長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

おとぉこぉと、おんんなぁの、あいぃだぁにはぁあ ~映画『悪魔のような女』~

2024年09月22日 09時58分19秒 | ミステリーまわり
 うぇえ~へっへっへっ、どうもこんにちは! そうだいでございます。
 最近、私の住む山形もやっと朝夕が涼しくなってきたような気がします。秋ももうすぐですね~。
 ちょっと紅葉のタイミングからはズレてしまうのですが、個人的に今年一番のビッグイベントと目している、「山形~山梨間を車で往復1泊3日の旅」の日程が、もうすぐ先の10月あたまに近づいてまいりました。ほんと、個人的な話ですんません!
 いや、何が今年一番なのかってあーた、「死ぬ確率が今年一番」なんですよね……片道500km 。せめて、よそさまには迷惑をかけずに楽しんできたいものでございますが。
 この旅程自体は昨年の初夏に始めたもので、前回は山梨県北西部の北杜市を中心にめぐって増富ラジウム温泉というものすんごい秘湯につかってきたのですが、それで味を占めてしまいまして、できたら毎年行きたいなという運びになって。今年はちょっとズレて南アルプス市と韮崎市をメインにさまようつもりです。最大のお目当ては武田勝頼肝いりの要塞・新府城跡の散策かな!?
 ま、とにもかくにも、旅の最中もその前後も、健康・安全第一でまいりたいものでございます。この秋は観たい映画やドラマも山ほどあるしね! いや~、まだまだ死ねませんな☆

 そんなこんなで今回のお題なのでございますが、ちょっと最近の作品ではなくて昔の映画になってしまうのですが、ミステリーやスリラーの好きな方だったら観ないと絶対に損をするゾという、世界映画史上に残る大傑作についてをば。


映画『悪魔のような女』(1955年1月 114分 フランス)
 『悪魔のような女』(原題:Les Diaboliques)は、フランスのサイコスリラー映画。フランスの共作推理小説家ボワロー&ナルスジャックのサスペンス小説『 Celle qui n'était plus』(1952年発表)を原作とするが、登場人物の設定が全く違うものとなっている。
 本作は、アメリカで1996年3月に主演シャロン=ストーン、イザベル=アジャーニでリメイク映画が制作された。
 また日本でも、設定を現代日本にアレンジしたリメイクドラマが2005年3月5日にテレビ朝日系列『土曜ワイド劇場』枠内にて放送された。監督・脚本は落合正幸、主演は浅野ゆう子、菅野美穂、仲村トオル。

あらすじ
 パリ郊外の私立小学校デュラサール学園を運営するミシェルは、病弱な妻クリスティーナがありながら部下の女教師ニコールと愛人関係にあった。粗暴なミシェルに我慢が出来なくなったニコールとクリスティーナは結託し、ミシェルを殺害して校内のプールに沈める計画を決行する。その後、やむをえずプールの水を抜いた時、沈めたはずのミシェルが消えていた。それから2人の周囲には、ミシェルがあたかも生きているかのような現象が次々と発生し、ついにはミシェルの不在に疑問をいだいた警察の捜査介入を招いてしまう。

おもなスタッフ
監督・製作 …… アンリジョルジュ=クルーゾー(47歳)
脚本 …… ジェローム=ジェロミニ(?歳)、アンリジョルジュ=クルーゾー
音楽 …… ジョルジュ=ヴァン・パリス(52歳)
撮影 …… アルマン=ティラール(55歳)
編集 …… マドレーヌ=ギユ(41歳)

おもなキャスティング
ニコール=オネール      …… シモーヌ=シニョレ(33歳)
クリスティーナ=デュラサール …… ヴェラ=クルーゾー(41歳)
ミシェル=デュラサール校長  …… ポール=ムーリス(42歳)
私立探偵のフィシェ      …… シャルル=ヴァネル(62歳)
ドラン先生          …… ピエール=ラルケ(70歳)
レイモン先生         …… ミシェル=セロー(27歳)
用務員のプランティヴォー   …… ジャン=ブロシャール(61歳)
エルボウ夫人         …… テレーズ=ドーニー(63歳)
エルボウ氏          …… ノエル=ロクヴェール(62歳)
ガソリンスタンドの給油係   …… ロベール=ダーバン(51歳)


 ほんと、なんで今、この映画なの!? いやいや、面白い映画はいつ観たっていいんですよ。
 ご存じの通り、本作のメガホンを執ったクルーゾー監督はフランス映画界において「サスペンス・スリラー映画の巨匠」と讃えられる天才監督で、当然ながらほぼ同時代にイギリスとハリウッドでブイブイ言わせていた「サスペンス・スリラーの神様」ことアルフレッド=ヒッチコック監督としのぎを削る存在となっていた方でした。実年齢的にもキャリア的にもクルーゾー監督はヒッチコック監督よりも後輩なのですが(8歳年下で監督デビューも12年あと)、『恐怖の報酬』(1953年)と本作『悪魔のような女』を撮ったという時点で、ヒッチコック監督に十二分に伍する才覚を持った映画監督であることは間違いないでしょう。クルーゾー監督が生涯で完成させた長編フィクション映画は11作ということで、さすがにヒッチコック監督に比べたら寡作ではあるのですが、フランスから遠く離れたジャポンに住む私達も、少なくとも上に挙げた2作は必ず観ておいたほうが良いのではないでしょうか。『恐怖の報酬』なんか、あらすじ1~2行で充分だもんね! セリフすら必要のないサスペンス超特化型エンタテインメントです!! でも、私はやっぱりクルーゾー監督のオリジナル版よりも、死のかほりが濃厚にただよう1977年リメイク版(監督ウィリアム=フリードキン!)のほうが好きかなぁ。

 ちなみに、クルーゾー監督がこの『悪魔のような女』を世に問うた1955年前後にいっぽうのヒッチコック監督はハリウッドでどういった作品を撮っていたのかといいますと、『ダイヤルM を廻せ!』(1954年5月公開)、『裏窓』(同年8月)、『泥棒成金』(1955年8月)、『ハリーの災難』(同年10月)という天下無敵のキラキラマリオ状態でありました。え、2~3ヶ月のスパンで新作出してたの!? ジャンプコミックスじゃないんだから。

 ……まぁ、この時期のヒッチコック監督とは比較するだけムダという感じなのでスルーしますが、それでもクルーゾー監督の『悪魔のような女』は、荒唐無稽でファンタジックですらあるヒッチコックワールドではついぞ描写が避けられていたような「男と女のじめっとした関係」を、これでもかというほどにバッチリとフィルムに収めた、唯一無二の黒々とした輝きを放っています。ヒッチコックが陽ならばクルーゾーは陰、ヒッチコックがヒマワリならばクルーゾーは月見草ときたもんだ! まさに、この『悪魔のような女』がモノクロ作品であることには意味があるのです。この物語に、色彩は必要ない。必要なのは、夜の闇の深さなのだ……


 ここで、映画の内容にいく前に、本作の原作とされるボワロー&ナルスジャックのサスペンス小説『 Celle qui n'était plus』について触れておきましょう。
 この小説は、映画公開の3年前に発表された作品なのですが、日本で翻訳されたときは映画がすでに公開されていたので、映画のタイトル『 Les Diaboliques』の直訳である『悪魔のような女』がそのまんま、小説の邦訳タイトルに逆輸入されています(現在でもハヤカワ文庫版が手に入りやすい)。ただし、もともとの小説のタイトルは日本語訳すると「いなくなった人」という意味になるので、映画版で言うと殺したはずのミシェル校長の死体が学校のプールから消えてしまった謎のことを指しているようですね。

 そして、これは言わずにはおられない事実なのですが、小説版と映画版とでは、その内容がビックリするくらいに別のものとなっているのです。これはねぇ、後発の映画版がかなり大胆に小説をアレンジしちゃった、って感じですよね。そして、それが結果的に大成功している!

 具体的に言いますと、小説版は映画版と同じく「三角関係にある人間のうちの2人が共謀してもう1人を殺すが、殺したはずの死体が消える」という展開と、その真相だけが共通しているのですが、それ以外は人物設定から何から、全てがまるで別のお話となっています。
 すなはち、映画版では女性2人が共謀して男性を殺そうとするのですが、小説版は男と女(愛人のほう)が共謀して正妻の女性を殺そうとする発端となります。小説版ではなんと、ミシェル校長にあたる男性が主人公なんですね!
 その他にも小説版は、「男はセールスマンで正妻は専業主婦、愛人は女医」だったり、「夫婦はパリ近郊の都市アンギャン=レ=バン在住で、愛人の女医はフランス北西部の都市ナント在住(両都市間の距離は約350km )」だったり、「映画の終幕直前の展開(探偵と生徒のくだり)がない」といった大きな違いが目白押しとなっています。あと、ご丁寧に登場人物の名前もぜ~んぶ違いますね。ざっと見ると夫ミシェル→フェルナン、正妻クリスティーナ→ミレイユ、愛人ニコール→リュシエーヌ、探偵のフィシェ→メルランといった感じで、だいたい夫と正妻の役割が逆転している以外はキャラクターはほぼ同じなのですが、全員名前が変わっています。その他、映画版でいい味を出していた学園の先生方は学園ごと登場せず、その代わりに正妻ミレイユの兄夫婦が登場します。

 小説版の内容を見ていきますと、主人公であり主犯でもある男性の犯行動機は単純な「愛人への執着&嫉妬深い正妻への嫌悪」となっており、映画版に比べるといささかありきたりで凡庸な印象になっています。当然、男性が正妻に「おびえつつ」殺そうとするという力関係も発生していません。

 かいつまんで申しますと、映画の原作となった小説『 Celle qui n'était plus』は、かなり読みやすくあっさりとした味わいの犯罪小説だったのです。ただし、港に濃密にたちこめる夜霧の描写や、正妻の死体が消えてしまったことで疑心暗鬼に陥り精神がゴリゴリに削られてゆく男性の心理描写は非常に読者を引き込むものがあり、決して単なるイロモノ小説とはあなどれない雰囲気に満ちています。
 完全な余談なのですが、私、この小説をハヤカワ文庫版(1996年のイザベル=アジャーニ版が表紙のやつ)で読んだんですが、何にびっくりしたって、小説の内容よりも小説家の皆川博子先生の解説にビックラこいちゃいましたよ。小説の内容にほとんど触れてないんだもの! 先生、小説読んだ!? それどころか、クルーゾー監督の作品でもないフランス映画『しのび泣き』(1945年 監督ジャン=ドラノワ)の話で盛り上がっちゃってるし……先生、ご機嫌ななめですね~!!


 さて、いよいよ話を本題の映画版の方に向けていきたいのですが、以上のような、タイトル通りに「消えた死体の謎」に焦点を絞って可能な限りシンプルな構成に徹していた小説版と比較してみますと、本作がいかに苦心して物語を「よりリアルでより陰湿なもの」にブラッシュアップし、なおかつサスペンス・スリラー映画として見どころたっぷりな作品に仕上げようとしていたのかがよくわかります。ほんと、創意工夫の見本市みたいな総リニューアルっぷり! でも、お話の骨格「三角関係と消えた死体」だけには全く手を加えずに肉付けだけを変えてるんですよね。だから小説版と映画版は、どこまでいっても双生児のように同じ「夜の闇のかおり」をはなっているのです。粋だね~! このへん、ホントに自分のやりたいように強引にアレンジしまくっちゃいがちなヒッチコック監督とは手つきがまるで違いますよね。おフランス~♡

 映画版の変更点として見逃せないのは、やはり「主人公が正妻」になり、「三人とも同じ職場にいる」という2点でしょう。修羅場だ! 小説版はなにかと配慮して350km もの物理的な距離さえ作っていたのに、映画版は思いッきり近づけて一つ屋根の下にしちゃったよ!! 修羅場、ら~らばんば♪

 このアレンジは強烈だ……しかも、監督のマジの正妻のヴェラ=クルーゾーさんが主人公の正妻を演じてるんですから、ここにリアルすぎる三角関係のギスギスが発生しないわけがないのです。クルーゾー監督は、ノンフィクション映画のつもりでこの映画を撮ってるのか!?

 具体的な人間関係を見ていきますと、映画版の主人公の正妻クリスティーナは夫ミシェルが校長を務める寄宿制の私立学園の教師なのですが、もともと学園を立ち上げる資金を持っていたのはクリスティーナの実家だったようで、校長としての権力をかさに学園を私物化するミシェルに対して彼女は強い反感を持っており、夫婦としての倦怠期も相まってかなり冷え冷えとした関係になっています。教育の現場はクリスティーナらに任せてミシェルは何をしているかというと、腐りかけの食材を安く買いあさって給食に使わせたりする強引な経営を推し進めているために、生徒や教師陣の不満はたらたらで、もっとひどいのは教師の一人であるニコールと、周囲にもほぼバレバレの不倫関係を続けていることです。これは当然のように、同じ現場で働いている妻のクリスティーナも知っている事実なのですが、ニコールもニコールでミシェルにはすでに飽きているという頭打ち感になっていて、本来憎らしい同士であるはずのクリスティーナとニコールが互いに「あいつほんとサイテーよね……」と慰め合っている始末です。教育の現場にふさわしくねぇ~!!
 さらにミシェルは、まるで周囲に見せつけるかのように妻クリスティーナに対する暴力、パワハラ、モラハラを日常的に繰り返しており、ニコールとの不倫も、もしかしたらニコールへの愛というよりはクリスティーナへの嫌がらせが第一の目的なのではないかと思われるふしがあるほどです。

 こういう、ただれにただれまくった三角関係を見ていますと、なんでこんなサイテー男にクリスティーナはさっさと見切りをつけないんだ、家庭の財布を握っているのはクリスティーナ(の実家)なんだし、別れたって困ることもないじゃないかと思ってしまうのですが、ここが原作小説には無かった映画版のすごいところで、もはやクリスティーナとミシェルが、好いた腫れたや金の切れ目どうこう程度では離れられない「共依存」の関係になっていることが、映画を見ているとじわじわ伝わってくるのです。もう理屈じゃないの! これぞ、リアルすぎる男と女の関係……
 すなはち、ほぼ常に暴れまくっているミシェルではあるのですが、9割がたクリスティーナやニコールに対して粗野で愛情のかけらもない態度を取り続けていながらも、残りの1割で唐突に、「お前が嫌いなわけないじゃないか……わかってるだろう?」みたいな猫なで声で肩に手をかけたりしてくる時もあるのです。
 これよ! この、憎ったらしいまでに狡猾なアメとムチ!! これにクリスティーナは完全に洗脳されてしまっているのです。さすがにニコールにその手は通じないのですが、客観的に見れば明らかにミシェルの思うつぼであるしらじらしい素振りに、ひとりクリスティーナだけはだまされ続けているわけなのですね。

 これは、こわいですね……この映画の場合は男女の愛憎関係という話ですが、こういう心理的な支配と隷属の力関係って、世の中にはどこにでも転がっている風景なのではないでしょうか。学校、職場、家庭……性別も年代差も関係なく、この映画版におけるクリスティーナの苦しみは、21世紀の今現在でも全く消えていない日常的な「よくあること」なのです。映画から半世紀以上経っているのに全然改善していない……クルーゾー監督がオリジナルで盛り込んだエグすぎる要素は、いささかもその鋭さを劣化させずに観る者に突き刺さってくるのです。こわ~!!

 映画『悪魔のような女』は、短く言えば「非常に怖い映画」です。しかしよくよく見てみると、その怖さはいくつもの違った種類の恐怖が集合しているものであることがよくわかります。
 そもそもの原作小説の怖さというものは、その原題が示す通りに「殺したはずの人がいなくなった」というもの一つに絞られており、それが「殺人がバレて逮捕されるのではないか」という怖さから、徐々に「殺したはずの人が生きている!?」という別の恐怖へと変容していく様子が丁寧に描かれていくのでした。
 それに対して映画版は、物語の中核にその恐怖を据えることは変わらないながらも、クリスティーナとニコールによるミシェル殺害計画決行の前段には、ミシェルによるクリスティーナの精神支配という「人間関係の怖さ」をしっかりと描き切っているのです。つまり、映画なの流れで言うと怖さの種類は「人怖(ひとこわ)サスペンス→犯罪サスペンス→心霊ホラーサスペンス」へとぐんぐん変容していくわけなのです。そして、そのどれもがちゃんと全力投球で怖く、ハラハラドキドキする! こういうねちっこくてこだわり抜いた構成は、あのヒッチコック作品でもなかなかない精密さなのではないでしょうか。う~ん、さすがおフランス!!

 そして、この「怖さの種類のめまぐるしいジェットコースター」は、これ以上はネタバレになるので申し上げにくくなるのですが、死んだはずのミシェルの影がクリスティーナに迫る!?という映画版のクライマックスの後のわずか数分間で、また猫の目のようにコロッコロ変わっていくのです! ここも原作小説では「1回」のどんでん返しがあって終わるのですが、映画版では私の数え方で言うと「3回」驚きの展開があって、最後に有名な「この結末は誰にも言わないでください。」というテロップが流れて終幕となるのです。え、どれ? どの結末を言っちゃいけないの!?

 いや~、この、イヤすぎるサービス精神の旺盛さね。クルーゾー監督は本当にやらしいお人ですよ! 映画を通して、観る人全員の感情を手玉にとる……やはりクリスティーナを演じたヴェラさんの夫でもあったクルーゾー監督は、ある意味でクリスティーナの夫であるミシェルと同等かそれ以上に狡知に長けた異能の人だったのでしょう。

 やらしいと言うのならば、まず三角関係の人物全員を「一つ屋根の下」に集合させて、しかもその場が「青少年の教育の場」であるという不謹慎きわまりないシチュエーションを考えつくのがやらしいし、ミシェルのハラスメントの不必要なまでの引き出しの多さも、やらしいことは間違いありません。
 でも、もっとやらしいのは、あの大傑作『恐怖の報酬』のごとく、ただでさえ心臓が弱いと言っているクリスティーナを痛めつけるように配置されていく「犯罪がバレるかも知れない」ハラハラ障害のラッシュですよね。あんなもんほぼ全部、原作小説になんかありません!

 ニコールの部屋のバスタブに水が貯められる時刻を正確に記録する同じアパートの住人とか、ミシェルが入ったつづらを入れたトラックの荷台に入ろうとする酔っ払いとか、ミシェルが着ていた背広がなぜかクリーニング店に出されている謎とか、もう観客の心臓にも悪い演出のオンパレードですよね。ミシェルの寝室に調査に来た探偵のフィシェがなにげなく扉を閉めると……のところなんか、別に幽霊とかモンスターがそこにいるわけでもないのに、閉めた時に見えるアレにビクッとしちゃうんだよなぁ! 怖いっすよ!!

 ただ、何といっても一番やらしいのは、ミシェルを沈めたプールがクリスティーナの授業している教室から丸見えってところなんですよね~!! これは嫌だ!!
 生徒が遊び時間中に投げたボールが入ってもビクッ! 用務員のおじさんが浮かんでいる枯れ葉を拾ってもビクッ! ニコールが投げた鍵が落ちてもビクッ! いやこれ、絶対捨てる場所間違ってるって~!! クリスティーナ、やる前に「プールはダメでしょ……」ってちゃんと言わないと!
 いやホント、この映画って最初っから最後までこんな調子で、「観客をハラハラドキドキさせるネタがあればガンガン投入していこうぜ」というアグレッシブスタイルなのです。この引き出しの充実っぷりがすごい! 映画というよりも、もはやお化け屋敷を楽しんでいる感覚に近いサービスっぷりですよね。

 ただ、ここまで言うとなんだかクルーゾー監督のアイデアだけがこの映画の見どころであるかのように感じられるかもしれないのですが、やはり本作は、その演出意図をしっかり受けとめて見事に演じきる俳優さん方がいて初めて実現するものなのです。
 この映画に登場する俳優さんは、小学校の生徒を演じる子役たちにいたるまで全員達者なのですが、やはり特にと言うのならば、クリスティーナを演じるヴェラさんと憎々しいミシェルを演じるポール=ムーリス、そして、いぶし銀の存在感でいいところをかっさらっていく探偵フィシェ役のシャルル=ヴァネルの3人が素晴らしいと思います。フィシェって、よれよれのコートを着て常に猫背というパッとしない外見だけを見るとあきらかに「刑事コロンボ」の大先輩とも言うべき人物なのですが、ダーティながらも抜けたところが全然ない眼光の鋭さが常にあるので、コロンボ的な愛されキャラではないですよね。
 ムーリスもまぁ……外ヅラだけはフランス人みが強くなった高田純次さんにしか見えないのですが、やることなすことほんとに最低で。でも、序盤での「こいつは殺されても当然かな」と観客に感じさせる素行の数々もまた、クルーゾー監督が仕掛けた無数のトラップの中のひとつなんですよね~!! 本当にこの映画は114分間、頭からしっぽの先まで無駄なところが一瞬たりとも、無い。

 あと、俳優さんの魅力と言うのならば、クライマックスとなる深夜の小学校の場面で、灯りの点いたミシェルの部屋にこわごわ近寄るクリスティーナを演じるヴェラさんの肌が恐怖のあまり汗びっしょりになってネグリジェが透けるぐらいになっている様子が、可哀そうでありながらも同時に非常にセクシーだというところも、見逃すわけにはまいりません。興奮するとかいう方向性ではないのですが、他人が追い詰められるさまを観てドキッとしてしまう背徳感がものすごいショットだと思います。これを計算して撮影してるからね……しかも、実の嫁にやらせてるという! こういうところ、仕事(映画)とプライベートをしっかり分けようとしている(けど公私混同もある)ヒッチコック監督にはできない芸当だと思います。クルーゾー監督こわすぎ!!


 とまぁこんな感じで、この映画『悪魔のような女』はほんと、すごいと思うところを数え上げたらキリがない大傑作であるわけなのですが、本ブログの常で字数もいい加減にかさんでまいりましたので、最後に、ホラー映画が大好きな私としては絶対に無視することのできない「最後の最後のどんでん返し」に触れておしまいにしたいと思います。

 いやこれ、言うのはやめてネと、先ほども申した通りにクルーゾー監督からじきじきに字幕で止められているので具体的な説明は控えるのですが、「え! そこまで来ておいて、最後にそのオチ!?」と唖然としてしまうくらいの大転換がくるんですよね。本編終了の数秒前に映画のジャンルが変わっちゃうんだもん、そりゃビックラこきますよね。
 いや~、この豪胆さよ。でも、ここでの「しょっちゅう罰を受けさせられるダメ生徒」の発言のくだりは伏線として張られてるんですよね。うまいんだよな~! 全然唐突な感じはしない、「やられた!」みたいなフィニッシュなんですよ。

 あと、デジタル撮影全盛となった2020年代ではほぼ死滅した文化といっても良い、薄らぼんやりとした荒い画像の中に「なにか」が見える心霊写真の恐怖を取り入れた「集合写真」のくだりも、またいいですよね。忍びよる幽霊の恐怖とはまた違った、当時最新モードの恐怖も盛り込んでいる貪欲さは、さすがはファッションの本場おフランスの映画といった感じでしょうか。導入に迷いがない!


 私、個人的なことになるのですが、この映画を見ると必ず思い出すのが高校時代のエピソードでして、当時ものすごく怖がりな友達と一緒に夜道を帰っている時に私が、灯りの消えたビルに50個くらい並んでいる窓のどこかを指さして「あっ。」と言っただけで、その子がギャー!!と叫んで私をバンッバン殴ってきたものでした。

 そうなんですよ、この映画、やっぱりモノクロで撮影される古い校舎という舞台設定からして怖くて、そこもまた、クルーゾー監督は見逃さずに最後の最後にひろって、ふつうに並んでいる窓さえもが勝手に怖く見えてくる魔法をかけておしまいにしてしまうのです。

 ほんと、お金なんか大してかけなくても、アイデアと演出の腕だけでむちゃくちゃ怖い映画は、いくらでも作れるのよねぇ。人間の想像力は無限大なんだから、作り手も、見る側も。男も女も!

 いや~何度見てもすごい映画だ。でも、クルーゾー監督みたいなお人がプライベートで近くにいるのは、カンベンかな~!?

 あいだに深くて暗い河があるくらいの距離で、お願いしま~っす!!
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超ニッチ企画!! 『刑事コロンボ』幻の未映像化事件簿をよむ ~だいぶ遅れた読書感想文その1~

2024年09月10日 20時52分02秒 | ミステリーまわり
『刑事コロンボ』オリジナル小説作品の事件簿!! 各事件をくわしく解析
 ※TVドラマシリーズ『刑事コロンボ』の概要は、こちら

 と、いうわけでありまして、『刑事コロンボ』のお話でございます。

 今まで我が『長岡京エイリアン』では、さんざんっぱらミステリー作品が大好きということを言ってきたのですが、たぶん『刑事コロンボ』について触れたことはあまりなかったのではないでしょうか。
 確かに、私は「『刑事コロンボ』全話観ました!」という程のファンでもありませんので完全なる門外漢なのですが、いちおう1980年代の日本に生まれた人間である以上、コロンボ警部といえばだいたいああいう感じの「能ある鷹は爪を隠す」系の名探偵キャラだな、ということは存じ上げておりました。ただ、私がもっぱらリアルタイムで視聴できたのは『金曜ロードショー』枠内での『新・刑事コロンボ』だったんですよね。もう、石田太郎さん以外に声をアテてた人なんていたの?みたいな感じで。

 思い起こせば、私がビデオで録画してコロンボ警部の事件簿を追っていたのは、第49話『迷子の兵隊』から第58話『影なき殺人者』までの2、3年ほどでした(日本での吹き替え放送は1993~95年)。

 当時はブラウン管の世界(死語)でも明智小五郎や金田一耕助がまだ定期的に活躍していた時代で、マンガの世界でも金田一少年やコナン君が名を挙げていた時期でした。アニメ化はもうちょっと後のはず。いちいち挙げませんが、ミステリー小説界もそりゃもう大にぎわいでしたよね~。
 そんなミステリージャンルの中でも、「のっけから犯人がわかっちゃってる」という倒叙ものミステリーの代名詞的存在だった『刑事コロンボ』は、ひときわ異彩を放つ存在だったわけです。
 ただ、たぶん『刑事コロンボ』が大好きな方が上の視聴歴をご覧になったら「あぁ……そうね。」とご納得なされるかも知れないのですが、私はもうとにかく第58話『影なき殺人者』のメイントリックが衝撃的すぎて、そのショックのあまり、以降の視聴をぱったりやめてしまったのでした。
 いや、ひどくないですか、あれ!? 金田一少年でも却下するでしょ、あんなの! 実現可能か不可能かとかいう以前に、地球最高の知能を持つと自認する霊長類として50年前後生きてきたプライドを持つはずの人間が、果たして自分の人生を賭けた一大トリックにあんな手段を選択するのかって話なんですよ。それを真剣に実行してる犯人の絵づらがバカすぎる! 私が法廷であの経緯を全世界に言いふらされたら、情けなさすぎてその場で憤死しちゃうよ!!

 まぁ、こんな衝撃体験もありましたし、ちょうどそのころ日本で同じ倒叙ものの『古畑任三郎』シリーズの放送も始まったので(1994年4月~)、『刑事コロンボ』とはかなり疎遠な時期が長らく続いていたのでした。

 そして時は流れて2020年代。NHK BSプレミアム(当時)で2021年から再放送していた『刑事コロンボ』を、小池朝雄さんの旧シリーズからやっと視聴することができたのですが、これがあーた、んまぁ~面白い面白い!! さすがに全話残さずチェックとまではいかなかったのですが、これが伝説の真価なのかと楽しませていただいておりました。当時は『シャーロック・ホームズの冒険』も『名探偵ポワロ』も楽しめたわけで、もう BSプレミアムはまさしくプレミアムなチャンネルとなっておりました。『ウルトラセブン』の4K 版もやってましたよね? もう最高。
 さらに、ちょうどそのころ私が書店をほっつき歩いていましたら、『別冊宝島 刑事コロンボ完全捜査記録』(編集・町田暁雄)というものすごいガイドブックを見つけてしまいまして、伝統シリーズの悠久の歴史と重層的な魅力、そして何よりも、このシリーズを愛する日本人ファンの熱量の高さに瞠目してしまったのでした。さすがは1960年代から続いた長期シリーズ、ファンも全話を調査し尽くす執念と、ダメエピソードも差別せず愛する度量の広さのレベルが違うゼ!!

 まぁとにもかくにも、2020年代になってやっと『刑事コロンボ』シリーズの醍醐味を知るという、あまりにも遅すぎる出逢いではあったのですが、このシリーズの素晴らしさ、世界ミステリー史上に残る偉大なる足跡を、少しでもこの『長岡京エイリアン』で紹介させていただきたいと思いはしたのですが、1時間以上あるエピソードが70本近くありますし、だいたい、映像化された各エピソードの魅力を語っているブログ記事や解説動画なんてすでに山ほどありますので、今さら最近ポッと出で好きになった私がどうこう口をはさめる状況でもないのよね……
 ちなみに、映像化されたコロンボ警部の事件簿で私が好きなエピソード1位は、第8話『死の方程式』(第1シーズン)です。2位は第15話『溶ける糸』(第2シーズン)で、3位は第51話『だまされたコロンボ』(第9シーズン)でしょうか。ロディ=マクドウォールいいよな~。

 ですので我が『長岡京エイリアン』では、この広大なるネット宇宙の隅っこに這いつくばるゼニゴケのような超零細ブログのこの身にふさわしく、長い『刑事コロンボ』の歴史の中で「映像化されなかった」事件簿だけをさらってみようという、一体どこの誰が喜ぶのか見当もつかないひねくれ企画にいたしました。う~ん、これぞ個人ブログ!!

 そこで注目したのが、日本では主に二見書房文庫から1980~2000年代に発刊されていたノヴェライズ版『刑事コロンボ』シリーズのうち映像化されなかったエピソード、すなはちアメリカ本国で発刊された「オリジナル小説」の翻訳か、もしくは TVシリーズで映像化するために作成されたものの、諸事情により没になってしまった「シナリオ or シノプシス(シナリオ化の前段階であらすじと要点をまとめたもの)」を日本で小説化した作品、このいずれかとなります。

 なつかしいな~、二見書房文庫版! 私ももちろん、1990年代に買って読んでました。
 読んだ中には、買った当初は「未映像化事件!」というふれこみだったのに、発刊された後になって第54話『華麗なる罠』として映像化された『カリブ海殺人事件』なんていう作品もありました。第8シーズン以降の『新・刑事コロンボ』時代のシナリオ不足問題は深刻だったようですからね……

 今回、私が読むことができた未映像化小説は全部で「8エピソード」あったのですが、これはあくまでも日本で小説の形になった作品の数でありまして、これ以外にも邦訳されていないオリジナル小説(例:『 COLUMBO and the SAMURAI SWORD』)や、小説の形になっていない没シナリオ or シノプシス(例:『 Murder in B Flat』や『 Hear No Evil』)はもっと存在しているのですが、今回は割愛させていただきます。『コロンボ警部とサムライ・ソード』て……真田広之さんがブチ切れそうなかほりが……
 あと、これらの他に『刑事コロンボ』シリーズの原作者の一人であるウィリアム=リンクが著した短編集『刑事コロンボ13の事件簿 黒衣のリハーサル』(2012年 論創社)などもあるのですが、今回はあくまでも映像化された正統エピソード群と同等のボリュームを持った長編作品のみを扱わせていただきます。あと、これは完全な私見なのですが、やっぱり映像化にあたってコロンボ警部の血肉そのものとなっていた名優ピーター=フォークの没年2011年をもって、コロンボ警部の事件簿にも区切りをつけるべきな気もするんですよね。そうじゃないと、ルパン三世みたいにきりがなくなっちゃうでしょ……私に言わせれば、1995年3月19日以降に世間を騒がせているルパン三世は、全員一人残らず偽物ですよ、あんなもん。

 ごたくはここまでにしておきまして、早速、この精鋭たる「未映像化8つの事件簿」の各話を読んだ感想をつらつら述べてまいりたいと思います。
 ちなみに8エピソードの順番につきましては、「原型となったシノプシス or シナリオ or 小説が古い順」となっております。ですので、最終的に日本で小説化した段階で、もっと新しい時代設定に改変されているエピソードもあるのですが、あくまで原型が生まれた早さを優先しておりますので、ご了承くださいませませ!


File.1、『殺人依頼』( Match Play for Murder) 小鷹信光 1999年6月2日刊
 ≪犯人の職業≫    …… 不動産会社の社長(ゴルフの元アマ・チャンピオン)、金融会社社員
 ≪被害者の職業≫   …… 金融会社社員夫人
 ≪犯行トリックの種類≫…… 動機を隠蔽し完璧なアリバイを作るための交換殺人
・没シノプシスの『 Trade for Murder』を元にした小鷹信光によるオリジナル小説。
・「刑事コロンボ生誕30周年記念長編オリジナル作」として、二見書房から単行本の体裁で刊行された。
・原典シノプシスの作成時期は不明だが、別小説作品『サーカス殺人事件』(作者は同じく小鷹信光)にて、コロンボが部下のウィルソン刑事に対して「おまえさんが配属されてきた前の年にゴルフがらみのちょいとした事件があって、あたしゃ、ベルエア・カントリークラブまでなんども足を運んだよ。」と語っている。この事件が本作のことを指しているとするのならば、ウィルソン刑事が殺人課に配属されたのは映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)のことなので、本作は1971年に発生した事件ということになる。ただし、映像版に登場したウィルソン刑事の名前は「フレデリック」で、『サーカス殺人事件』に登場したウィルソン刑事の名前は「ケイシー」である。
・作中で、登場人物がレクサスの自家用車を運転している描写がある。レクサスの販売開始は1989年であるため、本作は1971年を舞台としていない作品であると解釈できる。また、登場人物が携帯電話を使用している描写もある。
・さらに本作には、映像版で第28話『祝砲の挽歌』(1974年10月放送)から数エピソードにわたり登場したコロンボの部下のクレイマー刑事が登場する(ただし名前が「ジョージ」でなく「ジョン」)のだが、本作の時点でロサンゼルス市警殺人課からシカゴ市警に転勤した上でロサンゼルス市警鑑識課に転属している。このことからも、本作が1971年を舞台にしていないことは明らかである。
・映像版に登場したキャラクターとしてはクレイマー刑事の他に、ジョージ=フォーサイス検死官、「バーニーの店」のバーニー(バートではない)、コロンボの飼い犬「ドッグ」が登場する。
・本作オリジナルのコロンボの部下として、太鼓腹で大柄なルイス部長刑事が登場する。ちなみにルイス刑事は、本作のクライマックスでも重要な役割を担う「ある特技」を持っている。
・内容に類似性はないが、プロゴルファーが重要な役として登場する TVドラマ第6シーズン用の没シナリオ『 Murder in B Flat』(1976年10月執筆 作ロバート=F=メッツラー)がある。

あらすじ
 ゴルフの元チャンピオンが仕掛けた殺人トリック! 王者の誇りを賭けた死のマッチプレイ……
 絞殺された人妻の喉元にくっきりとついた5本の指の跡。犯人とおぼしき夫を追うコロンボ警部を惑わす、完璧なアリバイと動機なき殺人。「魔法のクラブ」はどこへ消えたのか? ゴルフ狂の大物フィクサーとの禁じられた賭けに端を発した殺人契約。全ては、あの「忌まわしきショット」から始まった……


 1本目から時系列がごちゃごちゃになってしまい申し訳ないのですが、別作品で「1971年の事件」と語られておきながら、どこからどう見ても1990年代後半の時代設定になっている作品です。まぁ、『サーカス殺人事件』でコロンボ警部がふれた「ゴルフ関係の事件」が本作だとは限らないとも解釈できるのですが。
 ここまで語ってきた経緯からもわかるように、日本における「海外映像作品のノヴェライズ」文化の先駆けとなったと申しても過言ではない二見書房の『刑事コロンボ』シリーズにおいて、訳者という立場は単なる翻訳者に留まらず、かなりのパーセンテージで作品を「超訳」している自由度の高いポジションであるようで、特に本作の訳者である小鷹信光さんは、かの松田優作の『探偵物語』の原案者&ノヴェライズ作家であることからもわかるように、作家性の高い方だったと思われます。でも、『探偵物語』の魅力って、ぶっちゃけ話の本筋から俳優陣がどれだけ脱線するのかってところにあるような気もするので、原作って言われましても……実際に小鷹さんの小説版『探偵物語』シリーズを幻冬舎文庫で読んだ時も、「これが工藤ちゃん……?」感が否めませんでした。
 なので、本作の時代設定と、後年に発刊された『サーカス殺人事件』での言及が矛盾しているのも、小鷹さんなりのファンサービスなんだろうなとは思うのですが、正直、言い出しっぺは小鷹さんなんだから、そのくらいはちゃんと筋を通してくれよという気はします。

 話を作品の内容に戻しますが、さすがは「刑事コロンボ生誕30周年記念作品」といいますか、テーマが「交換殺人」ということで犯人も被害者も2人ずついることになりますので、通常のエピソードの2倍の複雑な人間関係でお話が進んでいくぶん、けっこう読み応えのある作品となっております。小鷹さんが本作執筆のためにロサンゼルスで現地取材をしたと語るあとがきからもわかるように、ロス市内の様々な名所を行ったり来たりする展開も、情景の書き分けがはっきりしていて非常にわかりやすいです。

 ただ、この事件における「交換殺人」は、一人の犯人がもう一人をかなりの強引さ(酔った勢い!)で犯罪計画に引き込んで決行しているため、やる気も真剣度もかなり低いパートナーをフォローするために生じる手間やポカがぼろぼろ出てきてしまい、とてもじゃないですがあのコロンボ警部の追撃を逃れる余裕などできるわけもない自己崩壊を招いてしまうのでした。なんか、勝手に自滅してますけど……
 だって、交換殺人って、互いに殺したい相手が死ぬ時間にアリバイを作ることができることと、殺された人間と殺した人間との間に接点がないというところが、捜査をかく乱するという視点からすると大きな利点なんじゃないですか。
 でも本作の場合、主人公的な役割の犯人のほうが頑張って事前準備&事後処理し過ぎちゃうので、発生する2件のどっちの背景にもちらほら見え隠れしちゃうのよね! 意味ないじゃ~ん!! じゃあ勝手にあんた一人でやってくれよぉ!!
 せっかくの交換殺人ネタが……これじゃあ、どだいコロンボ警部の相手になれるわけがありませんよね。まず、泥酔してる人間を犯罪計画に引っ張り込むっていう初動からして、世の中をナメてますよね。うまくいくわけねぇだろ……

 あと、小説としての本作のウィークポイントとして言えるのは、主人公の犯人と、犯人が命を狙っている被害者の、どっちもが同情しづらいクズ人間であるというところでしょうか。殺されようが逮捕されようが、どっちがどうなっても爽快感がないんだよなぁ!
 相手の弱みを見つけてほじくり返し恐喝の道具にするという被害者の最低さは、あの『金田一少年の事件簿』の被害者たちの「殺されても当然」パターンに通じるものがあるのですが、本作の場合は犯人のほうも割とホイホイ不倫する上にその不倫相手を自分の都合で躊躇なくぶっ殺すし、さらにそれを利用して不倫相手の夫に「不倫したお前の嫁さんを殺してやったんだから、お前も誰か殺せよな!」と詰め寄るという、閻魔大王も思わず世をはかなむ自己中クズっぷりなので、もうホント、「勝手にしやがれ」って感じです。主人公の犯人にいいように操られた挙句に結局死んじゃったもう一人の犯人が哀れすぎる……

 さらに言うと、犯人を恐喝していた被害者の末路に関しても、詳しくは言えないのですがモヤっとした感じの終わり方なので、あくまでも遵法者であるコロンボ警部では裁けない「悪」もあるという部分が露呈してしまい、本来、名探偵というヒーローであるはずのコロンボ警部の魅力もかなり減じてしまう、ほろ苦い読後感になってしまいます。
 ただ、この爽快感の無さというか、ビターな味わいが図らずも『刑事コロンボ』のオリジンであるレヴィンソン&リンクの小説『愛しい死体』が「犯罪小説」だったという事実を呼び覚ますものがありますし、小鷹さんがハードボイルド作家だったという、その属性をありありと見せるものになっている気がします。

 結論から言いますと、読みごたえはあるんだけど『刑事コロンボ』である必要はないかなって感じ?

 なんかこの感じ、特撮ファンの私としては映画『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)を彷彿とさせるものがあるんだよなぁ……あれも「ゴジラ生誕50周年」の記念作品だったんですよ。なのに、あれほどゴジラっぽくない映画もないんですよね。監督の北村龍平の濃度99%、ゴジラ1% の映画でしたよね。
 ……ん? キタムラリュウヘイ……?


File.2、『人形の密室』( A Christmas Killing)アルフレッド=ローレンス 訳・小鷹信光 2001年3月25日刊
 ≪犯人の職業≫    …… 服飾デザイナー
 ≪被害者の職業≫   …… 同僚(服飾デザイナー)
 ≪犯行トリックの種類≫…… 密室殺人工作
・アメリカ本国で1972年(第1・2シーズンの放送時期)に出版されたオリジナル小説の翻訳。
・1975年12月に二見書房新書サラブレッド・ブックスで翻訳出版された『死のクリスマス』( Crime in Christmas)の改題・改訳版で、内容も初訳版の1.5倍に拡大されている。
・本作が初訳された時期は、日本では NHK総合で第3・4シーズンが吹き替え放送されており、改訳された時期は WOWWOWで新作が吹き替え放送されていた。
・本作の殺人事件の捜査主任として、本作オリジナルのキャラクター・ロサンゼルス市警殺人課のベンジャミン=ワトキンス巡査部長が登場する。ワトキンス刑事は「警察学校を卒業して2年経っていない」という設定なので23~4歳の若手刑事なのだが、事件発生時にコロンボがカリフォルニア州南部のサンタカタリナ島に夜釣りに出かけていたため主任となった。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ジョージ=フォーサイス検死官が登場する。しかし彼が映像版に登場するのは第54話『華麗なる罠』(1990年4月放送)からなので(名前は最初の2話分では「ジョンソン」だったが3回目の登場から「ジョージ」に)、1972年に出版された本作への登場の方が早い。

あらすじ
 ロサンゼルスのダウンタウンにある七階建ての老舗デパート「ブロートン」で、クリスマスシーズンを控えた閉店後の夜に若い女性デザイナーが殺害された。被害者は頭部を凶器で殴打されマネキン人形の間に倒れていた。捜査に当たったコロンボ警部の部下ワトキンス刑事は、犯人にとって逃げ道の無い状況から密室殺人の可能性を推測するが、コロンボは遺体の握っていた奇妙な遺留品に目をとめた。クリスマスのショーウィンドウを飾る人形の謎を追って、コロンボは被害者の住んでいた雪のシカゴに急行する。


 没シノプシスの小説化作品だった『殺人依頼』と違って、こちらはオリジナル小説の邦訳作品となっております。
 訳者は『殺人依頼』と同じ小鷹さんなのですが、本作は小鷹さんによって2回翻訳されているようです。でも、いくら翻訳の習熟度が違っているといっても、同じ原作を翻訳しておいて文量に1.5倍の違いがでるなんてこと、あんのかね……私が読んだ2001年改訳版(二見文庫版)に出てくるフォーサイス検死官も、1990年の映像版初登場よりも後に改訳したバージョンから小鷹さんが登場させた独自サービスのような気がします。そりゃ、映像版シリーズを知っている読者にしたらうれしい登板なのかもしれませんが、それは果たして「翻訳」なのか……?

 犯罪自体よりも犯人の心理描写や行動に物語の重点が置かれていた『殺人依頼』と違って、本作は純粋にコロンボ警部の地道な捜査によるトリック解明に焦点を当てた、よりミステリー寄りのエピソードとなっています。確かにこちらの方が『刑事コロンボ』シリーズっぽいですね。
 ただ、タイトルにでかでかと「密室」とぶち上げている割には、事件発生時からコロンボ警部が密室殺人の可能性を「信じない」ところから捜査を始めていますし、密室でないとするのならば、密室のように仕立て上げる工作ができるのは誰?というポイントから考えてみると、ほぼ選択の余地なしで疑惑の焦点が本作の犯人だけに絞られてしまうので、『殺人依頼』の交換殺人と同様に、本作の密室殺人もまた、そのテーマをちゃんと実現しているとはとてもじゃないけど言い難いアラ目立ちまくりの事件となっております。ま、そこらへんが実にリアルといえばリアルなのですが……
 だいたい、被害者が殺された部屋とか階じゃなくて、七階建てのデパートビル全体をひっくるめて「密室」とするという方便も、かなり無理がありますよね。ろくに防犯カメラもないし、監視してる人間も一階の固定された場所に詰めてる守衛さん一人なんだもんなぁ。

 そして、密室と並んでタイトルで強調されている「人形」に関しても、物語のキーワードとしては犯人の生い立ちを語る上でかなり重要な要素となっていて味わい深いものではあるのですが、そりゃ、そんな大事なものを犯行現場で見失ったままトンズラしちゃったら、コロンボ警部が見逃さないわけがないんだよなぁといった感じで、事件解決の難易度を劇的に下げている手がかりとしてしか機能していないのが残念でなりません。

 結局、本作の犯人も、コロンボ警部の同情を買いこそすれ、決してコロンボ警部を苦しめるような難事件を出来せしめる印象的な犯罪者にはなり得ていないのでした。所詮はゆるゲーであったか……
 ただ、本作の犯人は最終的な証拠となり得る「凶器」を隠滅することには成功していたので、状況証拠は山ほどあっても、なんとしても「私はやってない!」といい抜ければ逃げ道はあった気はするのですが、そこは百戦錬磨なコロンボ警部のこと、完全にルール違反なミスリード芝居をうって犯人の心を折るという、かなり黒よりのグレーな戦法で自白をもぎ取るのでした。これ、映像化のエピソードでもけっこう多用されるコロンボ警部のかなり強引な最終手段なのですが、その悪魔のような狡知に長けた采配こそが、ふだんはあんなに人畜無害な風貌のコロンボ警部が、ほんとにちらっとだけ「裏の顔」を垣間見せるという魅力の源泉なんですよね。きったねぇ!! でも、そこがいい……

 この『人形の密室』は、物語の構成自体はしっかり映像版の文法にのっとっており、おそらく映像化しても一応『刑事コロンボ』らしくなるかと思うのですが、やはり大看板で「密室」という割にはトリックとして甘々な部分もあり、最終的なコロンボ警部のチェックメイトもさほどのサプライズ感がないので、もし映像化してもかなり地味で目立たないエピソードになってしまうような気がします。これもまた、映像化されないだけの理由はあるかな、という感じでしょうか。

 ただ一点、この作品で長じているのは、やはり主人公である犯人と被害者との因縁の関係の生々しいディティールだと思います。
 主人公と被害者とは幼なじみの同業者なのですが、子どもの頃から華やかな娘だった被害者に主人公はコンプレックスを持っており、彼氏を被害者に盗られるという典型的な遺恨もありました。その上に、主人公が何とかキャリアを築き上げてきた老舗デパートのデザイン部に、シカゴの大手デパートから都落ちした被害者が転職してきて……という、主人公の首を真綿でじわじわと締めてゆくような犯行までの経緯は、ちょっと辻村深月先生の作品にでも出てきそうなエグみのある関係のような気がします。
 しかも、被害者の死後に、彼女が主人公たちに送るつもりだったクリスマスプレゼントが見つかるというくだりも非常にインパクトが強いのですが、それを見つけた主人公が同僚たちに「さっさと開けちゃって、次に気持ちを切り替えよう!」と言い放ってしまう決定的な「変貌」もちゃんと描いているあたり、さすがはハードボイルド小説家・小鷹信光の真骨頂といった感じですよね。やりおるわい!!

 『刑事コロンボ』の映像化されたエピソードの中で「傑作」と讃えられるものの魅力が那辺にあるのかと考えてみますと、犯行トリックの秀逸さは実のところ4割ほどで、やはり犯人を演じるゲスト俳優さんの演技力が6割のような気がするのです。そこはドラマですからね~。
 そう考えてみるとこの『人形の密室』も、たとえば『古畑任三郎』の中で橋本愛さんあたりが犯人を演じていれば、かなり視聴者の心に残る名作になっていたかも知れません。ちょっと、中森明菜さんにイメージがかぶるでしょうか。


 ……という感じに、刑事コロンボ「幻の未映像化事件簿」8つのうちの、まずは2つについてくっちゃべってみました。
 いやまぁ~、この2作に関しましては、正統的なエピソードとして映像化しないだけの理由はあるといいますか、TVドラマ化を想定していない冒険や登場人物の深めの掘り下げがあったと見ました。ていうか、『刑事コロンボ』じゃなくて小鷹信光さんの独立した小説としてやってくんないかな!? 面白いからさ!

 こういったあんばいで、残り6エピソードも次回以降、取り扱っていきたいと思いま~っす。
 さぁ、果たして映像化されても遜色ないような名エピソード、あのコロンボ警部を苦しめるような脅威のトリックは出てくるのでありましょーか!?
 
 いやぁあああ! 『刑事コロンボ』って、ホンッッッットに! いいもんですねェエエ!!
 それじゃあまた、ご一緒にたのしみましょ~。ぼんちゃ~ん♡
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最高傑作 or 黒歴史!? 未来の巨匠のほろ苦いハリウッドデビュー作 ~映画『レベッカ』~

2024年09月02日 22時46分28秒 | ミステリーまわり
 ハイどうもこんばんは! そうだいでございます~。みなさま、夏も終わりに近づいてまいりましたが、あんじょうやっとりまっか?
 いやぁもう、実感は全然わかないのですが夏が終わったら秋ですよ。秋が来るってことは、今年ももう後半戦なんですよ! 早いですね~。
 ほんと、日々あくせく働いておりますと時間なんてあっという間に過ぎてしまうのですが、楽しく生きてはいるものの、家にゃ積ん読な本も山ほどありますし、世間にゃ観たい映画やらドラマやらアニメやらもゴロゴロある、外を歩きゃあ行きたい温泉も城跡も無尽蔵にあるしで……仕事に疲れてすぐ眠くなってしまうこの身がにくい~! 私に残された人生時間がどのくらいあるのかはわからないのですが、一日にやれることが限られている中、どう取捨選択して楽しんでいくのかも大事ですよね。もう大学生時代みたいに時間と体力があるわけでもないんだし。なにごとも健康第一よぉ。目が悪くなれば本も読みにくくなるし、足が痛くなれば遠出も難しくなっちゃうわけですからね。今日も野菜ジュースあおって運動だ!!

 それはそれとして、今日も今日とて恒例の「ヒッチコックの諸作を古い順に観ていく企画」の続きでございます。新しいエンタメを楽しむのもいいですが、温故知新も大切よ~! 特に、今回取り上げる作品は、ヒッチコックの映画人生を通観していくにしても非常に重要な作品であります!
 さっそくいってみましょう、ヒッチコック新時代の幕開けを告げる、この一作!


映画『レベッカ』(1940年3月公開 130分 アメリカ)
 『レベッカ』(Rebecca)は、アルフレッド=ヒッチコック監督によるサイコスリラー映画。イギリスで活動していたヒッチコックの渡米第1作。ダフニ=デュ・モーリエの小説『レベッカ』(1938年)を原作とし、制作はセルズニック・プロ、アメリカでの配給はユナイテッド・アーティスツが担当した。第13回アカデミー賞にてアカデミー賞最優秀作品賞と撮影賞(モノクロ部門)の2部門を獲得した。ヒッチコックは監督賞にノミネートされていたが、結局受賞できなかった。ヒッチコックにとっては生涯唯一のアカデミー最優秀作品賞であるが、のちにフランソワ=トリュフォーとの対談でヒッチコックは「あれ(作品賞)はセルズニックに与えられた賞だ」と語っている。ヒッチコックはその後4度も監督賞にノミネートされたが結局受賞することはなく、壇上でオスカーを手にしたのは1967年にアーヴィング・タールバーグ記念賞(功労賞)を受賞した時の一度きりであった。
 製作費は約130万ドル、アメリカ・カナダでの興行収入は約600万ドルだった。

 ヒッチコックは小説『レベッカ』の発表時から映画化を検討していたが、版権を取得できずに断念した経緯があったため、この作品を手がけることには乗り気だったと思われる。しかし、ヒッチコックはこれまで常に自作の脚本に関与してきていたが、今作のシナリオ制作には参加できず、しかも撮影中にプロデューサーのデイヴィッド=O=セルズニックから多くの横やりが入っており、ヒッチコックにとってはおおいに不本意な制作環境であったという。ヒッチコックはセルズニックが撮影現場に押しかけるのを拒み、そのためにラッシュを見たセルズニックから膨大な指示メモを受け取るようになったという。
 男性側の主演を務めたローレンス=オリヴィエは、当時の自身の恋人ヴィヴィアン=リーとの本作での共演を望んでいたため、撮影中はフォンテインに冷たい態度をとった。オリヴィエの態度にフォンテインが恐れを抱いたことに気付いたヒッチコックは、撮影スタジオにいる全員に対して、フォンテインに対してつらく当たるように伝えた。これによって、フォンテインから恥ずかしがりで打ち解けられない演技を引き出したのであった。

 セルズニックは、本作のロケ地としてアメリカのニューイングランド地方を中心に探したが条件に合う場所がなかった。そこで遠景はミニチュアで撮影されたのだが、これがこの世ならぬ雰囲気をかもし出すためにはかえって効果的であった。またヒッチコックは、屋敷の立地を示すような映像を意図的に描かず、屋敷の存在をさらに神秘的なものにしている。
 セルズニックは、ラストシーンで燃えさかるマンダレイ邸の煙突から「R」の文字の煙を出させたかったが、ヒッチコックは技術上の困難さを理由に断った。その代わりに、レベッカのベッドの枕の「R」のイニシャルが炎の中に消えていく演出に差し替えた。

 ヒッチコック監督は、本編開始2時間6分23秒頃、駐車禁止を巡査にとがめられたジャックの後ろを通り過ぎるコートを着た通行人の役で出演している。


あらすじ
 アメリカ人の富豪ヴァン・ホッパー夫人の付き人として地中海モナコ公国のモンテカルロのホテルにやってきた「わたし」は、そこでイギリスの貴族であるマキシムと出逢い、2人は恋に落ちる。マキシムは1年前にヨット事故で前妻レベッカを亡くしていたのだが、彼女はマキシムの後妻として、イギリスの大邸宅マンダレイへ赴く決意をする。多くの使用人がいる邸宅の女主人として、控えめながらも暮らしていこうとする彼女だったが、かつてのレベッカ付きの家政婦で今も邸宅を取り仕切るダンヴァース夫人にはなかなか受け入れてもらえない。次第に「わたし」は、死んだはずの前妻レベッカの見えない影に追いつめられていく。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(40歳)
脚本 …… ロバート=エメット・シャーウッド(43歳)、ジョーン=ハリソン(32歳)
製作 …… デイヴィッド=O=セルズニック(37歳)
音楽 …… フランツ=ワックスマン(33歳)
撮影 …… ジョージ=バーンズ(47歳)

おもなキャスティング
わたし          …… ジョーン=フォンテイン(22歳)
マキシム=ド・ウィンター …… ローレンス=オリヴィエ(32歳)
家政婦長ダンヴァース夫人 …… ジュディス=アンダーソン(43歳)
執事長のフィルス     …… エドワード=フィールディング(65歳)
ジャック=ファヴェル   …… ジョージ=サンダース(33歳)
フランク=クロウリー   …… レジナルド=デニー(48歳)
ベアトリス=レイシー   …… グラディス=クーパー(51歳)
ジャイルズ=レイシー少佐 …… ナイジェル=ブルース(45歳)
浮浪者のベン       …… レオナルド=キャリー(53歳)
ジュリアン署長      …… チャールズ=オーブリー・スミス(76歳)
船大工のジェイムズ=タブ …… ラムスデン=ヘイア(65歳)
ベイカー医師       …… レオ=グラッテン・キャロル(58歳)
イーディス=ヴァン・ホッパー夫人 …… フローレンス=ベイツ(51歳)


 いや~、ついにここまできましたよ、ヒッチコック、新天地アメリカに上陸!!

 本作は、ヒッチコック監督の長編映画第24作となるのですが、今まで15年間母国イギリスで制作してきた23作までを「第1部・ヒッチコック立志編」とするのならば、この『レベッカ』からは「第2部・ヒッチコック黄金時代編」と言えるのではないでしょうか。
 無論、先のことを言うとヒッチコック監督はここから35年以上、監督最終作にいたるまで基本的にはアメリカで活動し続けていくので、『レベッカ』以降をぜんぶひっくるめて論じることはできないのですが、まずここが、ヒッチコック監督にとってのかなり大きなターニングポイントとなっているのは間違いないでしょう。
 ちなみに、ここまでのイギリス時代の中でもヒッチコック監督のキャリアの中では「サイレント映画時代」と「トーキー映画時代」という大きな区別があったわけなのですが、過去の記事でもふれたようにサイレントからトーキーへの世代交代に関しては、けっこうグラデーションのある感じで徐々にシフトしていくものでしたので、今回の「渡米」ほどにかっちりした転換点は無かったかと思います。トーキー初期はサイレントのセリフを使わない演出も引き続き多用されていましたし。

 でも、ほんとに今回の『レベッカ』は、明らかにヒッチコックの映画制作環境が変わったんだろうな、と察することが容易な雰囲気に満ちているんですよね。つまり、今までのヒッチコック作品とは毛色がまるで違った作品。それがこの『レベッカ』なのです。まぁ、それが「面白いのか」どうかは別の話なんですけど……

 まず、作品の内容に入る前にヒッチコック監督の長いキャリアの中での『レベッカ』の存在感を考えてみたいのですが、何と言っても無視できないのは、本作がヒッチコックの生涯の中で唯一、アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞した作品であるということでしょう。
 つまり、ヒッチコックを知らない人が彼について知ろうとするときに、とりあえず賞レースの観点から言えば、53作ある監督作品の中でもいちばん高く評価されたのがこの『レベッカ』ということになるからです。
 なんか、サスペンス・スリラーという映画のジャンルの中で「最低限この人の作品は観てないと……」とよく引き合いに出されているヒッチコックという神監督がいるぞ、と聞いた時、興味を持った人はとりあえず「どの作品がおもしろいの?」と調べると思うのですが、まずはネット上の評判を見るというのが手っ取り早い手段でしょう。そして、ぱっと見ですぐわかる基準として「賞とってる作品は?」という見方も当然あるのではないでしょうか。そうした場合、はっきりと他作品と区別できるアドバンテージとして、『レベッカ』のアカデミー作品賞受賞はひときわ輝くものがあるかとは思うのです。実際、30年以上前に紅顔のビデオ少年だった私も、『サイコ』だ『鳥』だ『裏窓』だとは言われてますが、やっぱり関口宏さんとか西田ひかるさんとかが出ていたヒッチコックに関する伝記番組みたいなものを観てみても、イギリスからハリウッドに跳んだヒッチコックが『レベッカ』で大いに名を挙げたというくだりは必要不可欠な重大トピックになっていたものでした。

 ところが、ひるがえって振り返ってみますと、我々は『レベッカ』の何を知っているのか……ぶっちゃけ、ちゃんと『レベッカ』観てる人って、どのくらいいんの?と疑問に感じてしまうのです。
 例えば、TV番組で『レベッカ』が紹介される時に数秒流れるダイジェストカットと言いますと、代表的なのはやっぱり、「豪華な時代もののドレスを着こんだわたしが登場して夫のマキシムの表情が凍りつくシーン」と、「ダンヴァース夫人が窓際でわたしに身投げするよう詰め寄るシーン」の2つでしょう。
 この2つ、どちらもマキシム夫婦の住むマンダレイの大邸宅を舞台にしているシーンですし、特に前者はその場にいる人物全員が古めかしい衣装に仮装しているパーティ上でのやり取りですので、おそらくこれらの紹介映像を見ただけの人のほとんどは、『レベッカ』って、『風と共に去りぬ』(1939年 ヴィクター=フレミング監督)みたいな歴史劇なんじゃなかろうかと勘違いしてしまったのではないでしょうか。プロデューサーもおんなじセルズニックだし。

 実際にかくいう私も、だいぶ後年になってほんとに『レベッカ』をちゃんと観たら、歴史劇どころか何の変哲もないメロドラマみたいな現代劇設定だったので、なんというか、ぶっちゃけ肩透かしを食らった気になってしまった記憶があります。あれ、これ、他のヒッチコック作品と大して変わんないスケールじゃん、みたいな。そうなんだったら、モノクロだし歴史劇っぽいしで先入観で警戒せずに、さっさと気軽に観ておけばよかったのにな~と。

 ところが……この『レベッカ』って、ミョ~にヒッチコックらしくないんですよね。よく言えば「重厚」というか、物語が展開もテンポも非常に丁寧な進行になっていて、ハリウッドデビュー作とは思えない落ち着きに満ちたつくりになっている、とも言えるのですが……


ない、ない! ヒッチコック作品のトレードマークともいえる、観客をいきなりドキッとさせる斬新な映像演出が、どこにもな~い!!


 不思議なんですよね~。これ以降の作品と比較してももちろんなのですが、はっきり言ってこれ以前のイギリス時代の過去作品のどれと比べても、あの古色蒼然たるサイレント時代の諸作を引き合いに出してさえも、この『レベッカ』ほどに保守的な撮り方の作品はどこにもない、と思ってしまうほど、『レベッカ』は古臭いのです。なんか、ヒッチコック監督とクレジットされなかったら誰が撮ったのか全然わからないくらい。

 いや、もちろんそのことをもって、『レベッカ』をつまらないという気はさらさらありません。面白いです、この作品はさすが、ある賞のグランプリを獲得するだけあって一定のレベルはゆうに超えている傑作ではあるのですが……先ほどにあげた作品情報でご本人がそう明言しておられたように、『レベッカ』の面白さはヒッチコックの面白さではない、としか言いようがないのです。
 じゃあなんの面白さなのかと言えば、そりゃもう言うまでもなく原作小説の面白さですよね。デュ・モーリエの小説『レベッカ』に実に忠実な映像化。まぁ、おそらくは当時の倫理的な問題から後半に微妙な改変はあるのですが、映画版の大半の面白いシーンは、小説ですでにしっかりと、より詳しく描写されているのです。

 そう言われてみると、この「かなり忠実な映像化」という部分も、ヒッチコック作品らしからぬ非常に珍しいもので、イギリス時代のヒッチコック作品の多くは、映画化される前にすでに有名な原作小説や戯曲があったものが大半なのですが、『下宿人』(1927年)しかり『第3逃亡者』(1937年)しかり、原作小説を読んでみると「どこ見て映画化しとんねん」とツッコみたくなってしまうような「超訳」アレンジ作品がざらだったような気がします。
 そういった大胆な改変の根底にあったのは間違いなく、ヒッチコックのプロの映像作家としての「映像化するなら絶対こっちのほうが面白い」という確信であったわけなのですが、今回の『レベッカ』にいたっては、まるで借りてきたネコのようにおとなしくなって、かなり従順に淡々と小説の展開を映像化しているな、といった印象の仕事になってしまっているのです。なので、あのヒッチコックの作品だと意気込んで『レベッカ』を観てしまうと、特に原作小説を読んだうえで観ると「あれ?」な感じになってしまうのです。フツーだなぁ、みたいな。

 というか、今回にいたってはあのヒッチコックをもってしても、映画版『レベッカ』は原作小説の「わかりやすい映像化」という評価しか得られないような気さえして、判断は人それぞれだとしても、映画と小説を比較した時に、面白さで軍配が上がるのは圧倒的にデュ・モーリエの小説の方なのではないでしょうか。
 いや~、今回この記事をつづるために、こちらもほぼ30年ぶりに小説『レベッカ』を読み直してみたのですが(新潮文庫の茅野美ど里2008年訳版)、こんなに面白い作品だとはねぇ。なんか、私の大好きな辻村深月ワールドに通じる人間描写の鋭さと遠慮の無さがあるんですよね。
 特に、主人公のわたしがマンダレイで暮らしていくにつれて、徐々に亡妻レベッカの幻影をぐいぐいと押しのけてマキシムの新たな「支配者」になっていこうとするしたたかさというか、何も知らない娘が政治的な富豪夫人に変貌してゆく心理的な過程が克明につづられていくのには、レベッカの死の謎なんかどうでもよくなる勢いで戦慄させられてしまいます。今風の言い方で言うと「人怖系サスペンス」の古典なんですよね、これ。

 ただ、そこらへんをハリウッドの娯楽映画というコンプライアンスにのっとってビックリするくらいに「健全」にしてしまっているのが、映画版『レベッカ』の改変点なのでありまして、このために、小説の中でかなり存在感のある主人公として確実な成長(豹変?)を見せていたわたしは、レベッカの幻影やその死の真相におびえるか驚愕し続けるだけのかよわい目撃者の役割だけしか与えられず、真相を知る夫マキシムもまた、レベッカの死への関わり方はずいぶんとマイルドなものに変えられてしまっているのでした。極端な話、小説では各登場人物が平等にかかえていた「罪」が、映画版では「ぜんぶレベッカかダンヴァース夫人のせい。」と押しつけられてしまった感がありますよね。こういうわかりやすさは……面白さを減らす方向にしか機能していないような気がします。
 あと、映像化される際に原作に出ていた登場人物が数名カットされてしまうのは仕方のない事かとは思うのですが、マンダレイでのわたしの数少ない共感者であるドジっ子メイドのクラリスや、わたしを前にして「あんただれ? 私の好きなレベッカはどこ?」と気まずい発言をしてしまうマキシムのボケた祖母といった魅力的な面々が活躍しないのは、もったいないとしか言えません。

 特に、小説ではあんなに切れ味が鋭かった「ラストの幕切れ」が、映画版ではごくごくふつうのスペクタクル展開になってしまったのは、これこそまさに「蛇足」の好例といった感じですよね。ただ、あそこでスパッとおしまいにしてもいいのが小説の良さで、その一方、野暮であることは承知の上でも、観客のためにマキシムが危機におちいったわたしを必死で救うという通過儀礼はちゃんと描かないといけないという映画の、エンタメとしてのつらいところなのかな、という気はしました。そこはまぁ、お金をかけてやらなきゃいけないお約束だったのでしょう。大邸宅を出したからには火ィつけろというプロデューサー様のお達しが~!

 ただ、今回のように内容の簡略化に舵を切った映画の場合、確かにラストに大邸宅の炎上を持ってきたのは判断として正解というしかなく、小説のようなリアルで生々しいわたしの心理描写をさっぴいてしまうと、この作品はマキシムしか知らないレベッカの死の真相をめぐる法廷劇や、レベッカの主治医をまじえて辛気くさい顔をしたおっさん達が集まって話し合うやり取りがクライマックスになっちゃうので、そんなんで終われるわけないやろがい!!とばかりに、小説に無いカタストロフィを持ってこさせたセルズニックの剛腕は正しかったのではないでしょうか。でも、この手も『風と共に去りぬ』の二匹目のどじょう感が強いし、それなのに『レベッカ』はモノクロだし邸宅もミニチュアだしで……後発なのに、あんまし勝ててないんだよなぁ。

 ほんと、あの巨匠ヒッチコックにも、ハリウッド駆け出しのころはこんな使いっぱしりな日々があったのねぇ、という感じで。
 でも、けっこう当時としては斬新すぎて変な撮り方も多かったけど、いざやろうとしたら、このくらい真っ当で正統派なメロドラマも撮れるんだぜとばかりに、ヒッチコックの奇才なだけでもない万能選手っぷりをハリウッドにアピールできたという意味では、この作品を世に出した効果もマイナスなばかりではなかったのではないでしょうか。実際、ここからしばらくヒッチコックは、受注した作品をノンジャンルで器用に映画化していく堅実雌伏なコツコツキャリアアップ期に入るので、この『レベッカ』という豪華すぎる名刺をちゃんと作れたことは、ヒッチコックの映画人生において大きな利点をもたらしてくれたと言えると思います。

 いかな天才ヒッチコックといえども、自分の好きな作品ばっかり撮っていたわけではないんだなぁ。あえて自分の牙を隠しておとなし~く撮った映画『レベッカ』の存在意義は、その地味すぎる無個性さにこそ、逆にしっかりと刻み込まれているのです!

 でもまぁ、この作品はほんと、睡眠を充分に摂って心の余裕がある時にゆ~ったりと観るべき作品だと思います。そのぐらいハードルを低くして臨めば、この「減点も加点もない、毒にも薬にもならない良品」の世界を楽しめるのではないでしょうか。いや~、ヒッチコックらしくねぇ!!
 だいたいこの作品、物語の重要な転換ポイントを長ったらしい説明ゼリフとか登場人物の表情の演技のどっちかで押し通し過ぎなんですよ! そりゃ主人公ペアは名優オリヴィエと、美貌よりは演技力の方が目立つフォンテインなんですから、その実力を使わないのは損なわけなのですが、ヒッチコックの俳優に頼らない演出テクニックは相対的に沈黙しちゃいますよね。う~ん……だったら映画じゃなくて演劇でやったら!?
 マキシムの大邸宅も、イングランド南西端の英仏海峡に面した海辺の風光明媚な地所で、濃霧にむせぶ海の描写もけっこう出てくるのですが、とてもじゃないですが前作『巌窟の野獣』であれだけエネルギッシュで生命力あふれる大海原の躍動を描き切った映画監督と同じ人とは思えないほど、無機質でスタジオ撮影っぽい平々凡々な「海でーす。」タッチにとどまっています。えっ、前作と同じコーンウォールの海ですよね!? なんでこんなに熱量が違うの? まぁ、メロドラマの世界にいかつい難破船荒らしが出てきてもいけませんけど。いやいや、アカデミー賞獲った『レベッカ』よりも『巌窟の野獣』のほうが断然面白いって、どういうこと!?

 あともう一つ、この映画はのちに、性的マイノリティにスポットライトを当てたドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』(1996年一般公開)でもプッシュされたように、亡きレベッカへの恋慕に近い想いをわたしにぶつけるダンヴァース夫人の妖しげな魅力を語られることも多いのですが、これも「あぁ、そう見ればそうかなぁ」みたいな程度で、特にそれほど先見の明のある映像には見えず、ただひたすら無心に小説をなぞったという印象しか残りませんでした。やっぱり、ヒッチコック監督は百合にはご興味はござらぬご様子……ブロンド美女一直線!!
 ま、小説版のダンヴァーズ夫人は「ガイコツみたいに痩せた女性」とこっぴどく描写されているので、映画版のような艶っぽさもありそうにないんですけど。ホラーですねぇ~、Love is over ですねぇ~!!


 かくいうごとく、この『レベッカ』という作品は、「ヒッチコックらしさを極力排除」という異常すぎる内容でありながらも、おそらくはそのために当時のアメリカ大衆の大評判と映画界の高評価を勝ち取って、その後のハリウッドにおけるヒッチコック無双時代の礎を築いた尊い犠牲、人柱のような重要作となっております。「ここは耐えろ……!」と歯を食いしばって撮影を続けたヒッチコックの鉄の意志が伝わってくるような平凡作なんですね! 売れるって、大変なんだな。

 おそらく『レベッカ』が公開された当時、主にイギリスにいたヒッチコックのコアなファン層は、「なんてつまんない映画を撮ってるんだ! おれ達のトンガりまくったヒッチはどこに行った!?」と落胆し、嘆く声も多かったのではないでしょうか。わかるわかる、私も思春期の時に、大好きだったインディーズバンドがメジャーデビューして『ジャンプ』あたりの大人気マンガのアニメ版の OPか EDを担当して一躍有名になった時は、うれしい反面、「なんて毒の無いつまんねぇ歌を唄ってるんだ……!!」とガッカリしたものでした。あれ、単にファンがいきなり増えたことが癪にさわってるだけなんですけどね。
 でも、この時の落胆が完全なる杞憂に過ぎなかったことは、その後のヒッチコックの仕事が如実に証明しているわけなのであります。ヒッチコックはファンの期待を裏切らなかった!!

 繰り返しますが、くれぐれも勘違いしないでいただきたいのは、本作は決して駄作ではないということなのです。あくまでもヒッチコックのキャリアの中で言えば決して印象深い傑作には選ばれなさそう、というだけなのであって、観て損をするような失敗作では絶対にないです。本編時間だって130分と、2020年代現在の2時間30分越え当たり前のひどい状況から見れば、むしろ良心的なほうなんですからね! まぁ、だからって退屈しないわけでもないんですが……

 本作、決して「おもしろいぞ!」とか「ヒッチコックの代表作だぞ!」とは言えないのですが、メロドラマのお手本のような作劇術と、小説の世界を映像化するとはどういうことなのかを考えたい方にとっては、恰好の教科書になるのではないでしょうか。
 こういう作品をてらいなくちゃんと作れるのも稀有な才能ですよね。もしかしたらヒッチコックの「職人」的才能の最高峰が、この『レベッカ』なのかも?

 天才ヒッチコックの新天地ハリウッドにおける本領発揮は、まだまだ先のことなのであった!
 がんばれヒッチ、負けるなヒッチ~!!
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超ニッチ企画!! 『刑事コロンボ』幻の未映像化事件簿をよむ ~資料編~

2024年08月25日 20時32分24秒 | ミステリーまわり
突然失礼しま~っす!! 海外 TVドラマシリーズ『刑事コロンボ』とは!
 ※参考文献『別冊宝島 刑事コロンボ完全捜査記録』(監修・町田暁雄 2006年 宝島社)

 『刑事コロンボ』(けいじコロンボ 原題: Columbo)は、アメリカ合衆国で制作・放映されていたサスペンス TVドラマシリーズである。全69話。
 日本においては、アメリカ本国の NBCで1968~78年に放送された45作は『刑事コロンボ』、ABC で1989~2003年に放送された24作は『新・刑事コロンボ』の邦題で放映された。制作はユニヴァーサル映画。原作・原案は推理小説家で脚本家のリチャード=レヴィンソン(1934~87年)とウィリアム=リンク(1933~2020年)。
 犯罪者を主人公とする倒叙ものミステリーの形式を一貫しており、特に日本においては TVドラマ『古畑任三郎』シリーズ(作・三谷幸喜 1994~2006年放送 全40話)と並んで倒叙ものミステリードラマの代表作と称されることが多い。

 『刑事コロンボ』の原形は、アメリカのミステリー小説誌『アルフレッド・ヒッチコック・ミステリー・マガジン』1960年3月号に掲載されたレヴィンソンとリンクによる犯罪小説『愛しい死体』(原題:May I come in?、掲載時は Dear Corpus Delicti)である。この作品にコロンボ警部は登場しないが、登場するニューヨーク市警のフィッシャー警部に後のコロンボ警部を予感することができ、本作は『刑事コロンボ』の第1話『殺人処方箋』に発展していく。

 レヴィンソンとリンクは、犯罪小説だった『愛しい死体』を倒叙ものミステリーにすると共に犯人と探偵との対決物語へと改作し、ミステリー TVドラマシリーズ『シボレー・ミステリー・ショー』内で1960年7月31日に放送されたエピソード『 Enough Rope』とした。
 この作品に探偵を登場させるにあたり、レヴィンソンとリンクはフョードル=ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』(1866年)に出てくる、見た目は冴えないが推理や心理テクニックを駆使して主人公の殺人者ラスコーリニコフを追い詰めていく有能なポルフィーリ=ペトローヴィチ予審判事を参考に、コロンボ警部というキャラクターを創造した。『 Enough Rope』でコロンボ警部を演じたのはバート=フリード(当時40歳)だったが、フリードにとっては数多く演じた刑事役の中の一つに過ぎなかった。

 しかし、演劇ファンであり劇作家になることも夢見ていたレヴィンソンとリンクは『 Enough Rope』をボリュームアップさせ再構築し、戯曲『殺人処方箋』(原題Prescription : Murder)を書きあげた。この舞台公演はコロンボ警部役をトーマス=ミッチェル(当時70歳)、犯人の精神科医役をジョゼフ・コットン(当時57歳)といった豪華キャストで、サンフランシスコを皮切りに25週にわたってアメリカ・カナダ2ヶ国ツアーが行われ大成功となった。この舞台での主役は犯人役のコットンであったが、それを上回る喝采をミッチェルが受け、観客にとってコロンボ警部が真の主役であることの証左となった。後にコロンボ警部のトレードマークの1つとなるレインコートはまだ使用されておらず、初代フリードは薄手のトップコートを、2代目ミッチェルは厚手のオーバーコートを着ていた。また、舞台版は後の TVシリーズとは異なりニューヨークを舞台としている。ただし、「あと1つだけ」、「うちのカミさんがね」、「あたしたちはプロ、犯人は所詮素人」といった、TVシリーズでのコロンボ警部の名セリフとなるような言葉はすでに舞台版の脚本に記されており、犯人とコロンボ警部の緊迫したやり取りもあるなど、コロンボ警部の造形は舞台版で明確になったと言える。
 しかしながら、2代目コロンボ警部を好演したミッチェルは体調不良のために舞台を途中降板し、その直後の1962年12月に世を去ってしまう。レヴィンソンとリンクはミッチェルに代わる俳優を探し、映画『ポケット一杯の幸福』(1961年)でミッチェルと共演したことのある「目つきのよくない怪優」ピーター=フォーク(当時40歳)を3代目のコロンボ警部役に起用し、舞台版の脚本をさらにひねり、1968年2月に再び TV版単発ドラマをシリーズ化に向けたパイロット作『殺人処方箋』として製作した。これがフォークにとって初めての本格的な刑事ドラマ主演となった。

 本シリーズは独特のテンポで進むストーリーで、知的で社会的地位も高い犯人が完全犯罪を目論むも、一見愚鈍で無能そうなコロンボ警部にアリバイを突き崩され、自ら破滅の道を転落する必罰的展開ながらも、コロンボ警部と犯人との駆引き、静かにしかし確実に追い詰められて行く犯人の内面の葛藤・焦りといった感情描写や、コロンボ警部のユーモラスなセリフ回しなど、そのいずれもが味わいのある1話完結形式のミステリードラマとなっている。
 また本シリーズは、冒頭で完全犯罪を企む犯人の周到な犯行を視聴者に見せた後、隙のなさそうに見える犯人が見落としたほんのわずかな手がかりを元にして、コロンボ警部が犯行を突き止めていく倒叙ものミステリーとなっている。これはもともと原形となった『愛しい死体』が犯人が主役とした犯罪小説であったものを舞台化するにあたって、主人公の犯人と追い詰める探偵との対立構図に再編したためである。
 原作者のレヴィンソンとリンクは自著にて、本シリーズが倒叙ものミステリー小説の創始者であるイギリスの推理小説作家オースティン=フリーマン(著書に「ソーンダイク博士」シリーズなど)の影響を受けていることを認めると共に、倒叙もの形式が TVドラマと相性が良いことを『殺人処方箋』の制作を経て直観したと語っている。


コロンボ警部について
 コロンボは、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルス市警察殺人課に所属する警察官であり、階級は「 Lieutenant(ルテナント)」である。ただし、殺人事件が発覚していない時点(行方不明など)で捜査に加わることもある。
 「lieutenant」を日本語に訳す場合、一般的には「警部補」とすることが多いが、実際のアメリカの警察制度では、lieutenantの一階級上の「 captain(警部)」が分署長や本部の課長などを務めることが多い。そのため lieutenant はそれに次ぐ階級として、署長(もしくは実動部隊の長)の「副官、代行」であるとともに、場合によっては署長職を務めることもあり、日本の警察での「警視」に相当する役割をも担っている。また、lieutenantの下の階級の「 sergeant(巡査部長)」でも警察署の係や課、警察署全体の当直シフトなどを監督・指揮できる階級となっている。コロンボは一定の権限を与えられた捜査責任者(警察を代表して犯人と対決することができる)という立場だが、単身で現れることが多く部下を指揮するような描写も少ない。

 シリーズを通して劇中でコロンボのファーストネームが語られたことは一度もなく、コロンボも名前を尋ねられた際、「私を名前で呼ぶのはカミさんだけです。」と答えている。しかし第5話と第35話でコロンボの警察バッジケースがクローズアップされる場面があり、それには「 Frank Columbo」と記されている。

 安っぽくよれよれのワイシャツとネクタイに、裏地がなく防寒着としては役立たないレインコート、安い葉巻、櫛の通っていないボサボサの髪の毛と斜視による藪睨み、猫背が特徴でまったく冴えない風貌の人物である。しかしその風貌こそが、コロンボの優れた知性を隠して犯人の油断を誘う重要な武器となっている。
 口癖は「 Just one more thing(あと1つだけ)」や、「My wife(うちのカミさんがね)」。頻繁に妻や親戚の話を口にする。イタリア系でイタリア語が話せる(第34、42、59話)が、話せないという設定の回もある(第65話)。
 射撃技術は不得手で拳銃は携帯しない。半年ごとに行う射撃訓練に10年も行っておらず警察本部から警告されたことがある。銃の発砲音が苦手らしく、やむを得ず発砲する必要がある時は耳を塞いで撃つ(第30話『ビデオテープの証言』)。またホールドアップの必要がある場面でも、実際には撃たずに突き付けるだけで済ませていた(第64話『死を呼ぶジグソー』)。
 刑事になる前は軍隊におり朝鮮戦争(1950~53年)に従軍した経験があるが、前線には出ず炊事当番をしていたと話している。

 怖がりで解剖や手術、残酷な殺人現場の写真を見ることを好まない(第13、15話)が、嘔吐したり気を失うなどといったことは全くなく、被害者の生死が係っている状況では怖がる様子は見せない。首が切断された死体がある現場でも、死体を見ないようにしながら現場検証をこなしている(第46話『汚れた超能力』)。
 運動は苦手で泳げない。高い所が苦手らしく、ケーブルカーに乗った際には一言も言葉を発しなかったり(第8話『死の方程式』)、捜査のため致し方なく航空機に搭乗した後は落ち着いて降りるまでに相当な時間を要していた(第2話『死者の身代金』)。乗船時に船酔いをしていたことがある(第5話『ホリスター将軍のコレクション』)。しかしゴルフではプロ級のスウィングでホールインワンを決め(第4話『指輪の爪あと』)、ダーツでは3投目に中央のブルに命中させている(第45話『策謀の結末』)。ビー玉などを狙って当てるのが幼い頃から得意である(第13話『ロンドンの傘』)。
 葉巻をふかす時、ライターやマッチは大抵誰かに借りている。葉巻はシガーカッターで切ったものより噛みちぎったものの方が好みである。
 好きな料理はチリコンカンとコーヒー。コーヒーは熱いのが好みで、ぬるくなると文句を言う。
 「料理はまったくだめ」と言いながらも料理を手際よく調理することができ(第3話『構想の死角』)、仔牛料理を料理研究家に振舞った際にはその腕前と才能を高く評価されている(第42話『美食の報酬』)。料理に関する知識も豊富で、自宅ではもっぱら妻に代わって台所で料理を担当しているらしい。
 趣味はリメリック(五行戯詩)、西部劇、クラシック音楽(イタリアオペラ、シュトラウス2世のワルツなど)、ゴルフ、ボウリング、フットボールの TV観戦。絵画にも精通しているようで(演じたフォークも絵画に精通している)、飾ってある絵画の価値を一目見ただけで把握したこともある。またビリヤードが得意である。

 逮捕した犯人にワインをふるまったり(第19話『別れのワイン』)、音楽をかけて慰めの言葉をかけたりする(第24話『白鳥の歌』)など、犯人に対して温かい心遣いを見せることもある。しかし卑劣な犯人に対しては、普段の控えめな態度を急変させて怒りを露わにすることもある(第15、26話など)。ちなみに日本語吹き替え版ではコロンボが犯人に対して怒鳴るシーンもあるが、原語版でのフォークは低音かつ抑え目のトーンで話していることが多い。

 犯行現場に寝ぼけたり、食事を抜かした状態でやって来ては現場にあった被害者の食べかけを勝手に食べたり(第21話『意識の下の映像』)、周囲の人間にコーヒーやオレンジジュース、ちょっとした食べ物を要求することも多い。また、犯行現場を荒らしてしまう癖があり、目覚ましに勝手に現場の水道を使って顔を洗ったり、凶器の鉄棒やパトカーでゆで卵の殻を割ったり、葉巻の灰をじゅうたんの上に落としてしまうなど軽率な行動も多いが、それが結果的に犯罪を暴くきっかけになる場合も多い。
 酒と高級なつまみが好きで、あちこちでご馳走になったり、現場や容疑者宅に置いてあるものを無断で失敬するが、自分ではめったに買わない。また、あまり金を持ち歩かないので、飲食店などでお金が足らなかった時には小切手で支払いをしたり、警察宛ての請求書を切ってもらうことがしばしばある。

 事件が起こっても急いで現場に駆けつけることは少なく、たいていは実況見分があらかた終わってから顔を出す。しかも、自身が注目する以外の物事には大して興味を示さず、現場保存にも執着せず、火の点いた葉巻をくわえながら自分なりの検分を行う。
 署内でのコロンボは相当な信頼と名声があるのか、同じ課に勤務する新人刑事から尊敬されているほか、事故として処理されかけている事件を上司に掛け合って殺人事件に切り替えて再捜査したり、警察とつながりのある社会的地位が高い人物の恫喝にも飄々と対応している。
 捜査方法は、整合性のない事柄に関して容疑者や関係者に事細かにしらみ潰しに当たり、時間や場所に関係なく職務質問するという極めて古典的なもので、その場でアリバイが立証されて一応納得するようなことがあっても、事実が判明するまでは幾度も同じ捜査を繰り返す。また聞き込みでは、相手の地位に関係なくへりくだった態度で妻の話などの雑談を振っておいてから、「形式的な捜査なので……」や「報告書に書くためだけです。」などと職務質問に入るパターンが恒例となっている。
 状況証拠と証言だけでの真相解明を目指さず、守秘義務に関係なく捜査状況を容疑者本人に逐一報告することで感情の機微や証言の小さな差異をあぶり出し、それらを手がかりに矛盾点を突きつけ焦らせて心理的誤誘導するなどし、最終的には理詰めで追い込んで犯行を認めさせるという捜査方法を多々用いる。知能指数が高く、世界で2% の高IQ な人物しか加入できない「シグマ協会」(モデルはメンサ)のメンバーである犯人は、コロンボの知能指数をテストした際に「あなたは警察に置いておくには惜しい。」と賛辞している(第40話『殺しの序曲』)。その一方で、犯罪捜査においては運が必要だと話している(第56話『殺人講義』)。
 お金が好きだといい、少ない情報で税や収入などの複雑な計算が瞬時にできる(第10話『黒のエチュード』)。
 非常に粘り強い捜査が持ち味となっており、最長の捜査期間は9年4か月だったと語っている(第62話『恋におちたコロンボ』)。
 本人によれば、新シリーズの時点で22年警察官を勤めている(第54話『華麗なる罠』)と言うが、これは第1話『殺人処方箋』の初回放送日が該当話の22年前(1968年2月)であることにちなんだネタであると思われる。

 コロンボが着ているよれよれの背広服とレインコートのスタイルはフォークが作り上げたものであり、どちらも彼の私物である。乾燥して降雨が少ないロサンゼルスではレインコートはほとんど普及していないが、フォークは「コロンボに強烈な個性と独特なキャラクターをもたせたかった。そこで、カリフォルニアでレインコートを着せることにした。」と語っている。

 コロンボは通常、相棒を持たず単独で捜査にあたる。しかし本物の刑事はパートナーと組んで捜査することもあり、エピソードによっては協力して捜査にあたる相棒が登場する。第11話『悪の温室』では、警察大学(入学前に殺人課に1年在籍する)を出たてのフレデリック=ウィルソン刑事(演・ボブ=ディシー)が登場した。フレディ刑事は警察大学で科学捜査を学び新しい捜査技術に明るく、丹念に事件の裏付けをたどって真相に行き着くコロンボとは対照的であり、「あの人とは捜査の仕方が違う。」と批判的な態度をとることもあったが、第36話『魔術師の幻想』に再登場した時には「また警部とご一緒できて光栄です。」と慕っている。
 また、同じ殺人課に配属されてコロンボの担当する事件のサポートをしていると思われる刑事として、第28話『祝砲の挽歌』のほか第31、34、37、52、65話に登場するジョージ=クレイマー刑事(演・ブルース=カービィ)がいる(ただし第65話ではブリンドル刑事という役名)。クレイマー刑事は常識的な捜査を行うが、コロンボの突飛な推理と単独捜査に面食らう描写が多い。なお、演じたカービィは『秒読みの殺人』で別の役(テレビの修理屋)としても登場している。

 コロンボは捜査中によく「my wife」もしくは「Mrs. Columbo」(日本語版では「カミさん」)の存在を引き合いに出す。しかし画面に登場したことは一度も無い。第53話『かみさんよ、安らかに』でコロンボと共に女性の写真が並んでいるシーンがあるが、コロンボによると写真の人物はカミさん本人ではなく、カミさんによく似た姉妹だった。
 コロンボの子に関しては、妻と同じくセリフ中でのみ登場する。第19話『別れのワイン』や第23話『愛情の計算』で子どもが複数いることがわかるが、第53話『かみさんよ、安らかに』では「私たちには子どもはいないけどね(犬がいるので幸せだよ)。」と話している。

 コロンボは、甥や姪などの親族の話もよく引き合いに出す。シリーズを通して、コロンボが相手に揺さぶりをかけるために事件の核心に迫る際に話すだけで実際には登場しないことがほとんどであるが、コロンボの姉メアリーの息子で両親はすでに亡くなっているという甥のアンディ刑事(第60話『初夜に消えた花嫁』)だけが作中に登場している。
 具体的には妻の弟ジョージ(第14話『偶像のレクイエム』)、コロンボと甥と何人かの親族が写る数枚の写真(第25話『権力の墓穴』)、サンディエゴの水族館に勤める甥(第69話『殺意のナイトクラブ』)などの言及がある。

 コロンボはバセットハウンドの犬を飼っているが、これは実際に当時のフォークのペットであった。犬種はバセットハウンド。名前は、コロンボがあれこれ考えたものの良い名前が思い浮かばず「 dog」(日本語吹き替え版では「ワン公」)となり、最後まで名前が決まることはなかった。第10、16、23、30、32、36、41、43、44話に登場。
 なお、最初に出演していた犬はシリーズの途中で亡くなったため、以降は代々、初代に似た犬を起用している。

 コロンボの私有車として、くたびれたフランス製小型乗用車の1959年式プジョー403カブリオレ(オープンカータイプ)がしばしば登場し、彼のライフスタイルを物語る小道具となっている。ピーター=フォークの自伝によれば、シリーズの撮影中に自らがコロンボの自家用車のチョイスを任されたが、自宅ガレージの隅にあった色褪せているうえにパンクしていたプジョー403を直感的に選んだという。
 この車種は TVシリーズの初放映時点ですでに10年以上経過した旧式モデルであった。塗装もところどころまだらになっており、プジョーは作中でしばしば不調を起こし、あまりに散々な見てくれに周囲からはスクラップ扱いされる体たらくであったが、コロンボはさして意に介する様子もなく、自らの足として愛用し続けた。
 1989年に新シリーズが再開された時点では、旧シリーズで使用していたプジョー403はすでに売却されていたが、改めてプジョー403を3台購入して撮影に使用した。そのため旧シリーズの車体の色が灰色だったのに対し、新シリーズは白に近い薄い灰色になり、最終エピソードとなった第69話のみ水色になっている。
 シガレットライターに繋ぐ形式のパトランプを積んでいるが、シガレットライターが壊れているため作中では一度も使用されたことがない。ほとんどの場合ソフトトップをつけたまま乗車しているが、第7話『もう一つの鍵』などの数話で屋根を開けた姿を見せている。
 第43話『秒読みの殺人』の冒頭で衝突事故を起こしてしまい車両後部が大きく破損している。これは旧シリーズの最終第45話『策謀の結末』でも直っておらず、ボディ後部に歪みが残っていた。

 日本で一般に『刑事コロンボのテーマ』として知られている曲は、『刑事コロンボ』を含む4作の TVドラマシリーズをローテーション放送していた『 NBCミステリー・ムービー』のテーマ曲である(原題:Mystery Movie Theme 作曲・ヘンリー=マンシーニ)。しかし NHKでの放送時にこの曲がオープニングとエンディングで流されたため、『刑事コロンボのテーマ』として定着した。
 もうひとつの「コロンボのテーマ」と呼ばれる曲は、アメリカの古い歌『 This Old Man』で、劇中でコロンボが頻繁に口笛を吹いたり口ずさんだりしており、『死者のメッセージ』などでピアノを弾く場面もあった。

 日本語吹き替え版でのコロンボ警部の声は、旧シリーズでは小池朝雄(吹き替え当時41~47歳)が担当した。しかし小池が1985年に死去したため、新シリーズには石田太郎(吹き替え当時49~67歳)が起用された。第67話以降の最終3話は WOWOWで日本初放映されたため、地上波で石田が吹き替えたものの他に銀河万丈(吹き替え当時50~55歳)が吹き替えた WOWWOW版が存在する。例外的に最終第69話は WOWOWの銀河版しか存在しなかったが、2011年6月23日に死去したコロンボ役のピーター=フォーク追悼の意を込め、ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパンから2011年12月2日に HDリマスター版全69話を収録したBlu-ray BOX『刑事コロンボ コンプリート・ブルーレイBOX』が発売された際に、石田による吹き替え版が新録されている。

 小池朝雄は、当時舞台俳優として実力を広く認められていたものの、映画、テレビに出演した際の役柄は悪役が大部分(それも類型的な悪役よりは異常性や残虐さを強調した役)であり、かなり思い切った起用であった。しかし結果として小池の独得のセリフ回しは大きな人気を集め、一躍その名がお茶の間に知られることとなった。
 小池の没後に放送された新シリーズでは石田太郎が2代目に抜擢されたが、日本テレビが番組を買い付けてから石田に決まるまでに2年近くの時間を要し、放送決定後に10名の候補者を絞り込んだ上で石田に決まったという。当時、日本語吹き替え版の制作スタッフだった吉田啓介によると、石田の登板は早くから持ち上がっており(小池の持ち役だったジーン=ハックマンの吹き替えを石田が引き継いでいた)、結局は視聴者に馴染みのある小池のイメージに寄せる方針で石田に落ち着いた。小池に雰囲気が似ているという制作側の希望条件に沿ってコロンボ役を継いだ石田は、イメージを壊さないようにとの要請に苦労したという。
 日本語吹き替え版は、コロンボのセリフの独特なニュアンスを生かした額田やえ子の翻訳(「うちのカミさんがね……」の口癖が有名)に、コロンボのキャラクターと小池の吹き替えのハマリ具合が重り、洋画が吹き替えによって作品の魅力を高めることに成功した代表例となった。


『刑事コロンボ』シリーズ
1968年パイロット放送版(1968年2月20日放送)98分
第1話『殺人処方箋』( Prescription: Murder)
1971年パイロット放送版(1971年3月1日放送)98分
第2話『死者の身代金』( Ransom for a Dead Man)

第1シーズン(1971年9月~72年2月放送)各話73分
第3話『構想の死角』( Murder by the Book)
第4話『指輪の爪あと』( Death Lends a Hand)
第5話『ホリスター将軍のコレクション』( Dead Weight)
第6話『二枚のドガの絵』( Suitable for Framing)
第7話『もう一つの鍵』( Lady in Waiting)
第8話『死の方程式』( Short Fuse)
第9話『パイル D-3の壁』( Blueprint for Murder)

第2シーズン(1972年9月~73年3月放送)第10・13話のみ98分、それ以外は各話73分
第10話『黒のエチュード』( Etude in Black)
第11話『悪の温室』( The Greenhouse Jungle)
第12話『アリバイのダイヤル』( The Most Crucial Game)
第13話『ロンドンの傘』( Dagger of the Mind)
第14話『偶像のレクイエム』( Requiem for a Falling Star)
第15話『溶ける糸』( A Stitch in Crime)
第16話『断たれた音』( The Most Dangerous Match)
第17話『二つの顔』( Double Shock)

第3シーズン(1973年9月~74年5月放送)第19・20・24・25話は98分、それ以外は各話73分
第18話『毒のある花』( Lovely but Lethal)
第19話『別れのワイン』( Any Old Port in a Storm)
第20話『野望の果て』( Candidate for Crime)
第21話『意識の下の映像』( Double Exposure)
第22話『第三の終章』( Publish or Perish)
第23話『愛情の計算』( Mind Over Mayhem)
第24話『白鳥の歌』( Swan Song)
第25話『権力の墓穴』( A Friend in Deed)

第4シーズン(1974年9月~75年4月放送)第26~29話は98分、第30・31話は73分
第26話『自縛の紐』( An Exercise in Fatality)
第27話『逆転の構図』( Negative Reaction)
第28話『祝砲の挽歌』( By Dawn's Early Light)
第29話『歌声の消えた海』( Troubled Waters)
第30話『ビデオテープの証言』( Playback)
第31話『5時30分の目撃者』( A Deadly State of Mind)

第5シーズン(1975年9月~76年3月放送)第32・34・36・37話は98分、第33・35話は73分
第32話『忘れられたスター』( Forgotten Lady)
第33話『ハッサン・サラーの反逆』( A Case of Immunity)
第34話『仮面の男』( Identity Crisis)
第35話『闘牛士の栄光』( A Matter of Honor)
第36話『魔術師の幻想』( Now You See Him)
第37話『さらば提督』( Last Salute to the Commodore)

第6シーズン(1976年10月~77年3月放送)各話73分
第38話『ルーサン警部の犯罪』( Fade in to Murder)
第39話『黄金のバックル』( Old Fashioned Murder)
第40話『殺しの序曲』( The Bye-Bye Sky High IQ Murder Case)

第7シーズン(1977年11月~78年5月放送)第43・45話は98分、それ以外は各話73分
第41話『死者のメッセージ』( Try and Catch Me)
第42話『美食の報酬』( Murder Under Glass)
第43話『秒読みの殺人』( Make Me a Perfect Murder)
第44話『攻撃命令』( How to Dial a Murder)
第45話『策謀の結末』( The Conspirators)

『新・刑事コロンボ』シリーズ ※全話各98分
第8シーズン(1989年2~5月放送)
第46話『汚れた超能力』( Columbo Goes to the Guillotine)
第47話『狂ったシナリオ』( Murder, Smoke and Shadows)
第48話『幻の娼婦』( Sex and the Married Detective)
第49話『迷子の兵隊』( Grand Deceptions)

第9シーズン(1989年11月~90年5月放送)
第50話『殺意のキャンバス』( Murder, a Self-Portrait)
第51話『だまされたコロンボ』( Columbo Cries Wolf)
第52話『完全犯罪の誤算』( Agenda for Murder)
第53話『かみさんよ、安らかに』( Rest in Peace, Mrs. Columbo)
第54話『華麗なる罠』( Uneasy Lies the Crown)
 ※スティーヴン=ボチコが1974年5月に執筆した没シナリオを映像化したもの
第55話『マリブビーチ殺人事件』( Murder in Malibu)

第10シーズン(1990年12月~2003年1月放送)※数ヶ月~1年以上に1作放送のペースとなった
第56話『殺人講義』( Columbo Goes to College)
第57話『犯罪警報』( Caution : Murder Can Be Hazardous to Your Health)
第58話『影なき殺人者』( Columbo and the Murder of a Rock Star)
第59話『大当たりの死』( Death Hits the Jackpot)
第60話『初夜に消えた花嫁』( No Time to Die)
 ※倒叙もの形式でない特殊な回(原作はエド=マクベインの「87分署」シリーズ)
第61話『死者のギャンブル』( A Bird in the Hand...)
第62話『恋におちたコロンボ』( It's All In The Game)
第63話『4時02分の銃声』( Butterfly In Shades Of Grey)
第64話『死を呼ぶジグソー』( Undercover)
 ※倒叙もの形式でない特殊な回(原作はエド=マクベインの「87分署」シリーズ)
第65話『奇妙な助っ人』( Strange Bedfellows)
第66話『殺意の斬れ味』( A Trace of Murder)
第67話『復讐を抱いて眠れ』( Ashes to Ashes)
第68話『奪われた旋律』( Murder With Too Many Notes)
第69話『殺意のナイトクラブ』( Columbo Likes the Nightlife)


小説版『刑事コロンボ』シリーズ(1988~2003年は二見書房、2006~07年は竹書房より刊行)
 小説版については、放映された映像作品から独自に書き起こしたものや、脚本から小説化したものなど形態が多数存在する。そのため映像化された作品と比較して物語の流れやトリックなどに相違点があるものもある。著者名に記載されているレヴィンソンとリンクは原作・原案者として名を貸しているだけである。

オリジナル小説作品(ハードカバーで二見書房から出版された『殺人依頼』以外は全て二見書房文庫)
1、『人形の密室』( A Christmas Killing)アルフレッド=ローレンス 訳・小鷹信光 2001年3月25日
 ※1972年にアメリカで出版されたオリジナル小説の改題・改訳版(1975年12月に『死のクリスマス』として初訳されていた)
2、『13秒の罠』( The Dean's Death)アルフレッド=ローレンス 訳・三谷茉沙夫 1988年4月25日
 ※1975年にアメリカで出版されたオリジナル小説の翻訳。のちの映像版第56話『殺人講義』(1990年)と同様の展開がある
3、『サーカス殺人事件』( Roar of the Crowd)ハワード=バーク 訳・小鷹信光 2003年4月25日
 ※1975年12月に執筆された没シナリオの小説化作品
4、『血文字の罠』( The Helter Skelter Murders)ウイリアム=ハリントン 訳・谷崎晃一 1999年12月25日
 ※1994年にアメリカで出版されたオリジナル小説の翻訳
5、『歌う死体』( The Last of the Redcoats) 北沢遙子 1995年4月25日
 ※没シナリオ・シノプシスの小説化作品
6、『殺人依頼』( Match Play for Murder) 小鷹信光 1999年6月2日
 ※没シノプシス『 Trade for Murder』を元にした小鷹信光によるオリジナル小説
7、『硝子の塔』( The Secret Blueprint)スタンリー=アレン、訳・大妻裕一 2001年8月25日
 ※アメリカで出版されたオリジナル小説の翻訳

同人誌作品
8、『クエンティン・リーの遺言』( Shooting Script)大倉崇裕 『刑事コロンボ』の日本同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』第1~3号(2004年12月~06年12月)にて連載
 ※1973年7月にジョゼフ=P=ギリスとブライアン=デ・パルマが執筆した没シナリオの小説化作品


 いんや~、これ、ずっとやりたかった記事なのよね! やっと最近になって読書する余裕ができましたので、満を持して始めたいと思います。

 そんな感じで、幻の未映像化小説8作のを実際に読んでみての具体的な感想あれこれは、まったじっかい~。
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まじめそうな顔してそうとうなクセモノだこれ!! ~『獄門島』2003エディション~

2024年08月13日 23時38分16秒 | ミステリーまわり
 あっぢぃねぇ~……みなさま、どうにもこうにもこんばんは。そうだいでございます~。
 今年もつつがなくお盆休みに入りまして、私も、暑い暑いといいつつも幾分かはゆったりできる時間をいただいております。ほんと、この時期に平常通りに働くのはしんどいですよね……ご先祖様に感謝を~なんて言いつつも、ふつうに生きてる人が休むための連休になっちゃってますよ。いや、ちゃんとお墓参りはしなきゃいけませんけど!

 なんだかんだ言って今年も、こんな感じに後半戦に移ろうかとしておるのですが、なんだかふと気がつきますと、我が『長岡京エイリアン』的にはめちゃくちゃ楽しみな映像作品が目白押しなんですよね、8月からは!

8月23日公開 映画『箱男』(監督・石井岳龍)、30日から山形で公開 映画『カミノフデ』(監督・村瀬継蔵)
9月27日公開 映画『傲慢と善良』(監督・萩原健太郎)、29日放送 ドラマ『黒蜥蜴』( BS-TBS)
10月11日公開 映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』(監督・トッド=フィリップス)、25日公開 映画『八犬伝』(監督・曽利文彦)
12月25日アメリカ公開 映画『 Nosferatu』(監督・ロバート=エガース 日本公開日は未定)

 全部、手放しで楽しみにしているわけでもないのですが、とりあえず必ずチェックしようと思っている作品だけでも、これだけあるんですよね。見逃すまいぞ~。
 今年の前半にはゴジラもありましたから(ハリウッド製だけど)、2024年もさまざまなコンテンツで順調に新しい動きがあった豊年だとみてよろしいかと思います。仮面ライダーは……もう最近のシリーズを追う必要もないですかね。今さらながらではありますが、テレビ東京の「ガールズ×戦士シリーズ」がここにいないのは、やっぱり寂しいやねぇ。ああいった目くじら立てず、頭をからっぽにして楽しむ娯楽作もあっての文化だと思うんですけどね~。

 こういったラインナップを見ますと、あの明智さんも更新されてることですし、あとは我らが金田一耕助シリーズも、映画でもテレビでも動画配信サービス限定でもいいので最新作を出してくれるとうれしいんだけどなぁ~と思っちゃうのですが、忘れちゃなんねぇ、金田一先生にだって、今年はこういうスペシャルムーヴメントがあんのよね!

11月 映画『三本指の男』(1947年公開)うぶごえクラウドファンディングパートナー限定配信
2025年2月 映画『悪魔が来りて笛を吹く』(1954年公開)デジタル修復版 うぶごえクラウドファンディングパートナー限定配信

 これこれ! 偉大なるレジェンド・初代金田一耕助こと片岡千恵蔵版の『本陣殺人事件』と『悪魔が来りて笛を吹く』のご復活でございます!! これを観ずしてなにが『長岡京エイリアン』かと!!
 クラファン、目標金額の3倍以上集まったんですもんね。すごいやねぇ~。当然ながら、こちらも無事に配信視聴できたあかつきには、全力をあげて感想記事をつづらせていただく所存也。歴史の創生に立ち会う思いですね……これでもう、来年2月までは死ねねぇ!! 安全運転を心がけよう。

 そんでまほんでま、今回の記事はと言いますと、千恵蔵金田一の復活までにまだちょっと時間はありますが、なんと本日ついさっきの夕方に「夏恒例!」とばかりに BSテレ東で再放送されていた、金田一ものドラマについて。
 これ、ずっと観たかったんですよね~。


ドラマ『金田一耕助ファイル 獄門島』(2003年10月26日初放送 テレビ東京『水曜女と愛とミステリー』)
 27代目・金田一耕助   …… 上川 隆也(38歳)
 18代目・等々力大志警部 …… 二世 中村 梅雀(47歳)
 ※金田一耕助もの長編『獄門島』の6度目の映像化
 ※本作が放送された2003年は、金田一耕助が登場する映像作品としては TBSでの古谷一行金田一による『金田一耕助の傑作推理』が年1本のペースで制作されていた時期で、フジテレビでの片岡鶴太郎金田一による『横溝正史シリーズ』(1990~98年)と稲垣吾郎金田一による『金田一耕助シリーズ』(2004~09年)とのちょうど間隙期にあたる。
 ※『獄門島』の映像化としては、古谷一行が金田一耕助を演じたドラマ『名探偵金田一耕助の傑作推理 獄門島』(1997年5月放送 TBS)以来約6年ぶりとなる。
 ※原作小説の設定によれば、本作の事件発生時点での金田一耕助の年齢は「33歳」と推定される。鬼頭早苗の年齢は「22~23歳」と語られている。

主なキャスティング
鬼頭 早苗    …… 高島 礼子(39歳)
鬼頭 月代    …… 三倉 佳奈(17歳)
鬼頭 雪枝・花子 …… 三倉 茉奈(17歳 二役)
分鬼頭 儀兵衛  …… 石山 輝夫(61歳)
分鬼頭 お志保  …… 原田 喜和子(38歳)
鵜飼 章三    …… 川村 陽介(20歳)
了然和尚     …… 神山 繫(74歳)
了沢       …… 出光 秀一郎(34歳)
荒木 真喜平   …… 鶴田 忍(57歳)
村瀬 幸庵    …… 寺田 農(60歳)
清水巡査     …… 金田 明夫(49歳)
漁師の竹蔵    …… 井上 康(36歳)
復員服の男    …… 東田 達夫(47歳)
お小夜      …… 田村 友里(32歳)
鬼頭 千万太   …… 伊藤 竜也(27歳 当時、上川隆也の付き人だった)
鬼頭 一     …… 並木 大輔(24歳)
鬼頭 嘉右衛門  …… 二世 笑福亭 松之助(78歳)

主なスタッフ
演出 …… 吉田 啓一郎(56歳)
脚本 …… 西岡 琢也(47歳)
音楽 …… 川崎 真弘(54歳)
エンディングテーマ『 Days』(歌・中森明菜)


 出ました、金田一耕助シリーズでもド定番の鉄板名作『獄門島』! しかも、非常にレアな上川隆也版でございます!!

 上の情報にもありますように、本作はあの TBSの古谷一行版がまだまだ現役だった時期、フジテレビの鶴太郎版シリーズと稲垣吾郎版シリーズとの間という、金田一映像史上においても非常に繊細なタイミングで放送されていた、テレビ東京の上川隆也版シリーズの第2作となります。第2作なのですが、と同時に、2024年時点ではシリーズ最終作となっております……2作で終わっちゃったんか~い!!

 作品の内容に関する感想は後でまた触れますが、本作、改めて観てみても、特に決定的に悪いような要素もありませんし、金田一を演じる上川さんも気力体力共にノリノリな時期ということで( NHK大河ドラマ『功名が辻』の主演はこの約3年後)、このシリーズが打ち切りになるような気配はまるでありません。当時、この作品が放送されたテレ東の『水曜女と愛とミステリー』枠も、テレ朝の『土ワイ』や日テレの『火サス』に負けない有力コンテンツをということで、この上川版をこれ以降も推していく算段だったのではないでしょうか。

 それじゃ、一体全体どうして上川版シリーズがこの『獄門島』でおしまいになっちゃったのかと言いますと、これはどうやら、本シリーズ2作の演出を担当した吉田啓一郎監督に関して、奇しくもこの『獄門島』放送の2ヶ月前にあたる8月12日に新作ドラマ『西部警察2003』の撮影中、出演俳優の乗車した車両が見物人を負傷させてしまう事故を起こしてしまったため、業務上過失致傷罪で起訴猶予になったことが大いに影響していたような気がします。この後、吉田監督は約3年間の活動自粛を経たのちに復帰されているらしいのですが、上川さんのスケジュール的にも、このシリーズが復活するタイミングは完全に逃してしまったようです。別に、令和の今、ひょっこり復活してもいいと思うんですけどね! 上川さんもまだまだ還暦手前で若いし。
 なんてったって、今現在、地上波テレビ局で2時間サスペンスドラマの新作を制作放送してるのは、テレ東の『月曜プレミア8』の枠だけなんだもんな(ただし月1ペース以下の不定期放送)! 時代も変わりましたね~。

 さてさて、そんなこんなで不運にも新進気鋭の上川シリーズの最終作ともなってしまったこの2003年版『獄門島』ですが、放送局が違うとはいえ、古谷一行版と共に、次代の稲垣吾郎版シリーズの誕生までの重要なつなぎ役となった作品でもあります。その吾郎シリーズでもこの『獄門島』は映像化されておらず、次に映像化されたのはあの PTSD長谷川博己金田一による2016年版になってしまうのですから、「2000年代唯一の『獄門島』」として、この作品をとくと味わってみたいと思います。
 思い起こすと私、この2003年バージョンって、初放送時は終盤の謎解きシーンだけをなんとなく見たかな~、くらいの記憶しかなかったんですよね。今回、およそ20年ぶりにちゃんと観れたぜい!

 そいでもって、実際にこの『獄門島』2003エディションを視聴してみての私個人の感想なのですが、

まじめな映像化のようで、実はムチャクチャやっとるぞこれ!!

 というものでした。
 う~ん、8割がた、原作に忠実な内容のような顔をしてる2003年版なのですが、最後の土壇場になって驚愕のアレンジが発覚するんですよね。
 この変更はね……結局、結末は原作とそうそう変わらないので、意外と印象に残らず流してしまう人もいるかも知れない(セリフ処理が主なので映像的にちとわかりにくい)のですが、私としましては、原作小説において連続殺人が決行されてしまった成立状況の「真の恐ろしさ」に気づかせてくれる、非常に重要な示唆だと受けとめました。
 ぶっちゃけ、2003年版の状況だと、連続殺人は発生しなかったんじゃなかろうかと思っちゃうのよね……いろいろと発生条件が変わっちゃうような気がするんだよなぁ。

 まぁ、そういった最重要問題は置いておきまして、まずはさらっとしたアレンジポイントから。

 非常にありがたいことに、いつもお世話になっております Wikipediaの『獄門島』記事では、映像化された各バージョンにおける原作小説との相違点が列記されております。もちろん、それを鵜呑みにするわけにもいかないのですが、参考としてそこでの言及を元に、本作と原作小説との違いを振り返ってみましょう。

原作小説と2003年ドラマ版との相違点
1、昭和二十一(1946)年の春に発生した事件になっている(原作小説では同年10月5日に第1の殺人が発生)。
2、金田一は釣鐘を輸送する船で獄門島に上陸し、ほぼ同時に鬼頭千万太の戦死公報も到着する(原作小説では金田一の獄門島来訪は9月下旬で釣鐘の帰還と千万太の戦死公報の到着は10月3日)。
3、島の寺の名は医王山千光寺ではなく「仙光寺」で、屏風には俳画ではなく句の短冊が貼られている。
4、劇中で医者の幸庵が、鬼頭与三松は労咳のため屋敷の座敷牢に隔離されていると語っている。
5、月代、雪枝、花子は年子ではなく三つ子で、鬼頭一は早苗の兄でなく弟となっている。
6、原作の勝野と床屋の清公、磯川警部が登場しない。
7、鵜飼章三と鬼頭三姉妹との恋文の交換には山中の「愛染かつら」ではなく「恋ヶ浜の地蔵」が利用されている。
8、鬼頭花子の殺害時に、了然和尚が寺へ続く石段を登っていた時の提灯が見えるくだりがカットされている。
9、原作小説で非常に重要なキーワードとなる了然和尚の「ある発言」がまるごとカットされている。
10、島に逃げ込んできたのは、東京から逃げてきて瀬戸内海の海賊に加わっていた殺人犯であり、それを追いかけて東京警視庁の等々力警部が島にやって来る。
11、鬼頭早苗がラジオの『復員だより』を聞かなくなった描写、医者の幸庵が骨折した描写、山狩りの際に早苗が与三松を解放する描写が無い。
12、了然和尚が了沢へ伝法するくだりがない。
13、事件解決後の犯人たちの末路が原作小説と違う。
14、鬼頭嘉右衛門と与三松父子の扱いが原作小説から大幅に変更されている。
15、原作小説とは逆に早苗の方から金田一に一緒に島外へ出ようと懇願するが、結局実現しなかった。

 こんな感じで、目立ったものでも10個以上の変更点があることがわかります。いや~超デカいのあんねぇ!

 でも、これは文庫本にして300ページ以上ある長編小説(それでも横溝ワールドの中で『獄門島』は軽量級の方ですが)を正味90~100分(本作は95分)のドラマサイズに収めるためには必要な変更もあるわけですし、無理もない数と言えるでしょう。尺たりんけん、しょうがない!

 具体的に上のポイントを整理してみますと、2、6、8、11、12の変更点が、おそらくは本編時間の都合でカットされたものかと思われます。いろいろ優先順位を考えればやむをえないリストラかなとも思えるのですが、一つ一つがけっこうミステリー作品としての面白さを支えている味わいポイントなので、これらのカットで犯人当ての楽しみが減じてしまっていることは否定できませんやね。大勢に差はないのでしょうが、ミステリー作品はこういった細部にこそ、原作者の遊び心がこもってるような気がしますよね。

 続いては、2003年版の制作スタッフの「撮影上の都合」で生まれた変更点です。上の一覧を見てみれば、1、3、5、7、9、10がそれにあたるでしょう。
 いや~、この中ではなんてったって9、が一番でかいやね! いや、そこカットする!? でも、まぁカットするかぁ! 地上波テレビ放送だし。

「きちがいじゃが仕方がない。」

 ね~……もうこれ、原作小説『獄門島』を代表する謎と言っても間違いはないし、ほんとに原作を読めば読むほど、いろんな解釈の可能性が何重にも重なっているスルメワードなんですよね。ここをカットしちゃう……かぁ。
 まぁ、無くしたものを未練たらしく語ってもしょうがないのでこれ以上は申しませんが、この発言を無くしたせいで本作は、おそらく撮影時期(2003年の春先?)に即して春の事件になりましたし、鬼頭与三松や三姉妹の精神状態が普通じゃないという、放送倫理的に危うい設定からも解放されました。
 でも、これが「解放」と言えるのかどうか……どっちかと言うと緊張感が無くなったというか、「タガが外れちゃった」みたいな感じで、作品全体の統一感が無くなってフワフワしちゃったような気が強くするんですよね。これは、後で言う「最大の問題点」に関しても、そうです。
 例えば、「春の事件」になったことで、本作は「分厚そうなマントをまとった金田一が瀬戸内海の孤島にいる」という、原作小説のどこにもなかった激レアな状況を生んでいるのですが、春なのになんで第3の殺人で「萩の花」が殺人現場に置かれていたんだ?という問題を発生させてしまっています。いやいや、萩は字の中に「秋」があるでしょ!? こっちのほうが……モゴモゴ。
 なんだ? 犯人は去年の秋に採った萩の花を、ドライフラワーにして半年も大切に保管していたのか? それとも、昭和二十一年の瀬戸内地方に萩の造花を売ってるダイソーかセリアかキャンドゥでもあったのか!?

 「仙光寺」の変更も、なんでそうなったのか全然わかんないし……単なる読み間違いとしか思えませんよね。
 ただ、三姉妹がマナカナ150% 増量キャンペーンで三つ子になった点と、磯川警部じゃなくてはるばる東京からやってきたプリティ梅雀等々力警部になっていたのは、面白いお遊びだと感じました。作品自体に何の影響もありませんしね。
 それにしても、マナカナさんの演技はぎこちなかったな……やっぱ、ふつうの現代劇とは演技の勝手がまるで違うんでしょうね。死に顔はなかなか素晴らしかったですけど!

 そいでいよいよ、2003年版でも特に、原作小説から大きく変わることを承知の上で変えたと思われる、3つのポイントに関して考えていきましょう。
 あの、いちおう、我が『長岡京エイリアン』では小説、映像作品を問わず、ミステリー作品の話をする時は「犯人は××ですが」みたいなネタバレは極力避けるように努めております。これはマナーだからということはもとより、そう書いた方が楽しいからそうしているのですが、ここ以降の文章はどう頭をこねくり回しても犯人が誰かが類推できるような話ばっかりになりますので、原作小説や2003年版ドラマをこれから楽しむつもりだよという方は、お読みにならないことをお勧めいたします。
 まぁ、そのどっちも知らないで、こんな太平洋戦争末期の南方戦線みたいなガジュマル密林文章地帯に迷いこむ人はいないでしょうけどね……生きて戻ってこいよー!!


○ポイント13、事件解決後の犯人たちの末路が原作小説と違う。

 最初に言っておきますが、この2003年版『獄門島』における「実行犯の設定」は、原作小説から変わっておりません。
 ですので、2003年版はクライマックスでの上川金田一の、いかにも名探偵らしい事件解明パートが終わるまではとことん、「了然和尚のあの発言がない」という一点以外は、おおむね原作小説に忠実な映像化という印象が強いです。
 だいたいにおいて、本作はサスペンスドラマらしく実直で手堅いキャスティングで、金田一を演じる上川さんも原作通りに若々しい青年として、結果としては千万太が守ってくれと言い遺した三姉妹をみすみす死なせてしまう痛恨の苦杯は舐めるものの、悪戦苦闘の末に事件の真実にたどり着く名探偵を好演しています。パートナーの梅雀等々力警部との相性も抜群でしたね!

 ところが、金田一の推理の説明も終盤にさしかかり、犯人も観念して自白に近い述懐をつぶやいたかなという土壇場になって、突如として血相を変えた早苗が犯人に駆け寄り、なにやら意味深な発言をしたあたりから俄然雲行きが怪しくなり、その後は原作小説に無かったもう一つの「驚愕の真相」が明らかとなるのでした。これについては、また後で。

 まず私が言いたいのは、この2003年版オリジナルのエピローグによってすり替えられた、原作小説の「驚愕のラスト」についてです。具体的に言いますとそのラストとは、「鬼頭一が復員するという情報が嘘で、一は戦死していた」という真実が金田一の事件解明と前後して獄門島にもたらされ、その結果として犯人のうちの一人が発狂し、もう一人が憤死してしまうという展開なのです。
 念のためですが、鬼頭一の名前は「ひとし」と読みます。間違っても「はじめ」とか「きとういち」と読んではいかんぞ! どういうこと、はじめちゃん!?

 この、鬼頭一の戦死公報自体は2003年版でもラストに持ってこられるのですが、公報が獄門島に届くタイミングが微妙に遅れており、金田一の説明が終わって犯人のうちの2名が無事に逮捕された(もう1名はすでに自殺)後に漁師の竹蔵さんが知らせに来るので、原作ではかなりドラマティックに、かつ悲惨に描かれていた犯人たちの末路がかなりソフトなものになっているのです。
 ここがソフトになった理由はいろいろ考えられるのですが、おそらくはドラマとしての展開の最高潮を、次のポイントである「金田一と早苗のロマンス」に持っていき、サスペンスドラマとしてすっきりした後味のラストにしたかったという脚本としてのねらいがあったのではないでしょうか。

 うん……気持ちは、よくわかる! でも、この改変によって「鬼頭一さえ帰ってくれば……」という連続殺人断行にいたった最大のキモがだいぶ小さく見えてしまったのではないでしょうか。だって、殺人すらいとわなかった大のおとな2人が狂ったり死んだりするほど重大な問題だったのに、そこらへんが曖昧になっちゃうんだよなぁ、原作小説の因果応報な犯人たちの末路が無くなっちゃうと。

 あと、おそらくなのですが、脚本家の人と言うか、2000年代当時の価値観を持った人が1940年代の『獄門島』という小説作品を読んだ時に、「いやいや、そんなに簡単に人が憤死なんてするわけないじゃん。ホラー映画の失神じゃないんだからさぁ。」という思いがあったのかも知れません。

 つまりこの「犯人の憤死」という原作小説での展開をみて「そうはならんやろ……」と修正を加えたのが2003年版であり、「ンなっとるやろがい!!」と強引に押し通したのが2016年版だった、と言えるのではないでしょうか。どっちかっつったら、私は2016年版の方がパワフルで好き♡

 2003年版って、実直ではあるのですが、なんか「常識的にそれは、ないよね。」という醒めた判断で原作小説の世界を矮小化しているようなタッチも感じられる気がします。まぁ、そこは2時間サスペンス枠での映像化なんですからね、しょうがねっか。


○ポイント15、早苗の方から金田一に一緒に島外へ出ようと懇願するが、結局実現しなかった。

 ここはもう、本作での早苗が、原作小説と違って金田一とほぼ同年代の「立派なおとな」であるということと、本作を放送した枠が『女と愛とミステリー』であるという厳然たる事実から生まれた「お約束」のような改変であるような気がします。もう、いいとか悪いとかじゃなくて、高島礼子さんなんだからそうしなきゃいけなかったの!!

 原作小説における早苗の年齢は22、3歳ということで、ちゃんと大人ではあるのですが獄門島の社会に今一つ馴染めていない部分もありますし、何と言ってもただ一人の頼みの綱である兄の一がいないという窮状から、作中でもかなり金田一を翻弄させてしまうトラブルメイカーというか、ブービートラップ要員になってしまっております。この立ち位置、『獄門島』と同じかそれ以上に有名な金田一シリーズの長編小説に出てくるヒロインとほとんど一緒なんですよね……似てんだよなぁ、『獄門島』と、その超有名長編って。
 それに対して2003年版の早苗はといいますと、一の「姉」という変更もあってか、もはや母性に近い鉄の意志で「一が帰って来るまで鬼頭の家を守ってみせる……!」と生き抜く芯の強さのあるキャラクターになっているのです。原作小説のか弱さやはかなさは、皆無ですよね。
 ただ、そんな彼女が「一の戦死」という残酷きわまりない事実を突きつけられてついに折れてしまい、一に代わる存在として金田一に救いを見いだして「私、こんな島嫌いです!!」と本音を叫ぶ流れは、非常にドラマティックで良かったのではないでしょうか。

 でもそれ、ミステリーとしての『獄門島』の物語とはちょっと乖離しちゃってるし、金田一に抱く「本土の理想」も、一時的な感情からきた現実逃避っていう意味合いが強いですよね。だからこそ、20歳そこそこの小娘ではない2003年版の早苗は自分で冷静になり、金田一の出航には姿を見せなかったのでしょう。

 「一の戦死」という最後の一手を犯人たちの破滅に持ってこずに、早苗の女性としての解放に使ったという2003年版の判断は、それはそれでドラマとして良いかとは思うのですが、結局、島の有力者一族の跡継ぎという拘束からは逃れられないという原作小説の呪縛は依然としてガッチリ残っているのでした。高島礼子さんの早苗もまた、無惨やな。


○ポイント4と14、鬼頭嘉右衛門と与三松父子の扱いが原作小説から大幅に変更されている。

 それでいよいよ、本作最大の問題的アレンジとなるわけなのですが、要するにこれ、犯人たちを連続殺人事件の凶行に走らせた「黒幕」の影響力を、原作小説以上に強めようとして加えられた改変なんですよね。たぶん、そういう意図があったんじゃないでしょうか。

 でも、これ……影響力、強くなってんのかな。

 ここで私が強く思うのは、「生きてる人と死んだ人、どっちのほうが影響力があるのかな?」っていう疑問なのです。

 おそらく、この2003年版の脚本は、「黒幕が生きてて犯人たちを監視してる方が強いでしょ!」という確信を持ってこのアレンジを加えたのだろうと思います。実際にこの采配は、全く同じではないのですが、すでに過去の『獄門島』映像作品にて使われた手でもあります。前例あんのかよ!
 でも、2003年版における「生きている黒幕」は、演技でなくかなり重い病状で寝たきりの状態だったらしいのです。これは……犯人たち、うまくごまかして連続殺人計画なんかうやむやにして、黒幕がおっ死ぬのを待ってればよかったのでは? ボケてたんでしょ?

 ここで私が言いたいのは、そういう重箱の隅を突っつくようなツッコミじゃなくて、「連続殺人計画の決行を監視していたのは誰なのか」という問題なのです。そして、ことこの「黒幕の生死」設定をいじくってしまったがために、2003年版の「監視者」は、原作小説のそれとは全く別のものに変わってしまっています。

 すなはち、2003年版の監視者は「生身の黒幕人物」で、原作小説の監視者は「犯人たちの相互監視」です。相互監視の根本原理になっているのは言うまでもなく「死亡した黒幕の遺言」なわけなのですが、原作小説で犯人たちを犯行にけしかけたのは黒幕の幽霊などでは決してなく、あの人の遺言なんだから計画を実行するのがこの島のため最善の道だと決めつける責任転嫁の論理と、そうは言っても互いに誰がいつ極秘の犯行計画から離脱、離反するかわからんと言う疑心暗鬼の関係から「早くやっちゃって楽になろうや」という思考停止の状況なのです。
 これはねぇ、恐ろしい状況です。計画した黒幕が死んで不在だからこそ、形を持たない「疑いの力」が、生前の黒幕以上の強さを持って犯人たちをがんじがらめにしていると見てもよいのではないでしょうか。これ、この小説に限った話でなく、けっこう現実の組織でも生じることの多い、怖すぎる状況じゃないですか? 秘密を共有しているメンバーが互いを疑う力自体が、計画を無理やり動かす原動力になってしまう。そこにはもう、ショッカーの大首領みたいな具体的なカリスマ黒幕なぞ必要なくなってしまうのです。頭の無い集団の暴走。これは怖いぞ~。
 繰り返しますが、原作で犯人がつぶやいていた「修羅の妄執」というのは、死んだ黒幕の怨念などではなく、生きている犯人たちにとり憑いて生き延び続けている「殺さなければならない」という強迫観念のこと、つまり行きつくところは犯人たちの心の問題なのです。黒幕が生前どんなに強い権力を持った人物だったかとか、そんなことは死んだら全然関係なくなるというのに、それを捨てられないでいる人間の心の弱さ……なので、この『獄門島』の犯人たちって、そうとうに情けなくてみじめな人達なんですよね。でも、それが人間なのだという。

 結局、横溝先生が原作小説で犯人たちの愚行を通して訴えたかったのは「猜疑のみで心の無い集団」の生み出す悲劇のむなしさ、だったのではないでしょうか。先生はおそらく、太平洋戦争の惨禍の原因に、軍部独裁の暴走がどうとか帝国主義への追従がどうとかじゃない、こういった集団心理の恐ろしさを見たからこそ、この『獄門島』を世に問うたと思うのです。
 そして、反戦からはやや離れるのですが、こういった集団心理の醜さ、恐ろしさをさらに突き詰めた発展形が、まさに「黒幕が完全に死んだ状態」からでないと物語が始まらない、あの超有名長編小説に結実していくわけなんですよね~。「お父様、ご遺言を。」からの、ノトーリアス・B・I・G 発動ォオオ!!

 だからこの『獄門島』は、ディティールとして復員詐欺だの戦死公報だのといったキーワードを使っているだけにとどまらず、物語の頭からしっぽの先まで完全無欠の反戦小説だと思うのです。こんな重いテーマを扱いながら、同時に驚くべき完成度のミステリー小説に組み上げてしまう横溝先生……その才は五大陸に鳴り響くでぇ!!

 なので、そこらへんをやや安易に解釈して「黒幕がちゃんといた方がいいでしょ。」としてしまった2003年版は、原作小説のものすごさを逆に証明してしまう失敗例になっちゃったような気がするのです。
 だいたい生きてるったって、犯人たちをちゃんと監視できる状態じゃないもんねぇ。犯人たちもバカじゃないんだから、失敗する可能性の方が高いこんな計画、絶対にやらないと思うんだよなぁ。へいへいって適当に返事をして死ぬのを待つのが一番でしょ。
 黒幕の命令がどうとかじゃなくて、「犯人たちにとってもお小夜の血を引く三姉妹が邪魔だった」という動機も2003年版は匂わせていたのですが、こちらもこちらで、その動機で果たして犯人たちが結託できんのかなっていう疑問はあります。だって下世話な話、互いにどう低く見積もっても「三姉妹の実父じゃない確率80%」なんでしょ(お小夜と肉体関係にあった人物が5人だとして)? そんな、自分が8割がた関係の無い犯罪計画にあーた、参加しますぅ?


 とまぁ、いろいろくっちゃべってるうちに字数も1万字を超えましたのでいいかげんにいたしますが、やはりこの2003年版もまた、原作小説の偉大さを再確認させてくれる有意義なバージョンでありました。やっぱ、そうそう安直に手を加えていい完成度の作品じゃないのよね~、という教訓が、ここにも。
 いや~、2016年版までに7バージョンの映像化作品のある『獄門島』なのですが、やっぱり、私個人としてのベスト『獄門島』は、鶴太郎&フランキー堺の鎌倉滅亡コンビによる1990年版かなぁ。でも、これは多分に思い出加点要素が大きいので、いつか BSかどこかで再放送してほしいですね~。

 最後にもう一つだけ、ある意味でこの2003年版最大のミステリーかも知れない、この意味深発言を。

 物語の中盤にて、等々力警部がはるばる東京から瀬戸内の獄門島までやって来た経緯を金田一に説明するくだりがあり、その中でこういうセリフのやり取りがあったのですが……


等々力 「三月前に起こった巣鴨の女給殺しです。ホシの復員兵が、岡山の戦友に誘われて海賊の一味に加わったとの情報を得ましてね。」

金田一 「おとといの海の大捕り物は、それですかぁ。」

等々力 「ええ。しかし見事に逃げられました……で、清水巡査から島で連続殺人が起きたと聞き、もしや私が追ってる殺人犯が島に潜入したかも知れんと思いましてね。」


 え……「連続殺人」? 「連続」!? 等々力警部が島に来た時点では、殺されていたと判明しているのは花子ちゃん一人だけでは……
 ここにきてまさかの「清水巡査も共犯説」!? あんなコメディリリーフ然としたオコゼみたいな顔しといて、その真の姿は……ギャ~!!

 いや~、『獄門島』って、ホンッッッットに! いいもんですねェ~。それじゃまた、ご一緒に楽しみましょ~。
コメント
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