朝刊の読者の声欄に、臓器移植に関する投書が2つあった、1つは76歳の男性のもので、後期高齢者になって町から交付された国民保険証に臓器提供意思表示欄がなくなっていた、75歳以上になれば提供の資格がないのかと言っている。この人はこれまでにドナーカードに全部の臓器を提供する意思表示をしたようだ。一概に75歳以上の人の臓器がすべて役にはたたないと思わないと言う。何とか役に立ちたいという趣旨の投書である。
もう1つは18歳の女子高校生のもので、臓器移植についての授業を受け、強烈な違和感を覚えた、「誰かの体から臓器を取り出して、それを他の誰かの体に移植するという行為が信じられなかった」と言う。そして「移植は正しい知識と理解、患者と臓器提供者を守る法律のもとで行われるべきである。一方で理性で割り切れない感情を忘れてはならないと思う」と結んでいる。
1997年に施行された臓器移植法は脳死した人からの臓器移植を認めている。施行以来10年以上たつが、この間に行なわれた脳死移植は全国で60余例で、米国の年間臓器提供数の1%にもならないという。臓器提供施設の不足が背景にあるというが、その他にも彼我の生死観の違いもあるのではないだろうかと思う。普通の死は心臓機能の停止から脳機能の停止という過程を経るが、脳死は脳機能の停止から心臓機能の停止に至るという過程を辿る特殊な状態である。生命維持に不可欠な脳幹部を含む全脳機能が完全に失われて再生不能状態になったもので、心臓停止までに蘇生することはない。それで脳死=人間の死とみなす見解もあるようだが、まだ一致を見ていないという。
理論的には理解できるし、先の女子高校生が言っているが、臓器移植はそれによって病態が完治するかも知れないから患者にとっては「希望」であることも分かる。現に移植によって新しい人生に踏み出せた例も聞く。重篤なわが子に移植を願う親の気持ちも理解できる。それでも感情面では何かしら割り切れない気持ちがある。臓器移植、とりわけ心臓移植が言われ始めた頃には、例は良くないが、何かしらアフリカの原野で斃れた動物の死を周囲でじっと待っているハゲタカを連想したものだ。今はそのようなことは考えないが、誰かは分からないある人の死を待つことには、やはり暗い気分を覚える。その誰かも、移植を待つ患者と同じ掛け替えのない命の持ち主なのだ。
私の妻は普通の死を迎えたが、もし妻が自分の生前に臓器提供する意思表示をし、ドナーカードを持っていて脳死をしたら、私は臓器提供に応じただろうか。確かにもはや生き返ることはなく、事実上死んでいる状態にある。しかしまだ体にはぬくもりがあり、心臓も動いている体から臓器を取り出すことを承諾できるだろうか。おそらく私にはできないだろう。生命維持装置だけで生かされていて蘇生不可能な肉親を前にして、その装置を外す辛い決断をする話もあるが、臓器移植を承諾するのはそれに等しい、あるいはそれ以上の苦しい決断ではないかと思う。臓器移植を取り扱ったあるテレビ番組では、ドナーカードを持っていて脳死状態になった夫の臓器提供を、どうしても承諾できなかった妻の話を見たことがあり、私にはその女性の気持ちがよく分かった。
私自身は臓器提供をする意思があるかと聞かれたら、ないと答えるのが正直なところだ。臓器提供の意志を持ったり、死後に献体をすることを言い遺す行為はとても立派で尊敬する。しかし、なぜなのかと理論的に問い詰められたら言葉に詰まってしまうだろうが、私にはできない。自分の臓器が、その移植を待っている誰かの役に立てばという心境にはなれていない。
もう1つは18歳の女子高校生のもので、臓器移植についての授業を受け、強烈な違和感を覚えた、「誰かの体から臓器を取り出して、それを他の誰かの体に移植するという行為が信じられなかった」と言う。そして「移植は正しい知識と理解、患者と臓器提供者を守る法律のもとで行われるべきである。一方で理性で割り切れない感情を忘れてはならないと思う」と結んでいる。
1997年に施行された臓器移植法は脳死した人からの臓器移植を認めている。施行以来10年以上たつが、この間に行なわれた脳死移植は全国で60余例で、米国の年間臓器提供数の1%にもならないという。臓器提供施設の不足が背景にあるというが、その他にも彼我の生死観の違いもあるのではないだろうかと思う。普通の死は心臓機能の停止から脳機能の停止という過程を経るが、脳死は脳機能の停止から心臓機能の停止に至るという過程を辿る特殊な状態である。生命維持に不可欠な脳幹部を含む全脳機能が完全に失われて再生不能状態になったもので、心臓停止までに蘇生することはない。それで脳死=人間の死とみなす見解もあるようだが、まだ一致を見ていないという。
理論的には理解できるし、先の女子高校生が言っているが、臓器移植はそれによって病態が完治するかも知れないから患者にとっては「希望」であることも分かる。現に移植によって新しい人生に踏み出せた例も聞く。重篤なわが子に移植を願う親の気持ちも理解できる。それでも感情面では何かしら割り切れない気持ちがある。臓器移植、とりわけ心臓移植が言われ始めた頃には、例は良くないが、何かしらアフリカの原野で斃れた動物の死を周囲でじっと待っているハゲタカを連想したものだ。今はそのようなことは考えないが、誰かは分からないある人の死を待つことには、やはり暗い気分を覚える。その誰かも、移植を待つ患者と同じ掛け替えのない命の持ち主なのだ。
私の妻は普通の死を迎えたが、もし妻が自分の生前に臓器提供する意思表示をし、ドナーカードを持っていて脳死をしたら、私は臓器提供に応じただろうか。確かにもはや生き返ることはなく、事実上死んでいる状態にある。しかしまだ体にはぬくもりがあり、心臓も動いている体から臓器を取り出すことを承諾できるだろうか。おそらく私にはできないだろう。生命維持装置だけで生かされていて蘇生不可能な肉親を前にして、その装置を外す辛い決断をする話もあるが、臓器移植を承諾するのはそれに等しい、あるいはそれ以上の苦しい決断ではないかと思う。臓器移植を取り扱ったあるテレビ番組では、ドナーカードを持っていて脳死状態になった夫の臓器提供を、どうしても承諾できなかった妻の話を見たことがあり、私にはその女性の気持ちがよく分かった。
私自身は臓器提供をする意思があるかと聞かれたら、ないと答えるのが正直なところだ。臓器提供の意志を持ったり、死後に献体をすることを言い遺す行為はとても立派で尊敬する。しかし、なぜなのかと理論的に問い詰められたら言葉に詰まってしまうだろうが、私にはできない。自分の臓器が、その移植を待っている誰かの役に立てばという心境にはなれていない。