中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

南京行き

2007-08-31 06:26:53 | 中国のこと
 これまで何度か名前を出した上海人の施路敏(シ・ルミン)と一緒に南京に行くことになった。

 施路敏、愛称敏敏(ミンミン)は20代半ば、東京の中国系旅行社で働いている。性格は可愛く優しくて、とてもよく働く。男の子との双子として生まれ、家庭の事情で弟は両親が上海で育てたが、敏敏は生後すぐに南京の母方の祖父母に預けられ、上海の小学校に行く時まで養育された。敏敏も認めているが、祖父母、とりわけ祖母が優しく育てたようで、今のような良い性格に育ったのだと思う。敏敏は祖父母が世界中で一番大切と言っている。

 祖母は私と同い年でもあって、私は一度会いたいと言っていたが、今回敏敏がガイドの資格更新の試験を受けに上海に帰る機会に南京に行くので、一緒に行かないかと誘われた。

 上海にはかつて敏敏をガイドとして紹介してくれた、これもこれまでに名前を出したことがある唐怡荷(タン・イフ)がいて、いつもホテルなどの手配をしてくれるので今回も頼んだ。彼女とも会おうと約束した。

 今日から9月6日までの1週間、またミーシャには留守番をさせることになるが、我慢してもらおう。

             「行ってらっしゃいませ」

闇サイト

2007-08-30 09:15:47 | 身辺雑記
 近頃の世の中はどうなっているのだろうかと思うような、想像もしていなかった陰惨な事件が起こる。

 インタネットの「闇サイト」で知り合った、互いの素性も知らない男が3人、通りすがりの若い女性を無理やりに車の中に引きずり込み、顔に粘着テープを巻きつけ窒息死させ、さらにハンマーで頭などをめった打ちにして金を奪い、遺体を他県の山林に捨てたという凶悪極まりない事件が起こった。翌日には交際している男性と食事の約束をしていたという被害者の女性の、文字通り通り魔に襲われて殺害された恐怖は如何ばかりであっただろうと思い、「金を奪う目的で力の弱い女性を狙った。誰でもよかった」、「死刑になるのが怖かったから自首した」と言う犯人の言葉を読んで激しい怒りがこみ上げて、まことに単純だと思われるかも知れないが、思わず「こんな奴らは死刑にしてしまえ」と罵ってしまった。

 私はここで死刑の是非についての論争に加わる気持ちはないが、凶悪な犯罪には厳罰をもって臨むべきだと考えていることは言いたい。無慈悲な動機で人の命を奪ったことに対しては、自分の命で罪を贖うべきだと考えるから、基本的には死刑は否定しない。最近は被害者が1人の場合には極刑とはならないのが「慣例」になっているようだが、人の命の重さを数で量ることには納得できない。加害者の人権や情状酌量を云々する前に、被害者にとっては掛け替えのないたった1つの生命が、その人の人権と共に「情状酌量」の余地もなく無残に奪われたことを考えるべきだと思う。多くの殺人事件の被害者の家族が加害者に極刑をと望むのは、至極当然の感情だろう。それを小ざかしく批判したり、あげつらうことなどどうしてできよう。被害者の女性の母親の報道機関向けのコメントを読んだが、「何の落ち度も、関係もない娘に対し、あれほど異常な行為を行った人間の存在を、私は認めることは出来ません。絶対に、絶対に、許しません」とある。胸がふさがる思いがした。

 この3人が利用したのは、これまでにもいくつかの事件で悪用されたことで有名とかの「闇の職業安定所」というサイトらしいが、これ以外にも闇サイトは無数にあるということだ。このような暗い反社会的なサイトが多いと言うことは、今回の事件の犯人達のように利用したくなる者も少なからずいるということだろう。まさに日本の社会の奥に潜む異常な病理現象だ。

 ネット犯罪に詳しいというある大学院教授のコメントを見たが、「犯罪につながるかもしれない情報を提供したから、という理由で闇サイトを規制するのは、表現の自由の観点からみて難しい」として、「今回のような事件を防ぐには、ネットの危険性について地道に議論を重ね、利用者全体のモラルを少しずつ高めていくしかないだろう」と結論している。

 「表現の自由」・・・か。まことにもっともなこと、大切なことであることはよく承知するが、何かしらもやもやする。そうすると今回の事件の被害者は、表現の自由の尊重の犠牲者ということなのか。仮にこれを機会に「地道に議論を重ね」ていくようになったとしても、「利用者全体のモラル」はいったいいつになれば高まるのか。その間にも同じような犠牲者が出るかも知れないと考えると、たまらない思いになる。

 感情的になってはいけないとたしなめられるかも知れない。そう、私はこのような忌まわしい、人間性のかけらもない凶悪犯罪には感情的になる。だから近く実施されるという裁判員になる資格はないと思っている。死刑判決を回避した裁判官のように「凶悪極まりない犯罪だが、それでもなお死刑を科すことには躊躇せざるを得ない」などとは私には言えない。

モンスター(2)

2007-08-29 08:05:32 | 身辺雑記
 前回で見た例に近いような親は私の経験の中にもある。

 教育委員会事務局で小学校の人事を担当していた時に、3、4人の母親が来庁して面会を申し込んだ。ある小学校の教師の問題点を聴いてほしいと言うことだった。対象になった教師は50代だったが、とかく問題があることはその前から聞いていた。会ってみると、果たして子どものクラス担任であるその教師の問題点を母親達は並べたてた。私の立場からすると、その言い分がすべて正しいと無条件に受け容れることも、その教師を闇雲に弁護することも出来ないから、一問一答になることは避けてしばらくはメモを取りながら黙って聴いていた。しかし聴いているうちにだんだん不愉快さが募ってきた。ひとつはそのような担任教師の問題点は子どもに毎日記録させ、帰宅してから報告させているということで、そのやり方や得々とそれを話すことが不愉快だった。もうひとつは母親達の態度だった。特に中心になっている1人はかなり横柄な態度で、脚や腕を組んで椅子の背にそっくり返ったような姿勢だし、確認のために私が少し聞き返すと不満そうに尖った口調になる。何も教育委員会の人間に対しているからと言って、ことさらにへりくだった態度をとることはないが、基本的に人に対する礼儀、マナーをわきまえていないと言う印象だった。

 要するにその教師を他校に移すかクビにしてくれと言う申し入れだった。よほどのことがないと免職には出来ない、それに保護者が言ったからと転勤させることも出来ないと言うと、大いに不満そうで、かなり突っかかってきた。それでこのままでは埒が明かないと思ったので、もっと具体的に事実を調べるから正確に答えてほしいと言って母親達の言い分のメモを見ながら質問をし始めた。正確を期そうと思っただけで別に意地悪く細かいことを高飛車に尋ねたわけではないのに、だんだん母親達はしどろもどろになり始め、終いには、そんな細かいことを聞かれても、子どもの言うことだから分からないと不満そうに言い出した。私は、それはおかしいのではないか。もともとは子どもから聞いた話だと言って訴えにこられたのではないか。1人の教師の身分に係ることを、そんなあやふやなことで決めることはできないから確かめているのだと答え、そのあたりから母親達は何かしら腰砕けのようになって、やがて話は終わってしまった。私は、担任の先生に問題があっても、その言動を子どもに記録させて報告させるなどと言うことは教育上好ましいことではないと忠告したが、分かってくれたのかどうかは分からなかった。後で教育委員会の人間は頭が固いなどと話し合ったのかも知れない。

 1人だけあまり発言せず態度も普通の母親がいて、話し合いの途中から何かしら落ち着かない様子を見せ始めていたが、話が終わると近づいてきて小声で「I高におられた先生ではありませんか。教えていただいた○○です」と挨拶したので少し驚き、懐かしさもあって2、3言葉を交わした。こんなことはしないほうがいいよと言うような説教がましいことは言わなかったが、その卒業生が居丈高なものの言い方をしなかったことに何となくほっとしたことだった。

 その日のうちにその教師の学校の校長に母親達の言い分を伝え、事実の確認と指導をよろしくと依頼したが、それで事態が改善されたかどうかは分からない。

 確かに親が不満を持ち問題にしたくなるような教師はいたし、今もいることは事実で困ったことだと思う。とりわけ指導力に欠けていては弁護のしようがない。まして不道徳な行いなどは許されるはずもなく、厳しく処罰されるのは当然のことだ。そのような問題教師が増えてきているように思われるのは苦々しいことだが、とは言っても「モンスター親」のような言動も不愉快の極みだ。私が応対した母親達は20年以上も前のことでもあったから、モンスターと言うほどのことはなかったが、前回に挙げた親達の言い分の実例はほとんど常軌を逸している。

 このようなことの原因の1つに、すべてがそうではないだろうが、かなりの親が誤った優越感を持って教師を見下していることがあるからではないだろうか。H君の妹の話では、人前で公然と自分の方が先生より学歴が高いと言い放つ親がいると言う。教師も大学を出ているから、要するに「良い」大学を出ていると言いたいのだろう。卑しい品性だ。また、ある小学校の教師から聞いたことだが、校区に大学教員が多く住んでいる所があり、そこの親の中には「いつでも教師をクビにしてやる」と言うような輩もいるとのことだ。実にばかげた思い上がりで、大学の教師はそんなに偉いのかと言いたくなる。高い教育を受けたから、高い地位に就いているからと言って品性も高くなり、社会的にわきまえのある人間ができるわけではないということがよく分かる。

 このような親はこれからも少なくならないと思う。それに対していかなければならない教師には同情するが、だからこそ教師自身も教師としての力量と見識を高めて、子どもには細やかな感情を持って接し、親には共に子どもの教育に携わっていることについて理解と共感を得るように努め、自信のある毅然とした態度で対していくことが求められるだろう。これは今の学校、親の現実を知らない理想論なのだろうか。



モンスター

2007-08-28 09:08:08 | 身辺雑記
 学校の夏休みも後僅かになった。一部の教師にとっては新学期の到来は気が重いのではないだろうか。

 最近の学校にはモンスターがいるようだ。モンスターと言っても、夏休み中の映画やテレビの番組にある「学校の妖怪」の類ではない。最近しきりに話題となる「モンスター親」のことだ。

 少子化に伴う子供への甘やかしや、とかく自分中心に考える近頃の傾向のためか、最近の保護者の中には、非常に扱いにくい、非常識な苦情や要求、抗議を教師や学校に突きつける例が増えているらしい。NHKの番組「クローズアップ現代」などで取り上げられたものとしてWIKIPEDIAに挙げられている例を見てみよう。

・自分の子供が注意されたことに逆上して職員室に乗り込み、延々とクレームをつける。
・早朝であろうが深夜であろうが教職員の自宅に電話をかけ、何時間もクレームをつける。
・子供同士の喧嘩に介入し、相手の子供を非難する長大な文書を学校に持ち込んで処罰を要求する。
・自分の子供がリレー競技の選手に選ばれないのは不自然だとクレームをつける。
・子供がプリントを親に渡さなかったことを、教師の指導のせいにする。
・「自分の子どもを手厚く指導するために専用の教員をつけろ」「我が子を学校代表にして地域行事に参加させろ」などと要求する。
・「○○小学校○年○組の○○という児童はクラスの迷惑なので学校に来させないでくれ」といきなり都道府県の教育委員会に匿名で要求する。
・授業参観で他人の子供のクレームをつけ、親同士で喧嘩する。

インタネットで調べると、他にもまだまだあった。

・子供がひとつのおもちゃを取り合って、ケンカになる。そんなおもちゃを幼稚園に置かないでほしい
・自分の子供がけがをして休む。けがをさせた子供も休ませろ
・親同士の仲が悪いから、子供を別の学級にしてくれ
・クラスに気に入らない子がいる。その子を別のクラスに替えてほしい
・今年は桜の花が美しくない。中学校の教育がおかしいからだ
・授業中にお菓子を食べたので注意したら、「おなかがすいていたのにかわいそう」
・運動会の練習で「気をつけ」と号令をかけたら「軍隊みたいな教育をするな」
・携帯を取り上げたら「親が買ったのだから親のものだ。教師が取り上げるな」
・どの教師がどのクラスを担任するかを勝手に考えて、「この通りにしろ」
・朝礼の時に態度が悪いので大きな声で名前を呼んだら「みんなの前で叱らなくても、うちの子は後でそっと話してくれたらわかる子なのに…」
・不登校の子が家でストーブをけり倒した。学校が弁償してほしい
・いじめに遭う我が子を転校させるので、通学の交通費を出してほしい
・登下校時に友達とトラブルになるので、学校が送り迎えしてほしい
・義務教育は無償なので野球部のユニホームは学校で洗濯すべきだ
・写真の中央に自分の子供が写っていない
・休んだ1週間分の給食費を返してほしい
・給食が必要だと言った覚えはないので、給食費は払わない
・参観日に授業を録音した親が「先生の授業はここがよくない」と指摘
・喫煙を注意されたが、人に迷惑をかけていないので指導は必要ない
・授業妨害をする児童の母を指導すると「先生に魅力がないから」と反論


 他にもまだまだあるのだろう。よくもまあこんなことをと、一つひとつにコメントする気も失せるほどであるが、まったく「モンスター親」と呼ぶのにふさわしく、「非常識」などというような範疇を超えてしまっている。私が教育委員会事務局にいた当時、春先の気候の変わり目になると決まって電話してくる母親がいて、学校への不満を暗い口調でくどくどと長時間話し続けるのには参ってしまった。これなどは明らかに病気なのだろうと思えるものだったが、そうでなくて、上に挙げた例のように一見「真剣」で「理性的」、「筋が通っている」あるいは「社会正義」と本人が思い込んでいるような抗議などは、かえって病的で偏執的な歪んだ人格を感じさせる。卒業生のH君の妹は大阪で小学校の教師をしているが、最近の親の実態はまさにこれに類するものなのだそうで、30~40代の親はかなり厄介らしい。

 いったいこのような親がどうして出来たのだろう。私の現役時代に、ある年配の教師が「私達がこんな人間を作ったのかなあ」と自嘲気味で言っていたのを聞いたことがある。このような人間が出来たのは、教育基本法や戦後の教育のせいだと言いたがるような政治家や評論家にとっては好都合な実例なのかも知れないが、そんなものだろうか。言いがかりのようにも思える。私自身の経験の中ではそのような言動を是とするような教育をした覚えはないし、周囲の教師達もそうであったと思う。それに私が教職に就いた当時の親や生徒は言動にけじめがあることが普通だった。(以下次回)

高野山(3) ―奥の院―

2007-08-27 07:22:28 | 身辺雑記
 金剛峰寺を出ると門前町がある。門前町と言っても鄙びたものではなく、多くの店は間口が広くきれいにしている。




 ここから車で少し行くと奥の院に着く。奥の院は弘法大師御廟がある所で高野山でも最高の聖地である。奥の院の入り口には一の橋と御廟に近い中の橋とがあり、正式には一の橋から入るとのことだが、私達は中の橋から入った。


 そこからしばらくは比較的新しい墓域で、個人の墓はもちろん、企業の慰霊碑、供養塔などが多く、そのデザインもさまざまで面白い。企業の慰麗碑などは日本的なものではないかと思う。
 
水上飛行艇や、さまざまな機器を製作しているメーカーの社員慰霊碑。


明治創業の足袋メーカー


自動車メーカー


 しろあり対策協会。駆除している対象の「霊」を弔うなどは日本的なことの極致なのではないか。


 個人の墓所。このような巨大なものを建てたら、後の者は世話などに何かと苦労が多いのではないかなどと、余計な心配をした。日本人のものだけではなく、成功した在日韓国人の実業家の墓は、朝鮮風の巨大なものだった。

 
愛犬の墓。飼い主の夫婦らしい人の墓は小さいもので、犬の墓の前にあった。


 変わったものでは落書きの塚があった。落書きは書かれてからは打ち捨てられて消えていくので、その儚い「命」を弔うということなのか。


  ここから御廟に向かう参道は鬱蒼とした杉林の中を通り墓は苔むしたようなものが多くなる。その林内には皇室、公家、大名などの墓が多く、その数は20万基と言われているようだ。

浅野内匠頭の墓所。


 本家の安藝浅野家の墓所。古い時代の墓塔は五大(地・水・火・風・空)にかたどった五輪塔が多い。五輪塔は下から地輪は方形、水輪は球形、火輪は三角形、風輪は半球、空輪は宝珠形になっている。
 

 安土桃山時代の武将で加賀藩主であった前田利長の墓所。加賀藩の初代藩主だった利家の嫡男であった利長は、関ヶ原の戦いの論功行賞で120万石の加賀藩を成立させた。


前田利長夫人の墓所。織田信長の娘の永姫(玉泉院)。利長の墓の前にある。

 
 戦国時代の武将で越前67万石の藩主となった結城秀康の石廟。重要文化財。徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子となるが、後に家康について関ヶ原の戦いで戦功を挙げた。


  筑前黒田家墓所。安土・桃山・江戸初期の武将だった黒田長政は関ヶ原の戦いで徳川方につき、筑前52万石に封ぜられた。


  美濃加納城主松平忠政墓所。松平姓の中でもっとも有名なのは三河国加茂郡松平から興った家で、9代目が徳川家康である。忠政は奥平姓で美濃加納藩の第2代藩主。徳川家康の長女である亀姫が母であったことから松平姓を許されて松平忠政とも呼ばれている。生来の病弱であったので父が藩政を担った。父に先立って35歳で死去した。


豊臣家墓所。史跡。


  誰のものかは分からないが、由緒ある家のものか。苔むし、一部は破損している。このような放置されているままのような古い墓が多くある場所の一隅にあった。




芭蕉の「父母のしきりにこいし雉子の声」の句碑。古いもののようだが年代不詳。


弘法大師御廟を望む。ここから先は写真撮影禁止となっていた。



 関西に移り住んで60年にして初めて高野山を訪れたが、やはり高野山真言宗の全国や海外の4千の末寺の総本山として有名な霊場だけのことはあって、寺域の広大さやそこに点在する多くの寺院は1200年の歴史を感じさせる。とりわけ名のある戦国武将の墓などを見ていると、古を思い飽きることがなかった。ただ少しは涼しいかと期待して来たが、日差しは強くあまり涼しさを感じることは出来なかった。

 高野山に通じる道は急な小さいカーブの連続で、ナビゲーターに映し出されている道路はぎざぎざの鋸歯状。これだけでも恐れをなしたのに、しかも初めて知ったのだが運転するH君はこのようなカーブを飛ばすのが大好きとのことで、特に下る時には久しぶりに車酔いしてしまった。




 コウヤマキ(高野槙)。日本特産種のスギ科の常緑針葉樹。日持ちがよいようで、仏前に供える切り枝として用いられる。高野山土産として売られている。


高野山(2)

2007-08-26 08:08:21 | 身辺雑記
いろいろな庭があるが、どこも美しく整えられている。




 蟠龍庭。美しい石庭である。蟠龍はまだ昇天しないで地上にわだかまっている龍。それぞれの石がそれを象っているのだろう。






建物の間にある小さな庭も美しい。






真然大徳廟。弘法大師の甥で高野山第2世の真然僧正の霊廟。


厨房。現在でも重要な行事では使われると言う。



 
二石釜




境内にはまだ紫陽花が咲いていた。



高野山

2007-08-25 11:11:33 | 身辺雑記
 猛暑が続く。卒業生のH君夫妻に誘われて高野山に出かけた。H君と仲のいいJH君も一緒だった。高野山なら少しは涼しいだろうと期待しての出発だった。

 高野山は和歌山県にあり、標高1000メートル前後の山中に弘法大師(空海上人)が816(弘仁7)年に開いた真言密教の霊場である。総本山は金剛峯寺(こんごうぶじ)だが、この名称は元来は高野山全体の総称であった。2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」の1つとしてユネスコの世界遺産に登録された。
 
 金剛峰寺。元は青巌寺と言い、1503(文禄2)年に豊臣秀吉が母の菩提のために建立した。

山門




鐘楼


  大主殿(本坊)。和歌山県重要文化財。拝観料500円を払って中に入ると、渡り廊下でつながれた別殿などいくつかの建物がある。


大主殿の中の小部屋の障屏画と寺号の額


渡り廊下


渡り廊下の外にある小さな石庭


渡り廊下から見た樹木


  建物の中には大小の部屋がある。上壇の間。昔は天皇や上皇が登山した時の応接間。現在は重要な儀式が行われる時に使われる。


多くの小部屋にはさまざまな図柄の障屏画がある。




羊肉

2007-08-24 07:17:35 | 身辺雑記
 次男と一緒に久しぶりに食事をした。

 何度か行って気に入った、若い夫婦がやっているイタリアン・レストランに連れて行って夕食を楽しんだ。肉料理は何がいいかと聞いたら、メニューを見て羊肉がいいと言うので、料理の名は忘れたが仔羊(ラム)の料理を注文した。私も次男も羊肉が好きだ。去年にも書いたが、長男と妻は苦手でくさいから嫌だと言って食べなかった。長男は特に敏感で、トルコに出張してしばらく滞在した時は、イスラム教徒の国だから、出される料理はいつも羊肉なので弱ったらしい。一度鶏肉を注文したら、同じ鍋で調理したらしく、羊肉の臭いが移っていて閉口したようだ。妻は妊娠中に羊肉料理の臭いを嗅いでから敬遠するようになったらしかった。

 羊はくさいかなあと料理が出るのを待ちながら次男が言った。確かに羊くさい臭いがするなと答えると、牛肉でも牛肉の臭いがするじゃないかと言う。羊は脂肪がにおうのだ、中国で羊肉麺を食べた後で口についた脂がくさかったと言うと、納得したようなしないように「ふうん」と言った。かなり羊肉が好きで臭いは気にならないらしい。

 羊肉の品種が変わったのか、かつては私も臭うと思ったが、今売られている羊肉は気にならない。それとも、マトン(成獣の羊肉)とは違ってラム(仔羊の肉)はくさくないとも言われていたから、今頃売られている羊肉は主としてラムなのだろうか。一般には羊肉を敬遠する向きが少なくないようで、中国の新疆ウイグル自治区でガイドしてくれた趙戈莉は、日本の観光客の多くが羊肉を敬遠するので食事は何にしたらいいか困ると言っていた。新疆にいるウイグル族やカザフ族はイスラム教徒だから豚肉は食べず、ほとんどが羊肉だ。この新疆や寧夏の羊はとても美味く、くさみはまったくなく軟らかい。毎日食べても飽きないのだが。

 そうこうしているうちに、料理の皿が運ばれた。小さいラムチョップ(骨付き肉)で期待通りに美味く、息子も満足したようだった。羊肉は健康に良いと、テレビあたりで言ったそうだが、真偽はともかくとして、もっと食べられてもいいのではないかと思う。市中に出回っている量が少ないためか(近くの百貨店にも、スーパーにも置いていない)、羊肉料理は少々高いが、出回ればもっと安くなるだろう。期待している。

黄河

2007-08-23 08:05:36 | 中国のこと
 中国の北部を流れる黄河は全長約5,500km、南を流れる長江(約6,300km)に次ぐ中国第2の大河である。「河」は黄河の固有名詞、「江」は長江の固有名詞である。

 最近は長江文明ということも注目されているようだが、黄河中流域は中国文明の起源の地であったし、「中原」と呼ばれて歴代の中国王朝が都したことで、この地は中国史にはたびたび登場し、私などは「黄河」という言葉に何か憧れのようなものを感じていた。南京で初めて長江を見たときには「これがそうか」という程度の感想だったのに、黄河は一度見てみたいという思いが強かった。

 黄河は長江と同じく、中国の西北部の青海省南西部の高地から発する。テレビでその源流を見たことがあるが、それは小さな泉のようなもので、どんな大河でもその初めはこんなものだと分かっていても何か不思議なようでもあって、一度は行って見たいなどと思ったりもした。その後青海省を訪れた時にガイドからそこに行くツアーがあると聞いたが、私にとってはもはや見果てぬ夢である。

 黄河と言うと文字どおり黄褐色の河というイメージがあるが、もちろん生れた時は普通の水である。源流からしだいに下って青海省を流れる時も普通の川と変わったところはなく、これが黄河と言われても信じられないくらいだ。

青海省を流れる黄河。橋の上から見ると川底も見える。


青海省を流れる黄河にかかる黄河清大橋。


 青海省から西の甘粛省に入ると黄土地帯を通る。ここで黄土を削り取って取り込むから特有の色の濁流になる。

青海省から見える甘粛省の黄土地帯の山。


 甘粛省を北上して寧夏回族自治区に入る。寧夏の区都の銀川あたりの土地は黄河の水の恩恵で潤い、稲作が盛んである。美しい水田が広がり、南部の浙江省あたりの江南地区を思わせるので「小江南」とも呼ばれるようだ。ここの葉盛(Yesheng)という所の米は寧夏大米(ningxiadami)と呼ばれる良質のもので、かつては皇帝に献上する「貢米」であり、現在でも陝西省や甘粛省から買い付けに来るとのことである。寧夏へのツアーに同行したAさんはかつて中学校の教師をしていて、黄河流域と言えば小麦の産地だと教えていたが、米がとれるとは知らなかったと言い、私も同感だった。やはり「百聞は一見に如かず」である。

 黄河は銀川の東を北上しやがて内蒙古自治区に入り、東に向かって向きを変える。     

内蒙古の平原のかなたに夕日が沈む。


平原を流れる黄河を渡る。


 黄河は南に曲がり、内蒙古を離れて陝西省と山西省の省界の黄土高原を南下して行く。

陝西省の黄土高原



 黄河本流には黄土地帯でいくつもの支流が注ぎ込むので、ますます濁流となる。陝西省北中部の延安を流れる延河も黄河に注ぐ黄土で濁った川である。


水が少ない時期で、川底の堆積した黄土が見えている。


 黄河には1箇所だけ滝になっている所がある。陝西省と山西省の境の中間あたりに来ると急に川幅が狭くなり、奔流になって下る。壷口瀑布と言い、観光スポットになっている。


下流を見る。


省界を南下する黄河は幅が狭いが、龍門と言う場所を通り抜けると川幅は広くなる。

山西省側から見た黄河。鉄橋の向こう側が龍門。鉄橋が伸びる対岸は陝西省。


水が少ない時期で、堆積した黄土が表れている。川幅は非常に広い。



 さらに南下して、西の陝西、東の山西、南の河南の3省の境界で東に向きを変える。

 黄河には三門峡ダムと言う大規模な治水ダムが造られている。この三門峡にある三門峡西駅。



 私が断片的に見た黄河はここまでだが、この後黄河はさらに東北に流れて山東省に入り、渤海に至ってその旅を終える。

 黄河はかつては水量豊かだったが大水害を引き起こすことが多かった。三門峡ダムなどの建設でそれは減少したが、他方では上中流域での農工業用水の需要が増え、河口近くでは長期にわたって水は流れないというような水不足が大きな問題になっていると言われている。現在黄河を含む中国北部の水不足を解消するために、長江の水を北に送る「南水北流」という大土木工事が進められている。



海寶塔寺

2007-08-21 09:21:47 | 中国のこと
 寧夏回族自治区の省都の銀川市内には古い時代の遺構が多いようだ。寧夏への教育交流ツアーが終わり、銀川から北京に向かう列車の出発時刻まで時間があったので、そのような遺構の1つである海寶塔寺を見学した。

 この寺は浄土宗で、海寶塔という高い塔を中心にして建設されているのでこの名がある。


大雄宝殿(本堂)


 海寶塔。初建年代は不詳であるが、五胡十六国時代の夏国の時代(5世紀)に修復されたと言うから非常に古い。伽藍は後世(清代か)のものだが、塔は1600年を経ていることになるから、西安の有名な唐代の遺構である大雁塔よりも古い。夏国を建てた赫連勃勃(在位407~428)の治世に、曾重修という人物が修理したと伝えられている。その後、清の乾隆帝の時代に地震で壊れたので修復されている。9層54メートル。別名称赫塔、俗に北塔と言われる。上から見ると亞字型になっていると言う。
    大雁塔(西安)

塔には登ることが出来るが私は足を少し痛めているので登らなかった。

塔の上から見た大雄宝殿のある正面方向。 
同行のKさん撮影

 裏側。釈迦涅槃像が置かれている臥佛殿が見下ろせる。真下に見える屋根は塔に続く玉佛殿。




 この玉佛殿に続く小さい建物の中には経典や護符などを売っている売店のようなコーナーがあり、そこにいた若い僧侶が、私達が日本人だと聞くと興味を示して、日本の紙幣を見せてくれと言った。各国の紙幣は見たが日本のものは見たことがないと言う。同行者の1人が1万円札を出すと手に取って、興味深そうに見ていた。私と同行のAさんが手持ちの1円から500円までの日本の全種類のコインを記念に進呈すると喜んでくれた。

臥佛殿


釈迦涅槃像


 海寶塔寺遠景。昔は寺には舟で行ったと言う。池の中の島にあったのか。当時のような状態に池を復元すると聞いた。
同行のKさん撮影