羽前国 城輪柵とは
城輪柵(きのわのさく)は、山形県沿海部の庄内地方北部、赤川河口と羽黒山の中間地域である荒瀬川扇状地(現・山形県酒田市城輪)に存在した古代城柵。国史跡に指定されている。指定名称は「城輪柵跡」。
奈良時代末期に大和朝廷によって造営された出羽国国府所在地「出羽柵」の有力候補となっている。現在は保存整備事業により、政庁南門、東門、築地塀の一部が復元されている。
一辺約720メートルの築地塀で区切られた正方形の外郭と、その中央に一辺約115メートルの築地等で囲まれた政庁(内郭)部分によって構成される、総面積52万平方メートルの遺跡である。外郭の各辺中央にある門からは、政庁中心に向かって幅9メートルの大路が伸び、政庁の配置もこれにあわせた律令制官衙様式(正殿・後殿東西脇殿や後殿に付属する東西脇殿)となっている。内郭の東西南北各築地の中央には八御門が開いていた。
政庁遺構は、その建築様式において大きく4期に分けられ、前半2期においては掘立柱建物、後半2期では礎石建物へと変わる。また、第4期では板塀から築地塀への変化が見られる。
歴史上における文献上の初見は、勅撰史書『続日本紀』(797年成立)の和銅二(709)年七月一日の記事に見られる、「蝦夷征討のため諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬した」という内容の記事である。これにより、築城年は不明であるが709年にはすでに出羽柵が存在していたことが判る。
当時の大和朝廷は、東北地方の蝦夷征服活動を進めており、日本海沿岸方面では、和銅元(708)年に越後国の北に出羽郡がたてられた後、和銅五(712)年に出羽国が置かれた。この出羽郡設置時期に前後して出羽柵が設けられたことによって蝦夷征服の軍事拠点が確保され、出羽国へ昇格する契機となったものと考えられる。設置当初の出羽国の国府機能も出羽柵が果たしていたようである。当時、陸奥国や出羽国に置かれた「柵」は、城柵であると同時に、その周辺地域を統治する行政機関としても機能していた。
また『続日本紀』には、和銅七(714)年に尾張・上野・信濃・越後各国から民200戸を出羽柵へ移住させたこと、その後も716年に信濃・上野・越前・越後各国から各100戸、717年にも信濃・上野・越前・越後各国から各100戸、719年には東海道・東山道・北陸道から200戸を出羽柵へ入植させたという記事が見える。柵戸の出羽国への移住は総計で1300戸におよんだ。柵戸は公民の身分となった。
これらの入植政策は、蝦夷を教化し出羽国の開発・開拓を促進するために行われたものであり、また律令制支配を東北地方にまで徹底し、城柵への兵力の供給源とした。
その後、天平五(733)年十二月二十六日、出羽柵は秋田村高清水岡(現・秋田県秋田市)へ移設された(『続日本紀』の記事より)。これに伴って出羽国府も秋田へ移されたのかについては諸説あるが、考古発掘によれば出羽柵が「秋田城」へと改変された760年頃に、出羽国府も秋田城へ移されたと推測される。
勅撰史書『日本三代実録』(901年成立)の嘉祥三(850)年十月十六日の記事によると、出羽国で大地震があり。津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったと記されている。その後の史実における城輪柵の動きは不明であるが、中世に入る前に廃城していたとみられる。
現代に入り、初めて発掘調査が行われた1931年以前にも、現地の「城輪」という地名から遺跡の存在が推測されていた。
・『往古此辺に官人の居城ありて、城外に祭れる神を城輪と称し、城地の内を城の内(きのうち)と称せしを後世城を木に改けるにや』(進藤重記『出羽風土略記』1762年)
・『柵戸の遺跡とも疑はるる節あり』(吉田東伍『大日本地名辞書』1907年)
これらの他にも、歴史学者の喜田貞吉(1871~1939年)は「城輪・木の内」以外にも「本楯(遺跡中心部から北西2.5キロメートル)」・「新田目(北西2.0キロメートル)」・「政所(南東0.8キロメートル)」・「門田」といった地名が近隣に存在することから、古代政庁の存在を推測している。また須恵器や瓦、礎石と思われる石が出土したことから、阿部正巳によって出羽国国分寺説も提唱された。
1931年、文部省嘱託の上田三平による発掘調査により、25センチメートル角の角材が密接して並ぶ遺構が検出される。ほぼ正方位による一辺約720メートルの方形を成しており、外郭には門や櫓が存在していたことが判明した。翌1932年に国史跡に指定。
1964年、酒田市教育委員会による予備調査が行われ、遺跡中心部の「オ(大)畑」と呼ばれる、周辺水田よりも1メートルほど高い台地部分から掘立柱建物跡と礎石建物跡、2つの異なる時代の遺構が検出される。翌1965年に文化財保護委員会(現・文化庁)による発掘調査が行われ、正殿、西脇殿、南門など主要な遺構配置が判明した。
1984年から保存整備事業が開始された。
アクセスは、JR酒田駅からバスで約20分。
現在は毎年8月に、篝火の下で民俗芸能などが演じられる文化イベント「国府の火まつり」が行われている。
城輪柵(きのわのさく)は、山形県沿海部の庄内地方北部、赤川河口と羽黒山の中間地域である荒瀬川扇状地(現・山形県酒田市城輪)に存在した古代城柵。国史跡に指定されている。指定名称は「城輪柵跡」。
奈良時代末期に大和朝廷によって造営された出羽国国府所在地「出羽柵」の有力候補となっている。現在は保存整備事業により、政庁南門、東門、築地塀の一部が復元されている。
一辺約720メートルの築地塀で区切られた正方形の外郭と、その中央に一辺約115メートルの築地等で囲まれた政庁(内郭)部分によって構成される、総面積52万平方メートルの遺跡である。外郭の各辺中央にある門からは、政庁中心に向かって幅9メートルの大路が伸び、政庁の配置もこれにあわせた律令制官衙様式(正殿・後殿東西脇殿や後殿に付属する東西脇殿)となっている。内郭の東西南北各築地の中央には八御門が開いていた。
政庁遺構は、その建築様式において大きく4期に分けられ、前半2期においては掘立柱建物、後半2期では礎石建物へと変わる。また、第4期では板塀から築地塀への変化が見られる。
歴史上における文献上の初見は、勅撰史書『続日本紀』(797年成立)の和銅二(709)年七月一日の記事に見られる、「蝦夷征討のため諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬した」という内容の記事である。これにより、築城年は不明であるが709年にはすでに出羽柵が存在していたことが判る。
当時の大和朝廷は、東北地方の蝦夷征服活動を進めており、日本海沿岸方面では、和銅元(708)年に越後国の北に出羽郡がたてられた後、和銅五(712)年に出羽国が置かれた。この出羽郡設置時期に前後して出羽柵が設けられたことによって蝦夷征服の軍事拠点が確保され、出羽国へ昇格する契機となったものと考えられる。設置当初の出羽国の国府機能も出羽柵が果たしていたようである。当時、陸奥国や出羽国に置かれた「柵」は、城柵であると同時に、その周辺地域を統治する行政機関としても機能していた。
また『続日本紀』には、和銅七(714)年に尾張・上野・信濃・越後各国から民200戸を出羽柵へ移住させたこと、その後も716年に信濃・上野・越前・越後各国から各100戸、717年にも信濃・上野・越前・越後各国から各100戸、719年には東海道・東山道・北陸道から200戸を出羽柵へ入植させたという記事が見える。柵戸の出羽国への移住は総計で1300戸におよんだ。柵戸は公民の身分となった。
これらの入植政策は、蝦夷を教化し出羽国の開発・開拓を促進するために行われたものであり、また律令制支配を東北地方にまで徹底し、城柵への兵力の供給源とした。
その後、天平五(733)年十二月二十六日、出羽柵は秋田村高清水岡(現・秋田県秋田市)へ移設された(『続日本紀』の記事より)。これに伴って出羽国府も秋田へ移されたのかについては諸説あるが、考古発掘によれば出羽柵が「秋田城」へと改変された760年頃に、出羽国府も秋田城へ移されたと推測される。
勅撰史書『日本三代実録』(901年成立)の嘉祥三(850)年十月十六日の記事によると、出羽国で大地震があり。津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったと記されている。その後の史実における城輪柵の動きは不明であるが、中世に入る前に廃城していたとみられる。
現代に入り、初めて発掘調査が行われた1931年以前にも、現地の「城輪」という地名から遺跡の存在が推測されていた。
・『往古此辺に官人の居城ありて、城外に祭れる神を城輪と称し、城地の内を城の内(きのうち)と称せしを後世城を木に改けるにや』(進藤重記『出羽風土略記』1762年)
・『柵戸の遺跡とも疑はるる節あり』(吉田東伍『大日本地名辞書』1907年)
これらの他にも、歴史学者の喜田貞吉(1871~1939年)は「城輪・木の内」以外にも「本楯(遺跡中心部から北西2.5キロメートル)」・「新田目(北西2.0キロメートル)」・「政所(南東0.8キロメートル)」・「門田」といった地名が近隣に存在することから、古代政庁の存在を推測している。また須恵器や瓦、礎石と思われる石が出土したことから、阿部正巳によって出羽国国分寺説も提唱された。
1931年、文部省嘱託の上田三平による発掘調査により、25センチメートル角の角材が密接して並ぶ遺構が検出される。ほぼ正方位による一辺約720メートルの方形を成しており、外郭には門や櫓が存在していたことが判明した。翌1932年に国史跡に指定。
1964年、酒田市教育委員会による予備調査が行われ、遺跡中心部の「オ(大)畑」と呼ばれる、周辺水田よりも1メートルほど高い台地部分から掘立柱建物跡と礎石建物跡、2つの異なる時代の遺構が検出される。翌1965年に文化財保護委員会(現・文化庁)による発掘調査が行われ、正殿、西脇殿、南門など主要な遺構配置が判明した。
1984年から保存整備事業が開始された。
アクセスは、JR酒田駅からバスで約20分。
現在は毎年8月に、篝火の下で民俗芸能などが演じられる文化イベント「国府の火まつり」が行われている。