中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

臓器移植

2008-05-31 08:38:58 | 身辺雑記
 朝刊の読者の声欄に、臓器移植に関する投書が2つあった、1つは76歳の男性のもので、後期高齢者になって町から交付された国民保険証に臓器提供意思表示欄がなくなっていた、75歳以上になれば提供の資格がないのかと言っている。この人はこれまでにドナーカードに全部の臓器を提供する意思表示をしたようだ。一概に75歳以上の人の臓器がすべて役にはたたないと思わないと言う。何とか役に立ちたいという趣旨の投書である。

 もう1つは18歳の女子高校生のもので、臓器移植についての授業を受け、強烈な違和感を覚えた、「誰かの体から臓器を取り出して、それを他の誰かの体に移植するという行為が信じられなかった」と言う。そして「移植は正しい知識と理解、患者と臓器提供者を守る法律のもとで行われるべきである。一方で理性で割り切れない感情を忘れてはならないと思う」と結んでいる。

 1997年に施行された臓器移植法は脳死した人からの臓器移植を認めている。施行以来10年以上たつが、この間に行なわれた脳死移植は全国で60余例で、米国の年間臓器提供数の1%にもならないという。臓器提供施設の不足が背景にあるというが、その他にも彼我の生死観の違いもあるのではないだろうかと思う。普通の死は心臓機能の停止から脳機能の停止という過程を経るが、脳死は脳機能の停止から心臓機能の停止に至るという過程を辿る特殊な状態である。生命維持に不可欠な脳幹部を含む全脳機能が完全に失われて再生不能状態になったもので、心臓停止までに蘇生することはない。それで脳死=人間の死とみなす見解もあるようだが、まだ一致を見ていないという。

 理論的には理解できるし、先の女子高校生が言っているが、臓器移植はそれによって病態が完治するかも知れないから患者にとっては「希望」であることも分かる。現に移植によって新しい人生に踏み出せた例も聞く。重篤なわが子に移植を願う親の気持ちも理解できる。それでも感情面では何かしら割り切れない気持ちがある。臓器移植、とりわけ心臓移植が言われ始めた頃には、例は良くないが、何かしらアフリカの原野で斃れた動物の死を周囲でじっと待っているハゲタカを連想したものだ。今はそのようなことは考えないが、誰かは分からないある人の死を待つことには、やはり暗い気分を覚える。その誰かも、移植を待つ患者と同じ掛け替えのない命の持ち主なのだ。

 私の妻は普通の死を迎えたが、もし妻が自分の生前に臓器提供する意思表示をし、ドナーカードを持っていて脳死をしたら、私は臓器提供に応じただろうか。確かにもはや生き返ることはなく、事実上死んでいる状態にある。しかしまだ体にはぬくもりがあり、心臓も動いている体から臓器を取り出すことを承諾できるだろうか。おそらく私にはできないだろう。生命維持装置だけで生かされていて蘇生不可能な肉親を前にして、その装置を外す辛い決断をする話もあるが、臓器移植を承諾するのはそれに等しい、あるいはそれ以上の苦しい決断ではないかと思う。臓器移植を取り扱ったあるテレビ番組では、ドナーカードを持っていて脳死状態になった夫の臓器提供を、どうしても承諾できなかった妻の話を見たことがあり、私にはその女性の気持ちがよく分かった。

 私自身は臓器提供をする意思があるかと聞かれたら、ないと答えるのが正直なところだ。臓器提供の意志を持ったり、死後に献体をすることを言い遺す行為はとても立派で尊敬する。しかし、なぜなのかと理論的に問い詰められたら言葉に詰まってしまうだろうが、私にはできない。自分の臓器が、その移植を待っている誰かの役に立てばという心境にはなれていない。




サプリメント

2008-05-30 09:00:55 | 身辺雑記
 かかりつけの医院にこのようなポスターがあった。日本医師会が作成したものだ。


 診察を受けた時に先生に尋ねてみると、1つの例を話してくれた。血圧が上がった患者があって特に原因が分からなかったが、いろいろ質問しているうちに、あるサプリメントを服用していることが分かった。それで飲むのを止めさせると血圧は正常になったそうだ。サプリメントや栄養補助食品は何でも良くないということではないが、こういうこともあるようですとのことだったが、日本医師会が注意を促しているのだから、他にも事例はあるのだろう。まあ、お菓子と思えばいいのでしょうなと先生は付け加えた。菓子にしても過ぎたるは及ばざるが如しということなのだろう。

 サプリメントや栄養補助食品の通販の広告は、テレビや新聞紙上で盛んである。多くは中高年に出てくる、高血圧、糖尿と、関節痛などの症状やダイエットに関するものが多い。テレビで見ていると、頻繁にCMが入り、チャンネルによってはインフォメーションと称して15分くらいも続くのがある。たいていは、まずどのような症状に効くかを述べる。分子レベルの動画で「効き目の仕組み」を解説する。片仮名やアルファベットを組み合わせた「有効成分」の名を言う。時には医学博士や大学教授の肩書きの人物が解説する。そして何人かの使用体験者が、いかに症状が改善されて良くなったかを語る。これは化粧品の場合も似たり寄ったりだ。

 この体験者の談話がどうも胡散臭さを感じさせる。○○県の○○さん(○○歳)などとあって、いかにも実際の使用者のようなのだが、素人の割には表情豊かで滑らかな口調が多い。時にはいささか芝居がかってもいる。そしてここが面白いのだが、画面の隅に必ず小さくて読みにくい、ほとんどが白い文字で「個人の感想であり、効果や効能を示す(保証する)ものではありません」、「個人の感想であり、効果には個人差があります」などの注意書きが示される。「これこれの症状に効きます」と謳っておいて、それを証明するかのようなことを言わせながら「効果、効能を示すものではありません」もなかろうと思うのだが、そう書かなければ薬事法に抵触するのだそうだ。それは分かるのだが、画面に近づいて目を凝らさなければ見えないような文字で書くのは、生命保険の約款に重要なことは見逃すような小さい文字になっているのと同じようで、いかにも小賢しく、こずるいという感じがする。

 特によく目にするのは関節痛に関するものだが、医師に言わせると今の段階では確たる治療法はないそうだ。じっさい医師に関節痛を訴えても薬は処方してもらえないらしい。そいうところへ、いかにもすばらしい効果があると謳い、体験者まで出されると、悩んでいるものはつい購入してしまうことになるのだろう。詐欺とまでは行かないが、一応眉に唾をつける必要もありそうだ。

 実は偉そうなことを言ったが、私もCMに釣られて関節痛を改善するというサプリメントを2ヶ月間飲んできた。なるほど「効果、効能を示すものではありません」と言っていたとおり効果はないようだ。あるいは個人差のためかもしれないと自嘲している。関節が痛くなってからサプリメントを飲むよりも、ブログ友の北海道のSさんや隣の市の0さんのように根気よくウォーキングを欠かさなかったらと、悔やんでも後の祭りである。

 サプリメントや栄養補助食品の流行はご他聞にもれず米国かららしい。米国人は栄養過多で、容易ならない肥満者が多いようだが、日常の食生活が放漫で、それをいくらサプリメントで補っても無意味だろう。日本でのサプリメントや栄養補助食品の流行の根源には、過度とも言ってもよいくらいの健康指向と、飽食傾向があるのかも知れない。



高級料亭の廃業

2008-05-29 07:36:36 | 身辺雑記
 料理材料の産地偽装や賞味期限の偽装で話題を集めた大阪の超高級料亭が廃業することになった。名を知られた高級料亭にあるまじき行為として世の指弾を浴びた営業休止に追い込まれたが、それでも老舗の看板の有難さと言うのか、「人の噂も七十五日」と言うことなのか、営業再開後は、それなりに客足も戻っていたらしい。

 そこへ、料理の使いまわしという行為が14年も前から常態として行われていたことが発覚した。これは産地偽装以上に呆れ果てたことで、報道を知った時には信じられない気がしたし、同時に「なんと不潔な」という嫌悪感を覚えた。例えば鮎の塩焼きなど、客が箸をつけなかったものを、温め直して後の客に出したと言うが、「もったいない」より「不潔だ」と考えなかったのか。「もったいない」は客や第3者の感覚で、料理を出す当事者が考えることではないだろう。せっかく手をかけて作ったのにと思うことはあるだろうが、それを他の客に再度出す神経が分からない。料理を前にして客が黙り込んでいることはあまりないだろうから、喋れば気がつかなくても唾液の飛沫が飛ぶから汚い。このような行為は食品衛生法には禁止規定がないそうだが、法律に抵触するしない以前の問題だ。報道によると、残り物は「下座の客」に出したと言うから、客を馬鹿にした、まったく嫌な話だ。細かいことを言えば料金の二重取り、詐欺行為ではないか。企業倫理も何もあったものではない。

 他にもこういうことをしている料亭、料理店があるかも知れないとついつい考えてしまうのだが、私がよく行く店の卒業生の主人も同じように思ったのか、親しくしている板前の友人に聞いたという。この板前は包丁1本であちこちの店やホテルを回っているらしいが、刺身などに付け合せる小さい菊の花などは洗ってまた使うことはあるが、料理の使い回しなどはしたことはないと言ったそうだ。

 いずれにしても、この超一流と言われた高級料亭はとうとう廃業することになった。使いまわしがあったことの報道以来、予約は激減したというから当然のことだろう。私には無縁の存在だからというわけではないが、自業自得で同情はできない。

 このニュースは、夕刊の一面のトップに大きな見出しで掲載された。そのような大きな扱いにも何かしら違和感を覚える。確かに大阪では名の知られた老舗であるから、関西版ではこのようなトップ記事扱いになるのだろうが、財界のお偉方や政治家でもない、私のような一介の庶民には何の縁もゆかりもない超高級料理店の廃業がそれほどの大きなニュースなのか。ブログ友の隣の市に住む0さんは、自分のブログでマスコミの報道の仕方がバランスを欠くと強く批判していたが同感である。

迷子になったインコ

2008-05-28 08:24:15 | 身辺雑記
 千葉県流山市の路上でインコの1種のヨウムが警察官に拾われた。このヨウムは警察で飼い主の名前や、住所を番地まで正確に話したようで、それで無事飼い主のもとに戻されてめでたく決着したと言う。

 このヨウムというインコはアフリカの鳥で、比較的上手に言葉をしゃべるのでペットとして人気があるようだ。飼い主は、あまり飛ばないので油断していたと言ったそうだが、2年程前から自分の名前や住所を教えていたことが思いがけなく役立ったようだ。ヨウムは警察官に飼い主を知らせるつもりで訴えたわけではあるまいが、何となくおかしく、可愛い感じがした。

 私は猫を飼うようになって10年ほどになるが、もちろん猫はインコと違って、言葉を教えても話すことはない。それどころか犬と違って私が呼びかける言葉にもほとんど反応しなくて、わずかに「おいで」と「どいて」が分かるらしい程度で、それも気が向いたらという感じである。俗に「猫は家につく」と言われるように、転居したりするとよく行方不明になるらしい。ある卒業生の女性が、娘が飼っていた猫を自宅に預かっていたが、ちょっと油断した隙に飛び出して、それっきりになってしまったと聞いた。そんなことで今飼っている猫が私が死んで息子にでも引き取られたら、卒業生の例のように飛び出してしまって、帰る当てもなく野垂れ死にでもするかも知れない。それは哀れでいとおしいことだと思う。だから、これはどうしても先に死ねないなと思っているが、猫はまだまだ元気で後10年近くは生きそうだ。そうなると私は80代半ばとなり、何やら覚束なくもなるが、まあ、なるようになるだろう、この子のために長生きしようと思っているだけで、私も生きる意欲が湧いてくるというものだ。




黒髪

2008-05-26 08:56:16 | 身辺雑記
 喫茶店で休んでいた時、近くのテーブルに金髪の娘が2人座っていた。顔が見えなかったので白人かと思っていたら、やがて日本人だと分かった。茶髪というよりも薄い金髪だった。

 年のせいなのだろうが、どうも若い子の茶髪や金髪は好きになれない。別に白人かぶれしているわけではなく、ファッションに過ぎないのだろうが、このような色の髪は、肌が欧米人のように白くない日本人には似合わないと思う。やはり日本人の女性には黒い髪が似合うように思うのだが時代遅れか。しかし金髪や茶髪でなくても、髪を染めていない女性は少ないようだ。テレビの時代劇を見ても、鬘でなく地毛で出ている場合の若い女性の髪が、栗色や茶色がかっていると興醒めしてしまう。普段パーマをかけているので変色しているのだろう。中国人の若い子は金髪、茶髪はまだ少ないようだが、軽く栗色がかっている程度に染めているのが多くなった。私の若い友人の女性達もほとんど染めている。なぜ黒髪を敬遠するのだろうか。アジアの他の国ではどうなのだろうか。

 つややかな黒髪を表現するのに「緑なす(緑の)黒髪」と言う。つややかな黒色がなぜ緑なのか浅学にして知らない。緑という語はミドが語源で、「瑞々(みずみず)し」のミヅと関係があるかと広辞苑にあるが、「緑の黒髪」も「みずみずしい」と関係があるのかも知れない。緑はまた、深い藍色を言うこともあるようだ。信号の緑は青信号と言っているが、黒を緑と表現したり緑を青と言ったり、どうも日本人の緑色に対する感覚は特殊なものがあるようにも思う。

  「緑の黒髪」と言う表現は好きだ。もうひとつ黒髪を「烏の濡れ羽色」と表現することがあるが、これはよく分かる。ただ烏の羽の色と言うのでなく、濡れた羽の色としたところが細かい。

 若い人だけでなく、年配者も髪を染めることはよくあるが、これは白髪隠しのことが多いようで、私の妻も50代に入って白髪が目立つようになると淡い栗色に染めるようになった。それはそれで良いのではないかと思っていたが、存命ならば70歳を過ぎている。やはり染め続けているだろうか、それとも年齢相応に白髪の良さを強調するようになっているだろうかと時々考えることがある。男性の場合、白髪隠しには黒く染めるのが普通のようだが、あまり年をとって濃い黒色に染めていると、髪と顔が何かアンバランスで顔が年寄り臭く見え、それに髪には艶がなくてかえって年が分かる。私は染めたことはなくそのままにしているが、もうほとんど白く、ロマンスグレーと呼ばれるような時代はとっくに過去のものとなった。

 

自殺は馬鹿げているか

2008-05-25 09:22:48 | 身辺雑記
 ある男性タレントが自分がパーソナリティーを務める深夜放送の番組で、最近頻発している硫化水素自殺に関して「そんなアホが死んだら別に俺はええねんけど」と発言してインタネット上で問題になったという記事を読んだ。

 当該の放送局によると彼はこの発言に続けて、自殺する行為自体がばかげているという趣旨の話をしており、発言の一部だけを取り上げ、ねじ曲げられて報道されていると言い、彼が所属する事務所は、硫化水素自殺についての「死んだらアカン」という意見表明と思うと言っているそうだ。
 
 「そんなアホが死んだら・・・」と言ったのだとしたら論外のことだが、「自殺する行為自体がばかげている」と言うことにも抵抗感を覚えるし、それがどうして「死んだらアカン」という命の尊さを訴えている意見表明ということになるのか。局や事務所の取り繕いだろう。

 私は、自殺はやはり好ましくない痛ましい行為だと思うので是認はできない。近頃の子どもや若者のように、死というものを何か身近のようなことに思って、簡単に自殺したり、仲間を募って集団自殺するようなことは何とかならないものかと思う。しかし自らの命を絶とうという行為に至るまでには、その人間にしか分からない深い心の闇があるのではないか。例えばサラ金の暴力的で執拗な取立てにさらされた場合、あるいは重い病にかかって心身ともに疲れ果てた場合、また働き盛りでリストラにあった場合、激しく陰湿なな苛めにあった場合などで、生きていくことに望みをなくして死を選ぶということを、第3者が軽々しく自殺する行為は馬鹿げていると非難したり、命を粗末にするのはよくないと説教したりすることはできないのではないか。ましてアホ呼ばわりなどは、傲慢極まりない発言だ。人の悩みや苦しみ、その結果としての死を他人事のように軽々しく考えるから、そのような心無い言葉が出るのだろう。

 タレントと呼ばれる人間の中には、ちょっと人気が出ると男女を問わず尊大で、横柄な物の言い方、放言をする者がいる。自分の活動の範囲に留まって謙虚にしていればいいものを、周囲からちやほやされると何か大物のような気分になり、自分の言うことに過剰な自信を持って、いろいろなことに得意げに口を出す者がいる。とりわけ傍若無人さや毒舌を売り物にしたりする者は、そのようなことを面白がる世の風潮に乗っかって、自分の言うことはすべて正しいと思い込んでいるように思える。そのような輩はどんなに自分を大きく見せても所詮は小者に過ぎない。


四川大地震のその後(2)

2008-05-24 08:47:35 | 中国のこと
 新聞の大地震のニュースはだんだん小さくなっているが、それでも被害の規模は増加する一方で、死者、行方不明者は8万人を超すと言われている。負傷者は29万人、家を失いなって避難している被災民は500万人と言うから、想像を絶する大災害だ。

 死者や行方不明の多くは家屋の倒壊によるものらしいが、中でも校舎の崩壊による小中学生の犠牲は大きいようで胸が痛む。しかし、この校舎の崩壊は、天災ということはもちろんだが、人災という面もかなり大きいと言われている。被害の大きかった都江堰市では、生徒ら430人が犠牲になったある小学校の父母達約400人が教育局に押しかけ、「周りの建物が無事だったのに校舎だけが崩れたのはおかしい」と校舎建築に手抜き工事などの問題があったとして激しく抗議したと報じられている。

 この小学校だけでなく、他にも崩壊して多数の犠牲者を出した学校はかなりあるようだが、手抜き工事の疑いは大きいようだ。西安の袁毅(イェン・イィ)は「豆腐渣工程(トウフジャコンチャン)」という言葉を教えてくれた。「おから工事」という意味だ。コンクリートは水を多く注入したものであり、鉄筋は細い。豆腐の搾りかすのおからのように隙間だらけの脆弱な構造で、要するに粗悪建築だ。

 実はこれは中国の土木建築技術が低いということではなく、役人と業者の癒着の結果なのだ。業者はまさに文字通り水増しした材料で工事を行い、役人は工事費の何パーセントかの賄賂を受け取って黙認する。このような腐敗的な構造が今回の地震の被害を大きくしたと言ってもよいだろう。中国では役人、特に末端の行政府の役人が業者から賄賂を受け取るのは、いまだに日常茶飯事らしい。「中国4千年の伝統」と嗤う声もある。商取引の場合での話なら人命に関わることもないだろうが、校舎の建築は安全を無視しては成り立たない。それでも平然と収賄し手抜き工事をし、そのために悲惨な結果を招いたのだから、その罪は万死に値すると言っても過言ではない。徹底的に究明し厳罰に処すべきだ。

 この問題は、図らずも中国の恥を世界に知らせたものと言えるだろう。中国は真剣にこのような官民の腐敗構造をなくす努力をするべきだと思う。中国の現状を見ると、それは「百年河清を俟つ」に等しいことではないかとも思うのだが、中国が真に近代的な国家になるためには、どうしても必要ではないか。そして私たち日本人もこれを他山の石として、いまだに後を絶たない収賄、汚職などを憎み、根絶する努力をすることが求められるのではないだろうか。

四川大地震のその後

2008-05-23 08:31:55 | 中国のこと
  このような記事を東京の施路敏(シ・ルミン)が送ってくれた。中国の人民網(日本語版)の電子版である。

 地震発生の翌13日の昼、救助隊員が廃墟の下から女性の遺体を発見しました。女性は崩れ落ちてきた天井の下敷きになっていて、救助隊員が廃墟の隙間で彼女を発見したとき、彼女は跪いたまま上半身を前に屈め、両手を地面について体を支えていました。

 救助隊員は隙間から手を入れて彼女の死亡を確認したあと、廃墟の中に生存者がいないかと声をかけたり、探知棒でレンガを敲いたりしたのですが、少しの反応もないので、ほかの場所での救援に移ろうとしたとき、救助隊長が「急げ!」と叫びながら、廃墟の女性のところに引き返したのです。そして死んだ女性の体の近くを手で探りましたが、何と彼女の体の下には赤ちゃんがいて、まだ生きていたのです。

 そこで救助隊員は女性の周りの瓦礫を丁寧に取り除き、黄色い花模様がついている赤い布団に包まれた生後三四月の赤ちゃんを女性の体の下で見つけました。実は、彼女が自分の体でわが子を必死に守ったため、この赤ちゃんには怪我ひとつもなく、すやすやと寝ていたのです。救助隊員たちは、寝ている赤ちゃんのかわいい顔を見て、感動しました。


 その後、医者が布団を開けて赤ちゃんの身体検査をしようとしましたが、何と布団の中から一つの携帯電話が落ちてきました。携帯電話には一通のメールが残されていました。それは、息を引き取る前に、このお母さんが子供に残した最後のメッセージだったのです。

 このメッセージには「わがかわいい子よ、もしあなたが生きられるのなら、ママを忘れないで。ママはいつまでもあなたを愛しているのよ」と書かれていました。これを見た医者は、「私はこれまで多くの死者を見てきたが、こんなことは初めてだ」と涙を流していました。この携帯電話は次々と救援隊員に回され、彼らはあふれ出る涙を抑え切れませんでした。


 私もこの記事を読んで涙した。母がわが子を愛し守ろうとする心は限りなく深く、その力は偉大だと思う。

アジサイ(ハイドランジア)

2008-05-22 09:00:59 | 身辺雑記
 アジサイ(紫陽花)は日本原産の植物で、暖地の山野に自生するガクアジサイ(額紫陽花)の改良種と言われる。幕末期にドイツの医学者であり博物学者であったP.シーボルトが採集してヨーロッパに紹介した。ヨーロッパで改良されたのがハイドランジアで、日本に逆輸入されてからも改良されてさまざまな品種が作られている。

 アジサイもガクアジサイも古来のものは素朴な味わいがあるものだが、ハイドランジアの花色は多彩で美しい。近年は園芸店でさまざまなハイドランジアが見られるようになっている。

アジサイ


アジサイが改良されたハイドランジア










これは花序が縦長の円錐状になっている変わった品種



ガクアジサイ
 インタネットより

ヤマアジサイ
 奈良県矢田寺で

ガクアジサイの改良品種。種類が多い。人気があるのか。



















広東省の旅(13)

2008-05-21 08:52:50 | 中国のこと
雑記
広州市での規制事項
 広州市は人口約730万人、流動人口を併せると常住人口約1000万人の、上海、北京に次ぐ大都市である。市内は車で混雑し活気が溢れていて、上海や北京とはまた違った雰囲気である。ガイドの伍海珠(ウ・ハイチュウ)によると、市にはいろいろな規制があるようだ。

①バイクの禁止
 バイクによる引ったくり犯罪が増えたためだそうだ。広州には北の地域の農村部からの出稼ぎの若者が多く、安い賃金で酷使され、そのためにドロップアウトして男は掏りなどの犯罪者に、女は売春婦などに堕ちる者も多いと聞いたことがある。

②電動バイクの禁止
 これまで訪れた成都や紹興などの都市では電動バイクをよく見かけたが、音もなく後ろから通り過ぎるので、びっくりしたこともある。この電動バイクの禁止もバイクと同じ理由だろう。
成都で

③クラクションの禁止
 市内で車がクラクションを鳴らすと罰金だそうだ。確かに市内には車が多いが、静かであった。

④臭豆腐の禁止
 これにはちょっとびっくりした。臭豆腐は豆腐の発酵製品で、油で揚げて食べるが、揚げる時には非常に臭い。私は杭州の路上で初めてこの臭いを嗅いだ時には、鼻が曲がる感じだった。食べても特有の臭気は残っているが今では慣れてしまい、旨いと思うようになった。中国人は非常にこれを好むが、やはり臭いと敬遠する人もかなりいるのかも知れない。それにしても禁止とはと思ったが、広州は交易都市で外国人も多いから、配慮したのかも知れない。好きな者は困るだろうと海珠に尋ねたら、真空パックしたものを売っていますと言って、土産にくれた。


⑤犬の飼育
 中国でも近年ペットの飼育が盛んになっているようだ。広州では犬を飼うのには許可証が要るそうだ。これは珍しいことではなく、北京でもかなり厳しい規制があると聞いた。しかし建前はそうなっていても北京では無許可で飼う者が増えたという。広州では実態はどうなのか。もっとも田舎に行けば自由に飼っていて、たとえば貴州のミャオ族の居住地では、ミャオ犬と呼ばれる犬がどの家にもいたし、江南地方の鎮でも多く見かけた。ペットと言うよりも、単なる飼い犬というようなものだ。
 紹興安昌鎮で

浙江省西塘で


食膳の風習
 広東では料理店に行くと、陶器製の直径15センチほどの皿と直径10センチくらいの椀と湯飲みとがセットになって出される。広東人達は料理が出される前に、まず湯飲みに茶を注ぎ、次にそれを椀に移し、小さな洗面器のようなものに捨てる。要するに食器をすすぎ洗いするのだ。店のほうでも心得て、茶を捨てる容器を出してくれる。肇慶のレストランで夕食をした時には、食器は透明なラップで包まれて密閉されていたが、それでも同席のガイドや友人達は、ラップをはずすと同じように洗った。昔からある習慣なのか、このような風習は中国の他の地域では見たことがなかったので珍しく思った。


広東語
 普通、中国語と言うのは北京語音を標準音としてつくられた標準語(普通話プゥトンホワ)である。これには方言が多くあり地方に行くと違う言葉かなと思うことがある。これまでに上海にはたびたび行ったが、上海人同士は普通には上海語で話し、これは普通話とは非常に異なり中国語以外の言語だ。小学生になると普通話を学ぶから上海人はバイリンガルだし、施路敏や唐怡荷は日本語も話せるからトライリンガルだ。
 広東では広東語が話される。この広東語も中国語とはまったく異なる言語だ。広東滞在中、周囲で話されるのはすべて広東語で、ガイドの伍海珠もトライリンガルだが、彼女があちこちで話すのは広東語だった。私の中国語はほんの入門程度の貧弱なものだが、それでもまったく知らない言語の中にいると落ち着かないこともあった。滞在中に中国語を聞いたのは2回だけ、1回はホテルのフロントで係員が電話で話していた時、もう1回は私達の車の運転手が携帯電話で話した時で、この時には何かしらほっとした感じになった。     
 これを機会に少しは広東語の単語でも覚えようと思ったが、結局覚えたのは「無い」を意味する「モゥ」だけだった(中国語では「メイヨゥ」)。
 歴史的には上海の地も広東の地も、昔の中国の中心である北の中原から見れば、遥か遠い地の異国だから言葉が違うのは当然なのだろう。実際、広東語も上海語も中国語の方言ではなく、広東人や上海人は自分達の言葉が中国語だと言っていると聞いたことがある。