天童城(てんどうじょう)
別名・舞鶴城。また、江戸時代の天童藩主・織田家の築いた山麓の陣屋を天童城、中世に天童家の居城だった山城を天童古城と称することもある。
山形盆地の中東部(山形市の北)にあたる、山形県天童市の市街地の南東に位置する舞鶴山(標高241.8メートル / 比高133メートル)にあった山城(やまじろ)。舞鶴山という名前の由来は、尾根が多方向に展開する地形からきている。東西1キロ、南北1.2キロ、周囲4キロほどある全山を城塞化した規模の大きな城で、羽前国の村山地方では最大の山城といわれている。
中央の高い山頂部に本丸(主郭)を置き、現在はその跡地に愛宕神社が建つ。本丸部分は東西100メートル、南北80メートルの面積であり、東側に物見櫓跡の土壇が残る。また、南側には井戸跡が残っている。山頂から北西・北東・南西・南東へ4つの尾根が延びる本丸下には2段の帯曲輪(おびぐるわ)が巡り、要所には幾重にも段状の曲輪群が連なる。本丸から南西に延びる尾根部分を南丸とし、北西に延びる尾根部分を中央丸、その先の尾根下を北丸とし、特に、東西50メートル、南北350メートルと南北に細長い中央丸には八森楯、小松楯などの出城があり、重臣が守備した。中央丸の南側は東に3段、西に5段の帯曲輪を設け、西側は西丸に続いている。北西に位置する帯曲輪は北丸に続いている。南北に長い東丸と本丸との間には、北側から大きく入り込んだ侵食谷を利用した幅20~30メートルほどの大規模な空堀が設けられている。
西丸は本丸の東側に位置し、北と南の2つの区画に分かれ、それぞれ西側に迫り出す数段の段築を擁する。南丸は西丸の南側に位置し、東西50メートル、南北65メートルの面積であり、北東に5段程度の帯曲輪を設けている。北丸は城域の北端に位置し、現在は喜太郎稲荷神社が祀られている。山麓から喜太郎稲荷神社まで3段の帯曲輪が設けられていた。ちなみに、北丸跡の喜太郎稲荷神社は、麓の天童市街地にある喜太郎稲荷神社(田鶴町)と区別して「小路喜太郎稲荷神社」と呼ばれている。
本丸・中央丸・北東の東丸に囲まれた北の麓には愛宕沼と呼ばれる沼がある。大手口は山の南東の麓、搦手口は北西の麓にあったが、どちらも遺構は残っていない。現在の天童市街地が根小屋(ねごや 家臣団その他の城に従属する人々の集落)であり、市も建つなど活気があったという。城跡の大部分は現在、天童公園となっている。
登るには急坂を登り、北は沼、山頂の本丸付近は断崖で囲まれた天然の要害であった。天童の地名は、舞鶴山に二人の童子が天から無い降りたという伝説がある。
舞鶴山は「城山」とも呼ばれ、伝承によれば、南北朝時代の建武三(1336)年に、山家城の山家信彦、溝延城の大江家、東根城の小田島長義らと共に南朝方に属した北畠天童丸(顕種)が、南朝方の拠点として舞鶴山に居館を構えたのが最初であるとされる。天童丸は、多賀城に下向した鎮守府将軍・北畠顕家か、もしくはその弟・北畠顕信の血縁者とされるが、その存在は伝説の域を出ない。天童丸は山寺立石寺と同盟して、正平年間(1346~70年)から文中年間(1372~75年)にかけて南朝勢力の挽回に努めたが、北朝方の最上家に敗れて陸奥国の津軽鯵ヶ沢に逃れたといわれ、その後の消息は不明である。
北朝永和元年・南朝天授元(1375)年、最上家第2代・最上直家の子で、出羽按察使として山形に入った最上家初代・斯波兼頼の孫にあたる最上頼直が、成生荘の地頭・里見家の養子となり、天童伊予守頼直を称して居城を舞鶴山に築城し、本拠地を成生館から舞鶴山に移した。当時、天童を支配していた里見家は、後の戦国時代に安房国の大名となる里見家と同じ清和源氏系で、上野国を発祥とする里見一族は南北朝時代には新田家らと共に南朝方の勢力として活躍しており、北畠天童丸の伝説のある城を里見家が支配していたという経緯には、同じ南朝方の武将であるという類縁関係が見られる。しかし、里見家第5代当主・里見義景には実子がなかったため、奥州探題・斯波家兼の四男である義宗を養子に迎えたが、この義宗も子に恵まれなかったために最上頼直(義宗は頼直の大叔父にあたる)を後継として迎えたのであった。
このため、天童家は最上家の分家ではなく里見家を称して最上家と同格の扱いとなり、享徳の乱では京の足利幕府から、最上家と天童家の両家に書状が送られた。
天童頼直は次男・頼高を東根に、三男・頼種を鷹巣に、四男・満長を上山に配置した。さらに家臣では、八森館に八森石見守、小幡館に小畑大隅守、かつての居城だった成生館に成生伯耆守、小松館に小松山城守、向館に大友将監、安斎館に安斎刑部、草苅館に草苅兵庫守、大泉館に大泉内蔵助を置き、勢力拡大を図った。これらは後に「最上八楯」と称され、天童家を中心に最上一族の中でも強大な力を誇るようになる。
永正年間、米沢の伊達家が最上家の領内に侵攻するようになり、永正十一(1514)年、伊達稙宗は長谷堂合戦で最上義定を破り、最上家を事実上の傀儡としたが、天童城を拠点に各地の土豪や地侍を従え、村山地方東部を支配する大勢力となった天童頼長と最上八楯は、伊達家に抵抗を続けた。大永元(1521)年には、伊達稙宗・蘆名盛滋らとの合戦の際に一時、高城と共に天童城を占拠されたこともあったが、天童家は八楯の盟主として、最上家に代わる実力をつけるようになった。
1570年、山形城主・最上義光が父・義守との相克を経て最上家家督を相続する。最上義光の、最上家のみによる出羽地方統一の動きに対抗し、天童頼貞は隠居した義守に肩入れして、義守の女婿・伊達輝宗らとも同盟を結び、義光を攻めて「天正最上の乱」が起きた(1574年)。天正五(1577)年五月、最上義光は天童城を直接攻撃する。しかし、勇猛を謳われた重臣・延沢能登守満延(信景)をはじめとし、東根頼景・楯岡満英ら最上八楯が天童頼貞に援護し、加えて天童城が天然の要害であることも手伝って義光は苦境に陥る。その結果、義光が頼貞の娘を側室に迎えることで抗争は和睦に至った。
しかしこの間、義光は上山の上山家、真室川の鮭延家などを攻略し、庄内の大宝寺義氏を家臣の内応で暗殺し、勢いを増していた。
さらに天正八(1580)年には東根城を攻撃し、東根頼景は家臣・里見源左衛門景佐・蔵増安房守・鈴木新左衛門尉らの離反もあって討死した。頼景を援護していた楯岡城主・楯岡満英は東根城落城の報を聞いて自害し、当主を失った楯岡家は義光に降り、一族の楯岡豊前守満茂が楯岡家を継いだ。
その後、成生館・飯田館・六田館の館主達も義光に降り、村山盆地はほぼ最上家の勢力下に入ったため、天童氏は孤立する。さらに天正十年(1582)年には、義光に嫁いでいた頼貞の娘が死去したため、天童家と最上家との再衝突は避けられないものとなった。
天正十二(1584)年、義光は谷地の白鳥長久を山形城に誘き寄せ暗殺し、寒河江の大江家を滅ぼした。残った天童家の第11代・天童頼久(頼貞の子)は、天童城の天険を誇り義光に抵抗したが、重臣・延沢満延が、嫡男・又五郎康満と義光の娘・松尾姫との婚姻を取り付けて最上軍の再度の天童城攻めの際に義光に寝返り、それを契機に家臣団の離反が相次いだため、天童頼久は孤立無援となり、同年10月の八幡山合戦で兵5500を率いる義光に敗北し、天童城も10月19日に落城する。頼久は喜太郎という者の手引きで関山峠を越え、妻の実家であった仙台の国分盛重のもとに逃れ、以降は天童頼澄と名を改め、伊達政宗の家臣となった。最上義光は戦勝後、天童城を廃城処分として本丸跡に愛宕神社を建立し、勝軍地蔵を祀った。その後、この舞鶴山は「愛宕山」とも呼ばれるようになる。ちなみに、義光は二度にわたる城攻めで天童城の堅固さに手を焼き、こののち城として利用できないように愛宕神社を建てたともいわれている。実際に、現在の天童城跡には多数の郭(くるわ 曲輪)跡が残るものの、その他の遺構としては堀切跡と思われるものが一ヶ所あるほどで土塁などは全く見当たらず、義光が城の縄張りを徹底的に破壊した可能性がうかがえる。愛宕神社は現在も残っている。
江戸時代の元禄十一(1698)年に羽後国久保田藩で編纂された軍記物語『奥羽永慶軍記』によると、ある時、最上義光の家臣・志村伊豆守光安が用あって、天童頼久のもとに赴いた。すると天童家の家臣が次のようなことを言った。
「山形殿(最上義光)は平地の館(山形城)にお住まいになっていると聞くが、それはどうも心配なことである。天童殿の居城は山城であるが、この城はとても険阻で、数万の軍勢に攻められたからといって、何年も持ちこたえることができるほどのものだ。それに比べて山形殿の城は、軍勢に攻められたらひとたまりもないでしょう。」
光安が帰ってこのことを報告すると、義光は怒って天童家の征伐を決意したという。
しかし、義光の天童家討伐は、あくまでも出羽統一のために必要不可欠な最重要政策だったのであって、私怨による突発的な行動でなかったことは明らかである。
江戸時代になり天保元(1830)年、織田家(織田信長の次男・信雄の子孫)が上野国(現在の群馬県)から転封されて天童藩を興し、舞鶴山の西麓(現在の天童市田鶴町)に、外堀と内堀を持つ御館(おたて)と呼ばれる陣屋を築いた。
現在、天童城跡は天童公園(天童市・舞鶴山公園)として整備され、城郭時代の遺構はほとんど残っていないが、桜やつつじの名所となっている。公園には、毎年春の恒例行事である、甲冑を身にまとった人間が駒となる「人間将棋」で用いられる巨大な将棋盤があるが、天童における将棋の歴史は織田家が天童に入部して始まる。窮乏した天童藩では生活苦にあえぐ下級武士たちが将棋の駒づくりを内職とし始めたという。幕末には家老の吉田大八が藩士に将棋の駒づくりを奨励した。
JR 奥羽本線・山形新幹線「天童駅」から南東へ約1.2キロ、自動車で約10分の距離にある。城跡の天童公園には無料駐車場が完備されている。公園には、江戸幕末の天童藩家老・吉田大八の像がある。
車で登ることができるのは、比高60メートルの本丸と中央丸との間にある武者溜(むしゃだまり 軍勢を集結させるために設けられた広場)跡の駐車場までで、本丸はそこからさらに比高70~80メートルほど登った山頂部にあたる。本丸・中央丸以外の郭の遺構は比較的良好に残っているが、あまり整備されておらず薮化が激しい。駐車場から山頂までは徒歩で10分ほどで登山できる。
天童陣屋(てんどうじんや)
現在の山形県天童市田鶴町に位置し、JR天童駅から南へ500メートルの区域に存在していた。
天下統一を目前にして横死した織田信長の次男・信雄の子孫である、天童藩主織田家の陣屋。
戦国末期に一時代を築いた織田家ではあったが、豊臣秀吉、徳川家康の時代を経た末に、天童の地でかろうじて2万石を有する小大名となる。
天童陣屋は、江戸時代後期の天保元(1830)年、織田家第10代・織田信美の時代に築かれたものであり、それ以前には、織田家は明和四(1767)年に2万石の小藩として高畠(山形県東置賜郡高畠町)で発足しており、幕府への居館移転願いが認められて天童に移転した。
織田家の前身は上野国小幡藩5万石であったが、減封されて羽前国に左遷されてしまった理由は、儒学者の山県大弐が幕府に対する謀反の疑いで捕らえられ処刑された事件に連座したことによる。
減封された織田家は、5万石時代の藩士を多く抱えていたこともあり、藩の暮らしは非常に貧しいものであった。そこで下級の藩士たちが、将棋の駒づくりを内職として始めたことから、天童の将棋駒生産が始まったという。
天童藩織田家の祖は、織田信雄である。信雄の父・信長は、最盛期には600万石以上の所領を持ち、実質的な天下人であった。その信長の死後に尾張・伊勢国の所領を相続した信雄もまた、100万石を領する大大名であった。
しかし、信長の子がこれだけの大きな領地を有していることは、当時の天下人である豊臣秀吉にとって不安の種だった。天正十八年の小田原征伐後、秀吉は信雄に関東転封をもちかけたが、信雄がそれを拒否すると、それを理由に信雄の所領を没収した。
その後、信雄は下野国烏山、羽前国、伊予国などへと所領を流され転々としていた。しかし、後に徳川家康の口利きによって許され、大和国で1万8千石を拝領する。ちなみに嫡男・織田秀雄は、越前国大野で5万石を拝領している。
だが、関ヶ原合戦の際に西軍に属したため、信雄は秀雄と父子ともどもまたもや改易に処せられてしまう。以後、信雄は大坂城などに居住していたが、大坂ノ陣が開戦する直前に大坂城を脱出し、徳川方に加担した。そこで、家康との古くからの親交もあり、元和元年に上野国小幡5万石を与えられるに至った。
陣屋の規模は大きく、南北450メートル、東西500メートルにわたる。輪郭式の陣屋であり、内堀を廻らせた本丸に相当する場所が藩主の居館で、その外側に総構え的に政庁や重臣の屋敷と外堀があったとされる。虎口にはそれぞれ枡形が用いられ、全体の構造はかつての小幡陣屋に共通するものがあり、行政面を重視した城郭であったという。
この天童陣屋で織田家は4代を経て明治維新に至るが、明治維新では新政府軍に属し、家老・吉田大八が奥羽鎮撫使先導代理を命じられて軍の先鋒を担うが、藩内の動員兵力は400名ほどであり実質的な戦闘ができたとも見られず、周囲の諸藩からも孤立し、戊辰戦争での幕府方の庄内藩の攻撃によって陣屋は焼失。城下町も半分ほどが焼亡した。
このため、天童藩もやむなく幕府方の奥越列藩同盟に加盟するが、責任を問われ吉田大八は切腹。さらに今度は新政府軍に攻撃され、降伏する。新政府により藩主・織田信敏は弟の織田寿重丸に家督を譲って隠居させられ、所領は没収されて2千石となった。
その後、織田寿重丸は幼少であったため、信敏が藩主(藩知事)に復帰し、明治四(1871)年には廃藩置県により天童県となり、同年8月に山形県に編入された。
現在は、遺構はほとんど失われており、本丸にあたる中央部分は JR羽越本線が貫通し、山形新幹線が走っている。
城域の東には、織田家が氏神とした喜太郎稲荷神社が残され(天童城北丸跡にある喜太郎稲荷神社とは別)、神社の境内にあたる土地が陣屋の中心部となっていた。南は公園になっている。その他は民家や畑になっており、大手門跡の標識などが建てられているのみである。神社脇の公民館前には広いスペースがあり、車も駐車できる。ただし神社の入り口が狭いため、道路から分かりにくい。
喜太郎稲荷神社の入口には当時、天童陣屋の門があり、近くには北辰一刀流道場「調武館」と稽古所が置かれ、天童織田藩の藩士が武術に励んでいたという。
別名・舞鶴城。また、江戸時代の天童藩主・織田家の築いた山麓の陣屋を天童城、中世に天童家の居城だった山城を天童古城と称することもある。
山形盆地の中東部(山形市の北)にあたる、山形県天童市の市街地の南東に位置する舞鶴山(標高241.8メートル / 比高133メートル)にあった山城(やまじろ)。舞鶴山という名前の由来は、尾根が多方向に展開する地形からきている。東西1キロ、南北1.2キロ、周囲4キロほどある全山を城塞化した規模の大きな城で、羽前国の村山地方では最大の山城といわれている。
中央の高い山頂部に本丸(主郭)を置き、現在はその跡地に愛宕神社が建つ。本丸部分は東西100メートル、南北80メートルの面積であり、東側に物見櫓跡の土壇が残る。また、南側には井戸跡が残っている。山頂から北西・北東・南西・南東へ4つの尾根が延びる本丸下には2段の帯曲輪(おびぐるわ)が巡り、要所には幾重にも段状の曲輪群が連なる。本丸から南西に延びる尾根部分を南丸とし、北西に延びる尾根部分を中央丸、その先の尾根下を北丸とし、特に、東西50メートル、南北350メートルと南北に細長い中央丸には八森楯、小松楯などの出城があり、重臣が守備した。中央丸の南側は東に3段、西に5段の帯曲輪を設け、西側は西丸に続いている。北西に位置する帯曲輪は北丸に続いている。南北に長い東丸と本丸との間には、北側から大きく入り込んだ侵食谷を利用した幅20~30メートルほどの大規模な空堀が設けられている。
西丸は本丸の東側に位置し、北と南の2つの区画に分かれ、それぞれ西側に迫り出す数段の段築を擁する。南丸は西丸の南側に位置し、東西50メートル、南北65メートルの面積であり、北東に5段程度の帯曲輪を設けている。北丸は城域の北端に位置し、現在は喜太郎稲荷神社が祀られている。山麓から喜太郎稲荷神社まで3段の帯曲輪が設けられていた。ちなみに、北丸跡の喜太郎稲荷神社は、麓の天童市街地にある喜太郎稲荷神社(田鶴町)と区別して「小路喜太郎稲荷神社」と呼ばれている。
本丸・中央丸・北東の東丸に囲まれた北の麓には愛宕沼と呼ばれる沼がある。大手口は山の南東の麓、搦手口は北西の麓にあったが、どちらも遺構は残っていない。現在の天童市街地が根小屋(ねごや 家臣団その他の城に従属する人々の集落)であり、市も建つなど活気があったという。城跡の大部分は現在、天童公園となっている。
登るには急坂を登り、北は沼、山頂の本丸付近は断崖で囲まれた天然の要害であった。天童の地名は、舞鶴山に二人の童子が天から無い降りたという伝説がある。
舞鶴山は「城山」とも呼ばれ、伝承によれば、南北朝時代の建武三(1336)年に、山家城の山家信彦、溝延城の大江家、東根城の小田島長義らと共に南朝方に属した北畠天童丸(顕種)が、南朝方の拠点として舞鶴山に居館を構えたのが最初であるとされる。天童丸は、多賀城に下向した鎮守府将軍・北畠顕家か、もしくはその弟・北畠顕信の血縁者とされるが、その存在は伝説の域を出ない。天童丸は山寺立石寺と同盟して、正平年間(1346~70年)から文中年間(1372~75年)にかけて南朝勢力の挽回に努めたが、北朝方の最上家に敗れて陸奥国の津軽鯵ヶ沢に逃れたといわれ、その後の消息は不明である。
北朝永和元年・南朝天授元(1375)年、最上家第2代・最上直家の子で、出羽按察使として山形に入った最上家初代・斯波兼頼の孫にあたる最上頼直が、成生荘の地頭・里見家の養子となり、天童伊予守頼直を称して居城を舞鶴山に築城し、本拠地を成生館から舞鶴山に移した。当時、天童を支配していた里見家は、後の戦国時代に安房国の大名となる里見家と同じ清和源氏系で、上野国を発祥とする里見一族は南北朝時代には新田家らと共に南朝方の勢力として活躍しており、北畠天童丸の伝説のある城を里見家が支配していたという経緯には、同じ南朝方の武将であるという類縁関係が見られる。しかし、里見家第5代当主・里見義景には実子がなかったため、奥州探題・斯波家兼の四男である義宗を養子に迎えたが、この義宗も子に恵まれなかったために最上頼直(義宗は頼直の大叔父にあたる)を後継として迎えたのであった。
このため、天童家は最上家の分家ではなく里見家を称して最上家と同格の扱いとなり、享徳の乱では京の足利幕府から、最上家と天童家の両家に書状が送られた。
天童頼直は次男・頼高を東根に、三男・頼種を鷹巣に、四男・満長を上山に配置した。さらに家臣では、八森館に八森石見守、小幡館に小畑大隅守、かつての居城だった成生館に成生伯耆守、小松館に小松山城守、向館に大友将監、安斎館に安斎刑部、草苅館に草苅兵庫守、大泉館に大泉内蔵助を置き、勢力拡大を図った。これらは後に「最上八楯」と称され、天童家を中心に最上一族の中でも強大な力を誇るようになる。
永正年間、米沢の伊達家が最上家の領内に侵攻するようになり、永正十一(1514)年、伊達稙宗は長谷堂合戦で最上義定を破り、最上家を事実上の傀儡としたが、天童城を拠点に各地の土豪や地侍を従え、村山地方東部を支配する大勢力となった天童頼長と最上八楯は、伊達家に抵抗を続けた。大永元(1521)年には、伊達稙宗・蘆名盛滋らとの合戦の際に一時、高城と共に天童城を占拠されたこともあったが、天童家は八楯の盟主として、最上家に代わる実力をつけるようになった。
1570年、山形城主・最上義光が父・義守との相克を経て最上家家督を相続する。最上義光の、最上家のみによる出羽地方統一の動きに対抗し、天童頼貞は隠居した義守に肩入れして、義守の女婿・伊達輝宗らとも同盟を結び、義光を攻めて「天正最上の乱」が起きた(1574年)。天正五(1577)年五月、最上義光は天童城を直接攻撃する。しかし、勇猛を謳われた重臣・延沢能登守満延(信景)をはじめとし、東根頼景・楯岡満英ら最上八楯が天童頼貞に援護し、加えて天童城が天然の要害であることも手伝って義光は苦境に陥る。その結果、義光が頼貞の娘を側室に迎えることで抗争は和睦に至った。
しかしこの間、義光は上山の上山家、真室川の鮭延家などを攻略し、庄内の大宝寺義氏を家臣の内応で暗殺し、勢いを増していた。
さらに天正八(1580)年には東根城を攻撃し、東根頼景は家臣・里見源左衛門景佐・蔵増安房守・鈴木新左衛門尉らの離反もあって討死した。頼景を援護していた楯岡城主・楯岡満英は東根城落城の報を聞いて自害し、当主を失った楯岡家は義光に降り、一族の楯岡豊前守満茂が楯岡家を継いだ。
その後、成生館・飯田館・六田館の館主達も義光に降り、村山盆地はほぼ最上家の勢力下に入ったため、天童氏は孤立する。さらに天正十年(1582)年には、義光に嫁いでいた頼貞の娘が死去したため、天童家と最上家との再衝突は避けられないものとなった。
天正十二(1584)年、義光は谷地の白鳥長久を山形城に誘き寄せ暗殺し、寒河江の大江家を滅ぼした。残った天童家の第11代・天童頼久(頼貞の子)は、天童城の天険を誇り義光に抵抗したが、重臣・延沢満延が、嫡男・又五郎康満と義光の娘・松尾姫との婚姻を取り付けて最上軍の再度の天童城攻めの際に義光に寝返り、それを契機に家臣団の離反が相次いだため、天童頼久は孤立無援となり、同年10月の八幡山合戦で兵5500を率いる義光に敗北し、天童城も10月19日に落城する。頼久は喜太郎という者の手引きで関山峠を越え、妻の実家であった仙台の国分盛重のもとに逃れ、以降は天童頼澄と名を改め、伊達政宗の家臣となった。最上義光は戦勝後、天童城を廃城処分として本丸跡に愛宕神社を建立し、勝軍地蔵を祀った。その後、この舞鶴山は「愛宕山」とも呼ばれるようになる。ちなみに、義光は二度にわたる城攻めで天童城の堅固さに手を焼き、こののち城として利用できないように愛宕神社を建てたともいわれている。実際に、現在の天童城跡には多数の郭(くるわ 曲輪)跡が残るものの、その他の遺構としては堀切跡と思われるものが一ヶ所あるほどで土塁などは全く見当たらず、義光が城の縄張りを徹底的に破壊した可能性がうかがえる。愛宕神社は現在も残っている。
江戸時代の元禄十一(1698)年に羽後国久保田藩で編纂された軍記物語『奥羽永慶軍記』によると、ある時、最上義光の家臣・志村伊豆守光安が用あって、天童頼久のもとに赴いた。すると天童家の家臣が次のようなことを言った。
「山形殿(最上義光)は平地の館(山形城)にお住まいになっていると聞くが、それはどうも心配なことである。天童殿の居城は山城であるが、この城はとても険阻で、数万の軍勢に攻められたからといって、何年も持ちこたえることができるほどのものだ。それに比べて山形殿の城は、軍勢に攻められたらひとたまりもないでしょう。」
光安が帰ってこのことを報告すると、義光は怒って天童家の征伐を決意したという。
しかし、義光の天童家討伐は、あくまでも出羽統一のために必要不可欠な最重要政策だったのであって、私怨による突発的な行動でなかったことは明らかである。
江戸時代になり天保元(1830)年、織田家(織田信長の次男・信雄の子孫)が上野国(現在の群馬県)から転封されて天童藩を興し、舞鶴山の西麓(現在の天童市田鶴町)に、外堀と内堀を持つ御館(おたて)と呼ばれる陣屋を築いた。
現在、天童城跡は天童公園(天童市・舞鶴山公園)として整備され、城郭時代の遺構はほとんど残っていないが、桜やつつじの名所となっている。公園には、毎年春の恒例行事である、甲冑を身にまとった人間が駒となる「人間将棋」で用いられる巨大な将棋盤があるが、天童における将棋の歴史は織田家が天童に入部して始まる。窮乏した天童藩では生活苦にあえぐ下級武士たちが将棋の駒づくりを内職とし始めたという。幕末には家老の吉田大八が藩士に将棋の駒づくりを奨励した。
JR 奥羽本線・山形新幹線「天童駅」から南東へ約1.2キロ、自動車で約10分の距離にある。城跡の天童公園には無料駐車場が完備されている。公園には、江戸幕末の天童藩家老・吉田大八の像がある。
車で登ることができるのは、比高60メートルの本丸と中央丸との間にある武者溜(むしゃだまり 軍勢を集結させるために設けられた広場)跡の駐車場までで、本丸はそこからさらに比高70~80メートルほど登った山頂部にあたる。本丸・中央丸以外の郭の遺構は比較的良好に残っているが、あまり整備されておらず薮化が激しい。駐車場から山頂までは徒歩で10分ほどで登山できる。
天童陣屋(てんどうじんや)
現在の山形県天童市田鶴町に位置し、JR天童駅から南へ500メートルの区域に存在していた。
天下統一を目前にして横死した織田信長の次男・信雄の子孫である、天童藩主織田家の陣屋。
戦国末期に一時代を築いた織田家ではあったが、豊臣秀吉、徳川家康の時代を経た末に、天童の地でかろうじて2万石を有する小大名となる。
天童陣屋は、江戸時代後期の天保元(1830)年、織田家第10代・織田信美の時代に築かれたものであり、それ以前には、織田家は明和四(1767)年に2万石の小藩として高畠(山形県東置賜郡高畠町)で発足しており、幕府への居館移転願いが認められて天童に移転した。
織田家の前身は上野国小幡藩5万石であったが、減封されて羽前国に左遷されてしまった理由は、儒学者の山県大弐が幕府に対する謀反の疑いで捕らえられ処刑された事件に連座したことによる。
減封された織田家は、5万石時代の藩士を多く抱えていたこともあり、藩の暮らしは非常に貧しいものであった。そこで下級の藩士たちが、将棋の駒づくりを内職として始めたことから、天童の将棋駒生産が始まったという。
天童藩織田家の祖は、織田信雄である。信雄の父・信長は、最盛期には600万石以上の所領を持ち、実質的な天下人であった。その信長の死後に尾張・伊勢国の所領を相続した信雄もまた、100万石を領する大大名であった。
しかし、信長の子がこれだけの大きな領地を有していることは、当時の天下人である豊臣秀吉にとって不安の種だった。天正十八年の小田原征伐後、秀吉は信雄に関東転封をもちかけたが、信雄がそれを拒否すると、それを理由に信雄の所領を没収した。
その後、信雄は下野国烏山、羽前国、伊予国などへと所領を流され転々としていた。しかし、後に徳川家康の口利きによって許され、大和国で1万8千石を拝領する。ちなみに嫡男・織田秀雄は、越前国大野で5万石を拝領している。
だが、関ヶ原合戦の際に西軍に属したため、信雄は秀雄と父子ともどもまたもや改易に処せられてしまう。以後、信雄は大坂城などに居住していたが、大坂ノ陣が開戦する直前に大坂城を脱出し、徳川方に加担した。そこで、家康との古くからの親交もあり、元和元年に上野国小幡5万石を与えられるに至った。
陣屋の規模は大きく、南北450メートル、東西500メートルにわたる。輪郭式の陣屋であり、内堀を廻らせた本丸に相当する場所が藩主の居館で、その外側に総構え的に政庁や重臣の屋敷と外堀があったとされる。虎口にはそれぞれ枡形が用いられ、全体の構造はかつての小幡陣屋に共通するものがあり、行政面を重視した城郭であったという。
この天童陣屋で織田家は4代を経て明治維新に至るが、明治維新では新政府軍に属し、家老・吉田大八が奥羽鎮撫使先導代理を命じられて軍の先鋒を担うが、藩内の動員兵力は400名ほどであり実質的な戦闘ができたとも見られず、周囲の諸藩からも孤立し、戊辰戦争での幕府方の庄内藩の攻撃によって陣屋は焼失。城下町も半分ほどが焼亡した。
このため、天童藩もやむなく幕府方の奥越列藩同盟に加盟するが、責任を問われ吉田大八は切腹。さらに今度は新政府軍に攻撃され、降伏する。新政府により藩主・織田信敏は弟の織田寿重丸に家督を譲って隠居させられ、所領は没収されて2千石となった。
その後、織田寿重丸は幼少であったため、信敏が藩主(藩知事)に復帰し、明治四(1871)年には廃藩置県により天童県となり、同年8月に山形県に編入された。
現在は、遺構はほとんど失われており、本丸にあたる中央部分は JR羽越本線が貫通し、山形新幹線が走っている。
城域の東には、織田家が氏神とした喜太郎稲荷神社が残され(天童城北丸跡にある喜太郎稲荷神社とは別)、神社の境内にあたる土地が陣屋の中心部となっていた。南は公園になっている。その他は民家や畑になっており、大手門跡の標識などが建てられているのみである。神社脇の公民館前には広いスペースがあり、車も駐車できる。ただし神社の入り口が狭いため、道路から分かりにくい。
喜太郎稲荷神社の入口には当時、天童陣屋の門があり、近くには北辰一刀流道場「調武館」と稽古所が置かれ、天童織田藩の藩士が武術に励んでいたという。