春の花と言うと見た目の鮮やかな庭木や園芸品種の草花に惹かれるが、道端の野草も小さい花をつけて、春の訪れを告げてくれる。やっと暖かさが本格的になったばかりだし、私の家のあたりはほとんど宅地化しているから、あまり野草は見られないが、それでも目に止まるものはいくつかある。
ホトケノザ(仏の座)
姿を見るとなるほどと思われる名で、葉が仏の蓮華座のようについている。このあたりではどこにでも見られるシソ科の植物である。春の七草の名を並べた歌のようなものに「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ春の七草」と言うのがあるが、この歌にあるホトケノザはタビラコと言う別の植物。
ナズナ(薺)
これは春の七草の1つ。アブラナ科の植物で煮物や和え物にして食用にされたが、今でも七草粥以外で食べている所はあるのだろうか。中国では薺菜(jicai)と言い、「中国美味礼賛」(青土社)で随筆家の車前子は「薺菜はとても美味い。『菜根を咬む』[粗末なものを食べる]という格言があるが、咬むのが薺菜根であれば、わたしの願うところである」と書いている。
雑草中の雑草のような扱いで、ペンペングサとも言って「塀は傾き、屋根にはぺんぺん草が生え」と言うと家が荒れ果てたさまの形容である。「ペンペン」は三味線の音の擬音語で、この草の果実が三味線の撥のような形をしていることから由来する。十分に乾燥した果実についている花柄(花梗)を下に引っ張って剥がし、途中で止めて下向きに垂れるようにして茎全体を振ると、果実が触れ合って小さくシャラシャラと音がする。そんなことを楽しんだ幼い頃が懐かしい。
タネツケバナ(種漬花)
我が家のすぐそばにある水田は、今頃は何も植えずに放置されていて、そこに背丈の低い雑草が生えている。その1つがこのタネツケバナで、ナズナと同じアブラナ科である。この花が咲くと、種籾を水に漬けて 田植えの準備を始めたと言うのが名前の由来だそうだ。水を引く前の田一面にこの花が咲いている写真を見たが、なかなかきれいな光景だ。
カラスノエンドウ(烏の豌豆)
小さなスイートピーのような花をつけるマメ科の植物。近い仲間に白い花をつけるスズメノエンドウと言うのがある。どちらも可愛い命名である。名前のように小さな豌豆のような果実ができる。これを採って両端を切り、中の種を取ってから唇に挟んで笛のように吹く。幼い頃はカラスノエンドウなどと言う名は知らず、「シーピッピ」と呼んでいた。吹いた時の音からの連想だろうか。
こうやって身近な野草についてまとめてみると、改めて昔のことが思い出され、あの頃は身の回りに野草が多くあり、それらを使っていろいろな遊びをしたことが懐かしい。今の子ども達にはあのような自然に親しむ素朴なときがないことが、何かかわいそうにも思われてくる。
ホトケノザ(仏の座)
姿を見るとなるほどと思われる名で、葉が仏の蓮華座のようについている。このあたりではどこにでも見られるシソ科の植物である。春の七草の名を並べた歌のようなものに「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ春の七草」と言うのがあるが、この歌にあるホトケノザはタビラコと言う別の植物。
ナズナ(薺)
これは春の七草の1つ。アブラナ科の植物で煮物や和え物にして食用にされたが、今でも七草粥以外で食べている所はあるのだろうか。中国では薺菜(jicai)と言い、「中国美味礼賛」(青土社)で随筆家の車前子は「薺菜はとても美味い。『菜根を咬む』[粗末なものを食べる]という格言があるが、咬むのが薺菜根であれば、わたしの願うところである」と書いている。
雑草中の雑草のような扱いで、ペンペングサとも言って「塀は傾き、屋根にはぺんぺん草が生え」と言うと家が荒れ果てたさまの形容である。「ペンペン」は三味線の音の擬音語で、この草の果実が三味線の撥のような形をしていることから由来する。十分に乾燥した果実についている花柄(花梗)を下に引っ張って剥がし、途中で止めて下向きに垂れるようにして茎全体を振ると、果実が触れ合って小さくシャラシャラと音がする。そんなことを楽しんだ幼い頃が懐かしい。
タネツケバナ(種漬花)
我が家のすぐそばにある水田は、今頃は何も植えずに放置されていて、そこに背丈の低い雑草が生えている。その1つがこのタネツケバナで、ナズナと同じアブラナ科である。この花が咲くと、種籾を水に漬けて 田植えの準備を始めたと言うのが名前の由来だそうだ。水を引く前の田一面にこの花が咲いている写真を見たが、なかなかきれいな光景だ。
カラスノエンドウ(烏の豌豆)
小さなスイートピーのような花をつけるマメ科の植物。近い仲間に白い花をつけるスズメノエンドウと言うのがある。どちらも可愛い命名である。名前のように小さな豌豆のような果実ができる。これを採って両端を切り、中の種を取ってから唇に挟んで笛のように吹く。幼い頃はカラスノエンドウなどと言う名は知らず、「シーピッピ」と呼んでいた。吹いた時の音からの連想だろうか。
こうやって身近な野草についてまとめてみると、改めて昔のことが思い出され、あの頃は身の回りに野草が多くあり、それらを使っていろいろな遊びをしたことが懐かしい。今の子ども達にはあのような自然に親しむ素朴なときがないことが、何かかわいそうにも思われてくる。