長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第42回 「羽前国 城輪柵」資料編

2022年09月24日 15時01分21秒 | 全国城めぐり宣言
羽前国 城輪柵とは

 城輪柵(きのわのさく)は、山形県沿海部の庄内地方北部、赤川河口と羽黒山の中間地域である荒瀬川扇状地(現・山形県酒田市城輪)に存在した古代城柵。国史跡に指定されている。指定名称は「城輪柵跡」。
 奈良時代末期に大和朝廷によって造営された出羽国国府所在地「出羽柵」の有力候補となっている。現在は保存整備事業により、政庁南門、東門、築地塀の一部が復元されている。

 一辺約720メートルの築地塀で区切られた正方形の外郭と、その中央に一辺約115メートルの築地等で囲まれた政庁(内郭)部分によって構成される、総面積52万平方メートルの遺跡である。外郭の各辺中央にある門からは、政庁中心に向かって幅9メートルの大路が伸び、政庁の配置もこれにあわせた律令制官衙様式(正殿・後殿東西脇殿や後殿に付属する東西脇殿)となっている。内郭の東西南北各築地の中央には八御門が開いていた。
 政庁遺構は、その建築様式において大きく4期に分けられ、前半2期においては掘立柱建物、後半2期では礎石建物へと変わる。また、第4期では板塀から築地塀への変化が見られる。

 歴史上における文献上の初見は、勅撰史書『続日本紀』(797年成立)の和銅二(709)年七月一日の記事に見られる、「蝦夷征討のため諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬した」という内容の記事である。これにより、築城年は不明であるが709年にはすでに出羽柵が存在していたことが判る。
 当時の大和朝廷は、東北地方の蝦夷征服活動を進めており、日本海沿岸方面では、和銅元(708)年に越後国の北に出羽郡がたてられた後、和銅五(712)年に出羽国が置かれた。この出羽郡設置時期に前後して出羽柵が設けられたことによって蝦夷征服の軍事拠点が確保され、出羽国へ昇格する契機となったものと考えられる。設置当初の出羽国の国府機能も出羽柵が果たしていたようである。当時、陸奥国や出羽国に置かれた「柵」は、城柵であると同時に、その周辺地域を統治する行政機関としても機能していた。
 また『続日本紀』には、和銅七(714)年に尾張・上野・信濃・越後各国から民200戸を出羽柵へ移住させたこと、その後も716年に信濃・上野・越前・越後各国から各100戸、717年にも信濃・上野・越前・越後各国から各100戸、719年には東海道・東山道・北陸道から200戸を出羽柵へ入植させたという記事が見える。柵戸の出羽国への移住は総計で1300戸におよんだ。柵戸は公民の身分となった。
 これらの入植政策は、蝦夷を教化し出羽国の開発・開拓を促進するために行われたものであり、また律令制支配を東北地方にまで徹底し、城柵への兵力の供給源とした。

 その後、天平五(733)年十二月二十六日、出羽柵は秋田村高清水岡(現・秋田県秋田市)へ移設された(『続日本紀』の記事より)。これに伴って出羽国府も秋田へ移されたのかについては諸説あるが、考古発掘によれば出羽柵が「秋田城」へと改変された760年頃に、出羽国府も秋田城へ移されたと推測される。

 勅撰史書『日本三代実録』(901年成立)の嘉祥三(850)年十月十六日の記事によると、出羽国で大地震があり。津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったと記されている。その後の史実における城輪柵の動きは不明であるが、中世に入る前に廃城していたとみられる。

 現代に入り、初めて発掘調査が行われた1931年以前にも、現地の「城輪」という地名から遺跡の存在が推測されていた。

・『往古此辺に官人の居城ありて、城外に祭れる神を城輪と称し、城地の内を城の内(きのうち)と称せしを後世城を木に改けるにや』(進藤重記『出羽風土略記』1762年)
・『柵戸の遺跡とも疑はるる節あり』(吉田東伍『大日本地名辞書』1907年)

 これらの他にも、歴史学者の喜田貞吉(1871~1939年)は「城輪・木の内」以外にも「本楯(遺跡中心部から北西2.5キロメートル)」・「新田目(北西2.0キロメートル)」・「政所(南東0.8キロメートル)」・「門田」といった地名が近隣に存在することから、古代政庁の存在を推測している。また須恵器や瓦、礎石と思われる石が出土したことから、阿部正巳によって出羽国国分寺説も提唱された。
 1931年、文部省嘱託の上田三平による発掘調査により、25センチメートル角の角材が密接して並ぶ遺構が検出される。ほぼ正方位による一辺約720メートルの方形を成しており、外郭には門や櫓が存在していたことが判明した。翌1932年に国史跡に指定。
 1964年、酒田市教育委員会による予備調査が行われ、遺跡中心部の「オ(大)畑」と呼ばれる、周辺水田よりも1メートルほど高い台地部分から掘立柱建物跡と礎石建物跡、2つの異なる時代の遺構が検出される。翌1965年に文化財保護委員会(現・文化庁)による発掘調査が行われ、正殿、西脇殿、南門など主要な遺構配置が判明した。
 1984年から保存整備事業が開始された。
 アクセスは、JR酒田駅からバスで約20分。
 現在は毎年8月に、篝火の下で民俗芸能などが演じられる文化イベント「国府の火まつり」が行われている。
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全国城めぐり宣言 第41回 「羽前国 柏倉陣屋」資料編

2022年06月01日 21時29分58秒 | 全国城めぐり宣言
柏倉陣屋跡
※本文章は、山形県山形市の柏倉八幡神社宮司・結城敏雄氏による郷土研究資料を参考にさせていただいています。

 柏倉陣屋は、延亨四(1747)年に磐城国棚倉藩(現・福島県南東部)小笠原家が、羽前国山形分領2万石(22ヶ村)を支配するために現在の山形市柏倉地区に建造した。その後、宝暦十三(1763)年七月に所領が下総国佐倉藩(現・千葉県佐倉市)堀田家に加増・移封されて以来、一時幕府領になった時期もあったが、明治四(1871)年の陣屋廃絶まで百余年間、西山形地域は治下46ヶ村の中心地となった。堀田家の時代、出羽国村山郡(現・山形県山形市の一部と大石田町)にあった分領は、堀田家11万石のうち約4万石と規模が大きかった。
 柏倉陣屋には、佐倉藩校・成徳書院の分校「北庠(ほくしょう)」も置かれ、そこでは武士のみならず百姓も学ぶことができたという。代官を務めていた田内与七郎成伸は名代官とされ、平清水村(現・山形市平清水)の窯業「平清水焼」の振興に携わったことから、同地に報恩碑が立てられている。
 堀田家旧領の一部は、明治二十二(1889)年に村を編成した際に旧領主の名から堀田村と称した(南村山郡。のち蔵王村に改称)。おおむね現在の山形市蔵王地区にあたり、「蔵王堀田」の地名も残っている。

 柏倉陣屋は、現在の山形市柏倉の小字「舘」(宿島、塩幸田の一部)周辺に存在した。南北百余間(旧・西部児童館跡地から塩辛田の地蔵様までの約200メートル)、東西六十余間(山形電子の敷地北までの約120メートル)、約三町三反二畝歩の広さ(約3.3ヘクタール)、四方を石垣で囲み、東正面には水堀があった。
 陣屋の表門は、旧・西部児童館跡地の南西辺りに東向きにあり、門前は広場になっており「高札場(今でいう掲示板)」と呼ばれていた。表門を入るとすぐ役所が東向きに建っており、様々な行政事務を執っていた。その奥に佐倉藩校分校・北庠があり、北庠の西には中村羽右ヱ門の「郷宿(ごうやど 陣屋への来訪者用の宿泊所)」があった。
 陣屋には、大目付、奉行、物書、吟味役、学校都講、蔵方、勘定方、装束方、山方、勝手組、先弓、鉄砲細工、医師、各手代など大体40名以上の役人が出仕していたため、その家族や使用人などを含めると陣屋内にはおよそ7~80名が居住していたことになる。敷地には奉行や代官はじめ各役人の住宅のほか倉庫、馬屋部屋、工作所、鍛冶屋、牢屋など約40棟の建物があったという。
 藩政終末期の明治四年の陣屋見取図によると、陣屋敷地は東西方向に長い長方形で、牢屋はその東側端に馬屋部屋と御組長屋に囲まれるようにして建っていた。
 陣屋のほぼ中央に宝暦十三(1763)年九月に建造された稲荷社があったが、現存する堀田永久稲荷神社がそれで、陣屋時代から残る唯一の建造物である。堀田家は、宝暦十三年七月に柏倉陣屋に移った直後に稲荷社を建立し、その十年後の安永二(1773)年八月に社格は「正一位」に叙せられた。約百年後の明治四(1871)年の廃藩置県により柏倉陣屋は廃絶し、同年九月には諸施設が全て取払われたが、稲荷社だけは堀田家の所有として残っている。
 また、陣屋の南には「割元(大庄屋)」だった中村五兵ヱ屋敷の石垣が残っている。

 堀田家は、柏倉地域以外に大石田(現・山形県大石田町)と船町(現・山形市北西部)も支配していた。当時、船町地域は米沢・山形・上山方面から馬で運ばれてくる年貢米の集荷地で、さらに地方特産品の紅花も出荷されるようになり、商業の発展を遂げた。物資は船町から大石田経由で酒田まで最上川で運び、酒田から江戸・大阪に回送された。
 羽前国山形藩の藩主は大給松平家(1745~64年)、天領会津藩預かり(1764~67年)、秋元家(1767~1845年)、水野家(1845~70年)と戊辰戦争までたびたび推移するが、どの時代にも、最上川の利権を握る堀田家が勢力を保っていた。

 戊辰戦争において柏倉陣屋は倒幕軍に属し、山形藩水野家と同盟して羽前国中山の達磨寺に出兵して、幕府軍の庄内藩と戦った。庄内藩との戦闘は四月に終結した。
 下総国の佐倉藩本領は、ペリー来航以降、堀田正睦が外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走したが、井伊直弼の大老就任にともない、老中を罷免され蟄居した。父・正睦の失脚により家督を譲られた堀田正倫は、慶応四(1868)年の鳥羽伏見合戦後、朝廷から将軍・徳川慶喜の討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願した。
 このため、藩主不在となった佐倉藩は藩論がまとまらなかったが、家老の平野縫殿が倒幕軍に与して上総国大多喜藩への出兵を決断したため、戊辰戦争後の改易を免れた。

 堀田家とゆかりの深い「天台宗七森山明源寺(現・山形市柏倉)」には、堀田相模守正亮、堀田相模守正順の位牌が納められており、中山達暦寺で討死した藩士・安達盛篤の墓もある。また、名代官として有名な田内与七郎成伸の墓も夫婦共々建立されている。
 現在、明源寺が管理する共同墓地となっている中林山(なかばすやま)には柏倉陣屋の調練場(ちょうれんば)があり、鉄砲や用兵の訓練が行われていた。
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全国城めぐり宣言 第40回 「尾張国 清州城」資料編

2020年01月21日 23時37分41秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 清洲城 とは

 清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現・愛知県清須市一場)にあった平城である。尾張国の中心部に位置し、京・鎌倉往還と伊勢街道が合流し、中山道にも連絡する交通の要所として重視された。

 応永十二(1405)年、尾張・遠江・越前国守護の管領・斯波義重によって築城された。当初は尾張国守護所である下津城(おりづじょう 現・愛知県稲沢市下津高戸町)の別館として建てられたが、文明八(1476)年に尾張国守護代・織田家の内紛により下津城が焼失し、文明十(1478)年に尾張国守護所が清洲城に移転することになり、尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」当主・織田信秀が清須奉行として駐在した以外は常に織田大和守家の居城として存在し、尾張国下四郡を支配する尾張国守護代・織田家の本城として機能した。
 織田信秀が尾張国古渡城に拠点を移すと、尾張国守護代・織田信友が入城したが、弘治元(1555)年に信秀の嫡男・織田信長と結んだ織田信光によって信友が暗殺され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間合戦に出陣するなど、約10年間清州を居城とした。永禄五(1562)年には信長と徳川家康との同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。翌永禄六(1563)年に信長は美濃国斎藤家との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。

 天正十(1582)年の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。天正十四(1586)年に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄四(1595)年には福島正則の居城となった。
 慶長五(1600)年の関ヶ原合戦のおりには東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸国に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長十二(1607)年には家康の九男・徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。
 慶長十四(1609)年に徳川家康によって清州から名古屋への尾張国の遷府が指令されると、翌慶長十五(1610)年より清須城下町は名古屋城下に移転された(清洲越し)。清州城も名古屋城築城の資材として利用され、特に名古屋城御深井丸の西北隅櫓は清州城天守閣の資材を転用して作られたため「清州櫓」とも呼ばれる。慶長十八(1613)年、名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった。

 現在、城跡は土地開発によって大部分が消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。なお、現在城址のすぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、公園内に復元されている。
 現在存在する天守閣は、1989年に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建設された鉄筋コンクリート造の望楼型3重4階の模擬天守である。実際の創建当時の天守閣は絵図が残っていないため、その規模は不明である。そのため、模擬天守の外観や規模は想像で設計された。建造された模擬天守は桃山時代の城を再現するデザインで、江戸時代の漆喰塗廻の白い城とは異なる装飾に富んだ姿となっている。

 清洲城の天守閣または小天守の部材を転用または移築したものとされる名古屋城御深井丸の西北隅櫓は現存し、重要文化財に指定されている。また、尾張旭市の良福寺山門は清州城の裏門を移築したものと言われ、市の文化財に指定されている。その他、名古屋市の含笑寺と長久寺の山門も清州城から移築された門として伝わっている。清洲城の障壁画は一部が總見寺(現・愛知県名古屋市中区)に移されて現存し、愛知県指定有形文化財(絵画)に指定されている。また、崇福寺にも清須城の鯱と伝わっているものがある。
 2011年に行われた周辺の発掘調査によって、平安時代の集落跡、清州城下町時代の跡、清州宿時代の遺構や遺物が発見された。

清洲城と天正大地震
 1988年に実施された五条川河川改修に伴う発掘調査で、清洲城下に新旧2回の地震による液状化現象の痕跡が発見され、新期のものは濃尾地震(1891年)、旧期のものは、天正十三(1585)年十一月二十九日の天正地震による可能性が高いことが判明した。これにより、前述の天正十四(1586)年に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、天正地震が契機だった可能性が高いと考察された。

清須と清洲
 地域や城郭の名称として表記する際に「清洲」を使う場合と「清須」を使う場合がある。どちらも正しく、同じ地域や城を示しているが、伊勢神宮領を記録した14世紀中頃の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に「清須御厨(きよすみくりや)」と記載されているのが最古の記載としているが諸説ある。『信長公記』では「清洲」、『三河物語』では「清須」と記載されている。
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全国城めぐり宣言 第39回 「尾張国 末森城」資料編

2020年01月18日 22時55分49秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 末森城 とは

 末森城(すえもりじょう)は、戦国時代、尾張国愛知郡鳴海荘末森村(現・愛知県名古屋市千種区城山町)にあった平山城である。縁起の良い名ということで「末盛城」とも書かれた。

 天文十七(1548)年、東山丘陵の末端に尾張国大名・織田信秀が築城した。三河国の松平家や駿河国の今川家などの侵攻に備えたもので、信秀の弟・織田信光が守る守山城と合わせて尾張国の東方防御線を構成するものである。信秀は、これまでの居城であった古渡城を放棄し、末森城を居城とした。天文二十一(1552)年の信秀の死去にともない、末森城主を継承したのは、三男の織田信勝(信行 織田信長の弟)であった。

 弘治二(1556)年、信勝は重臣の林秀貞、柴田勝家らとともに兄・信長に対して叛旗を翻すが、稲生合戦で敗れた。この際、信勝は末森城に籠城しており、信長は末森城下の町に火を放ったが、末森城にいた母・土田御前の介入で信勝は赦免され、末森城は陥落を免れている。
 しかし永禄元(1558)年、信勝が再び謀反を企てたことを柴田勝家が信長に内報し、信勝は信長の居城・清州城で謀殺された。これにより末森城は一時廃城となったとされるが、後に天正十二(1584)年の小牧・長久手合戦に際して、信長の三男・織田信雄が再び末森城を使用している。

 なお、天文二十二(1553)年に信勝が城内に白山社を祀ったものが廃城後も近隣の人々の信仰を受けて維持され、明治時代に入り近隣の神社と合祀されて「城山八幡宮」となっている。また、城の西北山麓に信秀の霊廟があったが、現在は名古屋市千種区四谷通にある桃巌寺内で信勝とともに供養されている。

構造
 末森城は、東山丘陵地の末端に位置する標高43メートルの丘に、東西約180メートル、南北約150メートルの規模で築城された平山城である。地形を利用して斜面の中腹に幅10~16メートルの空堀を備えていた。そのうちの内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。
 城郭の構造は、東西約43メートル、南北46メートルの本丸(東丸)と、東西約50メートル、南北43メートルの二ノ丸(西ノ丸)とに分かれていた。本丸は現在の城山八幡宮にあたり、二ノ丸跡には愛知県が1928年に建設した教育施設の旧・昭和塾堂が建っているが、後に城山八幡宮に払い下げられ、建物は2017年まで私立愛知学院大学が大学院歯学部研究棟として使用していた。また、城山八幡宮内に末森城址の石碑が建っており、城の名は末盛通として地域に残っている。
 現在でも深さ7メートルほどの空堀など、遺構がよく残っている。馬出や総構えの構造が見られることから、現在みられる遺構は1584年頃、当時尾張国を支配していた織田信雄が小牧・長久手合戦に備えて改修したものと考えられている。

交通
 名古屋市営地下鉄東山線・覚王山駅(名古屋市千種区末盛通)で下車し、徒歩で約5分。
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全国城めぐり宣言 第38回 「尾張国 古渡城」資料編

2020年01月17日 21時26分21秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 古渡城 とは

 古渡城(ふるわたりじょう)は、尾張国大名・織田信秀が尾張国愛知郡(現・愛知県名古屋市中区橘)に築城した平城である。天文十七(1548)年に廃城となった。信秀の嫡男・織田信長が元服した城として知られている。

 天文三(1534)年、織田信秀が東南方に備えるために築城した。信秀は今川家の武将・今川氏豊から奪った尾張国那古野城を嫡男の吉法師(のちの織田信長)に譲り、この城を新たな拠点とした。
 東西140メートル、南北100メートルの平城で、四方を二重の堀で囲んでいた。天文十五(1546)年、吉法師は古渡城にて13歳で元服する。天文十七(1548)年、美濃国に侵攻した信秀の留守を狙い、尾張国守護代・織田信友の重臣・坂井大膳らが古渡城下に攻め寄せ、この際に城下町は焼かれたが、落城はしなかった。同年、信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城はわずか14年で廃城となった。
 遺構として、真宗大谷派名古屋別院の敷地内にある古渡城跡碑と、古渡城の堀跡を利用した下茶屋公園(真宗大谷派名古屋別院に隣接)がある。

交通
 名古屋市営地下鉄名城線・東別院駅(名古屋市中区大井町)の4番出口より徒歩で5分。
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