中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

飲酒禁止令

2012-05-31 07:36:44 | 身辺雑記

 福岡市では職員の飲酒による不祥事が続き、市長は全職員に1ヵ月間自宅外での飲酒を禁じることにしたそうです。異例の措置ということで、職員からの問い合わせに対応するために人事課では、職員の疑問に上司らが対応する9項目の想定問答集を作成したとのことです。「仕事や親戚の付き合い、結婚式などはどうか」との問いには「原則としてノンアルコール。自分の結婚式の場合は、所属長に相談してください」と回答を例示し、すでに飲み会を予定している場合は「キャンセルする必要はないが、参加者に趣旨を伝えてソフトドリンクを飲むように」としているそうです。公務外の行動ですから、市では職務命令ではなく市長からの強い「要請」ということにしました。

 福岡市では6年前に当時の市職員が飲酒運転で幼児3人を死亡させた痛ましい事故があり、この事故を契機に各自治体では飲酒運転をした職員への罰則を強化する動きが広がりましたが、中には直ちに懲戒免職にする自治体もあります(裁判では認められなかった例もありますが)。福岡市でも2月に飲酒して車を盗んだ疑いで逮捕され,4月には市立小学校の教頭が酒気帯び運転で検挙され、いずれも懲戒免職になっています。その後も飲酒の上での不祥事が続いたようです。

 市長は職員に対する訓示で「市民はめちゃくちゃ怒っています。めちゃくちゃあきれています」と言ったそうですが、市長が激怒するのは分かります。市民に対しても何らかのけじめをつけなければということもあったでしょう。しかし、この「禁酒令」は本当に必要であったのか、市長の激怒の結果であるならば、以前大阪市の地下鉄で、1人の助役が禁煙令を破ったことに市長が激怒して「懲戒免職だ」「法廷闘争も辞さない」と怒鳴ったこと(その後交通局は懲戒免職を正当化できないとして、停職3カ月となりましたが)を思い出してしまいます。 

 私はアルコール類に弱くほとんど飲みませんが、酒はおいしいものだと思っているので、仕事帰りなどで一杯やりたくなる気持ちや、休日に戸外に出かけてバーベキューなどをした時にビールを飲んで爽快な気分になるということもよく理解できます。ですから、今度の福岡市長の気持ちや、市の措置にはいささか疑問を持ちます。1カ月と期限を切った意味もよく分かりません。「結婚式の三三九度」などは例外としているようですが当たり前のことで、三三九度は古くからの新郎新婦の儀式で、飲酒というようなものではありません。そういう些細なことまで心配するのはどうかと思いますが、自粛と言うと極端に走るというのは、どうも私達の国民性ではないかとも思います。飲酒してもわきまえて楽しく同僚と飲む人には、この「禁酒令」はきつすぎるようです。 

 しかし、度が過ぎて周囲に迷惑を与えるような飲み方は嫌です。いわゆる「酒飲み」にはどうしようもなく自制心がなく、「初めに人が酒を飲み、次には酒が酒を飲み、最後に酒が人を飲む」というような者はどこにもいます。そういう人物はたとえ普段はおとなしくても、いったん酒が入ると止めどもなく 飲み、泥酔して人が変わってしまうのがいて見苦しい限りです。そういう人間が今度の市の措置を自分の問題として謙虚に受け止めて、これを機会に節制するようになればいいのですが、禁酒期間中にもこっそり飲むかも知れませんし、禁酒期間が過ぎるとおおっぴらに飲みだして、かえって度を過ごすということも考えられます。九州のある大学の教授が、「公務員に厳しい『世間の声』を背景に、職員を締め上げに走る点は、大阪市の入れ墨調査にも共通している。気になるのは、リーダーシップを掲げる首長がためらいなくこういう行動に踏み切る風潮だ」と言っていますが、あちこちの自治体で「小橋下」的首長が増えるのでないかと気になります。さらに「市民が職員の飲酒を監視し、通報する。そんな息苦しい事態も懸念せざるを得ない」と言っていますが、こういう「お上」に与する「正義の味方」はどこにもいて、そのような行き過ぎた風潮、戦時中の愛国婦人会的な行動が強まることも危惧します。

 飲酒で不祥事を起こすことは公務員に限りません。数から言えば一般市民のほうが多いでしょう。市民も他人事とは思わずに、これを機会に市民全体として飲酒の在り方を考えるのがよいと思います。 

 


次男とドライブ(2)

2012-05-30 09:37:14 | 身辺雑記

 私の父母は戦後すぐに滋賀県大津の「滋賀里」という所に移り住みました。当時大津の湖西地区には海軍航空隊があって、滋賀里にその官舎があり、そこに大阪豊中の母の実家から転居しました。そのあたりは当時「蟻の内」というちょっと変わった名前で呼ばれていた所でした。比叡山の麓に位置し、この辺りには昔の大津京があった地域で、古い文献では「荒の内」と呼ばれていたようです。庭に芋畑を作ろうとして掘り返すと、古い土器の破片が出てきたりして、いかにも古い土地だと言うことが分かりました。

  両親はここに住み着いてしまい、父は私が就職してしばらくしてここで亡くなり、母はその後その家と土地を売り払って少し離れた住宅に移りましたから、「蟻の内」(「滋賀里」と改称されていましたが)とは縁がなくなりました。しかし私は結婚後も、子ども達が生まれて大きくなってからもたびたび帰省しましたから、私には思い出の多い懐かしい土地でした。比叡山にドライブした帰りに息子は、大津に行くのなら「滋賀里」に行ってみたいと言い出しました。息子にとっても思い出がある所だったらしいのですが、「蟻の内」という地名は記憶にないようでした。

 車を北に向けて走らせると、息子はしきりに昔のことを思い出して楽しそうでしたが、やがて滋賀里に着きました。どの家も改装されたり新築されたりしていましたが、道筋は変わらず私たちの家のあった所に行きました。家があった所には今は2軒の家が建っていて、あの古い我が家も案外広かったのだと思いました。木造平屋建ての粗末な家でしたが、夏の夜などは庭に茣蓙を敷いて家族で涼んだものでした。あの頃は天の川が見事に天空を横切っていました。立ち上がって南東の方角を見ると、月の明るい夜には琵琶湖の湖面が美しく輝いていたものでした。初夏の麦畑にはヒバリが天高く囀り、夏には大きなゲンジボタルが飛び交うなど、家は粗末でも自然環境は今とは比べることができないほど豊かでした。

 私達の家の前にはHさんという家族の家があって、両親はHさんのご夫婦と仲良くしていました。そのHさんのお宅はすっかり改築されていましたが、ありました。お年からしてもHさんご夫婦がまだ在世されているとは思えませんでしたが、挨拶だけはしておこうとインタホーンを押しました。応じて出てきたのは60代の婦人で、H家の長男のT君の奥さんでしたが、私が名乗ると「お母さんさんに似ておられるのですぐに分かりました」と言って、T君を呼び出してくれました。60余年ぶりに出会っても私にもT君の顔はすぐに分かり、互いに短い時間でしたが、楽しく昔話をしました。奥さんはSさんというのですが、私の母のことを話してくれ、その話から母の優しかった人柄が思い出されました。

 思いがけない出会いを最後に、息子が願っていた「滋賀里」訪問を終えましたが、何とも懐かしさがいっぱいで、良い一日になったとしみじみ思いました。

 次男は気さくな性格で、長男とは性格が少し違いますが、同じように私に良くしてくれます。今度のドライブでは、脚の悪い私のために車の乗り降りや延暦寺での階段、坂道などで絶えず手を貸して体を支えてくれましたが、私も遠慮なく「老父」の役割を楽しませてもらいました。いろいろと楽しく会話しましたので退屈することはまったくありませんでした。我が子ながら優しくて思い遣りのある良い気性だと思っています。もう46歳になりますから、管理職(教頭)の試験を受けてみないかと校長に最近勧められましたが断ったそうです。私も管理職では、教育委員会などとの関係で気に染まないこともしなければならないこともありますから、今のように楽しく子ども達と接する「ヒラ」の教師でいる方が息子には幸せなことだろうと思っています。

  今日は楽しい充実した一日となり、息子に感謝しています。

 

 

 

 

 

 

 

 


次男とドライブ

2012-05-29 10:31:07 | 身辺雑記

 今日(28日)は思いがけなく、恵まれた一日になりました。小学校の5年生を担任している次男が「自然学校」という学年行事の代休日でドライブに誘ってくれました。朝9時半ごろ迎えに来てくれましたが、どこに行くのかと尋ねましたら「比叡山に行こうと思うが、どう?」と言いましたので、長らく比叡山に行っていないので行くことにしました。

 比叡山は全山が天台宗の総本山である延暦寺ということになっていて、あちこちに堂宇があります。延暦寺と言えば、国宝の根本中堂が中心ですから、まずそれを目指しました。駐車場からしばらく歩くと、それらしい建物がありました。しかしどうも前に参観した時とは周りの樹が少なく荘厳さにも乏しいので印象が違っていておかしく思ったのですが、取り敢えずは写真を撮りました。帰宅してからネットで調べてみると、やはり違っていました。もう少し歩けば行きついていたようです。せっかく比叡山まで行き、根本中堂を見ずに帰ってしまったのは間が抜けたことです。写真の建物は受付でもらった案内図を見ると大講堂のようなのですが、これもネットで調べると違っているようで、結局何なのか分かりませんでした。

 

  根本中堂(ネットより)

 

 私の脚が悪いので息子は何かと気を遣ってくれましたが、少し見ただけであまり歩きまわることはできませんでした。

 鐘楼

 

 戒壇院

 

   法華総持院阿弥陀堂

 

 法華総持院東塔 

  

 「国宝殿」にも寄りました。たくさんの重要文化財の仏像が展示され、どれも良いものでしたが、私はその中の比較的小さい造りの月光菩薩像にとても惹かれました。まるで10代の娘のような愛くるしいお顔で見入ってしまいました。これを造った仏師は、身近な愛らしい少女の顔を思いながら彫ったのではないかと想像しました。残念ながら撮影禁止でしたし、パンフレットにも載せらていませんでした。機会があればもう一度是非見たいと思います。 

 帰りは奥比叡という所を行きましたが、往きと違って山深い所で緑の樹々が美しく、ところどころに名は分からない美しい紅い小さな花をたくさんつけた樹も混じり、ゆったりとした気分になりました。平地に近くなると棚田場見られ「仰木(扇)の棚田」という表示がありました。

 平地に下りてしばらく行き道端のタイ料理の店に入り、そこで息子が勧めてくれたトムヤンクンと言うスープ料理とタイカレーをと注文しました。タイ料理は初めてでしたし、トムヤンクンはちょっとクセのある香りと味がして、敬遠する人もあるようですが、私にはなかなか美味しく思われました。好き嫌いのない者はトクですね。

 

 

 


ジャガイモの花

2012-05-28 07:47:27 | 身辺雑記

 朝散歩する道の途中に近所の農家の畑があります。この畑の一角にジャガイモが作ってあり、いくつかの株が花をつけていました。なかなか可愛いきれいな花です。

 

 

  

 誰でも知っている通り、ジャガイモは地下茎の部分が芋(塊茎)になり、翌年はそれを種芋として新しいジャガイモを作りますから、花が咲いて実がなり、それにできた種子を播いて増やすわけではありません。ジャガイモが出現して間もない原始の時代には種子で増やしていたのでしょうが、いつの頃か地下茎で増やす能率的な方法を獲得したのでしょう。実際、種類によってはトマトのようなピンポン玉くらいの大きさの実がなることがあって、この実にできた種子を播くと新しいジャガイモができるそうです。この実には毒があるようです。

  

                                              インタネットより

 ジャガイモはトマトと同じ南米原産のナス科に属す植物で、花の形が似ています。ジャガイモの実がトマトに似ているのは同属として当然でしょう。どちらも大航海時代にヨーロッパに持ち込まれ、たちまち世界中に広がりました。特にジャガイモは主食食品として重要なものです。ナスはインド東部が原産らしいのですが、この花もジャガイモの花とよく似ています。

 ジャガイモ

 

 トマト(インタネットより)

 

 ナス(インタネットより)

   

 西安の李真は家族で農園を借りて野菜を作っていますが、今年はジャガイモも植えてようで、やはり花が咲き、初めて見たと言って写真を送ってきました。私の近所の畑のジャガイモの花とは違っていますから、違う品種でしょう。

 

 李真は農園で野菜作りをすることで、農家の苦労も分かってきたし、収穫の歓びも経験するようで良いことだと思います。このことは前(2011年6月13日)にも書きました。

 畑を耕す李真と息子の宸宸(チェンチェン)。息子のためにも良いことです。黄土が混じっているせいか、土がずいぶん赤茶けて見えます。

 

 

 

 

 

 


孫娘とデート

2012-05-27 11:06:56 | 身辺雑記

 一番上の孫(長男の娘)が電話をかけてきました。土曜日に大阪に行くから会ってお昼ご飯を食べない?というもので、即承知しました。この子は22歳になり、今年の春に公立幼稚園に就職しました。まだまだ新米とは言え、それが会いたいと言うのですから嬉しかったですね。小さい時から「オジイ、オジイ」と言って懐いてくれた子ですが、それがもう社会人になった、感無量のものがあります。

 当日は待ち合わせ場所のJR大阪駅で会い、すぐにレストラン街に昼食に出かけました。ちょうど昼時だったのでどの店も満員でした。何が食べたいと尋ねると中華が良いと言い、ある店に決めましたが、辺りは人が多く初めて行った場所なので私にはどうすればよいか分からなかったのですが、彼女は近くにあった案内板で調べてから、「様子を見てくるからオジイはここにいてね」と言って近くの空いていた椅子に私を座らせ、その店を探しに行きました。しばらくして戻ってきて、2,30分くらいの待ちらしいと言うのでよかろうとその店に連れていってもらいました。行ってみると店の前に並んでいる椅子の一つにパンフレットが置いてあり、私のために順番が確保されていました。学生時代はどちらかと言うとそれほど機敏な子ではなかったのですが、今度改めてその様子を見るときびきびしていてソツがなく感心すると同時に、ああ、大きくなったのだなと思いましたが、いかにも都会が不案内な老人が、都会慣れした若い娘に世話されているようでおかしくもありました。 

 メニューは同じものを頼んで、幼稚園のことなどを話しながら楽しく過ごしました。いつもなら食事の後で喫茶店に行きゆっくり話をするのですが、その日は夕方から劇団四季のミュージカルを大学時代の友人と観に行く予定があり、その友人とショッピングのための待ち合せをしているとかで、すぐに別れたのは少し心残りでした。別れてからしばらくその後ろ姿を 見送りましたが、あのコロコロした小さな子が、もうあんな娘になったのか、いくつになっても年寄りだと敬遠したり嫌ったりないで親しんでくれる、改めて孫と言うものはいつまでたっても可愛い存在だと思いました。 

 人混み疲れをしてすぐに帰り、最近知った喫茶店でしばらく雑談をして家に戻り、ちょっと昼寝をしてから温泉に行き疲れをとりました。帰りはすぐそばの川にかかっている途中にあるベンチで休んで涼み、家に帰って少し遅い夕食をとって寝ましたが、良い一日でした。

 

(朝の散歩から)

 名前のわからない花が多くあります。

 

 

 

  

 

 


美唄の物産

2012-05-26 07:55:38 | 身辺雑記

 北海道中央部にある美唄市に住むブログ友のSさんが、私のブログに「25日から27日まで大阪吹田市の北千里駅前で我がマチ美唄の『美味しいフェアー』が開かれます。もしご都合が出来ればぜひ訪れてみて頂きたい」というコメントを入れてくれました。ちょうど25日だけが空いていましたので、お誘いを受けることにしました。 

 美唄市がなぜ大阪吹田の北千里で物産を販売するのか、その関係は分からなかったのですが、北千里には行ったことがないし、電車を乗り継いで1時間半ほどのところですので出かけました。北千里に近いところに関西大学のキャンパスがあって「関大前」と言う駅でたくさんの学生がぞろぞろと降りて行きましたが、はてな、これは学生かなと思うファッショナブルな服装をした美形の女性もいて目を楽しませてくれました。 

 美唄の物産フェアは予想していたよりも小規模でしたが、駅の出入り口ですから乗客らしい人たちが集まって買っていました。やはり北海道美唄と言うと珍しさもあるのでしょう。

 

 私はこれまでSさんのブログでもよく出されていた美唄名物の焼き鳥のパックと朝採りの大きなアスパラガス、それにすぐ食べられるようになっている焼きそばと塩そばのパックを買いました。こちらにはない小型のジャガイモも興味があったのですが、嵩張るのでやめました。

  

 美唄はかつては大炭鉱地だったようですが、今はすべての炭鉱が閉鎖しています。案内のパンフレットや,Sさんのブログを見るとなかなかきれいなところのようです。物産を買っただけですが、これまでSさんのブログを通じただけで知っていて、行ったこともない美唄に親しみがわきました。

 

 

(朝の散歩から)

キリ(桐)

 

シラン(紫蘭)

  

ラン

 

 シクラメン

 

 

 

 

 


クレマチス

2012-05-24 10:52:14 | 身辺雑記

 もう時期は終わりましたが、一時期あちこちで見られたクレマチスは好きな花です。他の花と同じように作出された園芸品種が多く、生花店に行けばいろいろな変わりものが見られますが、朝の散歩だけでもかなりあって目を楽しませてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 クレマチスはつる性の植物なので壁や垣に這わせたりするようですが、この辺りでは見かけません。朝顔と同じように行燈仕立てにしていことが多いようです。

   

 普通クレマチス全体をテッセンと呼ぶことがあるようですが、正式にはクレマチスと呼びます。テッセンと言うのは中国原産のClematis florida sieboldii という種類だけを指すそうで、クレマチスの原種です。クレマチスの近縁種に日本産のカザグルマがあります。このカザグルマがヨーロッパに伝えられて、さまざまな交配が重ねられて作出されたものだそうです。

  テッセン(ネットより)

 

                                        カザグルマ(ネットより)

 

 

 


ハル

2012-05-24 06:41:27 | 身辺雑記

 街に出るときに住宅地にちょっと急な坂があります。その坂の一番上にEさんというまだ若い夫婦の家があって、幼い女の子が3人(一番下はまだ乳飲み子ですが)と、大きな犬が1頭います。この家は通りすがりで、夫婦とも挨拶を交わす間柄ではありませんが、前に一番上の子に犬の名前を尋ねたことがあります。「ハル」という名でした。ハルは外国風の名なのか、日本風の「はる」か「春」なのかは分かりません。雄か雌かも分かりません。

 

 ハルはゴールデン・レトリーバーという犬種で、この犬種は英国産。賢さと忠誠心を兼ね備え、穏和な性格で、ペットとして愛好されています。通りかかっても姿を見せない日もありますが、天気の良い日は玄関前のコンクリート敷きの床に寝そべっています。体調は1メートル30センチ以上あります。いつも気持ちよさそうに目をつむっていて、「ハル。ハルや」と声をかけても、ちょっと目をあけて、上目づかいでこちらをちらっと見るだけで、また眼をつむってしまいます。尻尾も動かしません。愛想がないなと思っても何となく可愛くてしばらく見ています。不愛想とか怠惰とかいう感じではなく、この犬種はこういう性格なのでしょう。あまり吠えたりはしないようで、今まで1回しか聞いたことがありませんが、体型並みに大きな声でした。

 

  

 先日通りかかった時、声をかけても例によって無関心だったのですが、そこへEさんの二番目の女の子がやってきました。そのとたんにハルは尻尾を振りながら立ち上がって女の子に体を寄せました。女の子よりもだいぶ大きいのですが、その様子はいかにも優しく、飼い主や家族にはこのように愛情を示すのだなと、改めて思いました。

 

  

 ゴールデン・リトリ-バーは元来、水鳥猟でハンターが撃ち落とした獲物を陸地に持ち返る役割を担う犬だそうです。合図に忠実に従い、俊敏に行動し、湖に生茂る水草の中を遠くまで泳いで鳥を持ち返る猟犬だそうですが、いつも見ているハルの様子からは俊敏性など想像もできません。

  インタネットで見ると子どもの時にはとても可愛いし、成長すると穏やかで気品があって、なるほどペットとしては最高でしょうが、これだけ体が大きいとずいぶん食べるだろうと、貧乏性の私はつい考えてしまうのが情けないですね。

 

 

 (朝の散歩から)

 今はいろいろな花を楽しめる好い季節です。ツツジのようにもう盛りを過ぎたものもあれば、バラのように今を盛りを過ぎたものありますし、これからが出番だと蕾を膨らましながら準備しているアジサイのようなものがあります。「好い季節だが、長くないな」「そう、もうすぐ梅雨になる」戸外でこんな会話を聞きましたが、その時こそアジサイは咲き誇るでしょう。

 

 

 


十字文明語

2012-05-23 08:12:59 | 中国のこと

 前に紹介したYさんの輸入食品の店で、外国語の講座を計画し、その第1に中国語をすることになりました。第1回目はワンコイン講座ということで、試みの参加者を募集したのですが、どうも中国語というのは人気がないようで、応募者は私だけでした。先生は董麗華(ドン・リイフア)という30代前半の女性でした。麗華、美しい光、いい名前ですね。私は前に少しだけ中国語を習ったことがありますから、型にはまった形式ではなく、何でも自由に話し合っていこうということになりました。

 その中で,中国語は入るのが難しいがそれを通り抜けたら後はやさしい、日本語は最初はやさしいが後でだんだん難しくなるという話になり、董先生は、日本語の敬語の丁寧語とか謙譲語、尊敬語が難しいと言われました。でも中国にも丁寧な言い方はあるのですよと言って、白板に次のような文字を書かれました。 

1.請チン(どうぞ)  例:請吃チンチイ(お食べください)、請看チンカン(ご覧ください)

2.您好ニンハオ(こんにちは。你好ニイハオの丁寧語)

3.謝々シエシェ(ありがとう)

4.対不起トイプチ(すみません)

5.再見ツアイチェン(さよなら) 

 これを「十字文明語」と言うのだそうです。「文明」とは大袈裟に聞こえますが、中国語の「文明」には日本でも使うような意味の他に、「上品な」とか「丁寧な」という意味があります。

 私はどのことばも知ってはいましたが、「請チン」や「您好ニンハオ」、「対不起トイプチ」などはともかく、「謝々シエシェ」や「再見ツアイチェン」が丁寧なことばというのはちょっと分かりませんでした。中国人には言わない者が少なくないのだろうかと思って、西安の李真にMSNで尋ねてみました。

 李真によると正確には「文明礼貌十字用語」と言うようで、礼貌(リイマオ)とは礼儀のことです。社会生活の上でこれだけは知っておかなければならないと言うことで、李真は「これは基本的な言葉ですよ。誰でも言いますよ」と言いましたから、親は子供をしつけるときに使うのかも知れません。、

 日本の子どもや若い人は最近挨拶ができないとよく聞きます。「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」「すみません」など、社会生活上当たり前のことが言えません。それなのに「キレる」と悪口雑言を言う、どこかの市長のようにアホ、バカ、クソと言うような汚い言葉を平気で言います。結局親のしつけがいい加減だったので幼児形のまま大きくなったのでしょう。 

 日本語の丁寧語や尊敬語、謙譲語は難しく、ことばの専門家が聞けば私の使い方も注意されることがあるでしょう。しかし 今の若い人には、そもそも丁寧とか謙譲とか目上の者への尊敬などということに無縁の精神状態の人があるのではないかと思うことが、私のブログへのコメントを見てもあります。やはり小さなときから親や教師が教えていかなければならないことは私にも経験があります。何か子どもにやったり、してやったりして黙っていたら「ありがとうは?」と言って子どもに言わせる、朝子どもが目を覚ましたら、「おはよう」と声をかけて応答させる。それは当たり前のことだろうと思います。 

 私が若い頃朝早く、出入りしていた理髪店に行ったとき、そこの店の3,4歳の男の子が眠そうな顔で出てきたので、「おはよう」と声をかけましたが、ぼんやりと私を見て黙っいます。もう一度「おはよう」と言うと私の頭を刈ろうとしていた二十代の若い主人が「そんな上品なことばを言えますかいな」と笑いました。後でこの話を教室で生徒達にして、「おはようが上品なことばだとは知らなかった」と言うと皆大笑いしましたから、あの頃の生徒達は、まあまあまともだったのでしょう。 そのうち日本にも「文明礼貌十字用語」のようなものが必要になってくるのかも知れません。

 董先生の講座は、希望者が増えれば秋にでもするということで、今回の「文明礼貌十字用語」のような中国の話がいろいろできればいいのですが、多分もう私には機会がないように思います。

(朝の散歩から)

 バラ(5)

  まだ撮ったのはありますが、バラはこれくらいにしておきます。美人もあまり多いと食傷しますからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 


金環日食

2012-05-22 08:18:13 | 身辺雑記

  日本国内では1987年に沖縄で観測されて以来25年ぶりということで、金環日食の話題は当日の21日が近付くにつれて高まってきました。私はそれほど強く興味をそそられたわけではありませんが、それでもせっかくの機会だから見ておこうということで、前日に書店で見た観測眼鏡が付録になっている本を買いに行きました。ところが2、3日前にはたくさん積んであったその本は全部売り切れていて、やはり関心を持つ人は多いのだなと今更のように思いました。

 昨日の朝、天気予報では曇りだったのでどうかと思って外に出てみますと、近所の人たちが集まって、賑やかに空を仰いでいました。空はほとんど晴れて雲がわずかにある程度でしたが、肉眼で見てはいけないので、やはり早めに眼鏡を買っておけばよかったと思っていると、近所のSさんのご主人が黒いシートを広げて観ていました。熱帯魚の水槽の背面に張っていてビニール製のものだと言うことで、集まった人たちは順番に覗かせてもらいました。私も観せてもらいましたが、赤い色をした太陽が小さく見え、金環も識別できました。午後に西安の李真がチャットで「感動しましたか」と聞きましたが、感動というほどのものではありませんでした。多分だめだろうと思いながらもカメラを近づけて撮りました。  

 こうして「世紀の天体ショー」は終わりましたが、後で撮った写真を見ると、小さく赤い三日月のようなものが写っているだけで笑ってしまいました。とてもここで披露するような代物ではありませんから、代わりに自然観察をしている弟が撮ったものを紹介します。いつもながらきれいに撮っていて、動植物だけでなく天体も上手に撮るものだと感心しました。

 

  

 西安の李真はインタネットで見たという写真を送ってくれました。いろいろと凝る人もいるものです。

  

 東京にいる上海人の施路敏(敏敏ミンミン)はまったく興味がなく寝ていたそうで笑っていました。飛行機での観測会に参加する熱狂者もあれば、敏敏のような者もいる、当たり前ですが人さまざまです。

  金環日食が次に国内で観測されるのは2030年の北海道、ここ関西では2041年だそうです。その時にはまたマニアたちが押し寄せるのでしょうが、もう私はいないでしょう。今回のように広範囲で次に見られるのは300年後だそうで、その時には日本や世界はどうなっているのだろうかと、未来が見えるものなら、その方に興味があります。