中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

高原のススキ

2011-09-29 10:01:56 | 身辺雑記

 Hg君夫妻とHr君、いつものメンバーで、Hg君の運転で、兵庫県のほぼ中央の神崎郡神河町にある砥峰(とのみね)高原に出かけた。涼しくなったらどこかへ行こうと言っていたが,Hg君夫妻がある旅行社のバスツアーのチラシを見て、ここにしようということになった。

 

     

 砥峰高原は雪彦(せっぴこ)峰山県立自然公園に属する、標高800900mに位置する面積約90ヘクタールの草原。緩やかな起伏が連続し、周氷河地形(地中の水分が凍結や融解を繰り返すことによって形成されたもの)と呼ばれる。

 

 ここで2010年に公開された映画『ノルウェイの森』のロケが行われたと言う。この映画は観たことがないから、どのような場面で使われたのかは知らない。 

 

  ススキは、桜や紅葉などに比べるとモノトーンで華やかさはないが、やはり独特の風情と美しさがある。それほど広大な草原ではないが、こういうところで中秋の名月が見られたらと思った。月でなくても、おそらく星空も美しいのではないだろうか。

 

    

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

 

 

 


女性の化粧

2011-09-27 13:00:20 | 身辺雑記

 新聞の「読者の声」欄で、ベトナムから来日した19歳の日本語学校生の投書を見た。「ベトナムから来日して1年。ずいぶん慣れたが、疑問なのは日本女性の化粧が濃く、服装が派手すぎることだ」で始まるその投書は、次のように続く。

 

 「口紅、おしろい、つけまつげなどできれいにした日本女性は化粧の前後でまったく変わってしまう。元々の顔は関係なく、モデルのようになり、美人になる」

 

 確かに日本の女性の化粧は概して厚いと私も思う。特に私が老人のせいなのだろうが気になるのは、付け睫毛だ。少しくらいなら目がパッチリと見えもするのだが、中には真っ黒な草むらのようなものもあって、いささかげんなりさせられる。睫毛エクステンションとか言うらしいが、近頃通りすがりの商業ビルの中に開店したネイルアートの店でも、店頭の案内板にこのエクステンションが40本で3600円とか書いてある。片方で20本なら普通なのだろうか。あまり多い付け睫毛を見ると外したら相が変わってしまうのではないかと思ってしまう。

 

   

        

 

 投書は続けて、

 

 「私たちベトナム女性は特別な時以外、あまり化粧をしない。ふだんは日焼け止めクリーム、口紅だけ。濃い化粧の女性を見たベトナム男性はがっかりし、付き合いたくなくなるのが一般的だと思う」

 

 濃い化粧をするのは、少々いかがわしい職業の女性と思われるのだろうか。前にテレビで何度かベトナムの街の風景を見たことがあるが、なるほど濃い化粧の女性は見当たらず、付けている口紅も目立たず素顔に近いようだった。それがまた民族衣装のアオザイによく似合っているように思ったものだ。

 

いったいなぜ近頃の女性、とくに若い人達の化粧が濃くなっているのだろうか。西安の友人の李真や謝俊麗などは勤めているが、クリームをつける程度でほとんど化粧はしていないようだし、他の中国の友人達もそうだ。上海人の施路敏は東京に住んでから6年になるが、先日会った時には相変わらず素顔に近い健康そうな顔で、日本語も含めて日本の生活にはずいぶん慣れたようだが、化粧ということでは以前と変わっていなかった。西安人で今は上海にいる邵利明が以前大阪に来たときに、化粧品を買いたいと言うので店に連れて行ったが、店員が次々にいろいろ出してくるので、クリームを買うくらいに考えていた彼女は面食らったようだった。化粧しないと顔色が良くないように見えると聞いたことがあるが、彼女達はそのようには見えない。李真は日本の女性は化粧が上手だと言っていたが、私は自然に近いほうがいいと思う。

 

上記の投書はこう結んでいる。

 

 「日本の友だちに聞くと、日本女性は男性にほめられたい気持ちがあり、また、ほめられることが必要だからと教えてくれた。私は自然な顔を見せる方がいいと思います」

 

 ベトナムであろうと中国であろうと若い女性が男性にほめられたい気持ちには変わりはないと思うが、それを濃い化粧で表現するのは日本独特なものなのか。それでも以前はそれほど化粧は濃くなかったと思う。いつ頃から今のように濃い化粧になってきたのか。化粧品会社の宣伝や、若い女性向けの雑誌などが書き立てるためなのかとも思ったりもする。

 

 

 

 


稲刈り

2011-09-25 19:54:56 | 身辺雑記

台風の影響もあって例年より1週間ほど遅れて、近所の稲田で刈り入れがあった。今年は例年より実りが良いではないかと思って、他のそばにいた作業服の女性に尋ねたら、さあどうですか、摺ってみなければ分かりませんねと答えた。豊作であればいいのにと思う。

 

 

 

毎年のことだが、今時は小型の刈り取り機を使って手早く刈り取るし、その中で穀粒を穂から取ってしまうから、後は家かどこかで籾摺りをするだけだ。鎌で刈り取って束にし、それを稲掛けするような風景は見られない。茎も細かく切断して田にばら撒いてしまうから、藁にすることはない。農家にとっては効率的、能率的だろうが、何やらさばさばした感じがしないでもない。

 

 

 

 

 

この田では冬に野菜を作ったりしないから、来年の田植え時期まではこのままにしておかれる。

 

 

 

 


怒り

2011-09-25 11:13:38 | 身辺雑記

 年をとると気が短くなり、怒りっぽくなるとよく言われる。実際これまでにもあちこちで、人前も憚らずに大声で怒っている老人を見たことがあるが、何か惨めな感じがしたもので、自分がああなっては嫌だなと思ったものだ。生来温和な性格の者が、年をとると気短かで怒りっぽくなることはあまりないのではないかと思うのだが、その点では若い頃の私は気が短いところがあって、今思うと慙愧の念に耐えないのだが、妻にも怒りを爆発させたことも少なからずあった。生徒に対しては教師という自覚があったからか、滅多に大声で怒鳴ったことはなかったし、もちろん手を上げたことはなかった。

 

 そんな私だから、年をとるともっと気が短くなる恐れもあった。しかし殊更に自覚して自分を抑えるということもないのに、年をとるにつれて気が短いことがなくなってきた。温和な好々爺というのには程遠いが、この10年以上もひどく腹を立てた覚えがない。気が長くなったのかどうか、あまりよく分からないが、いらいらすることは確かに少なくなった。人との接触が少なくなり、猫と吞気に独り暮らしをしているからかも知れない。

 

 そうは言っても、むっとすることは少なからずある。現に先だってもこのブログに関していささかむっとしたことはあった。それでもひどく腹が立ったということではなかった。なぜこんな言い方をするのだろうかなあということで収まってしまう。まあ、むっとするくらいは誰にもあるだろうと思う。むっとしても、それをあからさまに顔や仕草に出さなければいい。どうせ行ない済ました聖人君子ではないのだから、人前で恥ずかしげもなく怒りを爆発させなければ、それくらいは許してもらえるのではないか。

 

 しかし、感情にませて怒ることは抑えなくてはならないが、この社会の不条理や不正義に対する怒りは失いたくない。残念ながら今の世の中には、醜くい嫌なことが多い。そういうことを見聞きしても、まあそんなこともあるさというような、いかにも物の分かったような弛緩した状態の心にはなりたくない。独りで怒(いか)ってみてもどうなることもない、そんなことでカッカとするのは馬鹿らしいと、訳知り顔をするようになってはおしまいだと思う。よく幼い子どもを親が虐待死させる話を聞くが、こういう時にはどうしようもない怒りがこみ上げるし、昨今の政治のありようや、福島県に対する風評や差別には怒りを抑えられないものがある。先日も書いたが、前の経済産業大臣の辞任の記者会見の際の一部の記者の傲岸不遜な態度には心底怒りがこみ上げた。

 

正義漢ぶるつもりは毛頭ないが、不正不条理を憎み憤る心は麻痺させてはならないと思う。大げさな言いようだが、それをなくすと私自身の堕落だと思うし、そのような人間が多くなれば社会がいい加減な雰囲気になるのではないだろうか。

 


またしても風評被害

2011-09-23 09:23:02 | 身辺雑記

 愛知県日進市で18日の夜に「にっしん夢まつり・夢花火」と名付けた花火大会が開催された。当初は、東日本大震災の復興支援を掲げ岩手、宮城、福島県の花火各80発を打ち上げる予定だったが、またもや一部の市民から、「放射性物質をばらまくのか」「安全は確認しているのか」などの苦情や問い合わせが電話やメールで20件ほど寄せられたために、市などでつくる実行委員会が、福島県の業者製造の花火の打ち上げを中止した。

 

 実行委が対応を協議し、福島県の花火を作った同県川俣町の煙火店が製造した花火の打ち上げを取り止めることを決定し、それに代えて愛知県の業者の花火を使った。宮城県と岩手県の花火は予定通り打ち上げた。実行委事務局の市産業振興課は「放射線量の確認が間に合わなかった。安全を示す確実なデータがなかった」と中止理由を説明したと言う。

 

 またかという思いだ。いったいいつまでこのようなことが繰り返されるのだろうか。「福島」と言うと過剰に反応するのはどのような心の持ち主なのか。放射性物質は怖いものだからそのような心情は理解できるという向きもあるかも知れないが、私にはただ愚かしい、不愉快なものとしか思われない。それに京都市もそうだったが、ちょっと苦情や批判があるとあたふたして取り止めるという自治体のあり方は情けない。日進市は人口約8万5千人の市だが、その中のほんの一つまみの20人くらいが「正義」「正論」を振り回したのにすぐ屈服するとはどういうことだろう。こういうことだから、今時は何かにつけてクレーマーが横行するのだ。打ち上げを中止された福島の煙火店の社長は「風評被害だ。花火を見てもらえないのは悔しい」と話したそうだが、その通りだと思う。日進市のホームページには「お詫び」が掲載されているし、市長が川俣町の町長と煙火店主を訪れ謝罪したようだが、毅然として実施してほしかった。

 

 このことに関してある新聞の「読者の声」欄に投書があったが、その後半には次のように言っている。投稿者は福島県郡山市の58歳の医師。

 

 「福島県は現在多くの風評被害に悩まされています。放射能検査を受け、異常なしとされても福島産の農産物は売れないと聞きます。消費者の選択の自由もあり、ある意味仕方のない面もあるかもしれませんが、なぜ花火がだめなのでしょう。

 事前に放射能を調べればよかったとの意見もありますが、そもそも今回の業者の工場の空間線量は低く、花火に線量計を当てても意味があるとは思えません。

 愛知県出身者として福島県の製造者に申し訳ないという気持ちと同時に、苦情を受けて打ち上げをやめた主催者に怒りを覚えます」

 

 理不尽な「福島いじめ」はいい加減にしてほしいが、私がこのブログに前にも書いた(「悪口雑言の限り」)のような卑劣な輩がいる限り、これからも続くのかと思うと暗い気持ちになる。

 

 

 

 

 

 

  


テレビ離れ

2011-09-21 08:12:15 | 身辺雑記

 7月にテレビのアナログ放送が終了しデジタル化したが、その後NHKに対して放送受信契約の終了を求める連絡が8月末までに約9万件寄せられたという。放送法上、放送を受信できる設備を設置した者は、NHKと放送受信契約を結ばなければならないことになっているが、アナログ放送の終了でアナログテレビはその機能を消失するので、新たにデジタル受信機を設置しない限り、契約を続ける必要がなくなり、受信契約の終了連絡はこれに伴うものと言う。

 

 9万件の解約はNHKにしたら経営上影響があるものではないだろうし、アナログ放送終了後、デジタルテレビを購入する例もあるだろうから、実際には9万件を下回ると予想しているようだが、僅かであってもテレビ離れが起こってはいるのだろう。関東に住む卒業生のS君は、テレビ画面の下にずっと流されるアナログ放送終了の予告が不愉快でその部分をガムテープを貼って隠していたようだが、デジタルに変わったらテレビは買い換えないと言っていた。アナログ終了間近いになると画面に大きく予告の文字が出て画面が見にくかったそうだが、そこのけそこのけデジタル様のお通りだと言わんばかりの無神経なやり方だ。

 

デジタルになって何がよくなるのかよく分からない。「多チャンネル化」または「高精細化」(ハイビジョン)が可能となるとか、データ放送など便利な機能も利用できるようになるなどと言われるが、私にはいっこうに興味がわかない。時代に取り残された老人と言うことか。いったい誰が儲かったのかと尋ねたら、誰かがそれはメーカーと政治家だろうと言った。メーカーは分かるが政治家というのは、認可に当たっての利権に関して動いたということか。こういうところにも今の政治家は胡散臭い目で見られているようで、不徳のいたすところだろう。

 

デジタル化になろうと私には今のところ関係がない。我が家のテレビの寿命が尽きてからもう1年以上になる。もともとテレビはあまり見ないほうだったので、新しく買う気も起らずに過ごしてきて、もうテレビの無い生活に慣れてしまった。負け惜しみを言うようだが、テレビがないと何となく家の中が静かなのがいいし、読書量がずいぶん増えた。良い番組もあるのにと言われるが、見なければそれですむと思っている。頑固爺さんと言われそうだ。

 

 


敬老の日

2011-09-20 10:24:35 | 身辺雑記

 昨日は「敬老の日」だった。と言っても、ああ祝日だったなと思う程度だし、3連休だから学生や勤め人にはちょっとした骨休めかもしれないが、こちらは毎日が連休のようなものだから、とくにどうと言うこともない。相も変らぬ、のらくらと過ごした一日だった。

 

 今朝の新聞を見ても、私が住む市も含めて、このあたりの自治体が「敬老の日」に行事を行ったという記事はない。以前はよくその市に住む100歳以上の最高齢者を市長が訪問したというような記事を見かけたものだが、それもない。そういうことはしなくなったのか、100歳以上は珍しくなくなったので記事にしなかったのか。いずれにしても、今年もごく普通の祝日に終わったようだ。

 

 「敬老の日」1947年(昭和22年)に兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町)の村長と助役が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨で農閑期で気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いていたことに由来するのだそうだ。それが1950年(昭和25年)からは兵庫県全体で行われるようになり、やがて全国に広まった。その後「としより」という表現は良くないということで1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称され、翌年に野間谷村からの政府への繰り返しの働きかけもあり、国民の祝日「敬老の日」に制定された。

 

 私も80歳に近くなったが、日本人の男性の平均寿命が79.64歳(昨年)の今時は珍しくもない高齢者だ。だから改まって「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」などと言われると面映くもなるが、まあ、素直に受け取って、これからもあまり肩肘を張らずに、穏やかに余生を送っていきたいと思う。

 

   

 

 

 

 

 


猫と三味線

2011-09-19 11:00:10 | 身辺雑記

 我が家の飼い猫ミーシャは、いわゆる「茶虎」で薄い茶色をしている。夜になるとベッドで本を読んでいる私の側に来てうずくまる。そういう時には本を読むのをやめて、その軟らかい毛を撫でたり、指で毛を押し分けたりしてやるが、気持ちが良いのか嫌がりもせずにじっとしているので可愛く思う。茶色の毛の下は真っ白な皮膚で、とてもきれいだ。猫の皮膚はどれも、黒猫であっても、そうなのだろう。それを見ていると、ふと三味線のことを考えた。

 

 猫の皮と言うと三味線を連想するが、調べてみると三味線の胴に張る皮は一般に猫の腹のものを使用するようだ。しかし高価であるし生産量が減少して現在は稽古用など全体の7割程度が犬の皮を使用しているのだそうだ。津軽三味線は例外を除き犬皮を使用するとのことで、音質と関係があるのか。合成製品もあるようだが、音質に劣るため好まれないと言う。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているようだが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みのある皮を使用することが多いそうだ。

 

   

 三味線の値段は高級なものになると50万円以上もする。もちろん皮は猫だろうが、紅木などを棹や胴の材木に使うのが高級らしい。

http://data.livex.co.jp/okonomi/9604/top.html 

 

 これを読むと、三味線の胴の皮つくりの作業は、なかなか大変なものだということが分かるし、何よりも差別と偏見に耐えながらの仕事には頭が下がった。

 

  

   先日長男の家族と食事した時にこの話が出て、どうやって皮を調達するのだろうと言ったら、息子は養殖しているのじゃないかと言ったが、さてどんなものか。そんな話は聞いたことがない。私が子どもの頃には「犬捕り」、「猫捕り」というのがあった。長い棒の先にわっか(輪)が付いていて、それを犬や猫の首に引っ掛けて捕獲するのだが、犬と違って上にも跳び上がって逃げる猫を上手く捕らえるにはかなりの技が必要だっただろう。捕まえたら袋に入れて持ち運ぶのだが、そのような姿を見たことはある。捕まえた猫の皮を三味線にするのだと聞いていたのでそんなものかと思っていたが、犬は何に使うのかは知らなかった。

                        

 犬捕り、猫捕りのイメージがあったためか、昔は「子トリ」という話があって、夜遅くまで遊んでいると「子トリに攫われるよ」と大人から脅かされたものだ。近所の小さい女の子が、怖そうな顔と声で子トリを見たと言ったのを思い出す。そんなことあるもんかと嗤ったら、本当だよ、攫った子どもを袋に入れて歩いていた、袋の中で子どもが動いていたと真剣に言った暗い顔を今でも思い出す。おそらくは犬捕りか猫捕りの姿を見て怯えたのだろう。もう70年以上も昔の夕暮れのことだ。

 

 犬捕りも猫捕りも遠い昔のことになってしまって、今では保健所が野良犬と思しきものを捕獲しているが、やはり昔のような道具で捕らえているのだろうか。猫はどうなのかは知らない。

 

 

 

                三味線を弾く女(喜多川歌麿):Wikipediaより 

 

 

 

 

 

 

  

 


暑い

2011-09-17 11:22:48 | 身辺雑記

 今日(9月16日)も日中は30度を超えた。午後から小雨も降り湿度も高く蒸し暑かった。クーラーを使わないと日中の部屋は蒸し風呂のようになる。全国的にも残暑は厳しいようだが、いったいいつになったら涼しくなるのか。台風12号が通り過ぎたあと2日ほど涼しい日があったが逆戻りした。

 

 李真に尋ねたら、このところ西安は雨の日が多いようだが涼しいらしい。ネットで西安の天気を調べてみたら、今日は15度~25度で、この先しばらく雨の日が続くようだが、気温は低く12度の日もある。寒いくらいだろう。西安に限らず北海道も涼しくなっているようで羨ましい。

 

暑い時は冬がいいと言い、冬には夏がいいと言い、勝手なものだと言われることもあるが、私は暑いのは苦手だ。若い頃は汗を激しくかいても何となく爽快な気分になったりもしたが、年をとるにつれて暑さに弱くなった。暑いと体力の消耗が激しいように思う。西安の夏は暑く、冬は寒い。冬の寒さは大陸の内陸地方だからとても寒いようだ。北京もそうで、突然冬が来て、突然春が来ると聞いたことがある。日本のこのあたりのように穏やかに春が訪れ、秋の気配が忍び寄るということはないらしい。

 

 台風15号が近づいている。12号と同じように速度が遅いから上陸したら12号による被害が拡大するだろう。既に近畿の南部の奈良や和歌山ではかなりの雨が予想されている。被災した人達の無事を祈るばかりだ。西安には台風がないから、李真にはその様子は想像できないようだ。

 

 今年は東北地方の地震、津波の被害があり、近畿では平成になって最大という台風12号の被害もあった。大きな災害のあった年になったが、もうこのあたりで自然災害は打ち止めにしてほしい。

 

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映画

2011-09-15 10:04:50 | 身辺雑記

 Hr君、Hg君夫妻と映画を観に行った。『ライフ』という英国のBBCが撮影した野生生物のドキュメンタリーだ。

 

 6年の歳月と35億円の制作費をかけて作ったと言うだけあって、素晴らしい作品で堪能した。よくもこのような映像が撮れたものだと感嘆したが、カメラも最新鋭のもので,撮影者の技術も最高級なのだろう。撮影地は世界18カ国、24ヶ所、収められた生物は24種類に及び、日本でも温泉に浸かるニホンザルが取り上げられている。映画を観た後でパンフレットを購入したが、これには24種の生物すべての写真が収められ解説されていて、なかなか見ごたえがある。そのいくつかを紹介したいのだが、残念ながら無断複写、複製が禁止されている。

 

泥沼にはまり込んだ生後間もないアフリカゾウの赤ん坊を必死になって救い出そうとする母親象など感動する場面もあったが、とくに印象に残ったのは、南米コスタリカのジャングルに棲むイチゴヤドクガエル(矢毒蛙)という10グラム程度の赤色の小型のカエルだった。このカエルは、落ち葉の水溜りで孵ったオタマジャクシを天敵から守るために1匹ずつ湿った自分の背中に乗せて、樹上10メートルの高さに生えているアナナスの葉に溜まった水の中に運び込む。小さな体で一生懸命に木を上っていく姿には胸を打たれるものがあった。それだけでも驚異なのに、安全な場所に移した後、子どものために2週間にわたって何回も登って行き、そこに無精卵を1個産んで子どもの餌にする。どうして最初に運んだ場所を記憶しているのか、とにかく驚くべき生態だ。この他の映像もすべて感嘆するようなものばかりだが、取り上げられた生物は皆、「名優」揃いで、なまじっかなドラマは及びも付かない。それに生物たちの棲む環境の風景がまた素晴らしく、主役、舞台ともに最高のものだ。

 

 Hr君たちとは先月の末にも映画を観に行ったが、これは『シャンハイ』という、日米戦争開始頃の上海租界を舞台にした米中合作のサスペンス、アクション映画で、日本の渡辺謙や、中国の女優コン・リー、香港の俳優チョウ・ユンファが出演していたが、つまらない映画だった。去年は同じメンバーで、三国志の赤壁の戦いを題材にした中国映画の『レッド・クリフ』を観に行ったが、超大作ということだが、まったくの愚作だと思った。このような映画に比べると、今回観た『ライフ』の方がはるかに見ごたえがあり、純粋に感動する。映画はあまり仰々しく騒がしくないのがいい。その点先日観た『さんざしの樹の下で』という中国映画(監督はチャン・イイモウ)は、文化大革命時代の高校生の女の子の悲恋を描いたもので、主役の新人の女の子が可愛らしくひたむきで、これはよかった。私達は皆老人料金で1,000円で観られるが、いくら安く観られても、やはり鑑賞後の印象が良いに越したことはない。