中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

沈丁花

2007-02-27 17:50:43 | 身辺雑記
 前にも書いたが、沈丁花は蝋梅、金木犀とともに私の好きな花だ。どれもその芳香で季節感を強く感じさせられる。
  
  

 沈丁花の香りはとりわけ濃厚で、夏に咲く梔子(くちなし)に似通っているが、梔子は少し香りが強すぎるように思う。今年は暖かいが、普通はまだ肌寒さを感じる頃に咲き、夜に帰る時など、暗い中でこの香りを嗅いだりすると、もう春が来るなと思うのが好きだった。 

 中国原産の植物で学名のDaphne odora のodora は芳香のあると言う意味。香りが沈香(じんこう)と言う香木に似ていて、クローブとして知られる香辛料植物である丁子(ちょうじ)のような花を付けるということから沈丁花と言われたとある。葉の形が丁子に似ていると言う解説もある。


                              丁子(Wikipediaより)  

 家に帰る途中に幾株かあって香りを楽しんでいたのだが、いつの間にか無くなってしまったので、今年はあの香りが嗅げないのかと思っていた。それが今日家を出た途端に香りが漂っていた。探してみると、つい2軒ほど先の家に見事に咲いている。灯台下暗しだった。昨夜のうちに花が開いたようだ。


フクリンジンチョウゲ(葉の縁に白い斑がある)

  
シロバナジンチョウゲ



地名

2007-02-26 09:29:49 | 身辺雑記
 電車内で「奈良斑鳩1dayチケット」という、漢字、カタカナ、英語、数字交じりの吊広告を見た。この「斑鳩(いかるが)」は難読地名の1つだと思われるが、私は関西人だからこの地名は知っていたし、関西人でなくても日本の古代史上有名な地名なので(斑鳩の里の法隆寺など)、読める人はかなりいると思う。

 各地には難読地名は多い。それについての本も出されているが、実に難解なものがある。私の学生時代に滋賀県大津の家と大学のある広島との往復に使ったJR(当時は国鉄)の切符には「膳所-己斐」とあった。「膳所」は「ぜぜ」で、このOffice Wordでは「ぜぜ」と入力したら出てきたが、「己斐」は「こい」だが、入力しても出ない。両方とも飛び切りの難読と言うほどではないが、それでも大津の友人は「己斐」を、大学の友人は「膳所」を判読できない者がかなりいた。「己斐」は今では「西広島」と言う味気ない駅名に変わってしまった。こういうことはあちこちであるのだろう、私の母校は膳所高校だが、近年多く作られた新設高校には「○○東高校」など、その市の名に東西南北の文字を加えたものが多い。

 「放出」など、大阪人でもなければまず読めないだろう。私も知ったのはつい最近のことで、「はなてん」と聞いたときには驚いた。「放」は「はなつ」だから何とか関連付けられるが「出」はどうしても「てん」には結びつかない。郷土史などではもちろん分っているのだろうが、おそらく訛った結果だろう。大阪市内には十三(じゅうそう)、南方(みなみかた)、天満(てんま)、道修町(どしょうまち)、恩加島(おかじま)、生野(いくの)など一見読めそうで読み間違い、教えてもらうと納得できる地名があり、立売堀(いたちぼり)や丼池(どぶいけ)、我孫子(あびこ))、御幣島(みてじま)のように意表を突かれるようなものもあるが、「放出」は難読地名としては飛び抜けているようだ。

 私がこれまで接した生徒の姓で、難読中の難読のものは「紫合」だった。字そのものはありふれたものだが、これを「ゆうだ」と読むと言うのにはまったくお手上げという感じだった。おそらく卒業生名簿の中の難読姓の筆頭だろうと思う。その生徒に由来を聞いたがどうもはっきりせず、ただ近くの川辺郡猪名川町と言う所に同じ地名があると言うことだった。その後興味を持って調べてみたが、県内の西の方に「夕田」と言う地名があり、それと関係があるようで、なぜ「夕田」が「紫合」に変化したのかという解説もあったけれども、もう忘れてしまった。

 私がかつて住んでいた町は「伊孑志(いそし)」と言った。この「孑」は部首としては「子偏」で、「漢字の読み方」(角川小辞典)によると「けつ」と読み、意味訓は「ひとり あまる のこる」とあるが、「孫」や「孤」「孔」の偏としては知っていても、単独で読める人は多くないだろう。「子」と間違える人が多く、「いこし」ですかと聞かれることがよくあった。「孑」の訓読みはなく、「孑孑」で蚊の幼虫のボウフラと読むようだ。中国語ではボウフラは「孑孒jiejue」と言うようで、まさに象形文字だ。「伊孑志」には何か由来のある古い地名だったのだろうが、おそらく難読文字と言うことが理由だろう、今ではそのあたりを流れている川の名から取った「逆瀬川(さかせがわ)」と言う町名に変わっている。「逆瀬川」もやや難読に近い。

 北海道には難読地名が多い。「倶知安は後志地方にあり・・・」とあっても、普通は読めない。「倶知安」は「納沙布」と同じように、万葉仮名のようにして何とか読めるが、「後志」を「しりべし」と読むのは、昔よく歌われた「箱根の山」の歌詞の中に「後(しりえ)に支(さそ)う」とあったように、「後」を「しりえ(しりへ)」と読むことを知らなければ無理だ。慣れてしまってすぐに読める釧路、歯舞、長万部などもあるが、多くはお手上げと言うものだ。北海道の地名はアイヌ語に漢字を当てたものが多いらしい。ブログ仲間のSさんが住んでいる所は美唄市で、この「ビバイ」もアイヌ語だろうか。

 戦争中に私達の家族が住んだ祖父母の家は、東京都小石川区林町と言う所にあった。かすかな記憶だが、江戸時代の林大学頭(だいがくのかみ)の屋敷があった跡だと聞いた。儒者の林羅山を祖とする林家は、羅山の孫の信篤が江戸幕府の学問所である湯島聖堂を再建して以来、代々学問所を統括した。湯島聖堂は、時代劇にも出てくる昌平坂学問所で、小石川の東、上野の辺りにある。小石川区は戦時中に文京区と区名変更し、林町も戦後「千石」と町名を変えた。林町が町名を変えた理由は分らない。林大学頭の禄高が千石でもあったのか。地図を見ると私が通っていた林町小学校の校名は変わっていなかった。

 京都は古都だけあって、古い地名を継承していることが多いようだが、それだけに難読町名も多い。盂蘭盆の頃にテレビ等でよく紹介される、おびただしい石仏で知られる嵯峨野の化野(あだしの)、時代劇の撮影所のある太秦(うずまさ)、琵琶湖の水を引いて京都市民に水道水を供給する浄水場のある蹴上(けあげ)、芸妓で有名な先斗町(ぽんとちょう)、テレビドラマの「新撰組」で知られるようになった壬生(みぶ)などがある。

 近年都市開発に伴って、古くからの町名が消え、行政が決めた味気のない町名に変えられていくことには批判もあったが、京都ではそのようなことは起こっていないし、東京も文京区の町名を見ると音羽、千駄木、白金、根津、本郷、湯島などの江戸時代からの地名が継承されているから、やたらに由来も何もなく行政の都合で町名を変えることはしなかったのだろう。

 中国の地名は、さすがに漢字の国だけあって難解な文字の地名は多く、例えば・・・と引用しようにもパソコンの辞書程度では無い字が多い。日本でもよく読まれている三国志など古い時代の作品には、日本語読みなどできない地名や人名は非常に多く、出版社では外字作りや校正の作業が大変だっただろうと思う。


北野天満宮

2007-02-25 10:37:51 | 身辺雑記
 京都市上京区にある北野天満宮に行った。ここは学問の神様とされる菅原道真を祀る神社で、947年に創建されたと言う。「天神様」と呼ばれて、この時期には受験生達が願掛けに訪れる。本殿、拝殿は国宝で、その他に国宝や重要文化財が多くある。



 菅原道真は藤原時平の讒言によって九州大宰府に左遷されて都を離れる時に詠んだ
  
  東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな

という歌が人口に膾炙されている。その縁で境内には梅の木が多く見られる。









北野天満宮の紋所は梅鉢である。



 境内の神牛像。自分の体の悪い部分に相当するところを撫でるとご利益があると言われている。

  
 この女性はあちこちを撫で回していた。神牛も心なしかうっとりしている様子。



 境内にある梅苑の梅林はなかなか見事で、50種類2000本の梅木が植えられていると言う。梅苑には好い香りが漂っていた。まだ蕾のものもかなりあり、3月中旬くらいまでは楽しめるか。2月25日は梅花祭で、大変な人出になるそうだ。



 枝垂れ紅梅







 枝垂れ白梅



 梅林で採れた実は梅干にされ「神梅」として売られている。1袋千円で、スーパーなどで売っているものに比べるとずいぶん高いが、そこは「神梅」と言うことで有難くいただいたが、まずまずの味だった。



みにくい?

2007-02-23 08:58:45 | 中国のこと
 北京のあるレストランで昼食をとった時のこと、そのレストランではちょうど結婚式(披露宴)が開かれていて賑やかだった。私の席と披露宴の間には低い仕切りがあるだけだったから、その様子はよく見えた。私のテーブルを担当した女性の服務員は朝鮮族だったが、日本語はまあまあ話せた。その服務員が結婚式の方を見ながら「今日の花嫁はみにくいよ」と言ったので、その表現にちょっとびっくりしたし、可笑しかった。新郎と新婦は日本の披露宴と同じように招待客のテーブルの間を回って挨拶したり酒を注いでいたりしていた。少し離れていたからよくは見えなかったが、新婦は取り立てて美人と言うほどではないが、と言って「醜い」ことはなかった。これを中国人は「醜い」と言うのかとその時には思った。

 その後も中国の友人達が「みにくい」と言うのを何度か聞いた。例えば西安の謝俊麗は夫のことを「劉君はみにくいよ」と言ったし、上海の唐怡荷も自分の彼のことをそう表現した。劉君は写真でしか知らないが優しそうな青年でけっして醜男ではないし、怡荷の彼には何回か会ったが、ごく普通の青年だった。彼女達がそう言うたびに「みにくいはひどいじゃないか」と言っても、「だって、みにくいんだから」と返ってくるだけだった。

 日中辞典を見ると、「醜男」は「丑男子chounanzi」とか「難看的男人nankan de nanren」とある。「丑」は「美mei」の反対語で「醜」だ。「醜い」を見ると「難看」の他に「不好看buhaokan」がある。こうしてみると、彼女達が言う「みにくい」は「不好看」(きれいでない)がぴったりするように思った。謝俊麗と電話で話した時に、「麗が言う『醜い』は『不好看』だろう」と聞くと、そうだと答えたので納得し、「そういう場合は『男前じゃない』と言うほうがいいよ」と言っておいた。おそらく日本語を学習する中国人達は、「不好看=みにくい」と機械的に覚え込んでいるのだろう。

 1つの言葉には、いろいろなニュアンスの使い方がある。上の「丑男子」と「難看的男人」も中国人は同じニュアンスで受け止めるのかは分らないが、1つしか訳語を覚えていないと、時には相手にはぴったりしない感じを与えることもあると思う。私のような語学の才に乏しい者は、中国語はもちろん、英語の場合でも貧弱な語彙しか蓄えがなく、さまざまな使い分けはできないから、私達が外国人の日本語を聞いて、時に違和感を覚えるようなことをやっているのだろうと思う。 

  好看?   醜い?

「良い」教師(2)

2007-02-22 09:52:05 | 身辺雑記
 いったい、「良い先生」とはどの様な人物像になるのだろうか。言い換えれば「教師の資質」として、どのようなことが求められるのだろう。例えば次のような2つのタイプの教師がいるとしよう。

  Aは教えることはうまいし、よく勉強しているが、子どもは好きでなく、態度が冷たい。クラス経営などには無関心または嫌い。

  Bは子どもに対しては優しく接して、相談にもよくのってやる。しかし教科の力は弱く、教えることはうまくない。

  このAとBとはどちらが良い教師なのだろうか。Aのようなタイプの教師は高校などにはよくいて、受験指導では自信たっぷりで、それ以外の目的はないかのようなのをよく見かけた。大学進学を希望する生徒が多い高校ほど、大学合格者数を増やすことを唯一、最高の目標にすることが多いから、このような教師に対する評価はしばしば高い。その教師の態度が横柄で高圧的であっても生徒達は我慢している。それでは彼が「良い教師」なのかと言うと、そう言い切るのにはためらいを感じることは経験している。しかし、このようなタイプの教師は、中学校、小学校と子どもの年齢が下がるにしたがって評価も下がる傾向があるようだ。特に威圧的な態度は親にも敬遠される。

  Bのタイプの教師の大きな弱点は、専門職としての教科の力が弱いことだ。小学校でも都会では最近は私学、それも有名私学志望者が多く、教師の受験指導の力量が問われることも多いが、すべての教師に一部私立中学の受験問題にある「難問」を解く力があるわけではない。そもそも小学校の教育は私立中学校への進学を目標にしているのではないから、そのような要求に応えることは難しく、そこで昨今の学習塾全盛と言うことになって、教師に向かって「勉強は家でやらせますから、しつけは学校でお願いします」などとトボケたことを言う親も出てくることになる。

 特定の受験指導力ではなく、すべての教師が高い教科指導力を持つことは望ましいが、それはなかなか難しいことだし、教師になった途端にそれが自然に身に備わるわけではない。教師の仕事は、いわば職人の仕事に共通するものだから、常に初心を忘れずに研鑽し腕を磨いていかなければならないものなのだ。これはなかなか苦労も悩みも多いことで、私も若い頃にはひどく苦しんだ。初めの頃は、大学で学んできたことはいったい何だったのかとも思い悩んだものだった。毎晩2時3時まで教材研究をやらなくてはならないほど教えることは難しかった。その頃はパソコンはもちろん、コピー機さえもなかったから、補助教材を作ろうとしたらすべてガリ版を使わなければならなかった。私は生物を教えていたから、動植物の図をガリ版で描くのには労力が要った。1時間の授業の準備に10時間近くもかかったこともあった。あの教材研究の辛さは忘れられない。だから定年を迎えた時には、60歳を過ぎてから教材研究をする辛さを考えると、再び教壇に立つことは体力的にも気力的にも自信がなかった。

 良い教師の条件の中で最も大切なのは教科の力、指導力があることで、この力が弱い教師は専門職として失格だ。しかし学校の教師は心の発達の途上にある子ども達に日常的に接しているのだからそれだけでは不十分で、「人間が好き」、「優しい」と言う資質も非常に大切である。かつてある中学校の研修会の後の意見交換の場で、中年の女性教師が暗い表情で「私は生徒が嫌いです」と言ったのを聞いた時には唖然とし、心の中で「では、どうして教師をしているんだ」と呟いた。我が子が好きになれない親を持った子どもは不幸だが、生徒が嫌いだと言う教師に当たった子どももかわいそうだ。親も教師も自分で選べないから、子どもの心を傷つけてしまう。

 教師は人間というものについて楽観的でなければならない。未来のある子ども達が豊かな感性とたくましく生きていく力を持つように援助し、努力することに生き甲斐を持つことは、私のささやかな経験でも教師として欠くことのできないものと思う。完全無欠な人間などいない。自分の足りなさを常に自覚して努力して行けば「良い教師」に近づけると思うし、その姿にきっと子どもや親達は良い印象を持つだろう。

          

             中国湖南省で
          

「良い」教師(1)

2007-02-21 20:06:11 | 身辺雑記
 少し前のことになるが、児童の交通事故死した子どもの写真を自分のホームページに載せ、心無いコメントを書き込んでいた東京都羽村市の小学校の教師が逮捕された。逮捕されるまでには警察の調べに対して「黙秘権がある」とか言って拒否したり、証拠の写真の記録の提出に応じなかったようだ。教育委員会の対応も生ぬるく、著作権法違反で書類送検されているのに教壇に立たせていた。マスコミも実名報道をしなかったので、この教師の父親が元警察官僚であるせいではないかと言う憶測などもあり、何かしら納得できない不愉快な気分にさせられていた。

 逮捕されてから、あるテレビ局が本人にインタビューしているのを見たが、30代のこの教師は一見まじめそうで、受け答えもまともで、異常な行動をする人間には見えなかった。しかし実際にはかなり歪んだ嗜好の持ち主であることが、その後の取調べで分ってきているようだ。テレビで見た様子だけでは分らないが、あるいはそれまでは担任していたクラスの児童の保護者も、まじめな、良い先生と思っていたのではないだろうか。子ども達の中には慕っていた者もいたかも知れない。それだけに事の内容が異常性を帯びたものだったことに受けた衝撃も大きかったと思う。

 最近はよく「問題教師」が話題になる。まともに教えられない、自分の担当の教科の問題が解けない、クラスをまとめられない、暴力を振るう、はなはだしいのは担任している子どもに性的な行為をする、イジメをするなど、こんな教師は問題教師というレッテルを貼られても、時には厳しい処分や刑罰を受けても当然と思う。しかし、ではそのような教師がすべて「悪い人間」なのかと言うと、必ずしもそうとは言い切れないだろう。もちろん「良い先生」とは言えるものではないのだが、そのような教師であっても人間としては優しい性格であり、善良で、家庭では良き人物で隣近所の評判もいいと周囲から見られていたこともあるだろう。現に事がはっきりした時に学校長など身近な人達や、近所の住民から「あの人がそんなことをしたとは信じられない」とか「まじめな先生だった」と言う声が上がることはよくある。

イケメン

2007-02-20 21:22:41 | 身辺雑記
 こんな川柳があった。

  イケメンのメンは面かと思ってた  

 これを読んで、あれ、そうじゃないのかと思った。正確には知らなかったが、要するに「美男子」、「かっこいい顔」くらいの意味だろうと解釈していたからだ。いつものように早速インタネットで調べてみると、まったくの間違いではなかったようで、「イケてるメン」の略語で、メンは「面」と「men」の2通りの意味があるとのことだった。2000年頃から流行り出した若者言葉で、元来はゲイ達の間で使われた隠語とのこと。そうすると、もうかなり前から使われていた言葉のようだが、こういうことに疎い私は、今の首相が「イケメン宰相」などと言われるようになってから(私にはそうは思われないが)意識するようになった。由来は知らなかったが、聞き始めた時から何かしら軽薄な感じがして、あまり好きな言葉ではなかった。

 新聞のスポーツ欄を見ると「クロカン」と言うスポーツがあり、「クロスカントリー」のことだった。新聞くらいはちゃんと書けばいいのにと思ったが、どうやらその世界では、と言っても日本だけだろうが、この言葉は普通に使われているらしい。これなどはイケメンとは違って外来語を日本風に省略したものだ。喫茶店などでは「レイコー」があるが、「冷コーヒー」のことで、これなどは日本語と、外来語のような日本語を組み合わせたものだ。近頃はあまり聞かれなくなったが「レスカ」と言うのもあった。「レモンスカッシュ」のことで、これは無茶苦茶な略し方だ。こちらの注文に応じてウエイトレスが「レイコー、ワンです」などと厨房に向かって言ったり、客が知ったような顔で「レイコー」と注文するのを聞くと、嫌な感じがしたものだ。

 音楽関係の会社でオリコンと言うのがある。これも「ミスコン」や「ゼネコン」、「シネコン」などと同じように何かの外来語から来た略語かと思ったが、由来は英語の Original Confidence(絶対的な信頼)の0ri とCon とをくっつけたものだそうで、これもレスカほどひどくはないが、「デジカメ」のような日本的省略の仕方だろう。「ミスコン」は「ミス・コンテスト」の省略のように使っているが、手もとの英和辞書を見ると beauty contest とあるから、和製英語の省略形と言うことになる。

 「イケメン」に対して普通の男を「フツメン」と言い、イケていないのに対しては「グロメン」、「ダサメン」、「シケメン」、「ブタメン」、「ガチャメン」など12通りの呼び方が挙げられていて、それぞれイケていない程度に応じて分類されるとか、人を馬鹿にしたような話だ。「イケメン」は珍しく流行語が定着した例で、一般には寿命が短いのが普通だそうだ。そう言えば「ガングロ」(顔黒)などは一時、風俗も言葉も大流行りだったが、今ではほとんど見聞きしなくなった。だからあまり目に角を立てないほうがいいのかも知れない。それでも新聞などで安易に使われていると、何か流行に乗り遅れまいとしているのか、流行の先端を行っているつもりなのかと、軽佻浮薄という印象を受ける。

 日本人は省略好きという国民性があるのだろうか。田楽の女房言葉とか言う「おでん」などは歴史は古いようだし、サツマイモを「おさつ」、握り寿司を「握り」、豚肉のカツレツを「トンカツ」、玉子丼を「ギョクドン」など食べ物ばかり挙げたが、他にもいろいろあるだろう。米国企業のハンバーガーチェーン店を関西では「マクド」と呼ぶ。関東は「マック」らしいが、これは米国人にも通じるかも知れない「パソコン」などは今では日本風の略語とは意識されなくなっている。「ゼネスト」は労働組合の力が強かった頃は常識語だったが、今では「ハンスト」などと言ったら「パンスト」と間違えられるかもしれない。そう言えば労働組合は「労組(ロウソ)」だ。他にも「朝シャン」、「自主トレ」、「合コン」、「軽トラ」、「ジャリタレ」、「チュウハイ」などの「日本語+外来語の省略形」も多い。多くは世に出て一時は流行っても、やがて線香花火のように消えるが、しぶとく生き残って定着するものもかなりある。

 略語でも外国語のものは、etc、vs、am、pm、BC、ADなどは学校で習ったから、元の語が何だったか思い出さなくても中高生でも意味は解っているだろう。戦後米国からもたらされた学校の親の組織PTAは、言葉の意味が分らなくても米軍のGHQ(総司令部)の強力な指導で全国津々浦々の学校に作られた。当時、地方の小さな小学校でPTA会長が会員に[PTAって何かいな」と質問されて、「さあ、Pもあるし、Tもあるし、Aもあるんじゃろう」と答えたとか言う笑い話のような話もあった。

 その頃から半世紀以上たった現在では、IQ、ITなど誰でも知っている略語は増えてきた。UN(国際連合)NASA(米国航空宇宙局)、OECD(経済協力開発機構)、WTO(世界貿易機関)、FBI(連邦捜査局)、CIA(中央情報局)などニュースや映画でお馴染みのものは、そのまま使われても解っている場合があるが、機構や組織の名称の略語の中にはとても長いものがあって、覚えられもしないし、一見しただけでは実体も解らないものがある。ATMのように日常的に使っていても、「現金自動預け払い機」と言う日本語がすぐには出てこないものもあるし、日本の銀行のUFJと遊園地のUSJのように混同して言い間違えたりするものもある。

 日本の省略語、とりわけ最近のものは、私のような老人にはわけの解らないものや感覚的に合わないものもかなりあるが、アルファベットを並べて無機的に記号化するのに比べると、まだしも温かさや面白さが感じられるものがあると言えば、独りよがりになるだろうか。

春節(2)

2007-02-18 10:32:25 | 中国のこと
 夜遅くホテルに戻り、明ければ「大年初一danianchuyi」(元日)の朝。街は静まり返っている。店もほとんど開いていない。春節には中国の都会に来ないほうがいいと言われるのもよくわかる。留学生などは学校の食堂は開いていないし、街に出ても食料品の店は閉じているし、学校も休みだから一時帰国することが多いと聞いた。習慣では除夕の夜は徹夜するそうだから、元旦は家でゆっくり過ごすのだろう。寝正月と言うところだろうか。日本では元日の朝に一家揃って屠蘇、雑煮、お節などで新年を祝うのが普通だが、中国では除夕の夜が、日本の年越し蕎麦を食べることと元旦の食事とが一緒になっているようなものなのだろう。ある本によれば「この日は全員が新しい衣装を身につけて先祖を祭り、年長者に新年の挨拶をしてまわります。外では爆竹が鳴り、獅子舞が街を練り歩いて賑やかな正月ムードに包まれる日です」とあるが、上海ではそのような雰囲気ではなかった。獅子舞などは日本の都会ではもう見られないから、中国でも大都会では元日の風景は変化してきているのかも知れない。

 唐怡荷の彼が運転する車で杭州に出かけた。彼は杭州の旅行会社の英語のガイドで、ホテルを世話してくれた。夜は怡荷と一緒に杭州の街を散歩する。やはりあちこちで花火が打ち上げられていたが、街なかには人はあまり多くない。花火以外には正月という雰囲気は感じられなかった。

 翌日、彼も加わって霊陰寺という大きな寺院に出かけた。中国禅宗十刹の1つという大きな寺である。326年にインドの僧である慧理が開山したと言うから歴史は古い。広大な境内には非常に多くの参拝客がつめかけていた。日本の初詣というようなものだろう。皆黒っぽい服装で日本のように若い娘が華やかな和服を着ているようなことはないが、それでも正月には新しい服を着て出るのだろう。

 大雄宝殿(本殿) 



 熱心に祈る唐怡荷 

 午後に列車で怡荷と上海に帰った。夜は有名な旧い商店街である豫園商場で華やかな広場の飾りや、賑やかな店を楽しんだ。初めての中国での大晦日と三が日だったが、面白い体験だった。

 今年の春節に中国の友人や知人に出した賀状。



 

春節(chunjie)

2007-02-17 21:15:07 | 中国のこと
 今年の2月18日は春節と言う中国の正月で、中国人にとっては最も重要な祝日で盛大に祝われる。中国だけでなく世界中の中国系市民や韓国、ベトナムもこの日を祝う。広い意味では旧暦12月23日から1月15日までを言う。旧暦だから、新暦では毎年変わる。去年は1月29日、おととしは2月9日だった。

 春節の前日は除夕(chuxi)と言い、日本の大晦日に当たる。この日には皆ふるさとで一家団欒のときを過ごすから、とりわけ地方から都会に出ている人の帰省で輸送機関は大混雑する。数億人が移動すると言うから、日本の帰省ラッシュどころではない状態になるらしい。特に鉄道を利用する人がほとんどだから、何日も前からチケットを求める人達の行列ができ、日本の新聞の記事になることもある。中国には目的地まで何日も乗らなければならない長距離列車もあるから、除夕の数日前には乗車しなければならないことも出てくる。主要駅の前にたむろして列車を待つ大群衆の様子なども報じられる。

 2004年に上海の唐怡荷に招かれて、この日を彼女の家族と過ごした。除夕の夜の食事を「年夜飯(nianyuanfan)」と言い、各家庭では手作りのご馳走を食卓の上に所狭しと並べて家族皆で食べる。怡荷の家の年夜飯も色とりどりの料理が出されたが、名物の上海蟹などは皿に山盛りになっていた。それを怡荷と両親、彼女が当時付き合っていた青年、それに私の5人が食卓を囲んだが、とても食べ切れないくらいの量だった。しかしどれも非常に美味しいもので楽しく食べた。

         
         ひととおり食べても、まだたくさん残っていた。

 怡荷の親戚は皆遠い地に家庭を持っているし、怡荷は一人娘だから集まる人数も多くないが、親戚縁者が近くに住む家では帰省した家人も加わって非常に賑やかな夜になるらしい。西安の謝俊麗の家では夫の両親と兄夫婦と娘、それに俊麗のふるさと山西省から来た母親と兄の娘が集まるから、準備が大変よ、死にそうと言っていた。俊麗は会社に勤めているから忙しいことだろう。李真は仕事が忙しいので準備は両親に任せていると言った。李真の父親は料理が上手だから、きっと美味しいものがたくさん作られるのだろう。日本と同じように料理以外にも、縁起物などいろいろ準備することもあるようだから、どこの家庭でも家人は忙しくて、俊麗が言ったように「忙死了mangsile」(死ぬほど忙しい)なのだろう。

 食事の間に、テレビでは除夕恒例の番組が始まった。日本の紅白歌合戦のような人気番組らしいが、歌ばかりでなく、劇、踊り、漫才などが演じられるバラエティー・ショーで、観客も大いに楽しんでいる様子も映し出されていた。11時半を過ぎた頃から外では花火の音が鳴り出した。午前零時近くになると観客が一斉にカウントダウンを始め、私達もテレビの前に立って唱和した。そして「3、2、1」と数え終った途端に、テレビの舞台にはその年(もう前年になったのだが)大気圏外を中国で初めて飛行した宇宙飛行士の1人が美女達に囲まれて登場し、観客は大騒ぎになった。私達もカウントダウンが終わると、互いに「新年快楽!xinniankuaile」(新年おめでとう)と声を掛け合い握手し合った。外ではますます花火の音が激しくなっている。窓際に行って見るとあちこちに盛んに打ち上げ花火が上がっている。この花火はホテルや個人が道路などで打ち上げるものだが、かなりの高さまで上がり、色彩鮮やかに大きく開いている。爆竹の音も響いていた。

 昨年、新年を迎えてすぐに西安の李真と邵利明、謝俊麗に電話して「新年快楽」を言うと、李真も利明も楽しそうな声で、外は爆竹がすごいよと言っていたし、俊麗との電話では爆竹の音が聞こえていた。爆竹は都会では火災や人身被害を防ぐために禁止されていたが、やはり中国人にとっては「爆竹のない春節なんて」ということで次第に復活し、今年は北京でも解禁されるということだ。

 日本のNHKのテレビでは、紅白歌合戦が終わると一転して画面は静かになって、各地の寺の除夜の鐘を撞く光景や初詣に参る人達が映しだされ、鐘の音を聴きながら新年を迎えるが、それに比べると上海での年明けは、騒がしいくらいのまことに賑やかなものだった。国民性の違いもあるのだろうが、こんな賑やかな新年の迎え方も悪くないなと思ったりしたことだった。

2007-02-15 12:38:10 | 身辺雑記
 各地の梅便りが聞かれるようになった。今月の後半にはあちこちの梅林や社寺の梅が見頃になるだろう。私の近所の家や公園では白梅や紅梅が満開になっている。

  



 梅の学名は prunus mume。mumeは、ウマをムマと言ったのと同じようにウメの古い発音だ。梅が遣隋使か遣唐使によって奈良時代に渡来した当時は、中国語のmei が語源になって、ンメと発音したのがムメとなり、それがウメと変化したと言う説があるようだ。江戸時代以来「花」と言えば桜で国花になっているが、平安時代の「花」は梅を指したことはよく知られている。中国の国花は民国時代には牡丹だったが、現在は梅は牡丹や蓮、菊、蘭などとともに国花候補に挙げられていて、いずれ決定されるそうである。

 

  

 中国では梅は、蘭、竹、菊と併せて「四君子」として珍重され、中国画の画題になっている。西安の李真の父君、李延年氏は山水画に秀でた画家で、これはかつて西安の李家を訪れた折に頂戴した山水画の画帳の中に描かれている四君子の図。