先週、淡路の三回忌にいくときに、山小屋に位牌をわすれてました。その朝急遽山小屋にたちよったのは、奥方と娘を車にのせて、、
ということで、二人にとっては15年ほど、ほぼ初といっていいほど。お父さんの秘密基地、、
娘は千と千尋の神隠しの始まりの場面みたいやと、、、うまく言ったものですが、、、
中をチラ見したら、数々の木工道具、電動工具などがならべられていることに驚いていました。
その昔、職員みんなをつれて、その小屋で鍋や焼き肉をしたのも懐かしいですが、
そんな思いでとともに、あの頃は、毎月、岡山の東粟倉村の、現代玩具博物館にからくりおもちゃの教室に通って、
「田舎の日曜日」という 館長の西田さんがやっていた、ペンションに泊まってたりしたころが懐かしい。
あの頃はこんな、時間があったんや、、と 今でも、テレビもないこのペンションに娘たちはおりにふれ、
「もう一回、とまってみたいなあ」といっています。西田さんがなくなられてからはもう、営業がされていないようです。
あのころは、土日とまりがけで、課題のからくりおもちゃを一心になって、つくっていたのでした。
そんな時間があったということですね。
そんなことを思いながら、11月もおわりました。理事会でも経営の厳しい、
「はしごをはずされっぱなし」の診療報酬改訂で、六甲道診療所のやりくりも、土日もフル回転で仕事しても、つらい現実
来年は震災から30年、、都賀川や水道筋商店街がでる「おむすび」は初回から1回もみたことがなく、
いまだに「ひよっこ」で元気をふりしぼっていますが、、
なにか記念誌をつくったり、メモリアルウォークしたりという企画がねられているようです。
震災当時、医療生協にいた人間は今は 9名だそうで、
事務室に、なにやら、古いアルバムがどんとおいてありますが、先日チラ見してみました。
新築ながらに全壊した、六甲道診療所のビルや、周囲のがれきだらけ風景、1階がなくなった六甲道駅など、みるのもつらいものではありますが、
それよりも、あのころの人のうつっている写真をみると、震災でこわれたなか、なんとか診療をつづけることのつらさよりも、
その当時の人がうつっている写真をみて、性格でしょうか?あまり うまくいかなかった、人とのやりとりのあれこれが、
思い浮かんでくることのしんどさばかりが、よみかえってきます。
当時も、経営的は大変厳しかったのはありますが、その後なんとか、やめずにつづけてきたわけで、
隣のパチンコ屋さんとあわせて、再開発からまぬがれて、この高い家賃の診療所で 10周年、20周年、30周年もこえてこられました。
マイナス思考のあのころの苦い思い出にはおさらばしたいところですし、そのころのことと比べるのもどうかとは思いますが、
今頃の所長には、あの頃のような 辛さはないのかもしれません。
ほんとにそれは、今のみんなに感謝すべきところだと、
とはいっても、だれだって、いつだって、ラクナではなく、楽な時期なんてないですし、
職員みんなにも、しんどいことがいっぱいなんでしょう。
こんな厳しい今年、夜間診療を3回から2回に減らしてよかったのか?でも、人のやりくり考えたら、
さらには、職員の週休2日も実行にうつさないといけない時代におくればせながらあるわけで、
もっと、 「持続可能」な診療所づくりを考えていかないといけません。
あと5年、10年は現状の突っ走り方で頑張らんとあかんですね、、、
ということで、二人にとっては15年ほど、ほぼ初といっていいほど。お父さんの秘密基地、、
娘は千と千尋の神隠しの始まりの場面みたいやと、、、うまく言ったものですが、、、
中をチラ見したら、数々の木工道具、電動工具などがならべられていることに驚いていました。
その昔、職員みんなをつれて、その小屋で鍋や焼き肉をしたのも懐かしいですが、
そんな思いでとともに、あの頃は、毎月、岡山の東粟倉村の、現代玩具博物館にからくりおもちゃの教室に通って、
「田舎の日曜日」という 館長の西田さんがやっていた、ペンションに泊まってたりしたころが懐かしい。
あの頃はこんな、時間があったんや、、と 今でも、テレビもないこのペンションに娘たちはおりにふれ、
「もう一回、とまってみたいなあ」といっています。西田さんがなくなられてからはもう、営業がされていないようです。
あのころは、土日とまりがけで、課題のからくりおもちゃを一心になって、つくっていたのでした。
そんな時間があったということですね。
そんなことを思いながら、11月もおわりました。理事会でも経営の厳しい、
「はしごをはずされっぱなし」の診療報酬改訂で、六甲道診療所のやりくりも、土日もフル回転で仕事しても、つらい現実
来年は震災から30年、、都賀川や水道筋商店街がでる「おむすび」は初回から1回もみたことがなく、
いまだに「ひよっこ」で元気をふりしぼっていますが、、
なにか記念誌をつくったり、メモリアルウォークしたりという企画がねられているようです。
震災当時、医療生協にいた人間は今は 9名だそうで、
事務室に、なにやら、古いアルバムがどんとおいてありますが、先日チラ見してみました。
新築ながらに全壊した、六甲道診療所のビルや、周囲のがれきだらけ風景、1階がなくなった六甲道駅など、みるのもつらいものではありますが、
それよりも、あのころの人のうつっている写真をみると、震災でこわれたなか、なんとか診療をつづけることのつらさよりも、
その当時の人がうつっている写真をみて、性格でしょうか?あまり うまくいかなかった、人とのやりとりのあれこれが、
思い浮かんでくることのしんどさばかりが、よみかえってきます。
当時も、経営的は大変厳しかったのはありますが、その後なんとか、やめずにつづけてきたわけで、
隣のパチンコ屋さんとあわせて、再開発からまぬがれて、この高い家賃の診療所で 10周年、20周年、30周年もこえてこられました。
マイナス思考のあのころの苦い思い出にはおさらばしたいところですし、そのころのことと比べるのもどうかとは思いますが、
今頃の所長には、あの頃のような 辛さはないのかもしれません。
ほんとにそれは、今のみんなに感謝すべきところだと、
とはいっても、だれだって、いつだって、ラクナではなく、楽な時期なんてないですし、
職員みんなにも、しんどいことがいっぱいなんでしょう。
こんな厳しい今年、夜間診療を3回から2回に減らしてよかったのか?でも、人のやりくり考えたら、
さらには、職員の週休2日も実行にうつさないといけない時代におくればせながらあるわけで、
もっと、 「持続可能」な診療所づくりを考えていかないといけません。
あと5年、10年は現状の突っ走り方で頑張らんとあかんですね、、、
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