昨夜、NHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュ
メント 死ぬとき心はどうなるのか」を観ました。
立花氏は1994年に『臨死体験』を出版しています。
私は未読なので内容についてはわからないのですが、
番組内の立花氏の述懐によれば、この著書の中では
「臨死体験」という現象の真相を突き止めるには至らな
かったとのことです。
ところが最近、立花氏自身が、以前患ったガンの再発
が疑われる事態に直面し、自らの「死」に向き合う意識
が高まり……
再度、「臨死体験」の真相究明に挑もうと決意したこと
から、今回の番組へとつながったようです。
モチベーションとしては、これ以上強いものはないでしょ
うね。
そして、立花氏らしく、海外を巡って脳科学の最先端を
いく研究者たちを取材しながら、「臨死体験」を「科学的
に」究明しようとする試みを展開していきます。
果たして「臨死体験」は実在するのか。
この現象を否定する立場からの主張として、「臨死体験」
は脳が作り出す幻想である、というものがあり、番組内
でもこの立場でこの現象を説明しようとする学者たちが
紹介されていました。
例えば、スウェーデンのカロリンスカ研究所のノーリック
・エーソン教授の実験は、脳の起こす錯覚を被検者が
体験できるというもので、被検者と隣り合わせのベッドで
寝ている人形を、被検者の脳が自分の体と誤認してしま
うという現象を人工的に作り出せるといいます。
また、利根川進博士は、人間の脳が誤った記憶を作り出
す「フォールスメモリー false memory」という現象を紹介し
ていました。この現象が起こると、実際は経験していない
ことを、経験したものと思い込んでしまうというのです。
「臨死体験」として語られる体験談の一部には、上記のよ
うな、脳の錯覚によるものが含まれている可能性がある
のかもしれません。
ただ、それでは説明のつかないケースもあるでしょう。
ノーリック・エーソン教授の実験における錯覚では、病院を
抜け出て花畑や水辺に行ったなどという例の説明はつき
ません。
また、利根川氏のいう「フォールスメモリー」は、人としての
ある程度の生活経験が不可欠で、乳児の段階で「臨死体験」
をしたケースは説明できないのではないでしょうか。
(番組ではそういうケースもあることが紹介されていました。)
こんなふうに、反論しようと思えば、その余地はたくさんある
ように思われます。
もちろん、「臨死体験」の真相を解明しようとする科学者たち
の仕事には敬意を払うべきですし、挑戦する価値のあること
だと思います。
ただ、「科学的」に解明しようとしても、現在の地球の科学で
は難しいのではないでしょうか。
それは例えば、小さなアリの視点で、地球全体、あるいは、
銀河系全体を見渡すことができないのと、同じようなことなの
かもしれません。
こんなことは、理系の学問的素養のない私より、科学者の
方々のほうが、はるかに身に沁みていらっしゃることと思い
ますが……。
こんなふうに書いてしまうと、つまらなそうに響いてしまった
かもしれませんね。
でも、興味深い内容もありました。
なかでも印象に残ったのは、ハーバード大学の脳神経外
科医、エベン・アレグザンダー氏(Eben Alexander,M.D.)の
体験です。
アレグザンダー氏は2008年、急性の細菌性髄膜炎に罹り、
7日間こん睡状態にあった中で「臨死体験」をしたのです
が、その間、彼の脳の大部分は機能を停止していたという
のです。
ならばこれは、「臨死体験」が脳の働きの領域外で起こっ
たことを証明するケースなのかもしれません。
そのことも重要ですが、さらに注目したいことは、アレグザ
ンダー氏が脳神経外科医という専門的知識を持つ人物で
あり、しかも元来、「臨死体験」のような神秘体験に否定的
であった、ということです。
そんな彼が、自らの「臨死体験」を経て、死後の世界の存在
を確信するようになったのです。
自らその体験を記録した著書の邦訳、『プルーフ・オブ・ヘ
ヴン』(早川書房)が出版されていると知り、ぜひ読んでみ
たくなりました。
私自身、「臨死体験」をしたことはありませんが、以前、ガン
で入院した際に起こった、ちょっと不思議な体験から、見え
ない世界への意識が芽生えた、という経験があるのですが
……(〔ガンに「ありがとう」〕のカテゴリー(7) 参照。)
科学者として、おそらく私よりもずっと左脳的思考を拠り所
としてきたであろうアレグザンダー氏が、そうした自らの価
値観を揺さぶられ、死後の世界の存在を受け容れるように
なった過程を、この本を通して追体験してみたいのです。
こうした思いは、私だけではないはず。
今という時代を生きる多くの人が、抱いている思いなのでは
ないか。
NHK地上波で、休日のゴールデンタイムにこの番組が放映
されたということが、その裏付けになっている、そう言えない
でしょうか。
メント 死ぬとき心はどうなるのか」を観ました。
立花氏は1994年に『臨死体験』を出版しています。
私は未読なので内容についてはわからないのですが、
番組内の立花氏の述懐によれば、この著書の中では
「臨死体験」という現象の真相を突き止めるには至らな
かったとのことです。
ところが最近、立花氏自身が、以前患ったガンの再発
が疑われる事態に直面し、自らの「死」に向き合う意識
が高まり……
再度、「臨死体験」の真相究明に挑もうと決意したこと
から、今回の番組へとつながったようです。
モチベーションとしては、これ以上強いものはないでしょ
うね。
そして、立花氏らしく、海外を巡って脳科学の最先端を
いく研究者たちを取材しながら、「臨死体験」を「科学的
に」究明しようとする試みを展開していきます。
果たして「臨死体験」は実在するのか。
この現象を否定する立場からの主張として、「臨死体験」
は脳が作り出す幻想である、というものがあり、番組内
でもこの立場でこの現象を説明しようとする学者たちが
紹介されていました。
例えば、スウェーデンのカロリンスカ研究所のノーリック
・エーソン教授の実験は、脳の起こす錯覚を被検者が
体験できるというもので、被検者と隣り合わせのベッドで
寝ている人形を、被検者の脳が自分の体と誤認してしま
うという現象を人工的に作り出せるといいます。
また、利根川進博士は、人間の脳が誤った記憶を作り出
す「フォールスメモリー false memory」という現象を紹介し
ていました。この現象が起こると、実際は経験していない
ことを、経験したものと思い込んでしまうというのです。
「臨死体験」として語られる体験談の一部には、上記のよ
うな、脳の錯覚によるものが含まれている可能性がある
のかもしれません。
ただ、それでは説明のつかないケースもあるでしょう。
ノーリック・エーソン教授の実験における錯覚では、病院を
抜け出て花畑や水辺に行ったなどという例の説明はつき
ません。
また、利根川氏のいう「フォールスメモリー」は、人としての
ある程度の生活経験が不可欠で、乳児の段階で「臨死体験」
をしたケースは説明できないのではないでしょうか。
(番組ではそういうケースもあることが紹介されていました。)
こんなふうに、反論しようと思えば、その余地はたくさんある
ように思われます。
もちろん、「臨死体験」の真相を解明しようとする科学者たち
の仕事には敬意を払うべきですし、挑戦する価値のあること
だと思います。
ただ、「科学的」に解明しようとしても、現在の地球の科学で
は難しいのではないでしょうか。
それは例えば、小さなアリの視点で、地球全体、あるいは、
銀河系全体を見渡すことができないのと、同じようなことなの
かもしれません。
こんなことは、理系の学問的素養のない私より、科学者の
方々のほうが、はるかに身に沁みていらっしゃることと思い
ますが……。
こんなふうに書いてしまうと、つまらなそうに響いてしまった
かもしれませんね。
でも、興味深い内容もありました。
なかでも印象に残ったのは、ハーバード大学の脳神経外
科医、エベン・アレグザンダー氏(Eben Alexander,M.D.)の
体験です。
アレグザンダー氏は2008年、急性の細菌性髄膜炎に罹り、
7日間こん睡状態にあった中で「臨死体験」をしたのです
が、その間、彼の脳の大部分は機能を停止していたという
のです。
ならばこれは、「臨死体験」が脳の働きの領域外で起こっ
たことを証明するケースなのかもしれません。
そのことも重要ですが、さらに注目したいことは、アレグザ
ンダー氏が脳神経外科医という専門的知識を持つ人物で
あり、しかも元来、「臨死体験」のような神秘体験に否定的
であった、ということです。
そんな彼が、自らの「臨死体験」を経て、死後の世界の存在
を確信するようになったのです。
自らその体験を記録した著書の邦訳、『プルーフ・オブ・ヘ
ヴン』(早川書房)が出版されていると知り、ぜひ読んでみ
たくなりました。
私自身、「臨死体験」をしたことはありませんが、以前、ガン
で入院した際に起こった、ちょっと不思議な体験から、見え
ない世界への意識が芽生えた、という経験があるのですが
……(〔ガンに「ありがとう」〕のカテゴリー(7) 参照。)
科学者として、おそらく私よりもずっと左脳的思考を拠り所
としてきたであろうアレグザンダー氏が、そうした自らの価
値観を揺さぶられ、死後の世界の存在を受け容れるように
なった過程を、この本を通して追体験してみたいのです。
こうした思いは、私だけではないはず。
今という時代を生きる多くの人が、抱いている思いなのでは
ないか。
NHK地上波で、休日のゴールデンタイムにこの番組が放映
されたということが、その裏付けになっている、そう言えない
でしょうか。