大和国 多聞山城 とは
多聞山城の主要部は若草中学校にあり、西部は仁正皇后陵、聖武天皇陵、南部には佐保川が流れ、東は空堀を隔てて善勝寺山(現・若草中学校グラウンド)、その東は奈良への入り口である奈良坂と京街道になり交通の要衝を占めている。奈良の町の北方に位置する標高115メートル、比高30メートルのこの山は、元来「眉間寺山」と称されていたが、奈良の統治者を自認する松永久秀が、仏教で北方の守護神とされ、自身も信貴山城入城以来信仰している多聞天(信貴山には多聞天を本尊としている朝護孫子寺がある)にあやかって「多聞山」と改称し、眉間寺を仁聖武天皇陵裾に移して、近辺の西方寺も移転させ築城。多聞山城もしくは多聞城と称し、南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、久秀の大和国支配の拠点となり、奈良の町を威圧、統治した。
その周辺には、現在も多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。
松永久秀は当初、畿内大名・三好長慶の執事として仕えていた。三好長慶は最盛期には8カ国を領有し、信長の上洛以前には最大の勢力であった。そのような中、大和国も支配に治めるべく、久秀に命じ、永禄二(1559)年八月、当時の大和国の支配者であった筒井順慶を圧倒して対峙するとともに国人衆を支配した。信貴山城を改修し、以後久秀は大和国の実力者として台頭する。興福寺を抑え、大和国支配と南都への強権性を伴った領地支配の拠点として多聞山城は築城された。
築城前は、発掘調査によって中世の墓地があったことが明確になっている。瓦、骨壺、石塔、墓石等が出土しており、特に現在の若草中学校の体育館前辺りから多数出土した。築城前には眉間寺があり、その関係も指摘されている。 多聞山城の築城時期は、同じく久秀の大和国信貴山城の改修時期と同時期で、側近と重臣の屋敷から建設が始まったようである。多聞山城は築城途中であったが、永禄四(1561)年から重臣たちの屋敷はすでに使用されていた。永禄五(1562)年八月十二日午前八時頃から多聞山城の棟上げ式があり、久秀は奈良の住民を招待していた。
永禄七(1564)年七月、河内国飯盛山城で主君・三好長慶が病死すると、三好政権は三好三人衆と松永久秀の連立政権という形で運営されるようになる。しかし永禄八(1565)年五月の永禄の変以降、三人衆と久秀との関係は次第に悪化していく。同年十一月には三好政権は分裂し、三人衆は筒井順慶と連合軍を組み、永禄九(1566)年六月には筒井城を奪還し(筒井城合戦)、ついで永禄十(1567)年四月には東大寺に布陣し大仏殿を要塞化して多聞城に対峙し、南都(奈良)を制圧しようとした。だが、久秀も多聞山城から東大寺周辺の屋敷地を破却しつつ進撃し、同年十月十日、東大寺を襲撃し東大寺大仏殿合戦となる。これに勝利した久秀ではあるが、その後も争いは続き、永禄十一(1568)年六月の信貴山城合戦ではついに信貴山城を失った。
そんな中、同年九月に織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府将軍位に就けた。窮地に陥っていた久秀は義昭に降り、摂津国芥川山城で信長と手を結ぶ。織田軍2万の援軍を引き連れて久秀は信貴山城を逆に攻城して、落城から4ヵ月に筒井順慶と三好三人衆の連合軍から城の再奪取に成功する。だが戦闘は継続し、元亀二(1571)年八月の辰市城合戦では筒井軍が大勝するが、筒井順慶は明智光秀の仲介により織田軍に降伏した。すると将軍・義昭も順慶の参入を認めたために久秀と順慶は同格となり、両者の対立はさらに深刻化する。このため久秀は、武田信玄の西上作戦に伴い、将軍・義昭が画策した信長包囲網に加わり三好義継と共に信長に謀反を起こし信貴山城に籠城するが、天正元(1573)年四月に武田信玄が病死、七月に義昭が信長に追放され、十一月に三好義継も若江城合戦で討たれると、織田家重臣・佐久間信盛の軍に多聞山城を囲まれ、十二月に降伏した。多聞山城を明け渡す条件で久秀は許されたが、信長はすでに初戦の十一月二十九日の段階で佐久間に多聞山城を没収して赦免するよう指示しており、信長が久秀の影響力とともに同城の様々の宝物や御殿など建物を惜しんだためと言われる。十二月二十六日、多聞山城が開城すると信長は家臣・山岡景佐を城番に置き、以後は信長家の武将が留守番役として順に入り、天正二(1574)年一月十一日、明智光秀が二十四日と二十六日に城内で連歌会を開催し二月五日に美濃国へ出陣。その後は細川藤孝、三月九日に柴田勝家が入り、翌日に興福寺と春日大社への保護と、神鹿と猿沢池魚殺しの密告に百両報償を与える触れを出した。
同年三月二十七日、信長が多聞山城に入城し検分してから、翌日には東大寺正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を長持ごと多聞山城に運ばせ、同城の舞台で蘭奢待を一尺八寸切り取り配下に観賞させた。天正三(1575)年三月二十三日、織田家重臣・塙直政が南山城国に続き大和国の守護に任じられ多聞山城の城主となったが、天正四(1576)年五月三日、石山本願寺との天王寺城合戦で織田軍司令官として指揮をとっていた直政は討死した。その後、大和国守護には筒井順慶が任命された。織田信長は郡山城以外の、多聞山城を含めた大和国内の他城の破却を命じ、順慶は同年七月から京都所司代の村井貞勝の監督のもと破城を始め、天正五(1577)年六月には多聞山城も破壊され、城があった期間はわずか16年間だった。建材は、村井貞勝が差配して京に運ばれ信長の二条御所に活用された。久秀は同年八月に再び信長に対して謀反をおこし、信貴山城合戦で自害した。なお二条御所もまた、本能寺の変で信長の嫡男・織田信忠とともに焼失した。
久秀が信貴山城で自害した八月頃、多聞山城の破壊はほぼ完了していたが、城内には諸石類が残っており、これらは郡山城に転用された。豊臣秀吉の時代に、郡山城に代わる大和国の拠点として整備する計画があり普請担当大名たちの配置も決定したが中止となった。江戸時代に入ると、城跡には南麓には南都奉行所の与力や同心の屋敷が立ち並び、幕末には丘上が練兵場となり、廃城後も跡地は活用されていたが、昭和中期まで地形は築城当時のまま残されていた。しかし1948年に若草中学校が建設され、1978年には校舎新築のため、北側にわずかに残っていた土塁跡も破壊された。
中世の仮城形式から大きく進歩し、曲輪全体にそれまで寺院建築や公家などの屋敷にしかなかった礎石と石垣を使用して、壁には分厚い土壁、瓦葺の屋根の恒久的な建物を築いて奈良の街の支配と大和国全体を睨んだ拠点となる、先進的な平山城だった。城内には本丸(詰ノ丸)に主殿、会所、庫裏の座敷など豪華な建築が建ち並び、庭園、金工の太阿弥の引手などの内装や狩野派絵師の絵画、座敷の違い棚や茶室の落天井(客座に対して亭主の座る点前座の天井を一段低くして客に対する謙譲を示した作り)等の造作があり、本丸は、室町時代に守護邸などで全国各地に造られた、伝統的な室町将軍邸「花の御所」の模倣を志向したものだったと思われる。庫裏は久秀の常御殿で、天正三(1575)年に訪問した島津家久の日記によると、御殿は2階建てで「楊貴妃の間」があったとしている。西日本随一の豪華な城郭であり、有数の至宝である絵や茶道具も集められていた。連結した西ノ丸は通路沿いに重臣の屋敷や、家臣の家が建てられていた。城郭考古学者の千田嘉博によれば、本丸でも同様に久秀の屋敷と重臣の屋敷が並列していたが、西ノ丸は一段低い西隣の小丘(聖武天皇陵)に築かれたとしている。
また、天正五(1577)年の解体時には「高矢倉」と呼ばれた四階櫓があり、これが四重の天守ならば、安土城をはじめとする近世城郭における天守閣の先駆けと言えることになる。しかし、当時すでに存在した近江国坂本城も山城国勝龍寺城も御殿機能を備えた重層建築を「天守」と呼んでいたが、それと相違する4階の高層建築を「櫓」と呼んでいる以上、千田は多聞山城に存在した高矢倉は天守閣ではないと推測している。城郭用語の「天主」や「天守」はすでに元亀三(1572)年十二月二十二日に明智光秀の坂本城に対して『兼見卿記』で使用され、翌天正元(1573)年に坂本城小天守の下に立つ小座敷で連歌会を開く、同十(1582)年に小天守で光秀と面会したと記述している。天正元年の連歌会は、参加者への普請中の坂本城の竣工部分の披露も兼ねていた。それに対し多聞山城に関して「天守」という言及はない。だが、塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりとなったとされている。このように多聞山城は先駆的な要素を持った城で、中世の城郭様式から脱するものだったが、本丸と家臣居住区が一括化しているという以後の近世にはない形式で、その後の近世城郭に移行する過程として重要な城であったと位置づけられている。
多聞山城は、永禄三(1560)年に築城が開始され、翌永禄四(1561)年に松永久秀が入城し、続いて永禄七(1564)年に完成するが、天正元(1573)年末に織田信長に引き渡され、その後天正三年三月に織田家家臣・塙直政が大和国守護として入ったが、天正四年五月の直政の討死後、天正五(1577)年六月に多聞山城は破却され、城が存在した期間はわずか16年間だった。城の建物や内装は京の二条御所(将軍・足利義昭の居城)に移築され、石材の多くは大和国筒井城に用いられ、更に大和国郡山城にも移された。天正五(1577)年、松永久秀もまた最終的には大和国信貴山城で自害した。
ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス=デ=アルメイダの永禄八(1565)年十月二十五日付の書簡が、ルイス=フロイスの『日本史』に部分的に引用されているが、この書簡はアルメイダが松永久秀の家臣の招待を受けて多聞山城を見学した報告である。この書簡でアルメイダは、壁は白く光沢ある漆喰の壁で瓦葺の建物が建てられていて、どれも高い水準だと分析している。また、「都で美しいものを多く見たが、これとは比べ物にならない」、「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と絶賛し、本丸御殿については「壁は歴史物語を題材にした障壁画」、「柱は彫刻と金を塗り大きな薔薇」で飾られており、「庭園と宮庭の樹木は本当に美麗だ」と高く評価している。
また、当時の公卿・吉田兼右の『兼右卿記』にも「華麗さに目を奪われた」と記されており、薩摩国の戦国武将・島津家久の日記『家久君上京日記』には「多聞城内から大和が一望できた」と見聞、評価している。アルメイダの書簡の末尾には「日本全国よりこれを見るために来る」とあり、久秀は多聞山城への見学者の来訪を排除してはいなかったようである。なお、後の坂本城や安土城も識者や住民に城内を公開しており、戦国末には城主が城の公開を通して周辺の賛同を求める考えが広まっていた様子がある。
松永久秀は築城の名手との実績を残しているが、このような壮麗な城の築城が可能にするために、南都(奈良)の大寺院建築ノウハウが大きな要素になったとの説がある。瓦については西ノ京・斑鳩の橘氏などの世襲的瓦職人集団に、興福寺・東大寺の瓦工房の一部を取り込み再編成して、城郭専用の簡略化した瓦を焼成した初例となった。松永久秀は戦国時代末に現れた専制的な戦国領主の一人だが、城自体の構造は、重臣との一体性が強い状態を残している。
また、松永久秀は茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多聞山城で3回の茶会が行われたことが『松屋茶会記』に記載されている。この茶会記によると、多聞山城は6畳と4畳半の少なくとも2つの茶室もしくは茶亭があったと思われ、後に織田信長へ献上することになる茶入れ「九十九髪茄子」、また、信貴山城が落城する時に行方不明になった(伝説では久秀が爆死する時に粉々になった)茶釜「古天明平蜘蛛」の名も見受けられる。
多聞山城は、北と東西は横掘だが南は一部のみにとどまり佐保川を総堀にした小規模な城下町があり、一部は佐保川を越えて南側に城下町の建設を図り、現在は宅地化され定かではないが、『日本城郭大系』は一条通から南下する法連通にその面影が残っているとしている。多聞山城は、元の市街地から離れた小規模な総構えの平山城となっていたとみられる。
現在の多聞山城跡には、当時を思い起こさせるものはほとんど残っていない。本丸部分は現在は若草中学校が建っており、本丸の長さは140メートル、最大幅110メートルあり、発掘調査から元々この多聞山は平坦で、大規模な削平工事はなかったとみられている。また城跡の諸所で石材の抜き取り跡がみられ、これらを集積して積み上げた遺構もあり(五輪塔の一部の他に台座や箱地蔵、凝灰岩の自然石が乱雑に積み上げられていた)、天正七年に多聞山城の石材は大和国筒井城に移築されたが、これらの集石材から持ち去ったのか、または本丸の石垣を崩して持ち去ったのかは定かではない。土塁から外は今も土のままの急斜面で、石垣があったとしても撤去により土台が崩落するほどの大規模な高石垣は築かれなかったと見られる。また校舎と若草中学校グラウンドの間には大堀切(空堀)があり、多聞山と善勝寺山を分断する構造になっている。
若草中学校の西側には曲輪跡が比較的良好に残っている。この北西から西にかけて高さ1.5メートルの土塁があり、角の高さは3メートル、幅2メートルの壇状になっており、ここに櫓の一つが建っていたと思われる。
仁正皇太后陵は多聞山の南に突き出しており、現在も聖武天皇陵ともに立ち入りは禁止されている。そのような状況であるが、『日本城郭大系』は奈良文化財研究所作成の調整地形図から、仁正皇太后陵の西南隅に土塁と櫓台があったと想定している。また、この西側を切り落とし聖武天皇陵との間に堀切を作って本丸と分断してあり、この堀切からの道と虎口を見張っていたとしている。聖武天皇陵には、ここにも段状の帯曲輪のような部分が観察でき、出曲輪の役割を果たしていたのではないかと想定する。そのため両陵墓ともに多聞山城の城郭の一部であったと思われる。
発掘調査
多聞山城は2回にわたり、若草中学校の建設工事および改修工事に伴って発掘調査を実施している。
第一次発掘調査 …… 1947年11月~1950年10月
第二次発掘調査 …… 1978年7~8月
第一次発掘調査
1947年にはまだ文化財保護法が制定されておらず、若草中学校の建設工事に学術調査は行われなかった。しかし、若草中学校の職員が独自に地下遺構の調査を行った。この時珍しかったブルドーザーが使用され、工事の合間を見計らいながらという悪条件の中、実施された。
この発掘調査で、築城前は墓地であったこと、沢山の墓石が出土した中で一番多かったのは五輪塔であったことが明確になった。これらの石は、角石に石垣が使われ、石垣が築きにくい場所には、土塁、溝を造るのに利用されたと思われている。また、その土塁は小さいもので高さ0.8メートル、幅1.5メートル、大きいものでは3メートル、幅12.5メートルであることが確認されている。
第二次発掘調査
第二次発掘調査は若草中学校の木造校舎の改築工事に伴い奈良県教育委員会が実施し、校舎解体作業から立ち会い、どのような遺構が残っているのか期待されていたが、結局旧校舎建設時の基礎工事で地下遺構が全て失われていたことが確認できた。したがって発掘調査は、旧校舎の北側にあった土塁跡に限定された。
土塁
城の北側にあった土塁の構造は、石造遺物(墓石など)を平面的に並べ基底部の地固めをし、その上部に瓦を重ねて並べられていた。また、北方に低くなるように傾斜を加えられていた。これは水抜きと、客土、雨水の城内への流入を防ぐ目的で設けたと考えられている。
石組排水溝
東西22メートルにわたる排水機構が確認された。これが東南に延びていたと推察されている。
円形素掘り井戸
この井戸跡は『大和国多聞城諸国古城之図』にも記載されている井戸跡と思われており発掘調査で明確になった。東西4.96メートル、南北5.16メートル、深さはおおよそ4.5メートルのすり鉢状井戸で、当時としては珍しく、極めてまれな大きさの井戸であると見られている。また4.5メートルの深さでは地下水脈に届かないため雨水井戸ではないかと推察されている。
出土瓦
第一次発掘調査と第二次発掘調査から出土した瓦から、寺院との関係の深さが伺えるとしている。特に第一次発掘調査では「東大寺」と記載のある瓦が出土したり、第二次発掘調査でも数こそ多くなかったが、寺院から流用された瓦があると見られている。しかし大半の瓦は同一規格が認められ、城のために新規に用意されたものと考えてもよい。これらのことから、南都の諸寺が支配していた生産組織、瓦工集団に大きく依存していた可能性も考えられる。
最寄り駅 …… 近鉄奈良線奈良駅(奈良市東向中町)
多聞山城の主要部は若草中学校にあり、西部は仁正皇后陵、聖武天皇陵、南部には佐保川が流れ、東は空堀を隔てて善勝寺山(現・若草中学校グラウンド)、その東は奈良への入り口である奈良坂と京街道になり交通の要衝を占めている。奈良の町の北方に位置する標高115メートル、比高30メートルのこの山は、元来「眉間寺山」と称されていたが、奈良の統治者を自認する松永久秀が、仏教で北方の守護神とされ、自身も信貴山城入城以来信仰している多聞天(信貴山には多聞天を本尊としている朝護孫子寺がある)にあやかって「多聞山」と改称し、眉間寺を仁聖武天皇陵裾に移して、近辺の西方寺も移転させ築城。多聞山城もしくは多聞城と称し、南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、久秀の大和国支配の拠点となり、奈良の町を威圧、統治した。
その周辺には、現在も多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。
松永久秀は当初、畿内大名・三好長慶の執事として仕えていた。三好長慶は最盛期には8カ国を領有し、信長の上洛以前には最大の勢力であった。そのような中、大和国も支配に治めるべく、久秀に命じ、永禄二(1559)年八月、当時の大和国の支配者であった筒井順慶を圧倒して対峙するとともに国人衆を支配した。信貴山城を改修し、以後久秀は大和国の実力者として台頭する。興福寺を抑え、大和国支配と南都への強権性を伴った領地支配の拠点として多聞山城は築城された。
築城前は、発掘調査によって中世の墓地があったことが明確になっている。瓦、骨壺、石塔、墓石等が出土しており、特に現在の若草中学校の体育館前辺りから多数出土した。築城前には眉間寺があり、その関係も指摘されている。 多聞山城の築城時期は、同じく久秀の大和国信貴山城の改修時期と同時期で、側近と重臣の屋敷から建設が始まったようである。多聞山城は築城途中であったが、永禄四(1561)年から重臣たちの屋敷はすでに使用されていた。永禄五(1562)年八月十二日午前八時頃から多聞山城の棟上げ式があり、久秀は奈良の住民を招待していた。
永禄七(1564)年七月、河内国飯盛山城で主君・三好長慶が病死すると、三好政権は三好三人衆と松永久秀の連立政権という形で運営されるようになる。しかし永禄八(1565)年五月の永禄の変以降、三人衆と久秀との関係は次第に悪化していく。同年十一月には三好政権は分裂し、三人衆は筒井順慶と連合軍を組み、永禄九(1566)年六月には筒井城を奪還し(筒井城合戦)、ついで永禄十(1567)年四月には東大寺に布陣し大仏殿を要塞化して多聞城に対峙し、南都(奈良)を制圧しようとした。だが、久秀も多聞山城から東大寺周辺の屋敷地を破却しつつ進撃し、同年十月十日、東大寺を襲撃し東大寺大仏殿合戦となる。これに勝利した久秀ではあるが、その後も争いは続き、永禄十一(1568)年六月の信貴山城合戦ではついに信貴山城を失った。
そんな中、同年九月に織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府将軍位に就けた。窮地に陥っていた久秀は義昭に降り、摂津国芥川山城で信長と手を結ぶ。織田軍2万の援軍を引き連れて久秀は信貴山城を逆に攻城して、落城から4ヵ月に筒井順慶と三好三人衆の連合軍から城の再奪取に成功する。だが戦闘は継続し、元亀二(1571)年八月の辰市城合戦では筒井軍が大勝するが、筒井順慶は明智光秀の仲介により織田軍に降伏した。すると将軍・義昭も順慶の参入を認めたために久秀と順慶は同格となり、両者の対立はさらに深刻化する。このため久秀は、武田信玄の西上作戦に伴い、将軍・義昭が画策した信長包囲網に加わり三好義継と共に信長に謀反を起こし信貴山城に籠城するが、天正元(1573)年四月に武田信玄が病死、七月に義昭が信長に追放され、十一月に三好義継も若江城合戦で討たれると、織田家重臣・佐久間信盛の軍に多聞山城を囲まれ、十二月に降伏した。多聞山城を明け渡す条件で久秀は許されたが、信長はすでに初戦の十一月二十九日の段階で佐久間に多聞山城を没収して赦免するよう指示しており、信長が久秀の影響力とともに同城の様々の宝物や御殿など建物を惜しんだためと言われる。十二月二十六日、多聞山城が開城すると信長は家臣・山岡景佐を城番に置き、以後は信長家の武将が留守番役として順に入り、天正二(1574)年一月十一日、明智光秀が二十四日と二十六日に城内で連歌会を開催し二月五日に美濃国へ出陣。その後は細川藤孝、三月九日に柴田勝家が入り、翌日に興福寺と春日大社への保護と、神鹿と猿沢池魚殺しの密告に百両報償を与える触れを出した。
同年三月二十七日、信長が多聞山城に入城し検分してから、翌日には東大寺正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を長持ごと多聞山城に運ばせ、同城の舞台で蘭奢待を一尺八寸切り取り配下に観賞させた。天正三(1575)年三月二十三日、織田家重臣・塙直政が南山城国に続き大和国の守護に任じられ多聞山城の城主となったが、天正四(1576)年五月三日、石山本願寺との天王寺城合戦で織田軍司令官として指揮をとっていた直政は討死した。その後、大和国守護には筒井順慶が任命された。織田信長は郡山城以外の、多聞山城を含めた大和国内の他城の破却を命じ、順慶は同年七月から京都所司代の村井貞勝の監督のもと破城を始め、天正五(1577)年六月には多聞山城も破壊され、城があった期間はわずか16年間だった。建材は、村井貞勝が差配して京に運ばれ信長の二条御所に活用された。久秀は同年八月に再び信長に対して謀反をおこし、信貴山城合戦で自害した。なお二条御所もまた、本能寺の変で信長の嫡男・織田信忠とともに焼失した。
久秀が信貴山城で自害した八月頃、多聞山城の破壊はほぼ完了していたが、城内には諸石類が残っており、これらは郡山城に転用された。豊臣秀吉の時代に、郡山城に代わる大和国の拠点として整備する計画があり普請担当大名たちの配置も決定したが中止となった。江戸時代に入ると、城跡には南麓には南都奉行所の与力や同心の屋敷が立ち並び、幕末には丘上が練兵場となり、廃城後も跡地は活用されていたが、昭和中期まで地形は築城当時のまま残されていた。しかし1948年に若草中学校が建設され、1978年には校舎新築のため、北側にわずかに残っていた土塁跡も破壊された。
中世の仮城形式から大きく進歩し、曲輪全体にそれまで寺院建築や公家などの屋敷にしかなかった礎石と石垣を使用して、壁には分厚い土壁、瓦葺の屋根の恒久的な建物を築いて奈良の街の支配と大和国全体を睨んだ拠点となる、先進的な平山城だった。城内には本丸(詰ノ丸)に主殿、会所、庫裏の座敷など豪華な建築が建ち並び、庭園、金工の太阿弥の引手などの内装や狩野派絵師の絵画、座敷の違い棚や茶室の落天井(客座に対して亭主の座る点前座の天井を一段低くして客に対する謙譲を示した作り)等の造作があり、本丸は、室町時代に守護邸などで全国各地に造られた、伝統的な室町将軍邸「花の御所」の模倣を志向したものだったと思われる。庫裏は久秀の常御殿で、天正三(1575)年に訪問した島津家久の日記によると、御殿は2階建てで「楊貴妃の間」があったとしている。西日本随一の豪華な城郭であり、有数の至宝である絵や茶道具も集められていた。連結した西ノ丸は通路沿いに重臣の屋敷や、家臣の家が建てられていた。城郭考古学者の千田嘉博によれば、本丸でも同様に久秀の屋敷と重臣の屋敷が並列していたが、西ノ丸は一段低い西隣の小丘(聖武天皇陵)に築かれたとしている。
また、天正五(1577)年の解体時には「高矢倉」と呼ばれた四階櫓があり、これが四重の天守ならば、安土城をはじめとする近世城郭における天守閣の先駆けと言えることになる。しかし、当時すでに存在した近江国坂本城も山城国勝龍寺城も御殿機能を備えた重層建築を「天守」と呼んでいたが、それと相違する4階の高層建築を「櫓」と呼んでいる以上、千田は多聞山城に存在した高矢倉は天守閣ではないと推測している。城郭用語の「天主」や「天守」はすでに元亀三(1572)年十二月二十二日に明智光秀の坂本城に対して『兼見卿記』で使用され、翌天正元(1573)年に坂本城小天守の下に立つ小座敷で連歌会を開く、同十(1582)年に小天守で光秀と面会したと記述している。天正元年の連歌会は、参加者への普請中の坂本城の竣工部分の披露も兼ねていた。それに対し多聞山城に関して「天守」という言及はない。だが、塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりとなったとされている。このように多聞山城は先駆的な要素を持った城で、中世の城郭様式から脱するものだったが、本丸と家臣居住区が一括化しているという以後の近世にはない形式で、その後の近世城郭に移行する過程として重要な城であったと位置づけられている。
多聞山城は、永禄三(1560)年に築城が開始され、翌永禄四(1561)年に松永久秀が入城し、続いて永禄七(1564)年に完成するが、天正元(1573)年末に織田信長に引き渡され、その後天正三年三月に織田家家臣・塙直政が大和国守護として入ったが、天正四年五月の直政の討死後、天正五(1577)年六月に多聞山城は破却され、城が存在した期間はわずか16年間だった。城の建物や内装は京の二条御所(将軍・足利義昭の居城)に移築され、石材の多くは大和国筒井城に用いられ、更に大和国郡山城にも移された。天正五(1577)年、松永久秀もまた最終的には大和国信貴山城で自害した。
ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス=デ=アルメイダの永禄八(1565)年十月二十五日付の書簡が、ルイス=フロイスの『日本史』に部分的に引用されているが、この書簡はアルメイダが松永久秀の家臣の招待を受けて多聞山城を見学した報告である。この書簡でアルメイダは、壁は白く光沢ある漆喰の壁で瓦葺の建物が建てられていて、どれも高い水準だと分析している。また、「都で美しいものを多く見たが、これとは比べ物にならない」、「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と絶賛し、本丸御殿については「壁は歴史物語を題材にした障壁画」、「柱は彫刻と金を塗り大きな薔薇」で飾られており、「庭園と宮庭の樹木は本当に美麗だ」と高く評価している。
また、当時の公卿・吉田兼右の『兼右卿記』にも「華麗さに目を奪われた」と記されており、薩摩国の戦国武将・島津家久の日記『家久君上京日記』には「多聞城内から大和が一望できた」と見聞、評価している。アルメイダの書簡の末尾には「日本全国よりこれを見るために来る」とあり、久秀は多聞山城への見学者の来訪を排除してはいなかったようである。なお、後の坂本城や安土城も識者や住民に城内を公開しており、戦国末には城主が城の公開を通して周辺の賛同を求める考えが広まっていた様子がある。
松永久秀は築城の名手との実績を残しているが、このような壮麗な城の築城が可能にするために、南都(奈良)の大寺院建築ノウハウが大きな要素になったとの説がある。瓦については西ノ京・斑鳩の橘氏などの世襲的瓦職人集団に、興福寺・東大寺の瓦工房の一部を取り込み再編成して、城郭専用の簡略化した瓦を焼成した初例となった。松永久秀は戦国時代末に現れた専制的な戦国領主の一人だが、城自体の構造は、重臣との一体性が強い状態を残している。
また、松永久秀は茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多聞山城で3回の茶会が行われたことが『松屋茶会記』に記載されている。この茶会記によると、多聞山城は6畳と4畳半の少なくとも2つの茶室もしくは茶亭があったと思われ、後に織田信長へ献上することになる茶入れ「九十九髪茄子」、また、信貴山城が落城する時に行方不明になった(伝説では久秀が爆死する時に粉々になった)茶釜「古天明平蜘蛛」の名も見受けられる。
多聞山城は、北と東西は横掘だが南は一部のみにとどまり佐保川を総堀にした小規模な城下町があり、一部は佐保川を越えて南側に城下町の建設を図り、現在は宅地化され定かではないが、『日本城郭大系』は一条通から南下する法連通にその面影が残っているとしている。多聞山城は、元の市街地から離れた小規模な総構えの平山城となっていたとみられる。
現在の多聞山城跡には、当時を思い起こさせるものはほとんど残っていない。本丸部分は現在は若草中学校が建っており、本丸の長さは140メートル、最大幅110メートルあり、発掘調査から元々この多聞山は平坦で、大規模な削平工事はなかったとみられている。また城跡の諸所で石材の抜き取り跡がみられ、これらを集積して積み上げた遺構もあり(五輪塔の一部の他に台座や箱地蔵、凝灰岩の自然石が乱雑に積み上げられていた)、天正七年に多聞山城の石材は大和国筒井城に移築されたが、これらの集石材から持ち去ったのか、または本丸の石垣を崩して持ち去ったのかは定かではない。土塁から外は今も土のままの急斜面で、石垣があったとしても撤去により土台が崩落するほどの大規模な高石垣は築かれなかったと見られる。また校舎と若草中学校グラウンドの間には大堀切(空堀)があり、多聞山と善勝寺山を分断する構造になっている。
若草中学校の西側には曲輪跡が比較的良好に残っている。この北西から西にかけて高さ1.5メートルの土塁があり、角の高さは3メートル、幅2メートルの壇状になっており、ここに櫓の一つが建っていたと思われる。
仁正皇太后陵は多聞山の南に突き出しており、現在も聖武天皇陵ともに立ち入りは禁止されている。そのような状況であるが、『日本城郭大系』は奈良文化財研究所作成の調整地形図から、仁正皇太后陵の西南隅に土塁と櫓台があったと想定している。また、この西側を切り落とし聖武天皇陵との間に堀切を作って本丸と分断してあり、この堀切からの道と虎口を見張っていたとしている。聖武天皇陵には、ここにも段状の帯曲輪のような部分が観察でき、出曲輪の役割を果たしていたのではないかと想定する。そのため両陵墓ともに多聞山城の城郭の一部であったと思われる。
発掘調査
多聞山城は2回にわたり、若草中学校の建設工事および改修工事に伴って発掘調査を実施している。
第一次発掘調査 …… 1947年11月~1950年10月
第二次発掘調査 …… 1978年7~8月
第一次発掘調査
1947年にはまだ文化財保護法が制定されておらず、若草中学校の建設工事に学術調査は行われなかった。しかし、若草中学校の職員が独自に地下遺構の調査を行った。この時珍しかったブルドーザーが使用され、工事の合間を見計らいながらという悪条件の中、実施された。
この発掘調査で、築城前は墓地であったこと、沢山の墓石が出土した中で一番多かったのは五輪塔であったことが明確になった。これらの石は、角石に石垣が使われ、石垣が築きにくい場所には、土塁、溝を造るのに利用されたと思われている。また、その土塁は小さいもので高さ0.8メートル、幅1.5メートル、大きいものでは3メートル、幅12.5メートルであることが確認されている。
第二次発掘調査
第二次発掘調査は若草中学校の木造校舎の改築工事に伴い奈良県教育委員会が実施し、校舎解体作業から立ち会い、どのような遺構が残っているのか期待されていたが、結局旧校舎建設時の基礎工事で地下遺構が全て失われていたことが確認できた。したがって発掘調査は、旧校舎の北側にあった土塁跡に限定された。
土塁
城の北側にあった土塁の構造は、石造遺物(墓石など)を平面的に並べ基底部の地固めをし、その上部に瓦を重ねて並べられていた。また、北方に低くなるように傾斜を加えられていた。これは水抜きと、客土、雨水の城内への流入を防ぐ目的で設けたと考えられている。
石組排水溝
東西22メートルにわたる排水機構が確認された。これが東南に延びていたと推察されている。
円形素掘り井戸
この井戸跡は『大和国多聞城諸国古城之図』にも記載されている井戸跡と思われており発掘調査で明確になった。東西4.96メートル、南北5.16メートル、深さはおおよそ4.5メートルのすり鉢状井戸で、当時としては珍しく、極めてまれな大きさの井戸であると見られている。また4.5メートルの深さでは地下水脈に届かないため雨水井戸ではないかと推察されている。
出土瓦
第一次発掘調査と第二次発掘調査から出土した瓦から、寺院との関係の深さが伺えるとしている。特に第一次発掘調査では「東大寺」と記載のある瓦が出土したり、第二次発掘調査でも数こそ多くなかったが、寺院から流用された瓦があると見られている。しかし大半の瓦は同一規格が認められ、城のために新規に用意されたものと考えてもよい。これらのことから、南都の諸寺が支配していた生産組織、瓦工集団に大きく依存していた可能性も考えられる。
最寄り駅 …… 近鉄奈良線奈良駅(奈良市東向中町)