中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

三室戸寺のアジサイ

2008-06-30 08:14:22 | 身辺雑記
 H君夫妻に誘われて、京都府宇治市の三室戸寺(みむろとじ)にアジサイの花を見に行った。途中大阪の邵利明(明明)の家に寄って一緒に出かけた。

 三室戸寺は、西国観音霊場十番の札所で修験宗の別格本山で、約1200年前の宝亀元年に光仁天皇の勅願によって創建された。5千坪の境内にはツツジ、シャクナゲ、アジサイなどが多数植えられていて花の寺といわれる。アジサイは約1万株植えられていると言う。

 三室戸寺本堂と三重塔。





 明明はアジサイは見たことがないと言った。西安などの北の地方にはないのかも知れないが、上海人の施路敏も見たことはないと言う。広州の伍海珠は広州で見たことがあると言ったからやはり少し南の方にはあるのだろう。



 中国語でアジサイは八仙花(バシエンファ)または繍球花(シュウチュウファ)と言う。八仙は中国の神話上の8人の仙人だが、なぜこれがアジサイの名となったのかは知らない。繍球は刺繍を施した布で作った毬で、その形からアジサイの名になったことは分かる。



 植えられているアジサイは非常に品種が多く、特にガクアジサイの仲間には興味を惹かれた。





















 本堂の前には大きな鉢に植えられた蓮が多くあった。まだ開花期よりは少し早いようだったが、それでもいくつか美しい花を咲かせていた。蓮の花は清楚で美しく、極楽浄土に咲くと言われるのも頷ける。














平等院

2008-06-30 08:13:05 | 身辺雑記
 三室戸寺からの帰途、昼食を済ませてから近くの平等院に立ち寄った。平等院には50年も前に、結婚する前に妻と訪れたことがあるが、その時はすぐ東側を流れる宇治川の土手に腰を下ろし、鳳凰堂を眺めながら話をした記憶がある。今ではすっかりきれいに整備されている。





 鳳凰堂(国宝)。1059年に阿弥陀如来(国宝)を安置する阿弥陀堂として建立された。極楽浄土の宮殿を模したものと言われる。





 現在は柱などは木肌が現われて黒ずんでいるが、創建当時は朱などの鮮やかな色彩であっただろう。日本の古寺や仏像は歳月を経るに連れて表面の金箔や塗料が落剥して黒ずんだものになり、それがまた良いものなのだが、この点は中国の色彩鮮やかな仏像や寺院とはかなり違う。
 
 10円硬貨の表面にデザインされていることはよく知られている。1万円紙幣の裏面には鳳凰堂の屋根の鳳凰像が描かれている。



  本尊の阿弥陀如来は、平安時代の代表的な仏師であった定朝の作であることが確実な現存唯一のものと言う。



アジサイの花

2008-06-29 19:36:26 | 身辺雑記
 家庭で植えられているアジサイはほとんどがセイヨウアジサイ(ハイドランジア)で、本来は日本原産のガクアジサイが改良されたアジサイが、欧米で品種改良されたものである。



 ガクアジサイは周辺の花だけが大きく、装飾花と言われる。装飾花が中央の花の群を囲み額縁のようなのでガクアジサイと言う。花弁のように見えるのは花の基部にある萼(がく)で、中央の小さい粒状のものが本来の花弁を持っている。中央部にある花は萼が大きくないが、開花すると雄蕊や雌蕊のあることが分かる。





 通常のアジサイの球状の花は、ガクアジサイの中央にある花がすべて装飾花になったものである。







 ドクダミの花も萼が発達したものである。







転落死

2008-06-28 06:34:35 | 身辺雑記
 東京の小学校で6年生の児童が、天窓から転落して墜死したという痛ましい事故があった。そのニュースの見出しを見たときにはよく事情が呑み込めなかったが、よく読んでみると、その児童が屋上の採光用の天窓に乗り、それが破れて12メートル下の1階床に転落したものだった。

 その採光用の天窓はガラス板の上に厚さミリの強化プラスチックのドームがかぶせてある構造で、屋上での算数の授業中にその児童がドームの上に乗ったので、強化プラスチックが破れ、底のガラスも破壊したようだ。天窓のドームの周囲には防護柵はなかったと言う。普段は屋上に児童は上がれないようにしていたようだし、ドームの上に人が上ることは想定していなかったので防護策は講じられていなかったらしい。事故があってからでは後の祭りなのだが、小学校の校舎なのだから安全策にはもう少し注意を払うべきではなかったか。後で調べてみると、この学校の他の同型のドームの上にも児童の足跡があったことが分かったらしい。ドームは製作した会社によると、70キロの物体を30センチ上から落とすと破れるものだったらしいが、6年生の男の子が上に乗って飛び跳ねでもしたら当然破れただろうし、これまで事故が起こらなかったのが不思議なくらいだ。そもそも授業中にそのようなことをするのがいけない行儀が悪いと言っても、元気盛りの小学生ならやりかねないことだ。それにそのドームは、写真で見るとごく平べったいもので、周りには柵もないから、大勢の子どもが周りにいたらうっかり乗ってしまうこともあるだろう。徒に子どもを責めることは酷だと思う。

 児童が転落したのは多目的教室として使われるホールのようで、天井まで吹き抜けになっている。テレビのニュースで見たが、昔の教室という概念からかかけ離れたしゃれたつくりのものである。現在は小学校の教科・科目の内容は以前に比べると多様化し、児童数も減少しているから、校舎の建て替えの際にはクラスの教室以外にもいろいろと工夫を凝らしたモダンな空間が作られる。中にはややデザインが優先したものもあるようだ。多目的教室という形態は今では当たり前のものになっているが、それにしても12メートルもの吹き抜けを作る必要があったのかどうか疑問に思った。校舎、教室というものは何よりもまず堅牢、安全で、その上に機能的なものでなくてはならないだろう。


                     


 

中国出産事情

2008-06-27 07:12:25 | 中国のこと
 出産を9月に控えた西安の謝俊麗が悩んでいる。

 衆知のように、中国では一人っ子政策をとっているので、子どもの戸籍をとるのには、これまでに子どもを産んでいないという証明がないと、子どもを産む許可証(准生証)が下りないのだそうだ。これがないと子どもは俊麗たちの戸籍に登録できない。妊娠6ヶ月にもなっているのに、いまさら出産許可証でもあるまいと思うのだが、そのような規則になっているようだ。

 そのためには戸籍の所在地の社区の計画生育管理部で、これまで出産していないという証明をとる。社区は地域にある市役所のようのもので、民生に関するさまざまな業務を扱っている役所らしい。俊麗は大学卒業後、国営の西安中国国際旅行社(CITS)に勤務し、その後退職したが、彼女の戸籍はCITSが管理していた。結婚届を出してから1年間ほどしてから戸籍をCITSから移したので、その間に出産していないという証明が必要だそうだ。

 それで俊麗がCITSに行って証明書をもらうことになる。すでに退職している者の未出産証明書などを出せるものかと思うのだが、これもそのようになっているのだと言う。ところが俊麗によると、CITSの行政部門の担当者は態度が横柄で、仕方なくやってやるという態度なので不愉快なのだそうだ。たばこや菓子も持っていくこともするらしい。それでも行かなければならないから行くけれども、気乗りはしないようだ。そうやって未出産証明書をもらうと、それを社区に持っていけば出産許可証がもらえるのだろうが、俊麗は詳しいことはまだ知らない、中国のことはよく分からないと、はなはだ頼りない。

 子どもが生まれたら、社区からの出産許可証と出産した病院の出産証明書と合わせて、俊麗と夫の戸籍が管理されている派出所というところに提出すると、子どもの戸籍登録ができるという。

 俊麗はこのコンピューターの時代にオンライン化することはできないものかと嘆いていたが、学校教育にはコンピューターが盛んに取り入れられているのに、こういう面では西安の事情かも知れないが、日本に比べてはるかに遅れをとっているようだ。市民に慣れない手続きのことでウロウロ、オロオロさせるのは感心しないし、担当者の横柄な態度はなおさらである。かつて、「人民のために奉仕する(服務為人民)」というスローガンがあって今でも生きてはいるのだろうが、実態はなかなかそうではなく、中国の友人に聞いても、もはやそんなことは信じていないようだ。民のためでなく、官の為に制度があるような面は俊麗も、大嫌いだ、いつになったら中国では人間ではなく、法律やルールで国を管理するようになるのだろうと言っている。

 このような面倒な手続きをして一人っ子政策を維持しようとしているが、現在中国で問題になっているのは、俳優などの有名人や、金持ちが複数の子どもを持っていることだ、俊麗の住んでいる地区でも金持ちのような者が子どもを2人連れているのを見るそうだ。どうしてそういうことが可能なのか、普通の者がすれば罰金もので、子どもも無戸籍になる可能性もある。おそらくは例によって役人へかなりの賄賂を使って未出産証明書か、出産許可証を入手するのだろう。こんなところにも貧富の格差が見られるのが今の中国の実情なのか。金さえあれば何でもできるという風潮が蔓延すればモラルは低下し、貧しい者の不満が鬱積して、国としての活力も衰弱するだろう。


                   




自転車とケータイ

2008-06-26 12:01:22 | 身辺雑記
 兵庫県では7月1日から、自転車に乗りながら携帯電話を使ったり、ヘッドホンをつけて大音量の音楽を聴くことを禁止し、違反者には罰金5万円以下を課すことを決めた。

 要するに注意が散漫になって交通事故を起こすことを防止しようとするものだが、実際自転車の事故と言ってもバカにはできないので、兵庫県では昨年自転車が直接の当事者となった人身事故は8,400件にのぼり、巻き添えになったケースも含めて自転車利用者の死者は34人、負傷者は8,454人だったのだそうだ。

 今回の県の決定では、ハンズフリーなどを使って携帯電話を手で扱わない場合や、大音量の音楽を聴く場合でもヘッドホンをつけなければ取り締まりの対象にならないようだから、自転車利用者自身の人身事故を防ぐことが主な目的なのだろうが、もちろん歩行者が被害者になることも想定したものだろう。私もかつてそばをかなりのスピードで通り抜けた自転車を運転していたのが、携帯で話しながらの女性だったことを経験したし、他にもそういう姿を見かけたことがある。もちろん片手運転だからやはり歩行者として危険を感じる。喫茶店でも見かけることなのだが、携帯電話というものはどうものめりこませるものがあるようで、だらだらと長話をしていることが多い。自転車に乗る前から話していて、乗ってからも続けるのだろう。

 ヘッドホンをつけて自転車を運転しているのは見たことがないが、これもかなりあるのではないか。とくに戸外で聴いていると大音量も快く感じられるのかも知れないが、おそらく車のクラクションなどは聞こえないだろう。ヘッドホンをつけて音楽に聞き入っている若者の姿は車内でも見かけるが、比較的小さい音でも引き込まれるようだから、大音響ともなると忘我の境地に入ってしまうものなのかも知れない。

 最近は何かしら行動にけじめをつける考えが希薄になっているように思える。女性の車内での化粧や、高校生が所かまわず地面に座り込むこと、車内でもやたらに飲食することなどはその最たるもののように思うが、携帯で話すにしてもヘッドホンで聴くにしても、時と場合というものを考えるべきで、他人の存在が見えなくなる自分本位の行動は見苦しいものだ。




自己責任

2008-06-25 09:13:51 | 身辺雑記
 たまたまテレビで、近隣のある市の広報番組を見た。そこでその市の児童公園で幼い子ども達が砂遊びをしている場面があったが、そこへ「(子ども達は)自己責任で遊びを楽しんでいます・・・」というナレーションが入った。これはいったいどういうことなのかと首を傾げてしまった。

  「自己責任」という語は、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならないと言う意味で、主に証券取引などの分野で言われていた概念なのだそうだ。それが非常にポピュラーに使われだしたのは、イラクでボランティア活動をしていた3人の日本人がゲリラに人質となった事件の時からだった。彼らに左翼思想の傾向があったためか、時の政府は彼らの行為を厳しく批判し、その際にこの「自己責任」が使われて、多くの国民もこれに乗って、本人や家族達に激しいバッシングを浴びせかけた。私の友人の1人は彼らをバカ呼ばわりさえしたものだった。解放された後で、ある与党の幹部は、帰国に要する航空運賃を本人達に負担させよというみみっちいことまで発言した。人質になった1人が解放後に、「それでもイラク人が嫌いになれない、今後もイラクでの活動を続けたい」と言ったことに対して時の首相は「まだそんなことを言うのか」と激しく非難した。外国では欧米や韓国などのメディアは好意的に捉えていたらしく、例えば米国の国務長官は彼らの行為を評価し賞賛までしたのだが、日頃は対米一辺倒の当時の首相はそのような発言は一顧だにしなかった。民間人の国際貢献ということに対する彼我の考え方の違いが明らかになったし、為政者が自分達の意に沿わない者をマスメディアも使って叩き、それに煽られて国民が自国の少数者を打ちのめすようになることは、かつての戦時中の「アカ」、「国賊」を思い出させるような事件だった。

 以来この自己責任という語は、またたく間にすっかり馴染みのあるものになって定着したが、それはかなり恣意的に使われることにもなって、ある大手の人材派遣会社の女社長が「経営者は過労死するまで働けなどとは言わない。過労死なども含めてこれは自己管理だ」と言って物議を醸したこともあった。このように何でも彼でも自己管理、自己責任の問題にすり替えて、ある立場の者にとっては極めて好都合で、自らの責任を回避し曖昧にする使い方になっていった傾向もある。そこにはそう言われた者が何らかの不利を蒙ったばあには、「自業自得」だと決め付ける意味も含まれてくる。健康を害したのも、失業したのも、倒産したのも何もかも自己責任ということにされては、「運命だ」と言われる以上に冷酷なことではないか。言葉が独り歩きすると無責任な使い方をするようになる。

 最初に戻って、市の児童公園で「子ども達が自己責任で楽しんでいる」と言うことは、まさか事故があっても市は責任を負いませんと言うことではないだろう。どうも意味不明なのだが、子ども達は思い思いに自分達で遊びを考えながら楽しんでいると言いたかったのだろうか。言葉は一瞬のうちに消え去るものであるだけに、丁寧に使ってほしいし、「自己責任」という言葉が乱発されることは願い下げにしてほしいと思う。

                    

六甲高山植物園

2008-06-24 08:45:02 | 身辺雑記
 H君夫妻の車で、神戸市の六甲山に出かけた。中国西安から来て大阪の会社に勤めている邵利明(シャオ・リミン 明明)も誘った。六甲山はアジサイが有名だが、行ってみると花期はまだだった。山上のレストランで昼食をとってから高山植物園に行った。六甲山には高山植物園と森林植物園がある。六甲山を訪れたのは久しぶりのことだったが、高山植物園には来たことがあったのかどうか記憶になかった。


 高山植物園は谷間に作られていて、さまざまな植物が栽培されている。あいにく筆記具を忘れてきて、植物名をメモすることはできなかった。その時は覚えておこうと何回か呟いて覚えておこうとしたのだが、帰ってみると見事に忘れてしまっていた。年は争えないものだ。

コマクサ。高山植物の女王と呼ばれる。花弁が長く馬の顔のようで駒草と言う。


クリンソウ。花を茎のしたから上に輪状につけ、その様子が仏塔の上につけてある九輪のようであることからの名称。花期の盛りを過ぎていたので、一番上にしか花は残っていなかった。


クリンソウの群落。湿地に生える。


シコタンハコベ


ヒマラヤの青いケシ


シモツケソウの仲間


その他いろいろ

















           
明明とクリンソウ
 


終身刑

2008-06-23 08:19:13 | 身辺雑記
 超党派の国会議員が「量刑制度を考える超党派の会」という議員連盟を作って、死刑と無期懲役の間に仮釈放のない終身刑を創設することで意見がまとまり、秋の臨時国会に議員立法刑法改正案を提出することになるようだ。これは来年5月から始まる裁判員制度のもとで、裁判員が死刑と無期懲役の選択に悩まないために検討した結果だと言う。

 前にも書いたが、私は死刑制度に賛成している。死刑廃止論にはいろいろな理由があるようだが、もうひとつ納得できないものを感じている。何か加害者のいのち、人権が前面に出ていて、そこだけを見ると分からないでもないが、ではその加害者のために、たった1つしかないいのちを無残に奪われた被害者はどうなるのか。その人権など云々することもできないことになってしまっているのだ。自分の家族が理不尽に他人に命を奪われるようなことがあっても、死刑廃止論者はやはり持論を守るのだろうか。私には到底できないことだ。

 犯行時未成年であったことで、死刑か無期懲役で注目を集めた山口県の母子殺人事件でも、私は死刑が妥当と思っていた。逮捕された当初、この犯人は真実を究明するために奔走する親族を嘲笑するような手紙を友人に送っていたという。それが高裁での審理になると、弁護団が代わったこともあるのか、死刑を回避するためだろうが犯行当時の心理状態を述べ始めた。その内容を読んだときには、私は深い嫌悪感を覚えた。高裁での差し戻し審で死刑判決が出たこの裁判はまだ完全に終わったわけではないが、取り敢えずは長い年月の間の苦しみや悲しみがいささかでも軽減されたであろう遺族の気持ちは理解できる。このような遺族の感情を死刑廃止論者は、批判したり諭したりできるのだろうか。

 最近の殺人事件に対する判決では、被害者が1人の場合には死刑を回避する傾向があるようだが、一方では社会に与えた影響の重大さを考慮した、長崎市長暗殺事件に対する死刑判決もある。どうにも情状酌量の余地がない残忍きわまる殺人事件には、被害者が1人であろうと、死をもって償わせるのは当然だと思う。近頃は何かというとすぐに弁護士が被告の精神鑑定を申請することがあるが、死刑を回避するためのものと思えてならない。

 無期懲役は最短10年で仮釈放が認められる。改悛の情が深いとか情状酌量するべき余地があった場合を考慮したものなのかも知れないが、事例によっては殺人事件でなくとも20年もの量刑が下されることがあることを思うといかにも軽く思われる。実際に殺人を犯して無期懲役になり、仮釈放になって再度殺人を犯した者もいる。そのような事件を審理した地裁での審理の判決で、裁判官が「死刑を科すことになおためらいを感じる」と述べて無期懲役の判決を下した記事を読んで、その甘ったるさにひどく不快になったことがある。

 私は百歩譲っても死刑を廃止するなら、仮釈放なしの終身刑を設けるべきだと考えているから、今回の議員連盟の提案には賛成する。提案ではなお死刑は存続するようで、それは死刑制度についての賛否両論が拮抗しているような現在の状況では、過渡的処置ということなのだろう。凶悪な犯罪がとみに増えている昨今では、すぐに死刑廃止と言うことには賛成できない。死刑は凶悪犯罪の抑止にはらないとも言われるが、人のかけがえのない命を奪った者には、自分の命で償わせることも必要だろう。無期懲役になって「助かった」などと思わせてはならない。

 まったくの素人考えだが、殺人に対する量刑は、死刑―仮釈放なしの終身刑―例えば20年以降に仮釈放の審査を認める終身刑―無期懲役―有期刑、ということではどうだろうか。

                          

死刑の執行

2008-06-22 10:04:11 | 身辺雑記
 幼女連続殺人事件で死刑が確定していた死刑囚に対して刑が執行された。20年前に起きたこの残虐な事件は世間に大きな衝撃を与えたから、この死刑囚の刑の執行は大きく取り上げられた。

 死刑の執行には、命令書への法務大臣の署名が必要だが、現在の法相は就任以来10ヵ月の間に今回を含めて13人の死刑執行の命令書の署名したことや、今回執行された3人の死刑囚は、刑が確定してから執行まで3年前後の「短さ」であることも話題になった。

 私がとっている新聞の夕刊の短いコラム欄には「永世死刑執行人 鳩山法相。『自信と責任』に胸を張り、2ヵ月間隔でゴーサインを出して新記録達成。またの名、死神」という揶揄するようなコラムもあった。

 死刑の執行命令は刑事訴訟法に刑確定後6カ月以内にしなければならないと規定されているから、現在はその規定はまったく守られていないわけで、確定後3年の執行が早すぎると言うことではない。過去の法相の中には個人の信仰上の理由で就任期間中は1度も命令書に署名しなかった例もあるが、これは考えようによっては職務放棄ということも言われるかも知れない。それに比べて現在の法相が死刑を無神経に量産しているとは言えないと思う。もちろん死刑反対論の立場から批判するのは自由だが、それは死刑という制度があることに対するものであるべきで、法に定められた刑の執行そのものを非難するのは筋違いに思える。上に挙げたコラムなどは、筆者は死刑反対か批判論者なのかも知れないが、全体の調子が重い問題に対しては軽すぎて不愉快である。まして「死神」などという言い方は名誉毀損にもなりかねない暴言だと思う。

 悪い奴らはどんどん死刑にしろ、刑が確定したら即執行しろなどとは言わない。賛成論にせよ反対論にせよ、現行の法体系の中で冷静に論ずるべきだ。大新聞などの記事を見ると、率直に死刑反対を主張すれば理解しやすいのだが、法相の命令が何回で最多だとか、刑の執行までの期間が短いとか、そのような論調で何となく読者を死刑制度批判に導き、判断を委ねるような態度は、それが中立公正な姿勢であると言うのならいただけない。