長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第37回 「尾張国 勝幡城」資料編

2020年01月15日 23時40分44秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 勝幡城 とは

 勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)にまたがる勝幡地区にあった平城。
 稲沢市の指定史跡で「勝幡城址」と「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の石碑と、「文化財史跡勝幡城址」の木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。

 永正年間(1504~21年)頃、尾張国清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定が、尾張国の海西郡を手中に治めた際に、平安時代後期の尾張国権守・大中臣安長の邸宅跡に勝幡城を築城した。
 この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定または息子の織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。
 天文元(1532)年、信定の跡を継いだ信秀は今川家の武将・今川氏豊から尾張国那古野城を攻め取ると那古野城に移り、勝幡城には家臣の武藤掃部雄政を城代として置いた。
 翌天文二(1533)年、公卿・山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記『言継卿記』に記している。このことから、商業地の津島を支配下に置いた織田弾正忠家の経済力が窺える。

 宝永五(1708)年に著された『尾州古城志』によると、信秀の嫡男・信長は天文三(1534)年にこの勝幡城で産まれたとされている。
 弘治元(1555)年、信長は主家の織田大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、勝幡城代の武藤雄政を尾張国野府城へと移した。それにより勝幡城は廃城となった。

構造
 勝幡城は二重の堀で囲まれていた平城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定される。慶安三(1650)年頃に尾張藩が作成した『勝幡村古城絵図』によると、本丸は東西29間(約52m )、南北43間(約77m )の方形で、幅3間(約5m )の土塁に囲まれていたと記されている。三宅川と日光川が合流する三角州となっているが、現在の日光川は江戸期に萩原川が大規模に掘削され流れを変えられたものであり、また、城郭の多くの部分が現在の日光川の流域に位置するため、当時の縄張りは窺い辛い。
 1979年に、櫓台とされる位置の地下3m から基石が発見され、愛西市佐織支所に保管されている。

交通
 名鉄津島線・勝幡駅(愛知県愛西市勝幡町五俵入)で下車し、徒歩で約10分。
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全国城めぐり宣言 第36回 「尾張国 那古野城」資料編

2020年01月14日 20時12分51秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 那古野城 とは

 那古野城(なごやじょう)は、戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現・愛知県名古屋市中区二の丸)にあった平城。東海地方の大名・今川氏親(今川義元の父)が築城した。16世紀前半に30年間ほど存続して廃城となるが、城跡は廃城から半世紀ほど後に再び城地に取り立てられ、名古屋城になった。

 那古野は、もともと今川氏親が尾張国東部まで支配領域を拡大していた大永年間(1521~28年)に、氏親が尾張国進出の拠点として、現在の名古屋市中心部が広がる熱田台地(名古屋台地)の西北端に築城した「柳ノ丸」を起源とする。柳ノ丸の城主は、氏親の一族の今川氏豊という武将であったと伝えられている。
 天文元(1532)年、尾張国勝幡城(現・稲沢市)の織田信秀が計略により今川氏豊を追放して柳ノ丸を奪い、拠点をここに移したとされる。那古野城という城名は、この時に信秀がつけたという説がある。
 信秀は那古野城を幼い嫡男・信長に譲り、自身は同じ熱田台地の東南方を固めるために、現在の真宗大谷派名古屋別院(名古屋市中区)のある地に古渡城を築いてそこに移った。
 天文二十四(1555)年頃、信秀の後を継いでいた織田信長は、一族の織田信友を滅ぼして尾張国清州城(現・清須市)に移った。信長が離れた後の那古野城には信長の叔父・信光や重臣・林秀貞らが一時入ったが、やがて廃城となった。

 それから50年後の1609年に徳川家康がこの城跡に目をつけるが、名古屋城の築城に着手する直前には、鷹狩に使われるような荒れ野になっていたと伝えられている。

遺構
 中世城郭の那古野城は、近世城郭の名古屋城内に完全に取り込まれたため、中世の那古野城を直接に偲ばせる遺構はほとんど現存しない。ただし、名古屋城二之丸が那古野城跡にあたるとされており、現在、二之丸内に那古野城址の石碑が建っている。
 また、「那古野」の地名は名古屋城の西南に残っているが、現在は「なごの」と読む。
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全国城めぐり宣言 第35回「尾張国 名古屋城」資料編

2020年01月13日 15時45分38秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 名古屋城 とは

 名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区本丸・北区名城)にある平城。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の別名を持つ。日本100名城に選定、国の特別史跡に指定されている。

歴史
 16世紀の前半に東海地方の大名・今川氏親が、尾張国進出のために築いた「柳ノ丸」が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。
 天文七(1538)年、尾張国大名・織田信秀が今川氏豊から奪取し柳ノ丸を那古野城と改名した。信秀は一時期この城に居住し、天文十一(1542)年頃に信秀は古渡城に移り、那古野城は信秀の嫡男・信長の居城となった。弘治元(1555)年に信長が清洲城に本拠を移し、その後叔父の信光に与えられるが、信光が家臣に暗殺されたため、織田家重臣の林秀貞が守ることになるも、やがて廃城となった。

 清州城は長らく尾張国の中心であったが、関ヶ原合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清州の地形問題などから、徳川家康は慶長十四(1609)年に、九男・義直の治める尾張藩の本拠として、名古屋に城を築くことを定めた。慶長十五(1610)年閏二月、いまだ摂津国大坂城には豊臣秀頼がいる中、西国諸大名による天下普請で築城が開始された。
 造成・整地に当たる普請奉行に滝川忠征、佐久間政実、牧長勝ら5名が任ぜられた。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築いた。名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し、同年八月末には天守台が完成し、九月頃には石垣を大方積み終え、遅い所も同年暮れまでには完成している。
 普請後、建築に当たる作事奉行に大久保長安、小堀政一ら9名が当たり、大工頭は中井正清が担当したが、当時の正清は内裏や方広寺大仏殿の建築も担当したため、正清の手代衆が現場の監督をした。作事は普請と並行して材木の調達が行われ、慶長十七(1612)年六月から本格的な建築工事が始まる。しかし、家康から御殿より先の完成を命じられた天守閣の建築は、用材調達が遅れたため壁塗りに支障が生じる冬までの完成が危ぶまれた。このため、正清は内裏や大仏殿の大工を一時的に呼び寄せた上、自身も名古屋に出向き突貫工事を行った。結果として八月下旬に天守用の金物入札が行われた後、十一月上旬に懸案の壁塗り工事が完了し、同二十一日には上棟式を実施し、年内に天守閣は完成した。金物入札時期から組立工事は三ヶ月弱しか掛かっておらず、短期に完成した。本丸御殿の建築は同年正月から始まり、完成したのは元和元年(1615)年二月だった。
 そして大阪冬の陣後の同年四月、徳川義直と浅野幸長の娘・春姫の婚儀が行われ家康も駿河国から出席したが、その最中に豊臣方挙兵の報が入り、そのまま大阪へ出陣し豊臣家を滅ぼしている。

 清州からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した慶長十七(1612)年頃から徳川義直が名古屋城に移った元和二(1616)年にかけて行われたと思われる。この移住は「清州越し」と称され、5万人を越える住民はもとより、社寺3社110ヶ寺も移る徹底的なものだった。こうして名古屋城の城下町は出来上がっていった。
 また、元和元(1615)年に完成した本丸御殿だが、二の丸御殿が元和三(1617)年に完成すると元和六(1620)年に義直はそちらへ移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿とされた。そして寛永三(1626)年に大御所・徳川秀忠が、寛永十一(1634)年に第3代将軍・徳川家光が上洛の途中で立ち寄る。特に家光の御成の際は本丸御殿が大々的に増改築された。その後長い間、将軍の御成は無かったが、幕末の慶応(1865)年に、第14代将軍・徳川家茂が上洛の途中で本丸御殿に1泊している。

 明治維新後の明治三(1870)年、尾張徳川家第14代当主・徳川慶勝は明治新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出たが、明治十二(1879)年十二月、初代陸海軍参謀本部長・山縣有朋が名古屋城と姫路城の保存を決定。これにより、天守閣は本丸御殿とともに保存された。
 明治五(1872)年に東京鎮台第三分営が城内に置かれた。名古屋城は明治六(1873)年に名古屋鎮台となり、明治二十一(1888)年に第三師団に改組され、終戦まで続いた。
 明治二十四(1891)年に、濃尾大地震により本丸の多聞櫓の一部が倒壊したが、天守閣と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。

1893年 本丸が陸軍省から宮内省に移管され「名古屋離宮」となる。
1923年 宮内省が西南隅櫓を修復する。
1930年 名古屋離宮が廃止され、宮内省から名古屋市に下賜された。建造物24棟が当時の国宝保存法に基づき国宝(旧・国宝)に指定された。城郭としては国宝第一号。本丸御殿障壁画も1942年に国宝(旧・国宝)に指定。
1931年 名古屋市は名古屋城を市民に一般公開し、「恩賜元離宮 名古屋城」と呼ばれた。

 太平洋戦争時は空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年5月14日の名古屋大空襲で、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。

 太平洋戦争後、名古屋市の都市計画によって三之丸を除く城跡は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内は戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存され、一部の堀は埋め立てられるなど改変されたが、土塁・堀・門の桝形などは三之丸を含めて比較的よく残されている。天守閣は地元商店街の尽力や全国から寄付をうけて1959年に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。天守閣に続いて本丸御殿の復元も計画されたが、資金難で中止となった。

2006年4月6日 財団法人日本城郭協会によって日本100名城の第44番に選定された。
2009年1月19日 本丸御殿の復元工事に着手。
2011年    西南隅櫓と旧二之丸東二之門が修理された。
2013年1月4日 名古屋市は、2013年度から名古屋城の天守閣を現在の鉄筋コンクリート製から、本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。復元費用の試算は300億円で、寄付金を含め調達方法を検討する。
2016年6月27日 市長と市議会が、天守閣再建の完成予定を2027年とすることで合意し、竣工予定は2022年とされた。工費は試算で約500億円だが圧縮を検討する。
2018年6月8日 復元された本丸御殿の一般公開を開始。
2019年8月29日 河村たかし市長は、予定していた2022年末の復元天守閣完成を断念すると発表した。

構造
 名古屋城の城地は、濃尾平野に注ぐ庄内川が形作った名古屋台地の西北端に位置する。台地は濃尾平野に向かって突き出しており、平野を一望に監視できる軍事的な要地にあたる。
 築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地と防御に適した地勢であった。伊勢湾に面した港の南に位置する熱田神宮門前町から、台地の西端に沿って堀川が掘削されて、築城物資の輸送とともに名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。

 名古屋城の縄張は、それぞれの曲輪が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純な構造である。
 構造の分類は、一見三の丸の付き方から梯郭式とされるが、本丸の周囲の6つの曲輪を一体と見なせば輪郭式と見なすこともできる、三分類のどれにも分類されない独特な縄張りである。また名古屋城は南方や東方から見れば高低差がほとんどなく平城であるが、北方や西方から見れば大地の上にある平山城である。
 曲輪の配置はほぼ正方形の本丸を中心として南東を二之丸、南面東寄りに大手馬出、南西を西之丸、北西を御深井丸(おふけまる)、北面東寄りに塩蔵構、東面北寄りに搦手馬出が本丸の四周取り囲む。さらに南から東にかけて三之丸が囲む。
 西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御され、高低差のほとんど無い南と東は広大な三之丸が二之丸と西之丸を取り巻き、外側の幅広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。
 外側に、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる、城と城下町を囲い込む曲輪も計画されていた。西は枇杷島橋、南は旧・古渡城下、東は矢田川橋に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。また、西の防備に尾張国境の木曾川に堤防「御囲堤」を築造した。

 本丸は北西隅に天守閣、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。
 南御門・東御門は堀の内側に高麗門と櫓門の2重の城門で構成される枡形門があり、堀の外側は、大手馬出と搦手馬出の大きな馬出しを構え、入口を2重3重に固めていた。
 大手馬出は三方を多聞櫓で構成している一方、搦手馬出は初期の計画では南と西を多門櫓が巡る予定で、北東には隅櫓台が建設されていたが、結局は塀すら無い未完の状態に終わった。現在、大手馬出しの西面は埋められて平地になっており、搦手馬出では石垣の修復工事が行われている。
 現状、城門は表二之門(南二之門)のみが現存する。不明御門は埋門(うずみもん)形式であったが、戦災で焼失した。
 隅櫓は総2層3階建てで、他城の天守閣に匹敵する規模である。外観は、それぞれで意匠を相違させた見栄えを重視した設計である。南東の辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)、南西の未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)が現存し、北東の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は戦災で失われて櫓台のみ残る。多聞櫓は、1891年の濃尾大地震で破損して取り壊され現存しないが、室内奥行は5メートル強で、内部に武具類や非常食を収納するなど十分な防御能力があった。
 現在、空堀となっている本丸をめぐる内堀には、鹿が放牧されている。

天守閣
 天守は本丸の北西隅に位置し、形式は大天守と小天守を橋台によって連結した連結式層塔型である。橋台には多門櫓は無く塀を巡らせ、軒先は槍の穂先を並べた剣壁となっていた。
 天守閣は政治権力の象徴とされ、特に名古屋城大天守の屋根にある金鯱はその究極にあるものといわれている。本丸には多門櫓が巡っていたが、大天守には小天守との渡り廊下を含めて全て土塀が接している。これは、火災が発生した際に多門櫓からの類焼を防ぐためだったと見られる。

 大天守は層塔型で5層5階地下1階、天守台19.5メートル、建屋36.1メートル、合計55.6メートルだった。この高さは江戸城や徳川家大坂城の天守閣に及ばないが、江戸城、大阪城天守は江戸時代前期にいずれも焼失しており、江戸時代通期で現存した天守閣では名古屋城大天守が最も高かった。延べ床面積は4424.5m2で、史上最大の規模である。体積は姫路城天守閣の約2.5倍で、柱数・窓数・破風数・最上階規模・総高・防弾壁・防火区画など、14項目で日本一である。内部は長辺が7尺の大京間畳が1759畳敷き詰められていたといわれる。
 最上層の5階と4階以下の下層階とは構造が異なり、下層階は防御のため壁面を多くし、最上層の5階は窓が四面に可能な限り広く取られ砲弾戦に備えられていた。

 大天守内部に使われる柱は、主に2階まで通る長い柱の「通し柱」と、階ごとの柱の「管柱」の2種類の柱を使い分けて組み立てており、宝暦五(1755)年に地震があった際に名古屋城大天守の修理工事が行われた際の『名古屋城御天守各階間取之図』と言う修理図面によると、1階と2階は「通し柱」が多く、3階から5階の柱は階ごとの「管柱」がほとんどだった。このことから、耐震性を考えて柱と梁をどのように組み合わせ、「通し柱」をどこに配置するかなど、精密に計算されて大天守が造られていたことがわかる。
 大天守の屋根は、2層目以上のすべてが軽量で耐久性のある銅瓦で葺かれている。慶長年間に建てられた大天守の屋根は最上層にのみ銅瓦が葺かれていたが、宝暦五(1755)年の大天守修復工事で、現在の再建天守にも見られる銅瓦葺となった。同時に雨水による屋根の負担を軽減する銅製の縦樋、破風を保護する銅板張、地階に採光する明かり取り窓を石垣の上に設けるなどの補修が行われた。
 壁面は、大砲による攻撃を考慮して樫の厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。外面は土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が張ってあった。土壁に塗り込められているが射撃用の隠し狭間があり、戦闘時は土壁を抜いて使用できた。

 小天守は2層2階地下1階で、大天守の関門の役割を担った。平面は長方形で外見は千鳥破風一つと簡素な意匠だが、規模は他城の三重級の天守閣を上回る。
 大工頭を担当した中井家に小天守の描かれた指図が残され、大天守台西面に開口部を塞いだ跡が見られることなどから、大天守の西にもう一つの小天守があったか、もしくは計画されていたとする説がある。また入口も大天守に面した小天守北側でなく、指図には小天守西側に多門櫓による枡形門を介して入る形となっている。

 天守閣は慶長十七(1612)年に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城も免れた。1891年に発災した推定マグニチュード8.0の濃尾大地震にも耐えたが、1945年の空襲の焼夷弾攻撃で焼失した。

 1954年に、名古屋市民らにより名古屋城再建基金が始まる。
 1957年に、名古屋市制70周年記念事業として天守閣の再建が開始された。請負者の間組は、再建天守閣は木造か否かで議論したが、当時の消防法に従うと木造の再建は不可能であった。焼失で傷んだ石垣への建物重量の負荷を軽減するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、鉄骨鉄筋コンクリート構造の再建天守閣を載せる外観復元とした。起工式は1958年6月13日、竣工式は1959年10月1日であった。再建天守閣の総工費は6億4千万円で、うち2億円は市民からの寄付である。再建大天守は5層7階、城内と石垣の外側にエレベータがそれぞれ設置されており、車椅子で5階へ昇ることができるバリアフリー構造である。5階から最上階展望室までは階段のみ。再建天守閣は観光センターとして位置づけられ、1962年3月に博物館相当施設に指定されて以後、展示や催事に活用されて市民生活に寄与した。

 戦後の再建は当時の消防法の規定で木造復元できなかったが、炎検知器など火災をごく初期の段階で検知・通報できる防火設備を備えることや、木材を難燃加工する技術の開発などで木造復元が可能となり、1994年、戦後初めて掛川城(現・静岡県掛川市)の天守閣が木造復元され、名古屋城でも本丸御殿が木造復元された。
 2010年代に、鉄筋コンクリート製天守閣の耐震性が現行の建築基準法で不適合な他に老朽化も問題となり、再建の検討が開始された。2013年に木造再建の方針が示され、2016年に2027年の完成をめどに再建を実施する方針が名古屋市から示された。
 2017年12月27日に、名古屋市は現天守閣への入場を2018年5月7日から復元完成まで禁止すると正式発表した。天守閣以外の城内はこれまで通り見学できる。鉄筋コンクリート製復元天守公開終了間際の2018年のゴールデンウィークには、過去10年間で最多となる17万人の来場者があった。

本丸御殿
 城主(藩主)が居住する御殿だったが、元和六(1620)年、将軍上洛時の御成用に改修された。以後、藩主は二之丸御殿に居住した。本丸御殿を使った将軍は秀忠、家光、家茂の3名で、上洛の途中に宿泊している。御成御殿となった本丸御殿は、尾張藩による警備と手入れが行われるのみで、本来の名古屋城主である尾張藩主ですら本丸に立ち入るのは巡覧の時のみであった。
 将軍御成用だけあって、格式の高さは当時の京・二条城本丸御殿に匹敵した。南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関があった。他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下御膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていた。車寄の屋根は将軍家や身分の高い一部の大名家の御殿に使用されることが多い唐破風様式で、黒漆塗りに金の金具の屋根は室町時代の足利将軍邸の形式であり、天下人の象徴とされた。
 戦災焼失前の本丸御殿は、桟瓦葺(一部銅瓦葺)だったが、創建当初は柿葺(台所など火を使う場所は瓦葺)で、2018年に復元された本丸御殿は創建当初の柿葺を再現している。
 中玄関(中之口部屋)、大勝手、下台所などの一部の建物は、明治時代初期に陸軍用地となった際に取り壊されている。
 これら殿舎等はすべて第二次世界大戦の空襲で失われたが、内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されている。

 21世紀になって本丸御殿の復元が計画され、市民運動の高まりにより、2005年には松原武久市長が本丸御殿の復元を決定し、2006年の発掘調査と2007年には実施設計が行われた。そして2009年1月19日に復元費150億円を民間、国、市が三等分する形で着工。2013年5月29日より、玄関と表書院(謁見の場所)が一般公開された。2016年6月1日からの対面所と下御膳所の公開を経て2017年度に工事が完了。2018年6月8日より一般公開された。ただし障壁画の一部は未成で、逐次復元が行われている。
 復元範囲は戦災焼失前の構成に、中玄関(観覧者用玄関)を加えている。濃尾大地震後の改修でそれ以前の内装が不明となった大台所はミュージアムショップになっている。
 なお、本丸御殿の建築材として中部地方の木曽山のヒノキが使われている。木曽の山林地帯はかつて尾張藩の領地で、尾張藩は将来のために森林保護や伐採抑制政策を進めていた。

二之丸御殿
 築城当初、藩主が本丸御殿に居住していた頃は、この二之丸に将軍の御座所を設けていた。家康や秀忠は上洛や大坂の陣の折にはこちらに滞在していたが、本丸御殿を将軍御成用にするため、二之丸にあった平岩親吉の屋敷を改修して、元和四(1618)年に二之丸御殿とした。それ以後、二之丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩庁の機能を有することとなった。
 本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。その面積は、本丸・西之丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当した。北東、南西、南東にLの字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは、二之丸庭園からの景観との関係があったと思われる。西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三之丸と連絡していた。この鉄御門も桝形・2重城門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二之丸の外周は、基本的に土塀で囲まれていた。二之丸御殿は二之丸の北側に位置し、南側に弓道場や馬場があった。
 二之丸御殿の表門として南に黒御門があり、近くに不明門、西に孔雀御門、東鉄御門近くには女中門や召合門、内証門、不浄門、本丸東御門馬出し付近には埋門を設けていた。御殿の南面から東鉄御門にかけては長屋がたち、西面と東面は土塀をまわしていた。
 黒御門から入ると正面から西にかけて表御殿、その奥に西から中奥御殿と奥御殿、黒御門東側が御内証(大奥)御殿、その奥に広大な二之丸庭園があった。この二之丸庭園は藩主専用の庭で、城郭内部にある庭園の規模としては前代未聞の大きさであった。初期は中国風庭園だったが、後に純和風回遊式庭園となった。
 二之丸御殿や4棟の櫓は、城が名古屋鎮台となった明治四(1871)年頃に取り壊され、現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二之丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。馬場跡には一時期、名古屋大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。なお現在、二之丸の整備計画があり、中長期的な目標として将来的に愛知県体育館を移転してかつての二之丸御殿・向屋敷、弓道場や馬場やそれを見物するための建物と大手門・東門と二之丸の櫓などを復元および整備について関係各機関と協議が行われている。

西之丸
 西之丸は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三之丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、その一部には物見窓が設けられていた。さらに南西隅部に未申櫓、御勘定多聞櫓、南蛮鉄多聞櫓、古木多聞櫓、榎多御門枡形に麻木多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。曲輪内には6棟の米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。また、六番御蔵は今川氏豊時代の建築であるという説や、福島正則時代の清洲城の蔵を移築したという説もある。
 西之丸の建築物はすべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは1911年に旧・江戸城蓮池門を移築して正門と改称したが、1945年の空襲で焼失し、戦後再建されて現在にいたる。なお、現在の西之丸には名古屋城総合事務所と、国の天然記念物に指定されている名古屋城のカヤがある。文化財の保存と公開ができる場として、現在の天守閣にある展示品と収蔵品の数々は天守閣の木造復元化によりここに移転され、かつて6棟あった米蔵のうち3番と4番の位置を米蔵の外観意匠に準拠した鉄筋コンクリート平屋造りの展示収蔵施設を建設し、残りの1番、2番、5番、6番の米蔵は地下遺構の平面表示を行う整備計画が進められている。明治期に撮影された米蔵が写っている西之丸の古写真や昔の西之丸の平面図などの米蔵の資料を参考に2018年1月から建設工事を開始し、約1年の工事で展示収蔵施設を完成させた。その後、2021年11月1日にグランドオープンを迎えた。

御深井丸(おふけまる)
 御深井丸は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西之丸とも通路でつながっていた。
 櫓は北西隅に3層3階の戌亥隅櫓(西北隅櫓)と北東西寄に2層2階の弓矢櫓の2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓(西北隅櫓)が現存している。西北隅櫓は3層3階の三重櫓で、平面規模は桁行8間、梁間7間、高さは約16.3メートルある。その規模は宇和島城天守閣(愛媛県宇和島市)の高さ約15.7メートルを上回り、3重5階の高知城天守閣(高知県高知市)を平面規模で凌駕している。御深井丸は、慶長十六(1611)年に清州城天守閣またはその小天守を移築したものと伝えられているため「清洲櫓」とも呼ばれており、解体修理の際には、移築や転用の痕跡も見つかっている。戌亥隅櫓(西北隅櫓)は近年、市内の堀川を中心とするカワウの大量発生による屋根への糞害が著しくなっている。
 御深井丸は本丸の後衛を担う曲輪であり、当初は4棟の隅櫓と全周に多聞櫓を建造する計画であったが、元和偃武により工事が中断した結果、2棟の櫓と多門櫓の一部以外は土塀が巡らされた状態のまま江戸時代を過ごした(櫓台のみは築かれている)。内部には大砲や弓等の飛び道具に関連する蔵が置かれており、かつては火薬庫もあったが、大坂城のように落雷による火薬庫爆発で大きな被害を受けた例があり、城外に移転した。火薬庫は、強度を高めるために周りを盛土で補強していた。
 また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧・日本陸軍の弾薬庫が現在でも残っている。名古屋市内に現存する最古の煉瓦造といわれる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。乃木希典が名古屋鎮台に在任していた時期に建てられたので、いつしかこの名が付いたといわれる。1997年に国の登録有形文化財に登録された。
 その他に御深井丸の東には、天守閣再建工事の際に取り除かれた礎石が置かれている。空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。また現在、御深井丸の北西隅の修復整備計画がある。

三之丸
 三之丸は、現在の名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあり、重臣の屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下御門(はばしたごもん 埋門)、南面西側に御園御門(みそのごもん)、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二之丸横に清水御門であり、それぞれに桝形を持っていた。三之丸の土塁北側を御土居下と呼び、万一落城の事態へ陥った際には城主が脱出する経路とされ、専門の役人(御土居下御側組同心)も配置されていた。
 現在、三之丸内の建造物はすべて取り壊されているが、春日井市上条町の泰岳寺と一宮市の妙興寺に清水御門を移築したものが残っている。明治八(1875)年、名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に三之丸東照宮、三之丸天王社は三之丸の南側(現・名古屋市中区丸の内)に移され、東照宮は名古屋東照宮となり(1945年の空襲で国宝の社殿などは焼失)、天王社は那古野神社となっている。
 明治以降、三之丸地区は官庁街として発展した。現在も愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎などが建てられ、愛知県行政の中枢的な地域になっている。三之丸外の名古屋城外堀は、明治後期から昭和後期にかけて、一部が名鉄瀬戸線の線路敷として利用された。

 慶長十七(1612)年に名古屋城天守閣が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。
 しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、享保十五(1730)年・文政十(1827)年・弘化三(1846)年の3度にわたって金板の改鋳を行い、金純度を下げ続けた。そのため最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張りカモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。
 徳川家の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年に名古屋大空襲で焼失した。現在の金鯱は復元されたもので、再建天守建造の時、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師であった大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88キログラムである。現在の鯱の大きさは、雄2.62m、雌2.57m。

 第二次世界大戦前は、旧・国宝24棟をはじめ多数の建造物が城内に現存していたが、太平洋戦争中の1945年5月14日8時20分頃、アメリカ陸軍の B-29が投下した焼夷弾により大小天守閣を含むほとんどを焼失した。
 現在残る尾張藩時代の建物は、本丸辰巳隅櫓、本丸未申隅櫓、本丸南二之門、旧・二之丸東鉄門二之門(現在は本丸東二之門跡に移築)、二之丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓の6棟のみ。すべて重要文化財である。現存する門3か所はもとは櫓門(一之門、内門)と高麗門(二之門、外門)の二重構えであったが、いずれも高麗門のみが現存する。
 1952年3月29日に城域内が国の特別史跡に指定され、1953年に二之丸庭園が名勝に指定された。このほか、二之丸北側の石垣上に、「南蛮たたき」の工法で固められた土塀の遺構が現存している。

特別史跡
 名古屋城跡は1932年12月12日に国の史跡に指定された。指定範囲は本丸、西之丸、御深井丸の区域、西之丸西側と御深井丸・二之丸の北側の水掘、二之丸東側から西之丸南側までの空掘、並びに三之丸周囲の空堀および土塁である。1935年5月15日に御園橋西側の土塁が追加指定された。追加指定部分を含む指定範囲の面積は390,217.48平方メートル。1952年3月29日に同区域が特別史跡に指定された。近世築城技術の最盛期に造営された城郭であること、天下普請で徳川家康の意向が強く反映された城であること、史料や遺構が豊富に遺存し、築城以降の変遷がたどれることなどが特別史跡指定にふさわしいと判断された理由である。
 特別史跡指定範囲には、堀や土塁を除く二之丸の内側の区域、ならびに三之丸の内側の区域は含まれていない。これらの区域は明治時代初期以来、陸軍省所轄の軍用地であったため、1932年の史跡指定時に指定対象から除外されたと推定されている。

石垣石材産地
 石垣石材として、トーナル岩(神原トーナル岩、幡豆石)、砂岩(河戸石)、黒雲母花崗岩(岩崎石、山陽帯)、花崗斑岩(熊野石)、斑レイ岩などが使用されている。判明している産地は、三河湾周辺、岐阜県養老山地東麓、小牧市岩崎山、三重県熊野市周辺、瀬戸、本巣市船来山周辺とされている。ほかに佐賀県唐津市、香川県小豆島産が使用されているとも伝わっている。

交通
 名古屋市営地下鉄名城線・市役所駅の7番出口より徒歩5分。
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全国城めぐり宣言 第34回 「大和国 多聞山城」資料編

2019年01月24日 08時32分56秒 | 全国城めぐり宣言
大和国 多聞山城 とは

 多聞山城の主要部は若草中学校にあり、西部は仁正皇后陵、聖武天皇陵、南部には佐保川が流れ、東は空堀を隔てて善勝寺山(現・若草中学校グラウンド)、その東は奈良への入り口である奈良坂と京街道になり交通の要衝を占めている。奈良の町の北方に位置する標高115メートル、比高30メートルのこの山は、元来「眉間寺山」と称されていたが、奈良の統治者を自認する松永久秀が、仏教で北方の守護神とされ、自身も信貴山城入城以来信仰している多聞天(信貴山には多聞天を本尊としている朝護孫子寺がある)にあやかって「多聞山」と改称し、眉間寺を仁聖武天皇陵裾に移して、近辺の西方寺も移転させ築城。多聞山城もしくは多聞城と称し、南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、久秀の大和国支配の拠点となり、奈良の町を威圧、統治した。
 その周辺には、現在も多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。

 松永久秀は当初、畿内大名・三好長慶の執事として仕えていた。三好長慶は最盛期には8カ国を領有し、信長の上洛以前には最大の勢力であった。そのような中、大和国も支配に治めるべく、久秀に命じ、永禄二(1559)年八月、当時の大和国の支配者であった筒井順慶を圧倒して対峙するとともに国人衆を支配した。信貴山城を改修し、以後久秀は大和国の実力者として台頭する。興福寺を抑え、大和国支配と南都への強権性を伴った領地支配の拠点として多聞山城は築城された。

 築城前は、発掘調査によって中世の墓地があったことが明確になっている。瓦、骨壺、石塔、墓石等が出土しており、特に現在の若草中学校の体育館前辺りから多数出土した。築城前には眉間寺があり、その関係も指摘されている。 多聞山城の築城時期は、同じく久秀の大和国信貴山城の改修時期と同時期で、側近と重臣の屋敷から建設が始まったようである。多聞山城は築城途中であったが、永禄四(1561)年から重臣たちの屋敷はすでに使用されていた。永禄五(1562)年八月十二日午前八時頃から多聞山城の棟上げ式があり、久秀は奈良の住民を招待していた。

 永禄七(1564)年七月、河内国飯盛山城で主君・三好長慶が病死すると、三好政権は三好三人衆と松永久秀の連立政権という形で運営されるようになる。しかし永禄八(1565)年五月の永禄の変以降、三人衆と久秀との関係は次第に悪化していく。同年十一月には三好政権は分裂し、三人衆は筒井順慶と連合軍を組み、永禄九(1566)年六月には筒井城を奪還し(筒井城合戦)、ついで永禄十(1567)年四月には東大寺に布陣し大仏殿を要塞化して多聞城に対峙し、南都(奈良)を制圧しようとした。だが、久秀も多聞山城から東大寺周辺の屋敷地を破却しつつ進撃し、同年十月十日、東大寺を襲撃し東大寺大仏殿合戦となる。これに勝利した久秀ではあるが、その後も争いは続き、永禄十一(1568)年六月の信貴山城合戦ではついに信貴山城を失った。

 そんな中、同年九月に織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府将軍位に就けた。窮地に陥っていた久秀は義昭に降り、摂津国芥川山城で信長と手を結ぶ。織田軍2万の援軍を引き連れて久秀は信貴山城を逆に攻城して、落城から4ヵ月に筒井順慶と三好三人衆の連合軍から城の再奪取に成功する。だが戦闘は継続し、元亀二(1571)年八月の辰市城合戦では筒井軍が大勝するが、筒井順慶は明智光秀の仲介により織田軍に降伏した。すると将軍・義昭も順慶の参入を認めたために久秀と順慶は同格となり、両者の対立はさらに深刻化する。このため久秀は、武田信玄の西上作戦に伴い、将軍・義昭が画策した信長包囲網に加わり三好義継と共に信長に謀反を起こし信貴山城に籠城するが、天正元(1573)年四月に武田信玄が病死、七月に義昭が信長に追放され、十一月に三好義継も若江城合戦で討たれると、織田家重臣・佐久間信盛の軍に多聞山城を囲まれ、十二月に降伏した。多聞山城を明け渡す条件で久秀は許されたが、信長はすでに初戦の十一月二十九日の段階で佐久間に多聞山城を没収して赦免するよう指示しており、信長が久秀の影響力とともに同城の様々の宝物や御殿など建物を惜しんだためと言われる。十二月二十六日、多聞山城が開城すると信長は家臣・山岡景佐を城番に置き、以後は信長家の武将が留守番役として順に入り、天正二(1574)年一月十一日、明智光秀が二十四日と二十六日に城内で連歌会を開催し二月五日に美濃国へ出陣。その後は細川藤孝、三月九日に柴田勝家が入り、翌日に興福寺と春日大社への保護と、神鹿と猿沢池魚殺しの密告に百両報償を与える触れを出した。
 同年三月二十七日、信長が多聞山城に入城し検分してから、翌日には東大寺正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を長持ごと多聞山城に運ばせ、同城の舞台で蘭奢待を一尺八寸切り取り配下に観賞させた。天正三(1575)年三月二十三日、織田家重臣・塙直政が南山城国に続き大和国の守護に任じられ多聞山城の城主となったが、天正四(1576)年五月三日、石山本願寺との天王寺城合戦で織田軍司令官として指揮をとっていた直政は討死した。その後、大和国守護には筒井順慶が任命された。織田信長は郡山城以外の、多聞山城を含めた大和国内の他城の破却を命じ、順慶は同年七月から京都所司代の村井貞勝の監督のもと破城を始め、天正五(1577)年六月には多聞山城も破壊され、城があった期間はわずか16年間だった。建材は、村井貞勝が差配して京に運ばれ信長の二条御所に活用された。久秀は同年八月に再び信長に対して謀反をおこし、信貴山城合戦で自害した。なお二条御所もまた、本能寺の変で信長の嫡男・織田信忠とともに焼失した。

 久秀が信貴山城で自害した八月頃、多聞山城の破壊はほぼ完了していたが、城内には諸石類が残っており、これらは郡山城に転用された。豊臣秀吉の時代に、郡山城に代わる大和国の拠点として整備する計画があり普請担当大名たちの配置も決定したが中止となった。江戸時代に入ると、城跡には南麓には南都奉行所の与力や同心の屋敷が立ち並び、幕末には丘上が練兵場となり、廃城後も跡地は活用されていたが、昭和中期まで地形は築城当時のまま残されていた。しかし1948年に若草中学校が建設され、1978年には校舎新築のため、北側にわずかに残っていた土塁跡も破壊された。

 中世の仮城形式から大きく進歩し、曲輪全体にそれまで寺院建築や公家などの屋敷にしかなかった礎石と石垣を使用して、壁には分厚い土壁、瓦葺の屋根の恒久的な建物を築いて奈良の街の支配と大和国全体を睨んだ拠点となる、先進的な平山城だった。城内には本丸(詰ノ丸)に主殿、会所、庫裏の座敷など豪華な建築が建ち並び、庭園、金工の太阿弥の引手などの内装や狩野派絵師の絵画、座敷の違い棚や茶室の落天井(客座に対して亭主の座る点前座の天井を一段低くして客に対する謙譲を示した作り)等の造作があり、本丸は、室町時代に守護邸などで全国各地に造られた、伝統的な室町将軍邸「花の御所」の模倣を志向したものだったと思われる。庫裏は久秀の常御殿で、天正三(1575)年に訪問した島津家久の日記によると、御殿は2階建てで「楊貴妃の間」があったとしている。西日本随一の豪華な城郭であり、有数の至宝である絵や茶道具も集められていた。連結した西ノ丸は通路沿いに重臣の屋敷や、家臣の家が建てられていた。城郭考古学者の千田嘉博によれば、本丸でも同様に久秀の屋敷と重臣の屋敷が並列していたが、西ノ丸は一段低い西隣の小丘(聖武天皇陵)に築かれたとしている。
 また、天正五(1577)年の解体時には「高矢倉」と呼ばれた四階櫓があり、これが四重の天守ならば、安土城をはじめとする近世城郭における天守閣の先駆けと言えることになる。しかし、当時すでに存在した近江国坂本城も山城国勝龍寺城も御殿機能を備えた重層建築を「天守」と呼んでいたが、それと相違する4階の高層建築を「櫓」と呼んでいる以上、千田は多聞山城に存在した高矢倉は天守閣ではないと推測している。城郭用語の「天主」や「天守」はすでに元亀三(1572)年十二月二十二日に明智光秀の坂本城に対して『兼見卿記』で使用され、翌天正元(1573)年に坂本城小天守の下に立つ小座敷で連歌会を開く、同十(1582)年に小天守で光秀と面会したと記述している。天正元年の連歌会は、参加者への普請中の坂本城の竣工部分の披露も兼ねていた。それに対し多聞山城に関して「天守」という言及はない。だが、塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりとなったとされている。このように多聞山城は先駆的な要素を持った城で、中世の城郭様式から脱するものだったが、本丸と家臣居住区が一括化しているという以後の近世にはない形式で、その後の近世城郭に移行する過程として重要な城であったと位置づけられている。

 多聞山城は、永禄三(1560)年に築城が開始され、翌永禄四(1561)年に松永久秀が入城し、続いて永禄七(1564)年に完成するが、天正元(1573)年末に織田信長に引き渡され、その後天正三年三月に織田家家臣・塙直政が大和国守護として入ったが、天正四年五月の直政の討死後、天正五(1577)年六月に多聞山城は破却され、城が存在した期間はわずか16年間だった。城の建物や内装は京の二条御所(将軍・足利義昭の居城)に移築され、石材の多くは大和国筒井城に用いられ、更に大和国郡山城にも移された。天正五(1577)年、松永久秀もまた最終的には大和国信貴山城で自害した。

 ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス=デ=アルメイダの永禄八(1565)年十月二十五日付の書簡が、ルイス=フロイスの『日本史』に部分的に引用されているが、この書簡はアルメイダが松永久秀の家臣の招待を受けて多聞山城を見学した報告である。この書簡でアルメイダは、壁は白く光沢ある漆喰の壁で瓦葺の建物が建てられていて、どれも高い水準だと分析している。また、「都で美しいものを多く見たが、これとは比べ物にならない」、「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と絶賛し、本丸御殿については「壁は歴史物語を題材にした障壁画」、「柱は彫刻と金を塗り大きな薔薇」で飾られており、「庭園と宮庭の樹木は本当に美麗だ」と高く評価している。
 また、当時の公卿・吉田兼右の『兼右卿記』にも「華麗さに目を奪われた」と記されており、薩摩国の戦国武将・島津家久の日記『家久君上京日記』には「多聞城内から大和が一望できた」と見聞、評価している。アルメイダの書簡の末尾には「日本全国よりこれを見るために来る」とあり、久秀は多聞山城への見学者の来訪を排除してはいなかったようである。なお、後の坂本城や安土城も識者や住民に城内を公開しており、戦国末には城主が城の公開を通して周辺の賛同を求める考えが広まっていた様子がある。

 松永久秀は築城の名手との実績を残しているが、このような壮麗な城の築城が可能にするために、南都(奈良)の大寺院建築ノウハウが大きな要素になったとの説がある。瓦については西ノ京・斑鳩の橘氏などの世襲的瓦職人集団に、興福寺・東大寺の瓦工房の一部を取り込み再編成して、城郭専用の簡略化した瓦を焼成した初例となった。松永久秀は戦国時代末に現れた専制的な戦国領主の一人だが、城自体の構造は、重臣との一体性が強い状態を残している。
 また、松永久秀は茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多聞山城で3回の茶会が行われたことが『松屋茶会記』に記載されている。この茶会記によると、多聞山城は6畳と4畳半の少なくとも2つの茶室もしくは茶亭があったと思われ、後に織田信長へ献上することになる茶入れ「九十九髪茄子」、また、信貴山城が落城する時に行方不明になった(伝説では久秀が爆死する時に粉々になった)茶釜「古天明平蜘蛛」の名も見受けられる。

 多聞山城は、北と東西は横掘だが南は一部のみにとどまり佐保川を総堀にした小規模な城下町があり、一部は佐保川を越えて南側に城下町の建設を図り、現在は宅地化され定かではないが、『日本城郭大系』は一条通から南下する法連通にその面影が残っているとしている。多聞山城は、元の市街地から離れた小規模な総構えの平山城となっていたとみられる。
 現在の多聞山城跡には、当時を思い起こさせるものはほとんど残っていない。本丸部分は現在は若草中学校が建っており、本丸の長さは140メートル、最大幅110メートルあり、発掘調査から元々この多聞山は平坦で、大規模な削平工事はなかったとみられている。また城跡の諸所で石材の抜き取り跡がみられ、これらを集積して積み上げた遺構もあり(五輪塔の一部の他に台座や箱地蔵、凝灰岩の自然石が乱雑に積み上げられていた)、天正七年に多聞山城の石材は大和国筒井城に移築されたが、これらの集石材から持ち去ったのか、または本丸の石垣を崩して持ち去ったのかは定かではない。土塁から外は今も土のままの急斜面で、石垣があったとしても撤去により土台が崩落するほどの大規模な高石垣は築かれなかったと見られる。また校舎と若草中学校グラウンドの間には大堀切(空堀)があり、多聞山と善勝寺山を分断する構造になっている。
 若草中学校の西側には曲輪跡が比較的良好に残っている。この北西から西にかけて高さ1.5メートルの土塁があり、角の高さは3メートル、幅2メートルの壇状になっており、ここに櫓の一つが建っていたと思われる。
 仁正皇太后陵は多聞山の南に突き出しており、現在も聖武天皇陵ともに立ち入りは禁止されている。そのような状況であるが、『日本城郭大系』は奈良文化財研究所作成の調整地形図から、仁正皇太后陵の西南隅に土塁と櫓台があったと想定している。また、この西側を切り落とし聖武天皇陵との間に堀切を作って本丸と分断してあり、この堀切からの道と虎口を見張っていたとしている。聖武天皇陵には、ここにも段状の帯曲輪のような部分が観察でき、出曲輪の役割を果たしていたのではないかと想定する。そのため両陵墓ともに多聞山城の城郭の一部であったと思われる。

発掘調査
 多聞山城は2回にわたり、若草中学校の建設工事および改修工事に伴って発掘調査を実施している。
第一次発掘調査 …… 1947年11月~1950年10月
第二次発掘調査 …… 1978年7~8月

第一次発掘調査
 1947年にはまだ文化財保護法が制定されておらず、若草中学校の建設工事に学術調査は行われなかった。しかし、若草中学校の職員が独自に地下遺構の調査を行った。この時珍しかったブルドーザーが使用され、工事の合間を見計らいながらという悪条件の中、実施された。
 この発掘調査で、築城前は墓地であったこと、沢山の墓石が出土した中で一番多かったのは五輪塔であったことが明確になった。これらの石は、角石に石垣が使われ、石垣が築きにくい場所には、土塁、溝を造るのに利用されたと思われている。また、その土塁は小さいもので高さ0.8メートル、幅1.5メートル、大きいものでは3メートル、幅12.5メートルであることが確認されている。

第二次発掘調査
 第二次発掘調査は若草中学校の木造校舎の改築工事に伴い奈良県教育委員会が実施し、校舎解体作業から立ち会い、どのような遺構が残っているのか期待されていたが、結局旧校舎建設時の基礎工事で地下遺構が全て失われていたことが確認できた。したがって発掘調査は、旧校舎の北側にあった土塁跡に限定された。

土塁
 城の北側にあった土塁の構造は、石造遺物(墓石など)を平面的に並べ基底部の地固めをし、その上部に瓦を重ねて並べられていた。また、北方に低くなるように傾斜を加えられていた。これは水抜きと、客土、雨水の城内への流入を防ぐ目的で設けたと考えられている。
石組排水溝
 東西22メートルにわたる排水機構が確認された。これが東南に延びていたと推察されている。
円形素掘り井戸
 この井戸跡は『大和国多聞城諸国古城之図』にも記載されている井戸跡と思われており発掘調査で明確になった。東西4.96メートル、南北5.16メートル、深さはおおよそ4.5メートルのすり鉢状井戸で、当時としては珍しく、極めてまれな大きさの井戸であると見られている。また4.5メートルの深さでは地下水脈に届かないため雨水井戸ではないかと推察されている。
出土瓦
 第一次発掘調査と第二次発掘調査から出土した瓦から、寺院との関係の深さが伺えるとしている。特に第一次発掘調査では「東大寺」と記載のある瓦が出土したり、第二次発掘調査でも数こそ多くなかったが、寺院から流用された瓦があると見られている。しかし大半の瓦は同一規格が認められ、城のために新規に用意されたものと考えてもよい。これらのことから、南都の諸寺が支配していた生産組織、瓦工集団に大きく依存していた可能性も考えられる。

最寄り駅 …… 近鉄奈良線奈良駅(奈良市東向中町)
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全国城めぐり宣言 第33回 「山城国 槇島城」資料編

2019年01月18日 22時33分51秒 | 全国城めぐり宣言
山城国 槇島城 とは

 槇島城(まきしまじょう)は、現在の京都府宇治市槇島町大幡に存在した城。
 かつて山城国南部の宇治地域には巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地には真木島(槇島)家という豪族が根を張り、槇島城を築いていた。
 元亀四(1573)年七月三日、当時の室町幕府第15代将軍・足利義昭は織田信長に対して挙兵し、幕府奉公衆であった真木島昭光を頼り、昭光の居城・槇島城へ籠城した。信長は即座に入洛、槇島城を包囲して義昭を降伏させた(槇島城合戦)。
 その後、義昭は河内国若江城へ退去させられ、室町幕府は滅んだ。義昭の退去後、織田家家臣の細川昭元、塙直政、井戸良弘らが城将となったが、文禄二(1593)年八月に、太閤・豊臣秀吉が同じ巨椋池畔の指月に築城した伏見城に入城した後はその戦略的価値を低下させ、廃城となった。

 現在、遺構は完全に失われており、石碑を残すのみである。

最寄り駅 …… JR宇治駅
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