晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

垣根涼介 『光秀の定理』

2021-08-15 | 日本人作家 か

気が付いたら一年の半分どころか三分の二が終わろうとしています。個人的には秋から冬にかけてのだんだんと朝起きるときに布団から出たくなくなってきて、日照時間が短くなってゆく、あの感じが一年の中で一番好きなので、はやくこないかなー。

さて、垣根涼介さんです。この作品が初めての時代小説ということなんでしょうかね。

タイトルに(光秀)とあるくらいですから主人公は明智光秀なのですが、光秀といえばあの自分の上司というか雇用主を宿泊先もろとも燃やしちゃったでおなじみの(変)がありますが、その場面の詳細はなく、光秀が無職というかニート同然だったころに新九郎という兵法者と愚息という破戒僧の二人と出会ったのですが、秀吉の天下に移ったあたりにこの二人が「なんで光秀はあんなことをしたのか」と回想というか分析をする、という方式。

もう今さら「あの(変)の真相は!」みたいなのは、過去に映像作品でも小説でもさんざん考察されてますから、この作品内でも事実のみで特に触れていません。

関東から京に来た兵法者の新九郎。ある日のこと、道端に人だかりができていたので覗いてみると、坊主が足軽を相手に賭け事をしています。坊主の前には四つの伏せてある茶椀。その中のひとつに石ころが入っています。賭ける椀はひとつで、当たれば足軽の勝ち、外れれば坊主の勝ち。坊主は、賭けられてない三つのうち二つを開けます。石ころは入っていません。残りは二つでどちらかに石ころが入ってます。そこで坊主が「最初に賭けた茶椀を変えてもよい」といいます。どちらかに石ころが入ってるわけですから、確率は半々。こうやって、足軽が勝ったり、坊主が勝ったりするのですが、回数を重ねていくうちに、坊主のほうが勝っていきます。そのうち足軽が「お前イカサマやってるだろ」と怒り出しますが、だれがどう見てもインチキはしていません。そのうち賭け事がお開きになると、新九郎は坊主に声をかけて、さっきの四つの茶椀のからくりを教えてもらおうとします。坊主の名は愚息。逆に「では、一から十まで足した数はいくつかすぐ答えよ」と聞かれますが、すぐに答えられず、愚息から凡人じゃなと馬鹿にされます。

こんな出会いがあってしばらくして、夜のこと。旅姿の武士が「命が惜しければ金と剣を置いていけ」と脅してきます。ところが新九郎が構えると、相手はあっさり降参します。新九郎はいつぞやの愚息の問い「一から十まで足した数はいくつか」と武士に聞くと「五十五」と即答。なんでそんなに短時間で答えられたのか聞くと、武士は地面に

一二三四五六七八九十
十九八七六五四三二一

と書き、「上と下をそれぞれ足すと十一で十個あるから百十になってそれの半分」とすんなり答えます。新九郎と愚息はこの武士の名を訪ねます。武士は「姓は明智、諱は光秀、字は十兵衛、明智十兵衛光秀と申す」と名乗ります。
今は細川藤孝の屋敷に厄介になっているので、遊びにきてくれ」といいます。

「明智家」は、清和源氏の流れを組む美濃(現在の岐阜県)源氏の土岐氏の庶流で、いわば正統の武家で、主君である美濃の斎藤家が戦国時代の天下取りレースでは序盤に脱落してしまい、(正統)明智家の光秀も浪人として細川藤孝の家に厄介になっています。ちなみに細川家も清和源氏の足利家の支流にあたります。

新九郎と愚息は細川の屋敷に招かれ、藤孝は愚息が天竺に行って原始仏教の経典を学んできたことに興味を持ちます。そんなこんなで時は過ぎ、京の政局で大事件が。十三代将軍足利義輝が殺されたのです。しかし、足利将軍家の「嫡男以外は出家する」という伝統で奈良の一条院門跡の覚慶(義輝の実弟、のちの十五代将軍足利義昭)は、いずれ興福寺別当になるとのことで南都と余計な争いは避けたい松永家・三好家は覚慶を幽閉するにとどめておきました。そこで、藤孝と光秀は、覚慶に将軍になってもらおうとして、一条院からの脱出を計画します。尾崎豊の「今夜、家出の計画を立てる」どころの騒ぎではありません。作品中では、この脱出計画に新九郎と愚息も関わってきます。

この頃、新九郎は村で道場を開いて、村の子どもたちに剣術を教えます。金が無いので木刀が揃えられず、しかたなく笹の棒で打ち合いの稽古をします。しかし、フニャフニャした笹ではまともな打ち合いなどできません。そこで新九郎は、余計な力を抜いて正しい構えから正しい打ち込みをすれば笹でも打つことができると気付いて、そこから剣の腕もメキメキ上達し、やがて「笹の葉新九郎」という異名で京界隈ではちょっとした有名人に。光秀が新九郎と愚息に「覚慶脱出計画」の協力を頼むと、今後、光秀が出世したら、一万石につき黄金一枚をもらう、という出世払いを契約します。しかしこの時点では、信長の家臣になって十万石の大名になったのを皮切りにすぐに直轄領だけで五十万石に、系列の家臣の領地を合わせたら二百万石を超えて「近畿管領」と呼ばれるまでに大出世するとは思ってもいませんでした。

覚慶を無事に近江から若狭へ逃がした光秀。しかし、この計画で、藤孝のしたある判断が、光秀と愚息・新九郎との関係にヒビが入ることになるとは・・・

ここからはおおよそ史実の通り、光秀は十五代将軍足利義昭の家臣に、そして織田信長の家臣になります。といっても歴史書ではなくあくまで小説でエンタテインメントですので、オリジナル部分をちょいと紹介。近江の六角氏との戦いが長期化するのを恐れた信長はもともと木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の後方支援だった光秀に「長光寺城を落とせるか、なんなら兵を六百ほど使ってもよい」と訊ねると、光秀は「手勢のみで」と答えます。さっそく長光寺城のある小山の麓に行ってみると、山頂に登る道は東西南北それぞれに一本の計四本。光秀は間者を偵察に向かわせます。戻ってきた間者は「四本のうち三本の道に兵を配置して、うち一本は捨てる模様」という報告を受けます。そこで光秀の脳裏に浮かんだのは、いつぞや愚息と新九郎がやっていた、四つの椀のうちひとつに石ころを入れてどれに入れたか当てるという賭け事。光秀は、この近くの寺にいる愚息と新九郎を呼び、どの道に行ったらよいのか、(四つの椀)のヒントを聞こうとしますが・・・

光秀はなぜあんなことをしたのか、という解釈は、ははあ、なるほど、という感じ。まあ起きてしまったことはしょうがないとして、「歴史は帳尻合わせをする」という言葉がありますが、たとえ光秀がやらなくても、いずれ他の誰かが同じようなことをしていたでしょう。つまり信長さんは普通に布団の上で死ねない、そういう運命だったのです。

この本を読んでまたひとつおりこうになった豆知識。ちょうどこの時代あたりで、夜の照明が荏胡麻油から菜種油に変わって、明るさが激変したとのこと。


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