長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第36回 「尾張国 那古野城」資料編

2020年01月14日 20時12分51秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 那古野城 とは

 那古野城(なごやじょう)は、戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現・愛知県名古屋市中区二の丸)にあった平城。東海地方の大名・今川氏親(今川義元の父)が築城した。16世紀前半に30年間ほど存続して廃城となるが、城跡は廃城から半世紀ほど後に再び城地に取り立てられ、名古屋城になった。

 那古野は、もともと今川氏親が尾張国東部まで支配領域を拡大していた大永年間(1521~28年)に、氏親が尾張国進出の拠点として、現在の名古屋市中心部が広がる熱田台地(名古屋台地)の西北端に築城した「柳ノ丸」を起源とする。柳ノ丸の城主は、氏親の一族の今川氏豊という武将であったと伝えられている。
 天文元(1532)年、尾張国勝幡城(現・稲沢市)の織田信秀が計略により今川氏豊を追放して柳ノ丸を奪い、拠点をここに移したとされる。那古野城という城名は、この時に信秀がつけたという説がある。
 信秀は那古野城を幼い嫡男・信長に譲り、自身は同じ熱田台地の東南方を固めるために、現在の真宗大谷派名古屋別院(名古屋市中区)のある地に古渡城を築いてそこに移った。
 天文二十四(1555)年頃、信秀の後を継いでいた織田信長は、一族の織田信友を滅ぼして尾張国清州城(現・清須市)に移った。信長が離れた後の那古野城には信長の叔父・信光や重臣・林秀貞らが一時入ったが、やがて廃城となった。

 それから50年後の1609年に徳川家康がこの城跡に目をつけるが、名古屋城の築城に着手する直前には、鷹狩に使われるような荒れ野になっていたと伝えられている。

遺構
 中世城郭の那古野城は、近世城郭の名古屋城内に完全に取り込まれたため、中世の那古野城を直接に偲ばせる遺構はほとんど現存しない。ただし、名古屋城二之丸が那古野城跡にあたるとされており、現在、二之丸内に那古野城址の石碑が建っている。
 また、「那古野」の地名は名古屋城の西南に残っているが、現在は「なごの」と読む。
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