ川のさざなみ』がハーモニカで演奏されている。

 序盤タイトルバックの野良犬が喘ぐシーンは、野犬狩りで捕まえた犬を貰い受け、撮影所の周りを走らせた後で撮影したものである。しかし、アメリカの動物愛護協会の婦人から「正常な犬に狂犬病の注射をした」と告発された。供述書を出してこの出来事は幕となったが、黒澤は「戦争に負けた悲哀を感じた。」と語っている。
 村上刑事が銃弾の線条痕を照合するため鑑識を訪れる場面では、鑑識の担当者が別の拳銃を砂箱の中に撃ち込んでいるが、ここでは本物の九四式拳銃が使われた。村上刑事から盗まれて遊佐の手に渡る拳銃がコルト式という設定であるのに対し、本作のポスターやスチールの写真では九四式拳銃が使われている。
 世界三大映画祭における監督賞を制覇したアメリカの映画監督ポール・トーマス=アンダーソンは、本作をお気に入りの一本に挙げており、自作『マグノリア』(1999年)では、本作へのオマージュとして警官が拳銃を紛失するエピソードを描いた。


あらすじ
 ある猛暑の日、村上刑事は射撃訓練からの帰途のバス中で隣に立った女性にコルト式自動拳銃を掏られ、追いかけるが見失ってしまう。拳銃の中には7発の銃弾が残っていたため焦り戸惑う村上は、上司の中島係長の助言によりスリ係の市川刑事に相談し、鑑識手口カードを調べるうちに女スリのお銀に目星を付ける。村上はお銀のもとを訪ねるも彼女はシラを切るばかりだったが、執拗に追い回し、せめてヒントだけでもと懇願を続ける村上に観念したお銀は、場末の盛り場で食い詰めた風体でうろついているとピストル屋が袖を引くというヒントを与える。
 ピストルを探すため復員兵姿で闇市を歩く村上は、ついにピストルの闇取引の現場を突き止め、ピストル屋のヒモの女を確保するが、先に女を捕まえたためピストルを渡しに来た売人の男に逃げられてしまう。そこへ淀橋で銃を使った強盗傷害事件が発生し、銃弾を調べると村上のコルトが使われたと分かった。責任を感じた村上は辞表を提出するが、中島係長はそれを引き裂き「君の不運は君のチャンスだ。」と叱咤激励する。村上は淀橋署のベテラン刑事・佐藤と組んで捜査を行うことになる。

おもなスタッフ
監督   …… 黒澤 明(39歳)
製作   …… 本木 荘二郎(35歳)
脚本   …… 黒澤 明、菊島 隆三(35歳)
撮影   …… 中井 朝一(48歳)
照明   …… 石井 長四郎(31歳)
録音   …… 矢野口 文雄(32歳)
美術   …… 松山 崇(41歳)
音楽   …… 早坂 文雄(35歳)
助監督  …… 本多 猪四郎(38歳)
B班撮影 …… 山田 一夫(30歳)
美術助手 …… 村木 与四郎(25歳)
音響効果 …… 三縄 一郎(31歳)

おもなキャスティング
村上刑事   …… 三船 敏郎(29歳)
佐藤刑事   …… 志村 喬(44歳)
並木 ハルミ …… 淡路 惠子(16歳)
ハルミの母  …… 三好 栄子(55歳)
ピストル屋のヒモ …… 千石 規子(27歳)
市川刑事   …… 河村 黎吉(52歳)
光月の女将  …… 飯田 蝶子(52歳)
桶屋の親父  …… 東野 英治郎(42歳)
阿部捜査主任 …… 永田 靖(42歳)
呑屋の親父  …… 松本 克平(44歳)
特攻隊あがりの復員兵・遊佐 …… 木村 功(26歳)
遊佐の姉   …… 本間 文子(37歳)
スリのお銀  …… 岸 輝子(44歳)
レビュー劇場の演出家 …… 千秋 実(32歳)
レビュー劇場の支配人 …… 伊藤 雄之助(30歳)
ホテル弥生の支配人  …… 菅井 一郎(42歳)
支配人の妻  …… 三條 利喜江(37歳)
中島係長   …… 清水 元(42歳)
水撒きをする巡査 …… 柳谷 寛(37歳)
拳銃の闇ブローカー・本多 …… 山本 礼三郎(47歳)
鑑識課員   …… 伊豆 肇(32歳)
被害者・中村の夫 …… 清水 将夫(41歳)
アパートの管理人 …… 高堂 国典(62歳)
若い警察医  …… 生方 明(32歳)
さくらホテルの支配人 …… 長浜 藤夫(38歳)
老いた町医者 …… 田中 栄三(62歳)
あづまホテルのマダム …… 戸田 春子(41歳)
レビュー劇場の客 …… 堺 左千夫(24歳)
ピアノを弾く主婦 …… 辻 伊万里(28歳)
スリの男   …… 宇野 晃司(25歳)
新聞記者   …… 松尾 文人(33歳)
ナレーション …… 本木 荘二郎(35歳)


≪さぁて、本文はいつになるのやら……気長にお待ちを!!≫
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ヨーロッパなのに気持ち悪い映画、女子校となりて再臨!! ~映画『ベネデッタ』~

2023年03月18日 23時35分13秒 | ふつうじゃない映画
 ヘヘヘ~イ、みなさまどうもこんばんは! そうだいでございまする。今日も一日お疲れさまでした!
 いや~、もう春ですね……世の中は卒業、年度末シーズン真っ盛りということで、いろいろありました2022年度も、いよいよおしまいとなりつつあります。ここまで来て振り返るとあっという間な気がするのですが、今年度もヒーコラヒーコラ言って、なんとかここまでたどり着きました。
 また、これからどうなるかは分かったものではないのですが、現時点の感触としては、散々振り回されてきたコロナウイルス関係もひと段落しそうな機運になってまいりましたね。ほんとに、マスクしなくていいんですか!?っておっかなびっくりな感じではあるのですが、ついにこの時がやって来ましたか……なんの後ろめたさもなく県外やら東京やらに行ける時が!!
 いや、そんなん、私も大のおとななんですから、自分なりにちゃんと感染対策をしているのであればどこに行っても自由だったのではありましょうが、どうやら来たる2023年度は、私が長年あたためていた宿願プランを実行に移す好機がやって来そうです。ちょっと、車で関東までひとり旅としゃれこんでみたいんですよね。
 2015年に実家の山形県に帰ってきて以来、今まで150ヶ所以上の山形県内の温泉施設を巡ってきたのですが、そろそろ県外の温泉の味わいも楽しんでみたいなぁ、と思って。関東も温泉王国ですもんね! 夏あたりに行ってみたいのですが、ともかく体調を万全にして、体力があるうちにトライしてみたいもんだ。久しぶりに会いたいお友達のみなさまもいっぱいいますしね!

 さてさて、そんな感じで新しい季節の空気を感じつつ、今回はいつものように町の映画館に行って観てきた作品の感想をつづりたいとおもいます。いや~、今回もスクリーンで観ることができて良かったぁ!
 昨年末から、個人的に誰から言われることもなく始めた「とにかく毎週1本は映画館に行って映画を観る」という習慣なのですが、恥ずかしながら今までは観る選択肢にすら入っていなかったドキュメンタリー映画や往年の名画のリバイバルも含めまして、毎週毎週ほんとに楽しい体験となっております。ま、安いもんではありませんし、たまにゃハズレもあるにはあるんですが。
 そんで今が3月なので、だいたい15本くらい観てきたことになるのですが、ここにきて、ついに2023年に観た映画の中でも個人ベストになりそうな作品に巡り合えました! いや、まだ3月なんですが、これはけっこう最後まで上位ランキングに生き残りそうな感じがするよ!!


映画『ベネデッタ』(2021年7月公開 132分 フランス)
 『ベネデッタ( Benedetta)』は、ポール=ヴァーホーヴェンが共同脚本・監督したセクシュアル・サスペンス史劇映画。
この映画は、ジュディス=C=ブラウンによる1986年のノンフィクション『ルネサンス修道女物語 聖と性のミクロストリア』(ミネルヴァ書房・刊)に基づく。その制作には、プロデューサーのサイード・ベン=サイード、脚本家のデイヴィッド=バーク、作曲家のアン=ダドリー、編集のヨープ=テル・ブルフ、女優のヴィルジニー=エフィラなど、ヴァーホーヴェンの前作『エル』(2016年)の主要な参加者のほとんどが引き続き関わっている。
 本作は2021年7月に開催されたフランスの第74回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールのコンペティション部門で初公開された。当初、本作は2019年5月に開催された第72回カンヌ国際映画祭でプレミア上映される予定だったが、ヴァーホーヴェンの股関節手術にともなう療養のため編集作業が遅れ、さらに新型コロナウイルスのパンデミックにより2020年5月に開催される予定だった第73回カンヌ国際映画祭が中止されたため、公開は延期されていた。

あらすじ
 1599年。イタリア半島中部トスカーナ大公国の地方都市ペシアで、9歳の少女ベネデッタ=カルリーニは、両親の後押しにより修道女になるためにシスター・フェリシタが運営するテアティノ会修道院に入山した。その14年後、宗教劇で聖母マリアの役を演じていたベネデッタは、キリストが呼びかけてくる幻視を体験する。そんなある日、バルトロメアという若い農民の女性が父親の虐待を逃れて修道院に入山する。ベネデッタはバルトロメアの教育係を任されたその夜に、バルトロメアに接吻される。
 その後、ベネデッタはイエスの幻視を繰り返し体験するようになり、深い苦痛を伴う病気に陥る。フェリシタ修道院長はバルトロメアに彼女の世話を任せるが、ある朝、ベネデッタは両手の平と両足の甲に聖痕を刻んだ状態で目を覚ました。修道院はベネデッタの聖痕の真偽を調査するが、フェリシタ修道院長とその娘の修道女クリスティーナは懐疑的だった。しかしベネデッタは突然、額に新たな傷をつけて怒った男性の声で叫びだし、自分を疑う人々を非難する。フェリシタ修道院長とペシアの主席司祭アルフォンソが、ベネデッタの幻視体験の数々をどのように扱うべきかについて論争を繰り広げた結果、ベネデッタはフェリシタに代わって修道院長の地位に就任することとなる。

おもなキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
ベネデッタ=カルリーニ …… ヴィルジニー=エフィラ(44歳)
フェリシータ修道院長  …… シャーロット=ランプリング(75歳)
バルトロメア      …… ダフネ=パタキア(29歳)
ジリオーリ=ヌンシオ教皇大使 …… ランバート=ウィルソン(62歳)
アルフォンソ=チェッキ主席司祭 …… オリヴィエ=ラブルダン(62歳)
修道女クリスティーナ  …… ルイーズ=シュヴィロット(26歳)
修道女ヤコパ      …… ギレーヌ=ロンデス(56歳)

おもなスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督・脚本 …… ポール=ヴァーホーヴェン(83歳)
共同脚本  …… デイヴィッド=バーク
原作    …… ジュディス=C=ブラウン『ルネサンス修道女物語 聖と性のミクロストリア』
撮影    …… ジャンヌ=ラポワリー(58歳)
編集    …… ヨープ=テル・ブルフ(48歳)
音楽    …… アン=ダドリー(65歳)


 いや~、これはすごい映画だった。まず、ヴァーホーヴェン監督っていう時点で普通の映画なわけないっていうのは明らかだったのですが、その予想ハードルを意図も軽々と全裸でスッポンポーン☆と跳び越えていくような大傑作でしたね! この「全裸」っていうところが大事! ユニホームを着なきゃいけないとか、審判の判定は絶対とかいう常識を笑顔で無視するような、融通無碍な愛嬌と暴力性に満ちた作品なのです。しょうがないね~コリャ!

 監督された全作品を観ているわけではないのですが、1980年代生まれの私にとりまして、ポール=ヴァーホーヴェンと聞けばなんと言いましても『ロボコップ』(1987年)ですし、『トータル・リコール』(1990年)なのであります。ブラウン管から飛び出る、ハリウッド的未来世界の衝撃的 SFX映像の数々! シュワちゃんの眼球が!! 準備はい~い!?
 当時小学生だった私が観た時、やっぱり先に脳髄にぶっ刺さってくるのは、まだ CGに頼りきりにならなかった末期の特殊効果メイク技術の大盤振る舞いでありまして、何の脈絡もなく工場廃液で溶ける悪人のおじさんだとか、おじさんのお腹に隠れてるちっちゃなおじさんだとか(おじさん多いな! でも、確かにヴァーホーヴェン作品はそんなにかっこよくないおじさんの見本市ですよね)の、TVでふつうに放送される洋画劇場だからと言って、油断は全く許されない唐突なグロテスク表現の数々なのでした。それにひきかえ今の洋画劇場は、ずいぶんとマイルドになったよね~! なんかあったら国産アニメかディズニー傘下のファミリー映画だもんね。たまにはチャールズ=ブロンソンくらい出してみろってんですよ。幼稚園か小学校の時に洋画劇場で観た『ロサンゼルス(Death Wish2)』はこわかった……

 でも、40歳を過ぎた今になって思い起こしてみると、ヴァーホーヴェン監督の作品から私が学んだのは、「傷ついた孤高のヒーローの美しさ」だったような気がします。これを、定番の石ノ森章太郎の世界からでなく、遠くアメリカの、しかもご本人は欧州オランダのご出身というヴァーホーヴェン監督から学んだという事実は大きかったです。ちょっとね、コミカライズ版の『仮面ライダー』も萬画版の『仮面ライダー black』(1987~88年連載)も、今だとその面白さはよくわかるんですが、当時小学生だった身にしてみれば、怖さとか難解さが先に立っちゃってねぇ……『 black』のカマキリ怪人の回はトラウマになりましたねぇ~!! あんなん、よく『サンデー』に掲載してたもんですわ。昭和はやっぱこわい!!
 ともかく、かっちょいいヒーローになりはしたものの、自分が誰なのか、ほぼ全身サイボーグとなっている状態が果たして生きていると言えるのかどうか、そして自分が命を懸けて守るべき「正義」とは何なのかを自問し、悩みながら日々の闘いに身を投じていくマーフィ巡査の姿にはぞっこんになりました。まさに「異形の哀しみ」……これはもう、のちの平成仮面ライダーではついぞ観ることが無くなってしまった、石ノ森イズムの克明な体現ですよね。また、ロボコップのテーマがほんとにかっこいんだ……ヴァーホーヴェン作品ではないけど『ロボコップ2』のテーマもいいですね。アホアホマーン!!

 まま、そんな感じでハリウッドの世界でも特異の輝きを放っていたヴァーホーヴェン監督が、よわい80を超えて中世ヨーロッパの禁断の聖域・修道女教会で実際にあったという「修道院奇跡真贋事件」の映像化に挑む!! この報を聞いて「フハッ!」と鼻息を鳴らして興奮しない男がいるでしょうか、いや、いない!!
 そんな感じで今回の『ベネデッタ』を観る運びとなったわけなのですが、実は、劇場予告編の段階では往年のヴァーホーヴェン作品っぽい過激さがあんまりアピールされていなくて、ひたすらきれいな主演のヴィルジニーさんのかんばせが映されるばかりで、果たしてどんな作品になるもんかが分からなかったんですね。私も不勉強なことに尼さんメインの映画を観るの初めてだし、ヴァーホーヴェン監督もおじいちゃんになったし、意外とおとなしい文芸映画かも、という気もしていたのです。

 ところが……それは全く見当違いな予想でした。あのヴァーホーヴェン監督が無難な歴史ドラマを作るわけがないだろうと! 誰がおじいちゃんだ、ヴァーホーヴェン監督のエターナルな変態性に謝れ若輩者が!!
 もう、映画本編が始まる前から「こりゃとんでもない映画だ」感がものすごかったもんね……何気なく、上映前にコーヒーと一緒にこぢんまりしておしゃれな体裁のパンフレットを買うじゃないですか。で、ぱっとページを開いたら、もう最初に中世ヨーロッパの拷問器具「苦悩の梨」のイラスト付き解説文が目に入ってくるんだぜ!? 瞬時に嫌な気分になってしまいましたよ……これ、映画で使われんの?みたいな。思わずお尻が引き締まる思いです。

 それで、肝心の映画本編を観た感想なのですが、んまぁ~素晴らしい映画でした。ステキに華麗で残酷、汚い、気分が悪い!!
 最近の私の「気分が悪くなる」映画体験としては、どうしてもフィル=ティペット監督の『マッドゴッド』とアリ=アスター監督の『ミッドサマー』が筆頭に上がってくるのですが、言うまでもなく、それをもってこれらの作品を駄作と評する気はさらさらありません。むしろ、気分が悪くなるのも、それだけ私の魂が揺さぶられる劇的体験だったのだということで、観て良かったという気にもなるのです。
 ただ、今回の『ベネデッタ』は、それらの気分が悪くなる映画に匹敵するような過酷極まりない艱難辛苦の数々を主人公ベネデッタやその相棒(棒ないけど)バルトロメアに降りかからせながらも、その地獄めぐりの果てに、なぜかラストシーンで力強く全裸で生き抜く2人の肢体を立たせておしまいとなるのです! ここ! この結末がどうしようもなくヴァーホーヴェン監督っぽくて、その他の気分悪くなる映画にない、謎の感動を呼び覚ましてくれるんだよなぁ!! でも、なんで全裸なんだろう!? ま、いっか!
 なにはなくともカッコいいんですよね! このラストで、遠く望むペシアの町に火の手が上がっているのを見て「行かねば……」とおもむろに歩き出すベネデッタもカッコいいし、それに呆れて「バッキャロー! お前なんかどこへでも勝手に行って死にくされ!!」と罵倒しながらも、目に愛情の光を満々とたたえているバルトロメアの表情も実にいいんです。ここ、ふつうに『ロボコップ』のテーマが流れても全く違和感がないほどにベネデッタがカッコいいんだよ……いや、結局、映画の中で語られるベネデッタの「自称奇跡」の数々はきわめて怪しい詐術の香りが濃厚ですし、ペストの大流行に騒然となる町に徒手空拳の女一人が出向いたとて何ができるというわけでもないのですが、とにもかくにも、他人になんと言われようが自分の中に確固たる確信をもって歩き出す人間の姿に、有無を言わさず感動させられてしまうのです。惚れる……

 この映画を観ていて、ベネデッタが修道院に入り、禁欲的な生活に身を投じながらも突如として現れた野生児バルトロメアの誘惑に揺れ動いていくあたりから、私は「あぁ、これ『薔薇の名前』(1986年 ジャン・ジャック=アノー監督)に似てるなぁ。」と強く感じるようになりました。でも、男ばっかでむさいことこの上なかった『薔薇の名前』の男子校っぷりに比べて、この『ベネデッタ』はまるで正反対の女子校ですよ! ずいぶんと前の記事になってしまいますが、我が『長岡京エイリアン』での『薔薇の名前』(1986年)についての感想のつれづれは、こちらをご覧くださいませ。

 ほんで、中盤までは『薔薇の名前』に比べてきれいな女子がメインだし、校長先生(修道院長)もきれいだから見やすいなぁ~なんて思ってたのですが、ベネデッタが新校長になってまじめな生徒会長ポジションのクリスティーナが「そんなこと認められませんわ!!」と校舎の屋上から飛び降りたあたりから物語が血なまぐさくなってきて、見るからに俗っぽくて汚らしい、『薔薇の名前』でいうベルナール=ギーの立ち位置のヌンシオ教皇大使がしゃしゃり出てきたところから、この映画の暴力性がむき出しになってくるのです。これは……似てるんじゃなくて、完全に『薔薇の名前』を意識しまくりの鏡写しじゃないのか!?

 ところで、この映画で愛憎半ばのくされ縁共同体となるベネデッタとバルトロメアの百合カップルなのですが、パンフレットを読んでびっくりしたのが、主演のヴィルジニーさんが撮影時(2018~19年頃か)にアラフォーだったってことですよね。見た目が若すぎ!! そのお歳で思春期からのベネデッタを自然に演じてるんだもんなぁ。その一方のバルトロメア役のダフネさんも20代半ばだったわけなんですが、ヴィルジニーさんの堂々たる熱演の陰に隠れがちになりながらも、ダフネさんもダフネさんで、トイレのシーンで「よっしゃー出た! 気持ちいい~!!」と絶叫したり、例の苦悩の梨のえじきになった後なのに、わりと元気そうに「てめー痛かったぞコンチクショー!!」とベネデッタに殴りかかったりと、それ相当に女優人生を賭けた凄絶な演技を見せてくれたと思います。眉をひそめてしまうような過酷な体験を重ねているはずなのに、なんか楽観視しちゃう不死身感あるんですよね、このカップル。

 似てる似てるとは言ってますが、映画版の『薔薇の名前』は修道院内で起こる連続殺人事件の犯人を、外部からやって来た名探偵とワトスン役が追いつめる純然たるミステリーで、今作は同じサスペンス味はあっても、ベネデッタという明らかに異常な才能を持つ人間が爆心地となって修道院の常識的(当時)なシステムを内部から崩壊させ、しまいにゃそれを取り巻く町全体さえもぶっ壊してしまうというピカレスクロマンです。なので、たぶん構造からして全く別のジャンルの作品であるはずなのですが、な~んか、私から観ると似通ってる部分が多いと思うんですよね。
 それは、『薔薇の名前』でのワトスン役である青年修道士アドソ(演・クリスチャン=スレーター)の視点から見た世界と、今作でのベネデッタの視点から見た世界の、それぞれの変容っぷりが非常に似ていると思うからなんです。つまりは、自分でひたすら努力して獲得した知識と論理でうず高く構築された精神世界が、よそからアクシデント的に現れた「肉体の衝撃」(『薔薇の名前』の名もない村娘と今作のバルトロメア)によって、いとも簡単にぶっ壊されてしまうという構図のことです。たかがエロ、されどエロ!
 ただし、この村娘とバルトロメアの役割は、それぞれの作品の本筋とは実は関連の薄いお色気エピソード、と言い捨ててしまっても構わないところはあります。ワトスン役が捜査中に事件と無関係な村娘に逆レイプされて DTを捨てようが、頭がおかしくなって役に立たなくならない限りホームズ役にとってはどうでもいいことですし(鬼!!)、今作でベネデッタが異常な言動を取るようになった直接のきっかけは、かなり怪しげな手練れホスト臭をはなつ「神の御子の幻影」のほうなのです。天然かつ下品、まるで赤塚不二夫の世界から抜け出て来たような野生少女バルトロメアとのいちゃいちゃは、ベネデッタの引き起こした歴史的事件の比較してみれば、あくまでも添え物に過ぎません。
 でも、一見小さなマクガフィンに過ぎないようなカップリングが、なぜか「連続殺人事件の犯人は誰か?」や「ベネデッタは本当に奇跡を起こす聖女だったのか?」という、映画の中での最重要懸案を押しのけて、観る人の感動を引き起こし、記憶に色濃く残るのはなぜなのでしょうか。『薔薇の名前』で、一言も言葉を交わさないし、そもそもお互いの名前さえ知らない関係なのに、ラストシーンでの馬上のアドソと道端の村娘との無言の視線の交錯は、確実に観る者が実際に経験した哀しい記憶を呼び覚ますのです。あぁ、私もあの時、ほんのちょっと勇気を出してあの人に声をかけていれば……みたいなよう!

 その証拠として、ヴァーホーヴェン監督がちゃんと、ベネデッタがいざその「神の御子」とことに及ぼうとしても、肝心の彼の股間がツルッツルの「 No Image」になっているというカットを差しはさんでいるのですから徹底したものです。実体験を伴わない世界の、なんと薄っぺらなことか。

 そして、私が今回の『ベネデッタ』を2023年に観た映画ベスト1(2021年の映画なんですが)に推したくなる最大の理由は、その『薔薇の名前』パターンからさらに進化して、ベネデッタがいったん切れたバルトロメアを、「宗教裁判で魔女宣告、火刑!」という絶体絶命な窮地にいながら、その逆境を跳ね返しまくった末におのれの手で取り戻し、その上で「自分がベネデッタであるがゆえに」いとも簡単にぽいっと捨ててひとりで歩きだして終わるという、そのキャラクターの鋼の精神性にあるのです。むちゃむちゃやなキミ!! でも、あっぱれそれでこそベネデッタ。特殊技能のある肉体かとか、行動に論理性があるかとか、善なのか悪なのかとかは本当にどうでもよくて、その生きざまにおいて、ベネデッタは文句なしにスーパーヒーローなのです。ヒロイン、じゃないような気がする。ヒロインはあんな堂々とした歩き方はしない。少なくともアドソよりは漢ですよね。

 今さらながらネタバレになってしまいますが、『薔薇の名前』でも、確かに宗教裁判の判決と公開処刑はくつがえされて修道院は大混乱に陥り、宣告したはずのベルナール=ギーは逆にひどい目に遭ってしまいます。そこが現代の娯楽映画としてスカッとするクライマックスとなるわけなのですが、『ベネデッタ』はその繰り返しになんてとどまりません。そこにペスト大流行の狂騒もプラスし、さらにベネデッタ信者となったペシア市民の「ベネデッタさまを助けんべや!」という暴動的エネルギーを、ベネデッタがこともあろうにかつて敵でもあったフェリシータとタッグを組むことによって意図的に爆発させるという胸アツもいいところな『少年ジャンプ』的展開によって、火刑をまぬがれておまけにヌンシオ以下のローマ教皇お墨付きの裁判使節団を残らず血祭りにあげるという大下克上をやってのけるのでした。いやいや、いくら娯楽映画でも、程度ってものがあるでしょ!? 『 RRR』でもそんなムチャしてませんよ……けどヴァーホーヴェン監督だし、しょうがねっか。
 非道なおかみのお裁きをくつがえす民衆の大蜂起って、やっぱりいいねぇ。誰か、ファミコンで竹槍を持ったベネデッタが一人で疾走して悪代官ヌンシオをやっつける『べねでった』っていうアクション刺突ゲーム、作ってくれないかなぁ。

 私がすっごく好きな日本映画に、岡本喜八監督の『赤毛』(1969年)があるのですが、あのクライマックスで主演の三船敏郎さんや、その母役の乙羽信子さんが演じた市井の人々の怒りのまなざしを彷彿とさせ、その無念が時空を超えたこの作品で晴らされた! そんな思いがしましたね。江戸幕末沢渡宿の恨みを中世イタリアのペシアで晴らす! 国も時間もバラッバラ!! 『ベネデッタ』のほうが昔の事件よ。

 ほんと、この『ベネデッタ』っていう映画は、とにもかくにも中世ヨーロッパの陰惨でじめじめした宗教世界のおどろおどろしさが先に立つ映画なのではありますが、価値観がころっころ変わり、明日世界がどうなるのかもわからない現代令和の御世に生きる私達に大いなる勇気をくれる、実に実にヴァーホーヴェン監督らしい大傑作だと思います。こういったエネルギーを、御年80を過ぎたご老人からいただいてしまうとは……その半分しか生きてない私も、もっと頑張んなきゃなぁ!!
 『シン・仮面ライダー』もけっこうですが、『ベネデッタ』もそれ以上にものすんごいスーパーヒーロー映画ですよ。濫作状態になりっぱなしのアメコミ映画をぼんやり観てる場合じゃないですよ。

 最後に俳優さん方について触れておきたいのですが、何と言っても無視できない存在感を放っているのが、フェリシータ修道院長役のシャーロット=ランプリングさんです。おいくつになってもド硬派な美人。すごいなー、このお方は!!
 こんなにがめつくて俗っぽい小物感満点の修道院長を、なんでまたシャーロットさんが演じてるんだろう?と少し疑問に思いながら見ていたのですが、後半になって俄然重要人物のオーラを帯びてくるようになってきて、しまいにゃ「どきな、そこはあたいの行く場所だよ!」と言わんばかりにベネデッタを差し置いて火中に身を投じていく、その迷いのなさね! 結局、ほんとうの聖女(魔女?)は誰だったのかという部分を象徴的に物語るフェリシータの最期でしたね。

 あと、やっぱり映画は悪役の憎々しさが命というか、ヌンシオ教皇大使を演じたランバート=ウィルソンさんの嫌な感じも最高でしたね! 非常に俗っぽいベネデッタとの監禁部屋での問答も良かったのですが、なんといってもその最期に、瀕死になりながらもニヤリと笑って、「お前はそうやって、いっつも嘘つくのな!」とベネデッタに吐き捨てて逝く皮肉屋っぷりには、ゲスはゲスでもじたばたせずにゲスとして地獄におもむくという高潔なゲス美学を観た思いがしました。う~ん、かっこいい!! エンディングのベネデッタとバルトロメアの別れが映画『シェーン』(1953年)の本歌取りだとしたら、このベネデッタとヌンシオの末期のやり取りは『用心棒』(1961年)の本歌取りですな。ヴァーホーヴェン監督、にくいね!


 『ベネデッタ』、ほんとに大傑作でしたよ! 夏にソフト商品化するらしいから、絶対に買おうっと。
 でも、よそさまのお国の歴史的事件ばっかりおもしろい映画になるのもなんとなくシャクなので、日本でこういうドラマになりそうな事件はないのかな~と思ったのですが、ぱっと思いつくのはやっぱり、明治末期の女性超能力者四天王「長南年恵、御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子」あたりになりますでしょうか。山形県人の私としては是非とも長南さんを推したいところなんですが、さすがに明治政府も近代国家なので公開処刑みたいな画になるクライマックスもないので、まんまドラマ化してもちょっと中世ヨーロッパには勝てそうもないんですよねぇ。バルトロメアさんポジションも福来博士か親戚のおじさんになっちゃいそうだし。その点、やっぱり『リング』はうまい換骨奪胎でしたよね。
 民衆の反乱という意味では、室町時代後期の「百姓の持ちたる国」加賀国一向一揆がダイナミックでいいんですが、こっちもこっちで相手がローマ教皇とか神聖ローマ帝国ほど強くないから、なんだかなーって感じだし。

 『薔薇の名前』のときに言ったかも知んないけど、観たかったなぁ、実相寺昭雄監督の『鉄鼠の檻』! でも、そこに広がるのはタルコフスキー監督もビックリの睡魔召喚し放題地獄だったかも……こわ~!!
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