ハイどうもこんばんは! そうだいでございます~。みなさま、夏も終わりに近づいてまいりましたが、あんじょうやっとりまっか?
いやぁもう、実感は全然わかないのですが夏が終わったら秋ですよ。秋が来るってことは、今年ももう後半戦なんですよ! 早いですね~。
ほんと、日々あくせく働いておりますと時間なんてあっという間に過ぎてしまうのですが、楽しく生きてはいるものの、家にゃ積ん読な本も山ほどありますし、世間にゃ観たい映画やらドラマやらアニメやらもゴロゴロある、外を歩きゃあ行きたい温泉も城跡も無尽蔵にあるしで……仕事に疲れてすぐ眠くなってしまうこの身がにくい~! 私に残された人生時間がどのくらいあるのかはわからないのですが、一日にやれることが限られている中、どう取捨選択して楽しんでいくのかも大事ですよね。もう大学生時代みたいに時間と体力があるわけでもないんだし。なにごとも健康第一よぉ。目が悪くなれば本も読みにくくなるし、足が痛くなれば遠出も難しくなっちゃうわけですからね。今日も野菜ジュースあおって運動だ!!
それはそれとして、今日も今日とて恒例の「ヒッチコックの諸作を古い順に観ていく企画」の続きでございます。新しいエンタメを楽しむのもいいですが、温故知新も大切よ~! 特に、今回取り上げる作品は、ヒッチコックの映画人生を通観していくにしても非常に重要な作品であります!
さっそくいってみましょう、ヒッチコック新時代の幕開けを告げる、この一作!
映画『レベッカ』(1940年3月公開 130分 アメリカ)
『レベッカ』(Rebecca)は、アルフレッド=ヒッチコック監督によるサイコスリラー映画。イギリスで活動していたヒッチコックの渡米第1作。ダフニ=デュ・モーリエの小説『レベッカ』(1938年)を原作とし、制作はセルズニック・プロ、アメリカでの配給はユナイテッド・アーティスツが担当した。第13回アカデミー賞にてアカデミー賞最優秀作品賞と撮影賞(モノクロ部門)の2部門を獲得した。ヒッチコックは監督賞にノミネートされていたが、結局受賞できなかった。ヒッチコックにとっては生涯唯一のアカデミー最優秀作品賞であるが、のちにフランソワ=トリュフォーとの対談でヒッチコックは「あれ(作品賞)はセルズニックに与えられた賞だ」と語っている。ヒッチコックはその後4度も監督賞にノミネートされたが結局受賞することはなく、壇上でオスカーを手にしたのは1967年にアーヴィング・タールバーグ記念賞(功労賞)を受賞した時の一度きりであった。
製作費は約130万ドル、アメリカ・カナダでの興行収入は約600万ドルだった。
ヒッチコックは小説『レベッカ』の発表時から映画化を検討していたが、版権を取得できずに断念した経緯があったため、この作品を手がけることには乗り気だったと思われる。しかし、ヒッチコックはこれまで常に自作の脚本に関与してきていたが、今作のシナリオ制作には参加できず、しかも撮影中にプロデューサーのデイヴィッド=O=セルズニックから多くの横やりが入っており、ヒッチコックにとってはおおいに不本意な制作環境であったという。ヒッチコックはセルズニックが撮影現場に押しかけるのを拒み、そのためにラッシュを見たセルズニックから膨大な指示メモを受け取るようになったという。
男性側の主演を務めたローレンス=オリヴィエは、当時の自身の恋人ヴィヴィアン=リーとの本作での共演を望んでいたため、撮影中はフォンテインに冷たい態度をとった。オリヴィエの態度にフォンテインが恐れを抱いたことに気付いたヒッチコックは、撮影スタジオにいる全員に対して、フォンテインに対してつらく当たるように伝えた。これによって、フォンテインから恥ずかしがりで打ち解けられない演技を引き出したのであった。
セルズニックは、本作のロケ地としてアメリカのニューイングランド地方を中心に探したが条件に合う場所がなかった。そこで遠景はミニチュアで撮影されたのだが、これがこの世ならぬ雰囲気をかもし出すためにはかえって効果的であった。またヒッチコックは、屋敷の立地を示すような映像を意図的に描かず、屋敷の存在をさらに神秘的なものにしている。
セルズニックは、ラストシーンで燃えさかるマンダレイ邸の煙突から「R」の文字の煙を出させたかったが、ヒッチコックは技術上の困難さを理由に断った。その代わりに、レベッカのベッドの枕の「R」のイニシャルが炎の中に消えていく演出に差し替えた。
ヒッチコック監督は、本編開始2時間6分23秒頃、駐車禁止を巡査にとがめられたジャックの後ろを通り過ぎるコートを着た通行人の役で出演している。
あらすじ
アメリカ人の富豪ヴァン・ホッパー夫人の付き人として地中海モナコ公国のモンテカルロのホテルにやってきた「わたし」は、そこでイギリスの貴族であるマキシムと出逢い、2人は恋に落ちる。マキシムは1年前にヨット事故で前妻レベッカを亡くしていたのだが、彼女はマキシムの後妻として、イギリスの大邸宅マンダレイへ赴く決意をする。多くの使用人がいる邸宅の女主人として、控えめながらも暮らしていこうとする彼女だったが、かつてのレベッカ付きの家政婦で今も邸宅を取り仕切るダンヴァース夫人にはなかなか受け入れてもらえない。次第に「わたし」は、死んだはずの前妻レベッカの見えない影に追いつめられていく。
おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(40歳)
脚本 …… ロバート=エメット・シャーウッド(43歳)、ジョーン=ハリソン(32歳)
製作 …… デイヴィッド=O=セルズニック(37歳)
音楽 …… フランツ=ワックスマン(33歳)
撮影 …… ジョージ=バーンズ(47歳)
おもなキャスティング
わたし …… ジョーン=フォンテイン(22歳)
マキシム=ド・ウィンター …… ローレンス=オリヴィエ(32歳)
家政婦長ダンヴァース夫人 …… ジュディス=アンダーソン(43歳)
執事長のフィルス …… エドワード=フィールディング(65歳)
ジャック=ファヴェル …… ジョージ=サンダース(33歳)
フランク=クロウリー …… レジナルド=デニー(48歳)
ベアトリス=レイシー …… グラディス=クーパー(51歳)
ジャイルズ=レイシー少佐 …… ナイジェル=ブルース(45歳)
浮浪者のベン …… レオナルド=キャリー(53歳)
ジュリアン署長 …… チャールズ=オーブリー・スミス(76歳)
船大工のジェイムズ=タブ …… ラムスデン=ヘイア(65歳)
ベイカー医師 …… レオ=グラッテン・キャロル(58歳)
イーディス=ヴァン・ホッパー夫人 …… フローレンス=ベイツ(51歳)
いや~、ついにここまできましたよ、ヒッチコック、新天地アメリカに上陸!!
本作は、ヒッチコック監督の長編映画第24作となるのですが、今まで15年間母国イギリスで制作してきた23作までを「第1部・ヒッチコック立志編」とするのならば、この『レベッカ』からは「第2部・ヒッチコック黄金時代編」と言えるのではないでしょうか。
無論、先のことを言うとヒッチコック監督はここから35年以上、監督最終作にいたるまで基本的にはアメリカで活動し続けていくので、『レベッカ』以降をぜんぶひっくるめて論じることはできないのですが、まずここが、ヒッチコック監督にとってのかなり大きなターニングポイントとなっているのは間違いないでしょう。
ちなみに、ここまでのイギリス時代の中でもヒッチコック監督のキャリアの中では「サイレント映画時代」と「トーキー映画時代」という大きな区別があったわけなのですが、過去の記事でもふれたようにサイレントからトーキーへの世代交代に関しては、けっこうグラデーションのある感じで徐々にシフトしていくものでしたので、今回の「渡米」ほどにかっちりした転換点は無かったかと思います。トーキー初期はサイレントのセリフを使わない演出も引き続き多用されていましたし。
でも、ほんとに今回の『レベッカ』は、明らかにヒッチコックの映画制作環境が変わったんだろうな、と察することが容易な雰囲気に満ちているんですよね。つまり、今までのヒッチコック作品とは毛色がまるで違った作品。それがこの『レベッカ』なのです。まぁ、それが「面白いのか」どうかは別の話なんですけど……
まず、作品の内容に入る前にヒッチコック監督の長いキャリアの中での『レベッカ』の存在感を考えてみたいのですが、何と言っても無視できないのは、本作がヒッチコックの生涯の中で唯一、アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞した作品であるということでしょう。
つまり、ヒッチコックを知らない人が彼について知ろうとするときに、とりあえず賞レースの観点から言えば、53作ある監督作品の中でもいちばん高く評価されたのがこの『レベッカ』ということになるからです。
なんか、サスペンス・スリラーという映画のジャンルの中で「最低限この人の作品は観てないと……」とよく引き合いに出されているヒッチコックという神監督がいるぞ、と聞いた時、興味を持った人はとりあえず「どの作品がおもしろいの?」と調べると思うのですが、まずはネット上の評判を見るというのが手っ取り早い手段でしょう。そして、ぱっと見ですぐわかる基準として「賞とってる作品は?」という見方も当然あるのではないでしょうか。そうした場合、はっきりと他作品と区別できるアドバンテージとして、『レベッカ』のアカデミー作品賞受賞はひときわ輝くものがあるかとは思うのです。実際、30年以上前に紅顔のビデオ少年だった私も、『サイコ』だ『鳥』だ『裏窓』だとは言われてますが、やっぱり関口宏さんとか西田ひかるさんとかが出ていたヒッチコックに関する伝記番組みたいなものを観てみても、イギリスからハリウッドに跳んだヒッチコックが『レベッカ』で大いに名を挙げたというくだりは必要不可欠な重大トピックになっていたものでした。
ところが、ひるがえって振り返ってみますと、我々は『レベッカ』の何を知っているのか……ぶっちゃけ、ちゃんと『レベッカ』観てる人って、どのくらいいんの?と疑問に感じてしまうのです。
例えば、TV番組で『レベッカ』が紹介される時に数秒流れるダイジェストカットと言いますと、代表的なのはやっぱり、「豪華な時代もののドレスを着こんだわたしが登場して夫のマキシムの表情が凍りつくシーン」と、「ダンヴァース夫人が窓際でわたしに身投げするよう詰め寄るシーン」の2つでしょう。
この2つ、どちらもマキシム夫婦の住むマンダレイの大邸宅を舞台にしているシーンですし、特に前者はその場にいる人物全員が古めかしい衣装に仮装しているパーティ上でのやり取りですので、おそらくこれらの紹介映像を見ただけの人のほとんどは、『レベッカ』って、『風と共に去りぬ』(1939年 ヴィクター=フレミング監督)みたいな歴史劇なんじゃなかろうかと勘違いしてしまったのではないでしょうか。プロデューサーもおんなじセルズニックだし。
実際にかくいう私も、だいぶ後年になってほんとに『レベッカ』をちゃんと観たら、歴史劇どころか何の変哲もないメロドラマみたいな現代劇設定だったので、なんというか、ぶっちゃけ肩透かしを食らった気になってしまった記憶があります。あれ、これ、他のヒッチコック作品と大して変わんないスケールじゃん、みたいな。そうなんだったら、モノクロだし歴史劇っぽいしで先入観で警戒せずに、さっさと気軽に観ておけばよかったのにな~と。
ところが……この『レベッカ』って、ミョ~にヒッチコックらしくないんですよね。よく言えば「重厚」というか、物語が展開もテンポも非常に丁寧な進行になっていて、ハリウッドデビュー作とは思えない落ち着きに満ちたつくりになっている、とも言えるのですが……
ない、ない! ヒッチコック作品のトレードマークともいえる、観客をいきなりドキッとさせる斬新な映像演出が、どこにもな~い!!
不思議なんですよね~。これ以降の作品と比較してももちろんなのですが、はっきり言ってこれ以前のイギリス時代の過去作品のどれと比べても、あの古色蒼然たるサイレント時代の諸作を引き合いに出してさえも、この『レベッカ』ほどに保守的な撮り方の作品はどこにもない、と思ってしまうほど、『レベッカ』は古臭いのです。なんか、ヒッチコック監督とクレジットされなかったら誰が撮ったのか全然わからないくらい。
いや、もちろんそのことをもって、『レベッカ』をつまらないという気はさらさらありません。面白いです、この作品はさすが、ある賞のグランプリを獲得するだけあって一定のレベルはゆうに超えている傑作ではあるのですが……先ほどにあげた作品情報でご本人がそう明言しておられたように、『レベッカ』の面白さはヒッチコックの面白さではない、としか言いようがないのです。
じゃあなんの面白さなのかと言えば、そりゃもう言うまでもなく原作小説の面白さですよね。デュ・モーリエの小説『レベッカ』に実に忠実な映像化。まぁ、おそらくは当時の倫理的な問題から後半に微妙な改変はあるのですが、映画版の大半の面白いシーンは、小説ですでにしっかりと、より詳しく描写されているのです。
そう言われてみると、この「かなり忠実な映像化」という部分も、ヒッチコック作品らしからぬ非常に珍しいもので、イギリス時代のヒッチコック作品の多くは、映画化される前にすでに有名な原作小説や戯曲があったものが大半なのですが、『下宿人』(1927年)しかり『第3逃亡者』(1937年)しかり、原作小説を読んでみると「どこ見て映画化しとんねん」とツッコみたくなってしまうような「超訳」アレンジ作品がざらだったような気がします。
そういった大胆な改変の根底にあったのは間違いなく、ヒッチコックのプロの映像作家としての「映像化するなら絶対こっちのほうが面白い」という確信であったわけなのですが、今回の『レベッカ』にいたっては、まるで借りてきたネコのようにおとなしくなって、かなり従順に淡々と小説の展開を映像化しているな、といった印象の仕事になってしまっているのです。なので、あのヒッチコックの作品だと意気込んで『レベッカ』を観てしまうと、特に原作小説を読んだうえで観ると「あれ?」な感じになってしまうのです。フツーだなぁ、みたいな。
というか、今回にいたってはあのヒッチコックをもってしても、映画版『レベッカ』は原作小説の「わかりやすい映像化」という評価しか得られないような気さえして、判断は人それぞれだとしても、映画と小説を比較した時に、面白さで軍配が上がるのは圧倒的にデュ・モーリエの小説の方なのではないでしょうか。
いや~、今回この記事をつづるために、こちらもほぼ30年ぶりに小説『レベッカ』を読み直してみたのですが(新潮文庫の茅野美ど里2008年訳版)、こんなに面白い作品だとはねぇ。なんか、私の大好きな辻村深月ワールドに通じる人間描写の鋭さと遠慮の無さがあるんですよね。
特に、主人公のわたしがマンダレイで暮らしていくにつれて、徐々に亡妻レベッカの幻影をぐいぐいと押しのけてマキシムの新たな「支配者」になっていこうとするしたたかさというか、何も知らない娘が政治的な富豪夫人に変貌してゆく心理的な過程が克明につづられていくのには、レベッカの死の謎なんかどうでもよくなる勢いで戦慄させられてしまいます。今風の言い方で言うと「人怖系サスペンス」の古典なんですよね、これ。
ただ、そこらへんをハリウッドの娯楽映画というコンプライアンスにのっとってビックリするくらいに「健全」にしてしまっているのが、映画版『レベッカ』の改変点なのでありまして、このために、小説の中でかなり存在感のある主人公として確実な成長(豹変?)を見せていたわたしは、レベッカの幻影やその死の真相におびえるか驚愕し続けるだけのかよわい目撃者の役割だけしか与えられず、真相を知る夫マキシムもまた、レベッカの死への関わり方はずいぶんとマイルドなものに変えられてしまっているのでした。極端な話、小説では各登場人物が平等にかかえていた「罪」が、映画版では「ぜんぶレベッカかダンヴァース夫人のせい。」と押しつけられてしまった感がありますよね。こういうわかりやすさは……面白さを減らす方向にしか機能していないような気がします。
あと、映像化される際に原作に出ていた登場人物が数名カットされてしまうのは仕方のない事かとは思うのですが、マンダレイでのわたしの数少ない共感者であるドジっ子メイドのクラリスや、わたしを前にして「あんただれ? 私の好きなレベッカはどこ?」と気まずい発言をしてしまうマキシムのボケた祖母といった魅力的な面々が活躍しないのは、もったいないとしか言えません。
特に、小説ではあんなに切れ味が鋭かった「ラストの幕切れ」が、映画版ではごくごくふつうのスペクタクル展開になってしまったのは、これこそまさに「蛇足」の好例といった感じですよね。ただ、あそこでスパッとおしまいにしてもいいのが小説の良さで、その一方、野暮であることは承知の上でも、観客のためにマキシムが危機におちいったわたしを必死で救うという通過儀礼はちゃんと描かないといけないという映画の、エンタメとしてのつらいところなのかな、という気はしました。そこはまぁ、お金をかけてやらなきゃいけないお約束だったのでしょう。大邸宅を出したからには火ィつけろというプロデューサー様のお達しが~!
ただ、今回のように内容の簡略化に舵を切った映画の場合、確かにラストに大邸宅の炎上を持ってきたのは判断として正解というしかなく、小説のようなリアルで生々しいわたしの心理描写をさっぴいてしまうと、この作品はマキシムしか知らないレベッカの死の真相をめぐる法廷劇や、レベッカの主治医をまじえて辛気くさい顔をしたおっさん達が集まって話し合うやり取りがクライマックスになっちゃうので、そんなんで終われるわけないやろがい!!とばかりに、小説に無いカタストロフィを持ってこさせたセルズニックの剛腕は正しかったのではないでしょうか。でも、この手も『風と共に去りぬ』の二匹目のどじょう感が強いし、それなのに『レベッカ』はモノクロだし邸宅もミニチュアだしで……後発なのに、あんまし勝ててないんだよなぁ。
ほんと、あの巨匠ヒッチコックにも、ハリウッド駆け出しのころはこんな使いっぱしりな日々があったのねぇ、という感じで。
でも、けっこう当時としては斬新すぎて変な撮り方も多かったけど、いざやろうとしたら、このくらい真っ当で正統派なメロドラマも撮れるんだぜとばかりに、ヒッチコックの奇才なだけでもない万能選手っぷりをハリウッドにアピールできたという意味では、この作品を世に出した効果もマイナスなばかりではなかったのではないでしょうか。実際、ここからしばらくヒッチコックは、受注した作品をノンジャンルで器用に映画化していく堅実雌伏なコツコツキャリアアップ期に入るので、この『レベッカ』という豪華すぎる名刺をちゃんと作れたことは、ヒッチコックの映画人生において大きな利点をもたらしてくれたと言えると思います。
いかな天才ヒッチコックといえども、自分の好きな作品ばっかり撮っていたわけではないんだなぁ。あえて自分の牙を隠しておとなし~く撮った映画『レベッカ』の存在意義は、その地味すぎる無個性さにこそ、逆にしっかりと刻み込まれているのです!
でもまぁ、この作品はほんと、睡眠を充分に摂って心の余裕がある時にゆ~ったりと観るべき作品だと思います。そのぐらいハードルを低くして臨めば、この「減点も加点もない、毒にも薬にもならない良品」の世界を楽しめるのではないでしょうか。いや~、ヒッチコックらしくねぇ!!
だいたいこの作品、物語の重要な転換ポイントを長ったらしい説明ゼリフとか登場人物の表情の演技のどっちかで押し通し過ぎなんですよ! そりゃ主人公ペアは名優オリヴィエと、美貌よりは演技力の方が目立つフォンテインなんですから、その実力を使わないのは損なわけなのですが、ヒッチコックの俳優に頼らない演出テクニックは相対的に沈黙しちゃいますよね。う~ん……だったら映画じゃなくて演劇でやったら!?
マキシムの大邸宅も、イングランド南西端の英仏海峡に面した海辺の風光明媚な地所で、濃霧にむせぶ海の描写もけっこう出てくるのですが、とてもじゃないですが前作『巌窟の野獣』であれだけエネルギッシュで生命力あふれる大海原の躍動を描き切った映画監督と同じ人とは思えないほど、無機質でスタジオ撮影っぽい平々凡々な「海でーす。」タッチにとどまっています。えっ、前作と同じコーンウォールの海ですよね!? なんでこんなに熱量が違うの? まぁ、メロドラマの世界にいかつい難破船荒らしが出てきてもいけませんけど。いやいや、アカデミー賞獲った『レベッカ』よりも『巌窟の野獣』のほうが断然面白いって、どういうこと!?
あともう一つ、この映画はのちに、性的マイノリティにスポットライトを当てたドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』(1996年一般公開)でもプッシュされたように、亡きレベッカへの恋慕に近い想いをわたしにぶつけるダンヴァース夫人の妖しげな魅力を語られることも多いのですが、これも「あぁ、そう見ればそうかなぁ」みたいな程度で、特にそれほど先見の明のある映像には見えず、ただひたすら無心に小説をなぞったという印象しか残りませんでした。やっぱり、ヒッチコック監督は百合にはご興味はござらぬご様子……ブロンド美女一直線!!
ま、小説版のダンヴァーズ夫人は「ガイコツみたいに痩せた女性」とこっぴどく描写されているので、映画版のような艶っぽさもありそうにないんですけど。ホラーですねぇ~、Love is over ですねぇ~!!
かくいうごとく、この『レベッカ』という作品は、「ヒッチコックらしさを極力排除」という異常すぎる内容でありながらも、おそらくはそのために当時のアメリカ大衆の大評判と映画界の高評価を勝ち取って、その後のハリウッドにおけるヒッチコック無双時代の礎を築いた尊い犠牲、人柱のような重要作となっております。「ここは耐えろ……!」と歯を食いしばって撮影を続けたヒッチコックの鉄の意志が伝わってくるような平凡作なんですね! 売れるって、大変なんだな。
おそらく『レベッカ』が公開された当時、主にイギリスにいたヒッチコックのコアなファン層は、「なんてつまんない映画を撮ってるんだ! おれ達のトンガりまくったヒッチはどこに行った!?」と落胆し、嘆く声も多かったのではないでしょうか。わかるわかる、私も思春期の時に、大好きだったインディーズバンドがメジャーデビューして『ジャンプ』あたりの大人気マンガのアニメ版の OPか EDを担当して一躍有名になった時は、うれしい反面、「なんて毒の無いつまんねぇ歌を唄ってるんだ……!!」とガッカリしたものでした。あれ、単にファンがいきなり増えたことが癪にさわってるだけなんですけどね。
でも、この時の落胆が完全なる杞憂に過ぎなかったことは、その後のヒッチコックの仕事が如実に証明しているわけなのであります。ヒッチコックはファンの期待を裏切らなかった!!
繰り返しますが、くれぐれも勘違いしないでいただきたいのは、本作は決して駄作ではないということなのです。あくまでもヒッチコックのキャリアの中で言えば決して印象深い傑作には選ばれなさそう、というだけなのであって、観て損をするような失敗作では絶対にないです。本編時間だって130分と、2020年代現在の2時間30分越え当たり前のひどい状況から見れば、むしろ良心的なほうなんですからね! まぁ、だからって退屈しないわけでもないんですが……
本作、決して「おもしろいぞ!」とか「ヒッチコックの代表作だぞ!」とは言えないのですが、メロドラマのお手本のような作劇術と、小説の世界を映像化するとはどういうことなのかを考えたい方にとっては、恰好の教科書になるのではないでしょうか。
こういう作品をてらいなくちゃんと作れるのも稀有な才能ですよね。もしかしたらヒッチコックの「職人」的才能の最高峰が、この『レベッカ』なのかも?
天才ヒッチコックの新天地ハリウッドにおける本領発揮は、まだまだ先のことなのであった!
がんばれヒッチ、負けるなヒッチ~!!
いやぁもう、実感は全然わかないのですが夏が終わったら秋ですよ。秋が来るってことは、今年ももう後半戦なんですよ! 早いですね~。
ほんと、日々あくせく働いておりますと時間なんてあっという間に過ぎてしまうのですが、楽しく生きてはいるものの、家にゃ積ん読な本も山ほどありますし、世間にゃ観たい映画やらドラマやらアニメやらもゴロゴロある、外を歩きゃあ行きたい温泉も城跡も無尽蔵にあるしで……仕事に疲れてすぐ眠くなってしまうこの身がにくい~! 私に残された人生時間がどのくらいあるのかはわからないのですが、一日にやれることが限られている中、どう取捨選択して楽しんでいくのかも大事ですよね。もう大学生時代みたいに時間と体力があるわけでもないんだし。なにごとも健康第一よぉ。目が悪くなれば本も読みにくくなるし、足が痛くなれば遠出も難しくなっちゃうわけですからね。今日も野菜ジュースあおって運動だ!!
それはそれとして、今日も今日とて恒例の「ヒッチコックの諸作を古い順に観ていく企画」の続きでございます。新しいエンタメを楽しむのもいいですが、温故知新も大切よ~! 特に、今回取り上げる作品は、ヒッチコックの映画人生を通観していくにしても非常に重要な作品であります!
さっそくいってみましょう、ヒッチコック新時代の幕開けを告げる、この一作!
映画『レベッカ』(1940年3月公開 130分 アメリカ)
『レベッカ』(Rebecca)は、アルフレッド=ヒッチコック監督によるサイコスリラー映画。イギリスで活動していたヒッチコックの渡米第1作。ダフニ=デュ・モーリエの小説『レベッカ』(1938年)を原作とし、制作はセルズニック・プロ、アメリカでの配給はユナイテッド・アーティスツが担当した。第13回アカデミー賞にてアカデミー賞最優秀作品賞と撮影賞(モノクロ部門)の2部門を獲得した。ヒッチコックは監督賞にノミネートされていたが、結局受賞できなかった。ヒッチコックにとっては生涯唯一のアカデミー最優秀作品賞であるが、のちにフランソワ=トリュフォーとの対談でヒッチコックは「あれ(作品賞)はセルズニックに与えられた賞だ」と語っている。ヒッチコックはその後4度も監督賞にノミネートされたが結局受賞することはなく、壇上でオスカーを手にしたのは1967年にアーヴィング・タールバーグ記念賞(功労賞)を受賞した時の一度きりであった。
製作費は約130万ドル、アメリカ・カナダでの興行収入は約600万ドルだった。
ヒッチコックは小説『レベッカ』の発表時から映画化を検討していたが、版権を取得できずに断念した経緯があったため、この作品を手がけることには乗り気だったと思われる。しかし、ヒッチコックはこれまで常に自作の脚本に関与してきていたが、今作のシナリオ制作には参加できず、しかも撮影中にプロデューサーのデイヴィッド=O=セルズニックから多くの横やりが入っており、ヒッチコックにとってはおおいに不本意な制作環境であったという。ヒッチコックはセルズニックが撮影現場に押しかけるのを拒み、そのためにラッシュを見たセルズニックから膨大な指示メモを受け取るようになったという。
男性側の主演を務めたローレンス=オリヴィエは、当時の自身の恋人ヴィヴィアン=リーとの本作での共演を望んでいたため、撮影中はフォンテインに冷たい態度をとった。オリヴィエの態度にフォンテインが恐れを抱いたことに気付いたヒッチコックは、撮影スタジオにいる全員に対して、フォンテインに対してつらく当たるように伝えた。これによって、フォンテインから恥ずかしがりで打ち解けられない演技を引き出したのであった。
セルズニックは、本作のロケ地としてアメリカのニューイングランド地方を中心に探したが条件に合う場所がなかった。そこで遠景はミニチュアで撮影されたのだが、これがこの世ならぬ雰囲気をかもし出すためにはかえって効果的であった。またヒッチコックは、屋敷の立地を示すような映像を意図的に描かず、屋敷の存在をさらに神秘的なものにしている。
セルズニックは、ラストシーンで燃えさかるマンダレイ邸の煙突から「R」の文字の煙を出させたかったが、ヒッチコックは技術上の困難さを理由に断った。その代わりに、レベッカのベッドの枕の「R」のイニシャルが炎の中に消えていく演出に差し替えた。
ヒッチコック監督は、本編開始2時間6分23秒頃、駐車禁止を巡査にとがめられたジャックの後ろを通り過ぎるコートを着た通行人の役で出演している。
あらすじ
アメリカ人の富豪ヴァン・ホッパー夫人の付き人として地中海モナコ公国のモンテカルロのホテルにやってきた「わたし」は、そこでイギリスの貴族であるマキシムと出逢い、2人は恋に落ちる。マキシムは1年前にヨット事故で前妻レベッカを亡くしていたのだが、彼女はマキシムの後妻として、イギリスの大邸宅マンダレイへ赴く決意をする。多くの使用人がいる邸宅の女主人として、控えめながらも暮らしていこうとする彼女だったが、かつてのレベッカ付きの家政婦で今も邸宅を取り仕切るダンヴァース夫人にはなかなか受け入れてもらえない。次第に「わたし」は、死んだはずの前妻レベッカの見えない影に追いつめられていく。
おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(40歳)
脚本 …… ロバート=エメット・シャーウッド(43歳)、ジョーン=ハリソン(32歳)
製作 …… デイヴィッド=O=セルズニック(37歳)
音楽 …… フランツ=ワックスマン(33歳)
撮影 …… ジョージ=バーンズ(47歳)
おもなキャスティング
わたし …… ジョーン=フォンテイン(22歳)
マキシム=ド・ウィンター …… ローレンス=オリヴィエ(32歳)
家政婦長ダンヴァース夫人 …… ジュディス=アンダーソン(43歳)
執事長のフィルス …… エドワード=フィールディング(65歳)
ジャック=ファヴェル …… ジョージ=サンダース(33歳)
フランク=クロウリー …… レジナルド=デニー(48歳)
ベアトリス=レイシー …… グラディス=クーパー(51歳)
ジャイルズ=レイシー少佐 …… ナイジェル=ブルース(45歳)
浮浪者のベン …… レオナルド=キャリー(53歳)
ジュリアン署長 …… チャールズ=オーブリー・スミス(76歳)
船大工のジェイムズ=タブ …… ラムスデン=ヘイア(65歳)
ベイカー医師 …… レオ=グラッテン・キャロル(58歳)
イーディス=ヴァン・ホッパー夫人 …… フローレンス=ベイツ(51歳)
いや~、ついにここまできましたよ、ヒッチコック、新天地アメリカに上陸!!
本作は、ヒッチコック監督の長編映画第24作となるのですが、今まで15年間母国イギリスで制作してきた23作までを「第1部・ヒッチコック立志編」とするのならば、この『レベッカ』からは「第2部・ヒッチコック黄金時代編」と言えるのではないでしょうか。
無論、先のことを言うとヒッチコック監督はここから35年以上、監督最終作にいたるまで基本的にはアメリカで活動し続けていくので、『レベッカ』以降をぜんぶひっくるめて論じることはできないのですが、まずここが、ヒッチコック監督にとってのかなり大きなターニングポイントとなっているのは間違いないでしょう。
ちなみに、ここまでのイギリス時代の中でもヒッチコック監督のキャリアの中では「サイレント映画時代」と「トーキー映画時代」という大きな区別があったわけなのですが、過去の記事でもふれたようにサイレントからトーキーへの世代交代に関しては、けっこうグラデーションのある感じで徐々にシフトしていくものでしたので、今回の「渡米」ほどにかっちりした転換点は無かったかと思います。トーキー初期はサイレントのセリフを使わない演出も引き続き多用されていましたし。
でも、ほんとに今回の『レベッカ』は、明らかにヒッチコックの映画制作環境が変わったんだろうな、と察することが容易な雰囲気に満ちているんですよね。つまり、今までのヒッチコック作品とは毛色がまるで違った作品。それがこの『レベッカ』なのです。まぁ、それが「面白いのか」どうかは別の話なんですけど……
まず、作品の内容に入る前にヒッチコック監督の長いキャリアの中での『レベッカ』の存在感を考えてみたいのですが、何と言っても無視できないのは、本作がヒッチコックの生涯の中で唯一、アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞した作品であるということでしょう。
つまり、ヒッチコックを知らない人が彼について知ろうとするときに、とりあえず賞レースの観点から言えば、53作ある監督作品の中でもいちばん高く評価されたのがこの『レベッカ』ということになるからです。
なんか、サスペンス・スリラーという映画のジャンルの中で「最低限この人の作品は観てないと……」とよく引き合いに出されているヒッチコックという神監督がいるぞ、と聞いた時、興味を持った人はとりあえず「どの作品がおもしろいの?」と調べると思うのですが、まずはネット上の評判を見るというのが手っ取り早い手段でしょう。そして、ぱっと見ですぐわかる基準として「賞とってる作品は?」という見方も当然あるのではないでしょうか。そうした場合、はっきりと他作品と区別できるアドバンテージとして、『レベッカ』のアカデミー作品賞受賞はひときわ輝くものがあるかとは思うのです。実際、30年以上前に紅顔のビデオ少年だった私も、『サイコ』だ『鳥』だ『裏窓』だとは言われてますが、やっぱり関口宏さんとか西田ひかるさんとかが出ていたヒッチコックに関する伝記番組みたいなものを観てみても、イギリスからハリウッドに跳んだヒッチコックが『レベッカ』で大いに名を挙げたというくだりは必要不可欠な重大トピックになっていたものでした。
ところが、ひるがえって振り返ってみますと、我々は『レベッカ』の何を知っているのか……ぶっちゃけ、ちゃんと『レベッカ』観てる人って、どのくらいいんの?と疑問に感じてしまうのです。
例えば、TV番組で『レベッカ』が紹介される時に数秒流れるダイジェストカットと言いますと、代表的なのはやっぱり、「豪華な時代もののドレスを着こんだわたしが登場して夫のマキシムの表情が凍りつくシーン」と、「ダンヴァース夫人が窓際でわたしに身投げするよう詰め寄るシーン」の2つでしょう。
この2つ、どちらもマキシム夫婦の住むマンダレイの大邸宅を舞台にしているシーンですし、特に前者はその場にいる人物全員が古めかしい衣装に仮装しているパーティ上でのやり取りですので、おそらくこれらの紹介映像を見ただけの人のほとんどは、『レベッカ』って、『風と共に去りぬ』(1939年 ヴィクター=フレミング監督)みたいな歴史劇なんじゃなかろうかと勘違いしてしまったのではないでしょうか。プロデューサーもおんなじセルズニックだし。
実際にかくいう私も、だいぶ後年になってほんとに『レベッカ』をちゃんと観たら、歴史劇どころか何の変哲もないメロドラマみたいな現代劇設定だったので、なんというか、ぶっちゃけ肩透かしを食らった気になってしまった記憶があります。あれ、これ、他のヒッチコック作品と大して変わんないスケールじゃん、みたいな。そうなんだったら、モノクロだし歴史劇っぽいしで先入観で警戒せずに、さっさと気軽に観ておけばよかったのにな~と。
ところが……この『レベッカ』って、ミョ~にヒッチコックらしくないんですよね。よく言えば「重厚」というか、物語が展開もテンポも非常に丁寧な進行になっていて、ハリウッドデビュー作とは思えない落ち着きに満ちたつくりになっている、とも言えるのですが……
ない、ない! ヒッチコック作品のトレードマークともいえる、観客をいきなりドキッとさせる斬新な映像演出が、どこにもな~い!!
不思議なんですよね~。これ以降の作品と比較してももちろんなのですが、はっきり言ってこれ以前のイギリス時代の過去作品のどれと比べても、あの古色蒼然たるサイレント時代の諸作を引き合いに出してさえも、この『レベッカ』ほどに保守的な撮り方の作品はどこにもない、と思ってしまうほど、『レベッカ』は古臭いのです。なんか、ヒッチコック監督とクレジットされなかったら誰が撮ったのか全然わからないくらい。
いや、もちろんそのことをもって、『レベッカ』をつまらないという気はさらさらありません。面白いです、この作品はさすが、ある賞のグランプリを獲得するだけあって一定のレベルはゆうに超えている傑作ではあるのですが……先ほどにあげた作品情報でご本人がそう明言しておられたように、『レベッカ』の面白さはヒッチコックの面白さではない、としか言いようがないのです。
じゃあなんの面白さなのかと言えば、そりゃもう言うまでもなく原作小説の面白さですよね。デュ・モーリエの小説『レベッカ』に実に忠実な映像化。まぁ、おそらくは当時の倫理的な問題から後半に微妙な改変はあるのですが、映画版の大半の面白いシーンは、小説ですでにしっかりと、より詳しく描写されているのです。
そう言われてみると、この「かなり忠実な映像化」という部分も、ヒッチコック作品らしからぬ非常に珍しいもので、イギリス時代のヒッチコック作品の多くは、映画化される前にすでに有名な原作小説や戯曲があったものが大半なのですが、『下宿人』(1927年)しかり『第3逃亡者』(1937年)しかり、原作小説を読んでみると「どこ見て映画化しとんねん」とツッコみたくなってしまうような「超訳」アレンジ作品がざらだったような気がします。
そういった大胆な改変の根底にあったのは間違いなく、ヒッチコックのプロの映像作家としての「映像化するなら絶対こっちのほうが面白い」という確信であったわけなのですが、今回の『レベッカ』にいたっては、まるで借りてきたネコのようにおとなしくなって、かなり従順に淡々と小説の展開を映像化しているな、といった印象の仕事になってしまっているのです。なので、あのヒッチコックの作品だと意気込んで『レベッカ』を観てしまうと、特に原作小説を読んだうえで観ると「あれ?」な感じになってしまうのです。フツーだなぁ、みたいな。
というか、今回にいたってはあのヒッチコックをもってしても、映画版『レベッカ』は原作小説の「わかりやすい映像化」という評価しか得られないような気さえして、判断は人それぞれだとしても、映画と小説を比較した時に、面白さで軍配が上がるのは圧倒的にデュ・モーリエの小説の方なのではないでしょうか。
いや~、今回この記事をつづるために、こちらもほぼ30年ぶりに小説『レベッカ』を読み直してみたのですが(新潮文庫の茅野美ど里2008年訳版)、こんなに面白い作品だとはねぇ。なんか、私の大好きな辻村深月ワールドに通じる人間描写の鋭さと遠慮の無さがあるんですよね。
特に、主人公のわたしがマンダレイで暮らしていくにつれて、徐々に亡妻レベッカの幻影をぐいぐいと押しのけてマキシムの新たな「支配者」になっていこうとするしたたかさというか、何も知らない娘が政治的な富豪夫人に変貌してゆく心理的な過程が克明につづられていくのには、レベッカの死の謎なんかどうでもよくなる勢いで戦慄させられてしまいます。今風の言い方で言うと「人怖系サスペンス」の古典なんですよね、これ。
ただ、そこらへんをハリウッドの娯楽映画というコンプライアンスにのっとってビックリするくらいに「健全」にしてしまっているのが、映画版『レベッカ』の改変点なのでありまして、このために、小説の中でかなり存在感のある主人公として確実な成長(豹変?)を見せていたわたしは、レベッカの幻影やその死の真相におびえるか驚愕し続けるだけのかよわい目撃者の役割だけしか与えられず、真相を知る夫マキシムもまた、レベッカの死への関わり方はずいぶんとマイルドなものに変えられてしまっているのでした。極端な話、小説では各登場人物が平等にかかえていた「罪」が、映画版では「ぜんぶレベッカかダンヴァース夫人のせい。」と押しつけられてしまった感がありますよね。こういうわかりやすさは……面白さを減らす方向にしか機能していないような気がします。
あと、映像化される際に原作に出ていた登場人物が数名カットされてしまうのは仕方のない事かとは思うのですが、マンダレイでのわたしの数少ない共感者であるドジっ子メイドのクラリスや、わたしを前にして「あんただれ? 私の好きなレベッカはどこ?」と気まずい発言をしてしまうマキシムのボケた祖母といった魅力的な面々が活躍しないのは、もったいないとしか言えません。
特に、小説ではあんなに切れ味が鋭かった「ラストの幕切れ」が、映画版ではごくごくふつうのスペクタクル展開になってしまったのは、これこそまさに「蛇足」の好例といった感じですよね。ただ、あそこでスパッとおしまいにしてもいいのが小説の良さで、その一方、野暮であることは承知の上でも、観客のためにマキシムが危機におちいったわたしを必死で救うという通過儀礼はちゃんと描かないといけないという映画の、エンタメとしてのつらいところなのかな、という気はしました。そこはまぁ、お金をかけてやらなきゃいけないお約束だったのでしょう。大邸宅を出したからには火ィつけろというプロデューサー様のお達しが~!
ただ、今回のように内容の簡略化に舵を切った映画の場合、確かにラストに大邸宅の炎上を持ってきたのは判断として正解というしかなく、小説のようなリアルで生々しいわたしの心理描写をさっぴいてしまうと、この作品はマキシムしか知らないレベッカの死の真相をめぐる法廷劇や、レベッカの主治医をまじえて辛気くさい顔をしたおっさん達が集まって話し合うやり取りがクライマックスになっちゃうので、そんなんで終われるわけないやろがい!!とばかりに、小説に無いカタストロフィを持ってこさせたセルズニックの剛腕は正しかったのではないでしょうか。でも、この手も『風と共に去りぬ』の二匹目のどじょう感が強いし、それなのに『レベッカ』はモノクロだし邸宅もミニチュアだしで……後発なのに、あんまし勝ててないんだよなぁ。
ほんと、あの巨匠ヒッチコックにも、ハリウッド駆け出しのころはこんな使いっぱしりな日々があったのねぇ、という感じで。
でも、けっこう当時としては斬新すぎて変な撮り方も多かったけど、いざやろうとしたら、このくらい真っ当で正統派なメロドラマも撮れるんだぜとばかりに、ヒッチコックの奇才なだけでもない万能選手っぷりをハリウッドにアピールできたという意味では、この作品を世に出した効果もマイナスなばかりではなかったのではないでしょうか。実際、ここからしばらくヒッチコックは、受注した作品をノンジャンルで器用に映画化していく堅実雌伏なコツコツキャリアアップ期に入るので、この『レベッカ』という豪華すぎる名刺をちゃんと作れたことは、ヒッチコックの映画人生において大きな利点をもたらしてくれたと言えると思います。
いかな天才ヒッチコックといえども、自分の好きな作品ばっかり撮っていたわけではないんだなぁ。あえて自分の牙を隠しておとなし~く撮った映画『レベッカ』の存在意義は、その地味すぎる無個性さにこそ、逆にしっかりと刻み込まれているのです!
でもまぁ、この作品はほんと、睡眠を充分に摂って心の余裕がある時にゆ~ったりと観るべき作品だと思います。そのぐらいハードルを低くして臨めば、この「減点も加点もない、毒にも薬にもならない良品」の世界を楽しめるのではないでしょうか。いや~、ヒッチコックらしくねぇ!!
だいたいこの作品、物語の重要な転換ポイントを長ったらしい説明ゼリフとか登場人物の表情の演技のどっちかで押し通し過ぎなんですよ! そりゃ主人公ペアは名優オリヴィエと、美貌よりは演技力の方が目立つフォンテインなんですから、その実力を使わないのは損なわけなのですが、ヒッチコックの俳優に頼らない演出テクニックは相対的に沈黙しちゃいますよね。う~ん……だったら映画じゃなくて演劇でやったら!?
マキシムの大邸宅も、イングランド南西端の英仏海峡に面した海辺の風光明媚な地所で、濃霧にむせぶ海の描写もけっこう出てくるのですが、とてもじゃないですが前作『巌窟の野獣』であれだけエネルギッシュで生命力あふれる大海原の躍動を描き切った映画監督と同じ人とは思えないほど、無機質でスタジオ撮影っぽい平々凡々な「海でーす。」タッチにとどまっています。えっ、前作と同じコーンウォールの海ですよね!? なんでこんなに熱量が違うの? まぁ、メロドラマの世界にいかつい難破船荒らしが出てきてもいけませんけど。いやいや、アカデミー賞獲った『レベッカ』よりも『巌窟の野獣』のほうが断然面白いって、どういうこと!?
あともう一つ、この映画はのちに、性的マイノリティにスポットライトを当てたドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』(1996年一般公開)でもプッシュされたように、亡きレベッカへの恋慕に近い想いをわたしにぶつけるダンヴァース夫人の妖しげな魅力を語られることも多いのですが、これも「あぁ、そう見ればそうかなぁ」みたいな程度で、特にそれほど先見の明のある映像には見えず、ただひたすら無心に小説をなぞったという印象しか残りませんでした。やっぱり、ヒッチコック監督は百合にはご興味はござらぬご様子……ブロンド美女一直線!!
ま、小説版のダンヴァーズ夫人は「ガイコツみたいに痩せた女性」とこっぴどく描写されているので、映画版のような艶っぽさもありそうにないんですけど。ホラーですねぇ~、Love is over ですねぇ~!!
かくいうごとく、この『レベッカ』という作品は、「ヒッチコックらしさを極力排除」という異常すぎる内容でありながらも、おそらくはそのために当時のアメリカ大衆の大評判と映画界の高評価を勝ち取って、その後のハリウッドにおけるヒッチコック無双時代の礎を築いた尊い犠牲、人柱のような重要作となっております。「ここは耐えろ……!」と歯を食いしばって撮影を続けたヒッチコックの鉄の意志が伝わってくるような平凡作なんですね! 売れるって、大変なんだな。
おそらく『レベッカ』が公開された当時、主にイギリスにいたヒッチコックのコアなファン層は、「なんてつまんない映画を撮ってるんだ! おれ達のトンガりまくったヒッチはどこに行った!?」と落胆し、嘆く声も多かったのではないでしょうか。わかるわかる、私も思春期の時に、大好きだったインディーズバンドがメジャーデビューして『ジャンプ』あたりの大人気マンガのアニメ版の OPか EDを担当して一躍有名になった時は、うれしい反面、「なんて毒の無いつまんねぇ歌を唄ってるんだ……!!」とガッカリしたものでした。あれ、単にファンがいきなり増えたことが癪にさわってるだけなんですけどね。
でも、この時の落胆が完全なる杞憂に過ぎなかったことは、その後のヒッチコックの仕事が如実に証明しているわけなのであります。ヒッチコックはファンの期待を裏切らなかった!!
繰り返しますが、くれぐれも勘違いしないでいただきたいのは、本作は決して駄作ではないということなのです。あくまでもヒッチコックのキャリアの中で言えば決して印象深い傑作には選ばれなさそう、というだけなのであって、観て損をするような失敗作では絶対にないです。本編時間だって130分と、2020年代現在の2時間30分越え当たり前のひどい状況から見れば、むしろ良心的なほうなんですからね! まぁ、だからって退屈しないわけでもないんですが……
本作、決して「おもしろいぞ!」とか「ヒッチコックの代表作だぞ!」とは言えないのですが、メロドラマのお手本のような作劇術と、小説の世界を映像化するとはどういうことなのかを考えたい方にとっては、恰好の教科書になるのではないでしょうか。
こういう作品をてらいなくちゃんと作れるのも稀有な才能ですよね。もしかしたらヒッチコックの「職人」的才能の最高峰が、この『レベッカ』なのかも?
天才ヒッチコックの新天地ハリウッドにおける本領発揮は、まだまだ先のことなのであった!
がんばれヒッチ、負けるなヒッチ~!!