中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

右と左

2008-08-31 09:09:02 | 身辺雑記
 ・・・・と言っても思想傾向のことではない。エスカレーターに立つ位置のことだ。

 先日次男と東京に行った時、駅やデパートでエスカレーターに乗ると無意識に右側に立ち、前の人を見て、ああそうだったと左側に移ったことは毎回あった。関西では右側、関東では左側に立つということは知っていても、実際の場面ではもう習慣になっていて体は自然に右側に寄る。こちらでたまに左側に立っている人を見ると東京人かなと思ったりする。

 地域によって違うらしいので、その他ではどうなっているかと調べてみると、関東、東海、長野、北海道、岡山、福岡では左側に立ち、近畿や仙台では右側に立つようだ。これで見ると左立ち右空けが多いようだ。何となく近畿から東に行くにしたがって左立ちが多くなるのではないかと思っていたが、どうやらそうらしい。また、左右のどちらかを空けるという習慣そのものがなく、前に居る人に合わせるなどという地方も結構多いそうだ。これでは、後から来た者は通り抜けできないだろうと思うが、本来エスカレーターは立ち止まって乗るものだとも言われる。日本エレベーター協会では、エスカレーターでは歩行しないことをマナーとして呼びかけているそうだ。実際エスカレーター上で歩くとその振動によって安全装置が働き、緊急停止することがあったり、片側に寄ることは荷重バランスを崩して、不具合を起こす可能性もありうるのだそうだ。だが現実に左右のどちら側かに寄ることが習慣として定着している都市では歩行禁止の実現は難しいだろう。それにしても、エスカレーターに乗っている時にせかせかと追い抜いていく人を見ると、せめてゆっくりしたらよいのにと思うことはよくある。

 それでは、なぜ都市によって立つ位置が違うのかと言うと、1970年に開催された大阪万博の際、主に右立ちが多かった欧米諸国にならって左側を空けるようにして以来、近畿圏ではそれが定着したようだ。その後首都圏に次々にエスカレーターが設置されるようになったが、ここでは従来からあった道路上での「追い越しは右側」という習慣から右側を空けるようになったと言う。

 別にどちら側に立ってもよさそうなものだが、習慣になると皆が整然と同じ側に立つようになるのは、何か目に見えない力にコントロールされているような面白い現象でもある。そしていったんどちら側に立つかの習慣ができてしまうと、そうでないところでは違和感と言うのか、非常に落ち着かない気分になる。東京ではその気分をたびたび味わった。

 ところでエスカレーターと言えば、前にも書いたことがあるが、駅で1基だけしか設置されていない場合には、例外なく上り専用である。前には特に何とも思わなかったが、数年前から脚の具合が少し悪くなってからは、階段を下りるのに難渋するようになった。上る時には少し体を前傾させるから目は階段の面からあまり離れていないが、降りる時には足元よりもずっと先まで見えるから警戒心が強くなり緊張する。杖を突いた腰の曲がった老人が難儀そうに階段を降りていくのを見ると、エスカレーターが1基の場合には下り専用の方がいいのではないかと思う。登り道の方が辛いからと考えるのは元気な者の発想ではないだろうか。

                     



老いについてのことば(4)

2008-08-30 10:01:17 | 身辺雑記
 老いてなお生臭さを捨てきれず、それどころか感情の暴発を抑制できない近頃の老人の現象を分析したフリーランスのライターは、その著書の中で孔子の有名なことば、「・・・・六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(コ)えず」を引用して次のように書いている。

 こうした人生哲学や、いかに生くべきかといった道徳的規範――。人によっては心地よく響く言説かもしれない。だが、私は違和感を拭いきれない。この手の言葉を目にするたびに自分との距離を感じてしまう。
 もちろん格言は、理念であって現実的に困難だからこそ生きてくる言葉である。距離を感じて当然なのだ。
 だが人は精進すればほんとうにこのような立派な精神的成長をとげ、人生をまっとうできるだろうか?
(中略)
 最近のメディアでは、老人の姿をことさら美しいイメージでとらえる傾向が強くなっている。九〇歳のスポーツおじいちゃんであったり、暮らしの知恵を伝授する達者な一〇〇歳のおばあちゃんであったりする。健康長寿の理想がある。
 あるいは身体的老化をむしろ逆説的に肯定して老人パワーを賛美するような言説も散見される。ことさら批判する必要はないことだが、やはりそこにはリアリズムが大きく欠けている。
 少なくとも自分の二〇年先を、そのように想定できる勇気は私にはない(註:筆者は1955年生まれ)。こうしたメッセージを発するのは、きっと生活にゆとりがあり、人生のビジョンや生き甲斐をもった恵まれた人たちなのだろうと、うらやむだけだ。
 いくら楽天的にかまえていても、まわりの状況が一挙に悪化すると、それに抗う力を老人が発揮するのは容易でない。歳をとって生きるということはやはり厳しいのだ、と思う。
 ―藤原智美『暴走老人!』(文藝春秋 2007年)

(コメント)
 著者は最近の老人の「暴走」の原因として、老人が時間的、空間的などでの社会の変化についていけず、取り残されてきていることにあると分析している。確かにそういうことは私も経験することで、背伸びすることで何とか乗り切っているが、神経が疲れることはある。こうやってパソコンを触り、ブログを書いたり、中国の友人達とチャットなどをしていると、人によっては、それなら大丈夫、落ち込んだり暴走したりはしませんよと言ってくれるかも知れない。しかし後何歳まで生きられるか分からないが、実際に今の世の変化の激しさについていけるのだろうか。いやいや、ついて行こうなどと思わずに自然体で行くのが一番良いのだろうと思ったりして、心は少々揺れることもある。確かに今の世の中、「歳をとって生きるということはやはり厳しい」ことには違いない。


                  

ある青年の死

2008-08-29 09:00:58 | 身辺雑記
 アフガニスタン東部の農村地域で、農業支援をしていた31歳の青年、伊藤和也さんが、反政府武装勢力のタリバンによって拉致され殺された。彼は日本の非政府組織(NGO)に所属し、5年前から現地で農作物の栽培や灌漑事業に取り組んできた。現地語もよくし、村人からも愛されていたという。

 アフガニスタンという国が私たちの目に触れるようになったのは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者への報復として、米国が行った同国への進行以来である。米軍とその支援国家の軍隊は、当時アフガニスタンを実効支配していたイスラム原理集団タリバンへ猛攻をかけ、テレビでは連日その状況が放映されていた。やがてタリバン政府は崩壊し、紆余曲折を経て現在の政権が誕生した。しかし最近はまたタリバンが勢力を回復し、アフガニスタンの情勢はかなり厳しいものになっていた。伊藤さんが所属していたNGOの代表は「アフガンは危機的な状況で、全土が無政府状態化している」と指摘しているが、そんな中で今回の事件は起こった。

 タリバンの報道官は遺体発見後に通信社の電話取材に応じ「日本人を殺害した。すべての外国人がアフガンを出るまで殺し続ける」と述べ、さらに「このNGOが住民の役に立っていたことは知っている。だが、住民に西洋文化を植え付けようとするスパイだ」と主張し「日本のように部隊を駐留していない国の援助団体でも、われわれは殺害する」と言ったようだ。彼らからすると正当な考え、主張なのだろうが、献身的に農業指導をしたことがなぜ西洋文化を植えつけようとするスパイということになるのか。私たちにはもう無茶苦茶な論理、冷酷冷血な行為としか思われない。人間として理解不能としか言いようがない。

 今回の事件で、アフガニスタンに入っている各国のNGO団体は大きな衝撃を受け、一部は撤退することも考えられるが、それは一部の勢力にとっては思う壺のことなのだろう。いったいアフガニスタン国民の苦難はいつまで続くのだろうか。非業の死を遂げた伊藤さんの冥福を祈るとともに、彼の無償の善意が報われる日が来ることを心から願う。

                


老いについてのことば(3)

2008-08-28 09:57:02 | 身辺雑記
 同じく、小林勇『夕焼』(文藝春秋 昭和49年)から。

 今日私は夕焼け空の下を歩きながら、その美しさに、いまさらにおどろいた。しかも近年見るごとにその美しさを痛切に感じるようになったのは、何故であろうか。私はそれを単なる老境の感傷とは思わない。このことに気づいたのを私は幸せに思う。自然の美しさを味わうことができるようになることは、同時に、世の中の美しいものを発見し楽しむ資格ができたように思うからである。
(中略)
 人はその一生にどれだけ緊張した時間を持ったか。その量の多寡によってその人間の価値が決まるように思う。言うまでもなく自分一個の、欲望のためにのみ緊張することから美しいものは育たない。
 すべてのものには終りがある。終りのあることはよいことだと思う。日々に終りに近づきつつ、思うことは日々新たである。昨日は今日よりも深くものを見、その美しさを感じる。明日は今日よりも進歩する。
 日暮れはさびしいが、たのしい。一年の終りもまたさびしいが楽しい。人の世を憂え、自分の生活を大切に生きてきたものだけに、その楽しさが与えられるだろう。

(コメント)
 私は夕暮れが好きだし、夕焼けも大好きである。しかしそれは、自分の歩んできた人生に悔いがなかったからではないだろうと思う。それでも夕焼けを美しいと思って見られることに、どこか心の平穏を感じることがある。「昨日は今日よりも深くものを見、その美しさを感じる。明日は今日よりも進歩する。」という日々には程遠いが、今の私は露骨な欲望や雑念をできるだけ振り払って平凡に生きるしかないかと思う。それは日々進歩していくことにはならないだろうが、自分のあり方に目を逸らさないようにしていけば、残り少ない人生の日々を少なくとも退歩しながら過ごすことはないだろう。

                


                   

老いについてのことば(2)

2008-08-27 09:10:33 | 身辺雑記
 他にもこれまで読んだ本の中の言葉を抜書きしてメモしておこう。

 若いときには、私にも人生の可能性は先に開けていた。「私に可能なことは何か」と自分に問いかけることができた。老齢におよんでもなお同じ問いかけほど不自然なものはない。「わたしにできないこと、手を出してはいけないことは何か。」これが老いて後の問いかけである。
  ―杉本秀太郎『ひっつき虫』(青草書房 2008年)―

(コメント)
 要は老いの域に達したならば、自分に適った考え方、振る舞いをするのが良いということなのだろう。それは消極的な生き方ではなく、穏やかな余生の過ごし方と言うことなのだろう。この人の夫人は煎茶の嗜みがあるようで、自分もその仲間に入ろう。ただし煎茶の席の主人を務めるのは無理なことは承知しているから、主人ではなく客分としてと思う。そこで上の文に続けて「私にも煎茶席の客になることならできる。そう思ってからは、甘んじて客に収まっている。」と言っている。

 これを読んで、以前読んだエッセイの一節を思い出した。

 先日私はある高名な人の米寿の賀宴に出席した。極く親しい人だけの集まりで参会した四五十人の大半は八十歳以上ということであった。いずれもまだ社会的な仕事をしている人々で、その意気盛んなことは驚くばかりだった。たがいに肩をたたき、手を握り、まだまだやるぞという言葉が飛び交い異様な雰囲気だった。
 私はその老いた元気のよい人々を見ながら、これが老醜というものだと思っていた。
 この人たちは、世の有様を慨嘆する。天下国家ということばがさかんにとび出す。この指導者たちは、自分たちの過去に悔いもなければ反省もない。私は一隅にあって、心はこの人たちから遠くはなれていた。
  ―小林勇『夕焼』(文藝春秋 昭和49年)―

(コメント)
 「老醜」とは最近よく報道されるような、年甲斐もなく破廉恥な行動をすることだけではない。過去を振り返ることなく、今の己を無条件に善しとして内省することがないのも老醜を晒していることだ。政界や財界のお偉方にもそれを感じることがよくある。「老残」と言うべきか。

                 
 


老いについてのことば

2008-08-26 08:23:44 | 身辺雑記
 後期高齢者になったせいでもあるまいが、このところ街の店の鏡やガラスに映る顔や姿は、何となく老人っぽくなってきたような気がする。75歳にもなったのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、気はまだ若いつもりでも、外見はどうにもならないものだと思う。電車で席を譲られることも経験するようになった。己んぬる哉と言うところである。

 これは今に始まったことではないが、本を読んでいて老いに触れた箇所に行き当たるとつい引き込まれ、あれこれ考えてしまう。最近こんな一節に出会った。

 一般的には年をとればとるほど頭も心も堅くなっていくように思われてたりするかも知れないけれど、本当は逆なんだ。年齢と戦っているとそうなるかも知れない。年をとるってことはいいことなんだよ、本来は。ものの見方が広がっていくんだから。ようするに長老になるってことだよ。人の相談に乗れる立場になる。「わからないことがあったら年寄りに聞け」って、そういう時代は長くあった。
 なかには頑固な人や偏狭な人もいるけど、そういう人は年のとり方を間違えたってことで、本来は自然に年をとれば知恵がつく。ところが最近の老人はちゃんと年をとれていないから、本人も自分を老人と思わずに若者になろうとする。年をとれないのが当たり前になってきて、世の中にも年寄りの境地ってものが用意されていないから、そのノウハウが途切れちゃっているんだ。
  ―細野晴臣『分福茶釜』(平凡社 2008年)―

(コメント) 
 私はもはや若者になろうと思ってはいないが、ちゃんと年をとれているのかどうかと自問すると、少し覚束ないところがある。年のとり方を間違えたということはないとは思っているが、さて・・・・? 確かに「年寄りの境地」が社会に用意されていないし、むしろ老人を邪魔者にするような風潮さえ感じるから、いきおい老人も年をとれなくなってきているのかも知れない。

                     




子どもの安全を守る

2008-08-25 09:38:20 | 身辺雑記
 東京の小平市で小学生の登下校を、ITを利用して守ろうというサービスシステムが実施されているという。ICタグ(電子荷札)を使った連絡システム「キッズパス」というサービスなのだそうだ。

 児童達はICカードをランドセルにぶら下げて登校し、校舎の出入り口や敷地内の学童保育所入り口などに設置されているカード読み取り機にカードをかざすと登録された保護者の携帯電話にメールが届く仕組みになっている。下校時にも同様のことをする。カードには個別番号は書かれているが、名前や住所はなく、子ども達は好きなシールなどを張り、自分のカードだと分かるようにするようだ。

 このシステムは総務省が07年度、全国16地域で実証実験を行ったあと、今年度から運営主体を各地域に移し、小平市は実証実験の後、保護者が料金を負担して、希望者制で継続実施しているという。希望者は市内全19小学校で3000人で、保護者は年4000円を負担する。携帯電話を持っていない家庭は参加できないし、生活保護家庭への補助はない。市は予算化していない。

 現代科学の技術を利用して、登下校する子ども達の安全を守ろうということのようで、登下校時での子どもへの犯罪も起こっている昨今だから、このようなシステムが考えられ参加する家庭も多いのだろうが、効果の点で今ひとつ分かりにくいことがある。例えば下校時に子どもがカードを利用すると、それは自動的に家庭へ通知されるが、しかしその後の下校途中で何か事故があった場合にはどうなるのか。家に帰ってくるのが遅いからとすぐに警察に届けるのか。子どものことだから道草を食うこともあるだろうから、あまりすぐに騒ぎ立てるわけにもいかないだろう。子どもの安全を守ると言っても、ああ学校に着いたなとか、もうすぐ帰ってくるのだろうと親が一応安心するという程度のことなのだろうか。記事で読んだくらいではこのシステムの実効性はよく分からなかった。

 近頃の子どもは道で「こんにちは」と声をかけても返事しないことが多いと、近所の奥さん達が話しているのを聞いた。知らない人に声をかけられても返事しないようにと教えられているのだろうということになったが、味気ない話だ。私は子どもが好きだから、小学校の子ども達が陽気に話し合ったりふざけあったりしながら下校してくるのを見ると、つい立ち止まって笑顔でその様子を眺めることがよくある。それも胡散臭いジジイが見ているということにでもなるのかと思うこともある。どうも窮屈な世の中だ。良くないことの多い世相だが、ITで武装し、見知らぬ大人は皆狼だというように、ハリネズミのように警戒心の針を立てるという子どもの姿は何か哀しい。

                     

悪辣な行為

2008-08-24 09:55:14 | 身辺雑記
 東京都の青梅市で、知的障害者に暴行や恐喝を繰り返していた13歳から16歳までの少年9名が逮捕されたり児童相談所に送致されたりした。

 彼らはたまたま道で出会った知的障害の20歳の男性に因縁をつけ、公園で顔や腹を殴るなど暴行を加えた上、現金8万円を盗んだ。その後も男性を呼び出し、携帯電話を強奪し、「返してほしかったら1万円持ってこい」などと言って1万円をだまし取ったりしたようだ。また、別の知的障害を持つ15歳の少年を自宅に連れ込み、6時間以上にわたり頭をギターで殴るなどの暴行を加えた。

 彼らは木の棒をマイクに見立て、暴行の様子を「実況中継」し、殴られた男性に「痛いですか?」などと「インタビュー」していたという。また20歳の男性が警察に被害を訴え出ないよう、自分たちを軽く殴らせ、「お前も一緒だ」などと脅していたという。被害者は6人あって、そのうち2人は知的障害者、1人は中学校の特別支援学級の生徒だった。

 彼らは市内のゲームセンターで知り合った仲間で「自分より弱そうな相手を選んだ」と言い、リーダー格の少年は「いじめて何が悪い」と反省の態度はないという。

 実に卑劣、悪辣な行為で、この記事を読んだときには怒り心頭に発した。これは「いじめ」などというものでなく、正真正銘の犯罪、それも極めて悪質な行為である。自分より弱そうな者を選んだり、暴行の様子を「実況中継」したりと、サディズムの芽があり、やることなすことその悪知恵の働きようは、少年の未熟さとして済ますわけにはいかない。このような行為は露見しなければ快感を伴って際限なくエスカレートしていくものだ。自分たちより弱そうな者、とりわけ知的障害者を対象に選んだ卑劣さは言いようがない。

 批判はあるだろうが、私は未成年者と言えども、悪辣な行為に対しては厳しく罰せられるべきだと思う。未成年者と言っても近頃は内面は大人顔負けの「ワル」がいる。反省の態度がないのならば、それ相応の反省するまで何らかの処罰を与えるべきだ。「鞭打ち」、「棒叩き」の刑でもあればいいとさえ思ったりするが、それは極端だから、厳しい労働でもさせたらよい。このような屑のような人間に育てた親にも責任がある。未成年者の犯罪に対しては、親などの保護者にも責任を取らせるような制度があればいいとも思う。厳罰主義では問題は解決しない、彼らをそうさせた背景を探り、更正の可能性を探るべきだろうという識者の客観的で冷静な意見はあるだろうことは承知している。だが前にも書いたように、婦女暴行者には「宮刑」があればいいと言うような、いささか時代がかった単純な思考回路を持つ私のような者には、そのような意見はもっともとは思いながらも、時には何かしら評論家の言を聞いているような違和感を覚えることがある。

    
                                    


愛称、幼名、綽名、字

2008-08-23 09:39:24 | 中国のこと
 中国人、特に女性は愛称を持っていることが多いようだ。正式な名前は難しい字を使うこともあるから、愛称を使うほうがいいのかも知れない。

 友人達の愛称を見ると、西安の李真(リ・チェン)は真真、邵利明(シャオ・リミン)は明明、上海の施路敏(シ・ルミン)は敏敏、梁莉(リャン・リ)は莉莉というように、名前の一文字を重ねて使うことが多いようだ。新疆ウルムチの趙戈莉(チャオ・カリ)はNiu niuと呼ばれたようだが、niu は 女+丑 で、女の子という意味。西安の謝俊麗(シエ・チュンリ)は家族からは麗と呼ばれていたようで、私もそのように呼んでいる。麗が可愛がっている友人の娘に小雨(シャオユイ)と言う子がいるが、本名は心雨(シンユイ)だそうで、小は「ちゃん」くらいの意味だからこれも愛称だ。


 麗は妊娠中で9月に出産する。毎日のようにチャットしているが、もうお腹の子どもに愛称をつけていて、撓撓(ナオナオ)と言う。撓は痒いところを掻くと言う意味で、妊娠何ヶ月目かに体のあちこちが痒くなったので夫に掻いてもらっていた。それでこのような愛称にしたそうだが、日本人からすれば変わった愛称だ。おそらく発音の可愛さも考えているのだろう。何だか男の子みたいだと言ったから愛称にも男の子向き、女の子向きがあるようだ。生まれてからもこのように呼ぶのかどうかは知らない。チャットでは私も、撓撓は元気かなどと言ったりする。

 愛称のほかに幼名というのがある。これは生まれてからずっと使われている名前のようで、本名とは違う呼び方をされる。例えば施路敏の南京の従妹は璐璐(ルウルウ)と呼ばれているが、これは幼名で、本名は王明(ワン・ミン)と言う。また謝俊麗の友人子で小雨と仲の良い果果(グオグオ)も幼名で、本名は亦喬(イチャオ)とちょっと難しい。幼名は普通は家族の中で呼ばれている名前だが、施路敏には幼名はなく、そのまま路敏と呼ばれているとのことだ。愛称の敏敏は同僚から呼ばれ始めたようで、愛称は友人などから広く使われるもののようだ。

 ちょっと面白いと思ったのは、李真は両親からフルネームで呼ばれていることで、日本ならわが子を例えば、山田花子などと姓をつけて呼ぶことはあるまい。中国ではよくあることらしい。想像するに真だけでは1音で少し言いにくいのかも知れない。愛称の真真はあまり使われなかったようだ。

 綽名もある。謝俊麗の大学時代の寮の同じ部屋にいた学友は互いに猪(=豚)をつけて呼び合っていたと言う。俊麗は誕生日が一番早かったので大猪(ダチュ)と呼ばれ、以下二猪(アルチュ)、三猪(サンチュ)と六猪(リョウチュ)までいたそうだ。今でもそのように呼んでいるようだ。友人を豚と呼ぶことなど日本ではちょっと考えられないが、中国では愛称として通じるのだろう。

 中国では古くは成年後の男子に実名のほかに字(あざな)をつけた。例えば三国志の諸葛孔明の孔明は字、実名は亮で、字の方がよく知られているが、同じく三国志の劉備の字は玄徳、その武将の関羽の字は雲長で、いずれも実名の方が知られている。中国では字はいつ頃まで使われたのか、今でもつけることがあるのかどうかは知らない。

 日本では愛称は多いが、幼名というものはないのではないか。私の妹の1人は千年(チトセ)という名だが、赤ん坊の時からチイヤと呼ばれてきて、今でもきょうだいや時には姪などからもそのように呼ばれている。これなどは中国流に言えば幼名でもあり、愛称でもあるのかも知れない。


                    


千吉踊り

2008-08-22 07:24:37 | 身辺雑記
 私の家のすぐ近くに、千吉(せんきち)稲荷という小さな神社がある。由来はよく分からないが、それなりの歴史はあるものらしい。

社叢




小さな祠、この社には4つの名前があるようだ。




 毎年8月19日の1日だけ夜に、これも近くにある児童公園で奉納の踊りが行われる。雨になれば中止で延期はない。去年は直前に強い夕立があり中止になった。千吉稲荷の神託により踊りを奉納したことから千吉踊りと呼ばれている。


当日の夜には、公園の一隅に神体を祭る。


 公園の中央には櫓が組み立てられ、ここに囃し方の子ども達が上がって、順番に音頭を取ったり太鼓を叩いたりする。音頭の内容はよく分からないが、かつては歌い手の即興だったようだ。今は保存会の子ども達が主役。




櫓の周囲には樽太鼓を打ち鳴らす子ども達が取り囲む。


 その周りを踊り手達が踊る。少し前に腰を屈め、握った手首を下に曲げて、狐の手を真似た所作で踊るのが特徴だそうだ。
 





おねえちゃんの所作を真似る。


休憩時間中の子ども達。年長の子が小さい子に教えている。


 今年は早い目に帰ったので、子ども達の踊りしか見られなかったが、例年より人数が少なく少しさびしい感じがした。


 妻は保存会に入っていて、毎年保存会が作った市松模様の浴衣を着て踊った。楽しそうに踊りながら、踊りの輪の外で見ている私の前に来ると、はにかんだようににっこりしたのを懐かしく思い出す。