中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

西安で(8) 雑記

2009-10-31 09:33:07 | 中国のこと
奇遇
 行きは上海浦東空港で西安行きの国内線の乗り継ぎをした。4時間もあるのでターミナルビルのオープンなレストランに入ってコーヒーを飲んだ。適当に時間が過ぎたのでウェイトレスを呼んで支払いを済ませたが、なかなか釣銭を持ってこない。遅いななどと言いながら待っていると、入り口のほうに目を遣ったHr君が「唐さんみたいな人だなあ」と言った。唐さん、唐怡荷(タン・イフ)は私が上海に行ったときに世話になって親しくなった女性で、彼らもここ何年か上海近郊に行くたびに世話になっていた。
 
 前の方の席に女性が座っていたが、後姿なのでよく分からなかったし、まさかという気もしたので、あまり気に留めなかったが、席を立って入り口に向かう途中で目を遣るとまさしく唐怡荷だったので驚いた。もちろん彼女もびっくりした様子で立ち上がった。その後はひとしきり話をして別れたが、お互いに信じられないような雰囲気だった。
 
 まったく珍しい偶然があったものだ。ターミナルにはレストランは2店ある。もしどちらかが別の店に入っていたら出会うことはない。釣銭を早く持ってきたら彼女が店に入る前に私たちは出てしまっていただろう。もしHr君が入り口のほうに目を遣らなかったら気がつくことはなかった。彼女は伯父が北京から来るのを迎えに来ていた。少し時間があるので時間つぶしをしたようだ。そういうことがなければもちろん会うことはなかった。上海市民は1200万人。その中の1人の彼女とこうして思いがけないところで会うとは奇遇としか言いようがなかった。


Hg君の「奇跡」
 Hg君が西安の観光の途中で財布を落とした。食事にしようとある店に入ったが、そこは中国風のファーストフード(小喫)の店で、注文すると代金は前払いだったそうだ。それでいつもズボンの尻のポケットに財布を入れているので、手をやったらないのに気がついた。慌てて通訳の張さんと一緒に探しに店を出た。車の中かと思ったがない。店の前に戻って車が停車したあたりを探していると、若い女性の2人連れが拾ってくれていた。彼女達は店に入った客だろうと見当をつけて待っていてくれたらしい。夜ホテルで見せてくれたが、財布は2つ折のもので、中には人民元ばかりかなり入っていたし、各種のカード類なども入っていて、かなり膨らんだものだった。これを落としたとは、私も体が冷たくなる思いがした。

 人ごみの中でこのように膨らんだ財布を落としたら、先ず返ってくることはないだろう。正直な女性が拾い、しかも待っていてくれたことは、奇跡だと私は言った。普通の後払いの店には入ったのだったら、そうそうは待ってくれてはいなかっただろう。まったく幸運だった。お礼しようとしたが固辞されたので、張さんの勧めで「記念写真」を撮った。これがその女性達である。学生らしい。

           

 それにしても財布をズボンの尻のポケットに入れるのは危ないことだと言われている。まして中国の人ごみの中には掏りが多いそうだ。掏られないのが不思議なくらいだ。前からそうで、いくら言っても聴かないとHg君の奥さんはこぼしていた。Hg君はこれに懲りて止めるだろうか。さすがにその後の西安滞在中はバッグに入れていたらしいが、長年の習慣だったそうだから案外、「喉もと過ぎれば」で止めないかもしれない。過信は禁物だ。思いやられる。


西安で(7) 素食

2009-10-30 11:05:11 | 中国のこと
 魚や肉などの生臭物を使った料理を葷食(フンシイ)あるいは葷菜(フンツアイ)と言うのに対して、いわゆる精進料理を素食(スウシイ)とか素菜(スウツアイ)と言い、寺院で素食を提供しているところもあるが、一般にも素職の専門店がある。

 中国の素食は、材料が野菜や茸、豆腐やその二次製品などを使うだけでなく、外見を肉や鶏、魚などに似せているのが特徴で、中国人の食に対する拘り、執念のようなものを感じさせる、例えばこれは、かつて上海の功徳林という店で出された海参(なまこ)料理で、もちろん本物ではなく、素海参であるが、見た目はもちろん食感も、干し海鼠を戻したものに似ていた。

          


 西安には大雁塔の近くに、西安天龍宝厳素食館という大きな素食の店がある。以前行ったことがあって気に入ったので、今回はHr君たちを誘った。

 肉製品に見えるが、すべて大豆や茸を原料にしたもの。






 中国風ソーセージ(香腸)の見た目も食感もなかなかのものだった。


 酢豚風


 肉団子風


 素魚。揚げた魚のあんかけ風。


 野菜料理


西安で(6) 農家楽

2009-10-29 09:47:50 | 中国のこと
 北張村からの帰途、少し山あいにある農家料理を食べさせる所に行った。農家料理は農家楽と言って、景色の良い所などに土地の農民がレストランをつくって料理を出す。素朴さが受けて出かける西安市民は多いようだ。 





 注文して出された料理は野菜が材料のものが多く、どれもなかなか良い味だったし、それほど油っぽくなく、健康食という感じがした。

 灰灰菜。干したものを戻して炒めたものだがなかなか旨い。人気のあるものらしい。


 珍珠菜。謝俊麗と運転手の3人で食べたが、量が多い。5、6人でちょうどよいくらいだ。


 地卵の炒めもの。味は濃厚であった。


 豆腐料理。少しスモーク臭がして硬く、良い味である。


 葉少花と燻製の豚肉の炒めもの。豚肉の味が良い。


 最後に小椀の麺が出た。胡椒味が利いていて、黒胡椒の粒が入っている、なかなか旨いものだったが、小椀といっても量が多く全部は食べきれなかった。





西安で(5)北張村の製紙②

2009-10-28 08:52:50 | 中国のこと
 裁断した原料に水を加え、臼で練る。




 原料を入れる水槽。底は平らでなくくぼんでいて、原料が溜まるようになっているという。


 紙漉きの準備


 水槽の水を攪拌すると原料が浮き上がってくる。


 竹を編んでつくった簀(す)で漉く。










 漉いた紙は重ねていく。






 重ねた紙は、前方の壁の穴に太い木柱を差し込んで、梃子のようにして水分を搾り取る。圧縮された紙の塊は後で乾いても1枚ずつはがすことができるが、どうしてなのかは秘密だと言った。

 完成した楮皮紙。薄いが腰がある。


 楮だけでなく古紙を混ぜてつくる紙もある。これは楮皮紙に比べると安価なもの。

 原料の古紙。新聞紙もある。


 壁に貼り付けていく。この方法も古いものらしい。




 古紙再生紙の完成品



 張さんの家は古いものらしく、外にある厨房には竃のそばに火を起こす鞴(ふいご)がある。謝俊麗は珍しがっていた。


 水も井戸水を手押しポンプでくみ上げる。ちょうど家人が香菜を洗っていたが、離れていても好い香りがした。俊麗はきっと自家製の新鮮なものだろう、店で買うものはこんなに好い香りがしないと言った。



 張さんとは「お元気で」と挨拶し合い、握手して別れたが、気さくな老職人の伝統的な紙づくりを楽しめたひとときだった。

           

         

西安で(4)北張村の製紙

2009-10-27 08:53:53 | 中国のこと
 西安市の南の近郊、車で1時間余り行ったところにある北張(ペイチャン)村では古くから製紙業が営まれてきた。

 紙は羅針盤、印刷、火薬とともに古代中国4大発明の1つとされ、東漢(後漢25~220年)時代の蔡倫(ツアイルン)の発明と言われている。蔡倫は105年に樹皮、麻くず、破れた魚網などから紙をつくり皇帝に献上したとされている。その製法は、細かく砕いた材料を水に溶かし、竹を編んで作成した簀(す)で漉い上げ、乾かす工程を経たものである。

 北張村には7000人の村民がいるが、新中国以前には皆製紙業に従事していた。現在も多くの村民が製紙をしていて、手作りの工房では東漢以来の技術が継承されてきた。中でも今回訪れた工房の主の張逢学(チャン・フォンシュエ)さんは製紙技術の伝承人として、日本の無形文化財保持者のような称号が国から与えられている。

 張逢学さんの住居兼工房。


 村のどの家にも、このような文字を書いた扁額のようなものが家の入り口の上に掲げてあった。縁起のよい言葉らしい。


 張逢学さん。71歳。9歳のときから父親について製紙を始めたが、小学校には行けず文字は読めないとのこと。当時村では裕福な家庭の子弟は私塾に行き、貧しい家庭の子は「川に行く」、すなわち紙を漉いたのだそうだ。声の大きな元気な老人である。いろいろ説明し、製紙の工程をやって見せてくれた。通訳してくれた謝俊麗によると、かなり強い方言だったそうだ。


 張逢学さんの称号は「楮皮紙製作技術の代表的な伝承者」となっていて、漉く紙は楮(こうぞ)の樹皮を原料にしている。




 原料の楮の樹皮


 これを石臼で搗き固める。


 搗き固められた樹皮


 切翻枕というものの上で細かく切る。


 屋内から見た紙漉き場


 (続)

西安で(3) 子ども達③

2009-10-26 09:47:21 | 中国のこと
果果と小雨
 謝俊麗と劉凱夫妻の友人の呂さんと梁さんの家族を食事に招いた。呂さんの娘は愛称を果果(グォグォ)、梁さんの娘は愛称を小雨(シャオユイ)といい、3年前からの知り合いだ。

果果



 レストランで待っていると両親に連れられて入ってきた果果は見違えるほどに女の子らしくなっていた。もともと物静かな子だったが、今回はおずおずして恥ずかしそうで、打ち解けにくそうな様子だった。5歳半になり、幼稚園に行っているが賢い子で、もう三国志の漫画を読んでいて、時々難しい質問を母親にするという。幼児言葉ではなく、文法的にも正しい言葉を使うそうだ。顔立ちの良い、将来は知的な美人になるだろうと思う。名前は呂亦喬(リュイ・イチャオ)。愛称の果果の由来は分からない。


小雨



 果果とは対照的に明るい陽気な子で、果果より半年遅れの5歳。やはり両親に連れられてきたが、真っ先に陽気な声を上げておどけた様子で入ってきた。それでもちょうど1年前に会ったときに比べると成長している。相変わらず色白の幼い顔立ちで可愛い。果果と違って、まだ話す言葉は幼児らしいものだそうだ。この子は大きくなれば愛嬌のある娘になるだろうと思う。名前は梁心雨(リャン・シンユイ)。


 果果と小雨は小さいときから何度も会っているので、適当に喧嘩もしたりして仲が良いらしい。

 1年前の果果と小雨。


 これで会うのは3年目だが、どうやら私を覚えてくれるようになったようだ。今回西安を訪れた目的の1つは、この2人に会うことだったので、特に話したりすることはなかったが、様子を見ているだけで楽しかった。


 食事の後、近所の公園を皆で散歩した。

西安で(2) 子ども達②

2009-10-25 09:56:58 | 中国のこと
宸宸(チェンチェン)



 李真の息子。3ヶ月。まだ立つことも歩くこともできないが、よく這う。人見知りするとのことだったが、私の顔を見ても初めから笑顔を見せた。李真は2ヶ月前にバドミントンをしているときに転倒し、腰骨の一部を骨折する重傷を負い、今も松葉杖をついているので、ずっと宸宸を抱くことができない。だから宸宸は私のことをあまり好きではありませんと李真は少し寂しそうだった。宸宸の世話は生まれてからずっと李真の母親がしてきたが、成長するにしたがって重くなり腰が痛くなったので、今は母親の妹が通いで世話をしている。
 李真の母親と

 宸宸は目鼻立ちのはっきりした可愛い子で、李真の住む団地の幼児用の遊具のある場所で遊んでいると、年寄りなど近所の人たちが「宸宸」と声をかけて近寄ってきてあやしたりする。近所でも人気者になっているようだ。




撓撓と宸宸
 撓撓を李真の家に連れて行ったが、お互いにまったく無関心で、いさかいすることも、じゃれ合うこともなく、勝手に自分で遊んでいた。来年になると仲良くするだろう。






西安で  子ども達

2009-10-24 17:37:18 | 中国のこと
 16日から22日までの1週間の西安への旅は順調に終わった。私たちが行く前は雨の日が多かったようだが、滞在中は晴天で、特に最初と最終の日は西安には珍しい青空だった。気温も20度程度で過ごしやすく、Hg君の奥さんはずっと半袖姿だった。

 Hg君夫妻やHr君は滞在中毎日市内観光をしたが、私は別行動で特に観光ということはせず、西安市近郊の北張村という所に伝統的な紙つくりの職人の家を訪ねた他は、謝俊麗や李真の家族や友人達と一緒に過ごした。謝俊麗がずっと世話をしてくれた。

 今回の旅の目的は謝俊麗や李真の子ども達に会うことだった。これまで子ども達の可愛い写真や動画をたくさん送っていてくれたので期待はしていたが、会ってみると期待に違わない可愛い子ども達だった。

撓撓(ナオナオ)



 謝俊麗の息子。1歳1ヶ月。俊麗の家に行ったときにはちょうど昼寝から覚めたばかりで、私の顔をまじまじと見つめ警戒心を表し、べそをかき始めたので、こちらは取り合わないようなふりをした。時間がたつにつれて普段の調子が戻ったようで、いろいろと手悪さをしたり、部屋の中を歩き回ったりするようになった。まだもう一つしっかりとした歩調ではなく、時折平衡を保つように両腕を上げて手を上下させてひょこひょこ歩く姿はペンギンのようで可愛かった。まだ言葉は出ないようで、時折「ママ」と言うくらいだが、家族、とりわけ俊麗の言うことはかなり分かっているようだった。その年頃なのか、テーブルの上にある物は片っ端から投げ捨てる。ティッシュを箱から引っ張り出して口に入れる。後を追っている俊麗はなかなか大変なようだったが、無邪気に遊びまわったり、音楽に合わせて腰を上下させたりする様子は見飽きなかった。


 半日いる間にしだいに私に慣れてきて、俊麗が「爺爺イエイエは?」と言うと私のほうを見て笑うようになった。俊麗の家には夫の劉君の両親が同居しているから、本当の爺爺がいるのだが、私がいる間はどうやら「爺爺」というと私になったようだ。それだけにいとおしさが募った。




 俊麗は良い母親で、きめ細かく撓撓の面倒を見るし、無口で物静かな劉君も可愛がっているようだ。元気な良い子に育つように願っている。








ブログを休みます。

2009-10-15 17:43:29 | 身辺雑記
 16日から1週間、中国の西安に行きます。いつもの卒業生、Hr君やHg君夫妻と一緒です。彼らは市内観光ですが、私は友人の子ども達に会いに行きます。

     


 今朝から金木犀の香りが漂い始めた。去年より少し遅い。この花の香りは大好きだが、匂い始めないと花が咲いたのに気がつかない。そばに寄って見たが、まだ蕾が多いようだ。旅行中にはすべて開き、辺りは芳香に包まれるだろう。今年は残念ながら楽しめない。

 

前世 来世(2)

2009-10-15 15:46:09 | 身辺雑記
 仏教では輪廻ということを言う。それについても浅学のためよくは知らないのだが、要は生命というものは永遠に連続しているもので、この世では人間でも来世には何に生まれ変わるか分からない。苦難の多いこの世で、生命が永劫に続くことは非常に苦しいもので、何とかしてその輪廻の業苦から逃れる(解脱する)ために修行するのだそうだ。だから来世があれば当然前世もあることになる。死んだらホトケになると日本ではされているが、中国ではどうなのだろうか。こういう考えはもともと仏教にあったのだろうか。

 よく私は死んでも妻には会えない、妻は善良な女性だったから天国に行っているだろうし、私はあまり善良とは言えないから地獄に行くだろうからなどと冗談めかして言う。だからと言って天国や地獄があるとは信じてはいない。仏教でもキリスト教でも天国や地獄は言うが、つまるところ天国に行きたければ、地獄に堕ちたくなかったら現世で悪事を働かず、善良に過ごしなさいということなのだろう。

 欧米では、キリスト教信仰から来るものではないようだが、前世というものを信じている人はあるようだ。アメリカの学者の中には催眠術を使ってクライアントに前世を語らせるなどということを研究している人もあるようだ。人からもらった本にそんなことが書いてあったが、例えばある女性のクライアントは催眠状態に陥って「今は紀元前○○年です。私はこれこれで、どこそこにいます・・・」などといろいろ話し出すのだそうだが、紀元前の人間がどうして「今は紀元前○○年」などということが分かるのか、それに時代もはるか昔で、異郷の地にいるのにどうして現代語を話すのか、読んでいてどうも眉に唾をつけたくなった。人類は地上にどんどん人口を増加させてきた。今では初期の人類に比べると膨大な数になっているから現在の人間が皆前世を持っているなら、矛盾することになる。日本人の中にも信ずる人は、私の前世はこれこれ(歴史上の有名人)だったとまじめに言ったりするようだが、失礼ではあるが滑稽に思う。

 味も素っ気もない言い方だが、私には前世はもちろん来世もあるとは思えない。人は暗黒の無から生じて、暗黒の無に還ると思っている。こう言うと批判や反論があるだろうが、では、あることを証明してほしいと居直るつもりはない。人それぞれに信ずるものがある。そう信じていれば心が安らぐのならそれでいい。