中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

パソコンの入院

2006-10-30 11:41:26 | 身辺雑記
 急にパソコンの状態が悪くなった。ブルースクリーンと言うのか、青地に白い文字の英文が出てきて、それ以上進まなくなる。かと思えば急に画面が固まってしまう。だましだまし使ってみたが、とうとう手に負えなくなって、いつも講座を受講したり、トラブルの時に相談したりしていた近くのパソコン教室「パソナコンじゅく」に持ち込んだ。しばらく診てもらったが、結局内部が壊れているのだろうという結論になる。それでこのパソコンを購入した大阪の量販店に持ち込んだが、修理には3週間くらいかかると言うことだった。3週間かといささかげっそりしたが仕方がない、預けて帰った。

 パソコンが手元になくなるとメールやブログの書き込み、毎日のようにやっていた中国の友人たちとのチャットなどが出来なくなり、妙に手持ち無沙汰で寂しい感じになったし、メールが出来ないのは不便でもある。しかし、他方では何かしら解放感のような気分も味わっている。年末も迫ってきていることだし、だいぶ乱れている部屋の片付けでもやろうかという気持ちにもなっている。ブログ・ホリックと言うのかブログ・シンドロームというのかよくは知らないが、毎日ブログを続けないといけないような精神状態にならないためにも、ちょっとした休息期間だと思うことにした。

 それでも、少しはパソコンを触った方がいいと思い、今日は「パソナコンじゅく」に来ている。故障する前に作ってあったブログの原稿も出すことにした。

江南の旅 -紹興③-

2006-10-30 11:31:54 | 中国のこと
 紹興と言えば、中国酒に興味のある者ならば、すぐに紹興酒を思い出すだろう。中国一の名酒と言われている。アルコール類には弱い私も、たくさんは飲めないが紹興酒は好きだ。

  中国の酒にも醸造酒と蒸留酒がある。醸造酒は黄酒(huangjiu)と言い、米や黍から造り古いものが喜ばれるので老酒(laojiu)とも呼ばれる。蒸留酒は白酒(baijiu)と言って米や高粱などから造る。紹興酒は黄酒で、アルコール度数は20度以下で日本酒並み、白酒は同じ字を使う日本の「しろざけ」とは似ても似つかぬ強烈な酒で40度以上ある。貴州の茅台酒(maotaijiu)が知られている。私などはほんの少し舌に乗せただけで顔が火照ってしまった。中国人は白酒を好んでよく飲むようだが、近頃ではアルコールの害も言われるようになって、都会ではワインなどの度数の弱いものが好まれるようになっているとも聞くから、紹興酒などの黄酒の需要も増えているのだろうか。かつて紹興酒は江南地方では庶民の常用酒だったが、その他の地方では大都市でも貴重品扱いだったと言う

  郊外にある紹興酒製造工場を訪れたが、仕込みの様子は時期が12月からと言うことで残念ながら見られなかった。

  紹興酒は糯米と麦麹と紹興を流れる鑒湖の水を原材料にして醸造される。この鑒湖の水は有機成分が少なく硬度が低く酒造りに適していると言う。ちょうど西宮の酒造りに使われる宮水のようなもので、良い酒造りには良い水が決め手になるということでは同じである。醸造後、濾過し殺菌した酒は甕に入れ、粘土で蓋をして貯蔵し熟成させる。年月がたつにつれて甕の中の酒は次第に量が少なくなり芳醇になっていく。50年たつと半分くらいになると言う。



  紹興酒にはいろいろな種類があって、そのひとつに加飯酒(jiafanjiu)がある。これは糯米や麦麹の量を増やして造ったもので、その中に花雕酒(huadiaojiu)と呼ばれる熟成期間が長いもの(陳年酒)がある。紹興地方の古い風習として、女の子の誕生を祝って贈られた糯米で黄酒を作り(女児酒)、これを甕に入れて密封し土中に埋めた。娘が嫁ぐ時に掘り出し、甕に彫刻彩色して持たせた言う。この工場では職人が花雕酒の容器に彩色していた。この容器は2重になっていて、中の容器に酒が入っている。




                    

江南の旅 -紹興②-

2006-10-25 00:10:51 | 中国のこと
 紹興と言うと、運河のそばの黒屋根白壁の民家群を想像していたが、期待は裏切られて、中心部はかなり大きな都市だった。中心部は45万人、周辺部を合わせると450万人と言うから日本の中都市とは桁が違う。魯迅記念館で1985年頃の古い街の航空写真が展示されていたが、今ではもう取り壊されてしまって一部にしか残っていないそうだ。時間がなかったのでそこには行けなかった。古い町が変貌していくのは近代化の流れの中では仕方がないことなのだろうが残念な気もするのは、部外者の勝手な思いなのかも知れない。



 市街地から程遠くないところに、東湖と言う小さな湖がある。湖と言うよりは池と言ったほうがいい。このあたりは古くは岩からできた山だったが、漢代から石切り場として利用され、清代にはその跡にできた窪みにそばを流れるの運河から水を引いて池にした。

東湖のそばを流れる運河。右手が東湖のある区域。


 今では人工湖とは思われないような自然な趣で、公園のようになっている。運河に架かっている石造りの太鼓橋を渡って園内に入ると蓮が生い茂った池があり、ここに黒い苫(とま)で覆われた小船が並んでいる。



 これは烏篷船(wupengchuan うほうせん)と言う紹興特有の足漕ぎ舟で、篷は苫の意味。苫の色が烏のように黒いから烏篷と言う。ここのものは観光客用だが、元来は紹興人のマイカーのようなもので、これに乗って運河を自在に動き回り、買い物など日常のことに使う。



 烏篷船には乗客が3人乗る。漕ぎ手は最後尾に座り、足で艪を漕いで動力にし、手 で櫂を動かして船をあやつる。



 船は静かな湖面をゆっくり進む。とてものんびりする。進行方向に向かって左手には土塀があり、右手は切り立った崖になっている。





 崖には石を切り出した跡がはっきり見え、この崖が人工物と言うことが分かる。



 崖には洞窟が3つあり、その1つに20世紀の中国の文学者であり政治家であった郭沫若(Guo Moruo)の書が刻んであった。



 こじんまりした美しい風景は、中国の庭園のように見える。





 
東湖の衛星写真 (Google Earth)

江南の旅 -紹興①-

2006-10-24 16:35:48 | 中国のこと
 紹興(Shaoxing)は杭州の東南約50キロのところにあり、車で小一時間で行ける。杭州から紹興までは田園地帯が続いている。紹興は紹興酒の産地として有名で、同じく古くから造り酒屋の多い西宮市とは酒が縁で姉妹都市になっている。

 紹興は中国春秋戦国時代(前770~前403)には越の都で会稽と言った。越王勾践と、対立した呉王夫差との戦いは、「臥薪嘗胆」や「会稽の恥をすすぐ」などの言葉で有名である。

 紹興はまた、中国近代文学の巨匠である魯迅(Lu Xun)の生まれ故郷としても知られ、今なお紹興市民は言うまでもなく、中国人の尊敬を集めている。私たちは過去の文豪を「夏目漱石は」とか「森鴎外が」とか呼び捨てにしているが、紹興のガイドも、西安や上海の友人達は「魯迅先生」と呼ぶ。

魯迅故居


魯迅記念館


 魯迅の作品の中の「故郷」や「村芝居」は好きで何度も読んだが、「孔乙己(Kongyiji)コンイ―ツー」も好きだ。この作品の主人公は最下級の段階の国家試験にも合格できず落ちぶれてしまい、最後にはいつ死んだのかも定かでない、孔乙己と綽名されている哀れな男である。作品の舞台は咸亨(Xianheng)と言う酒屋で、昔の日本の酒屋のように酒を売るかたわらで副業に酒を飲ませていたと言う。この酒屋に孔乙己は酒を飲みにしばしば訪れ、そのたびに常連客や子ども達のからかいの対象にされている。もちろんこの酒屋では紹興酒が出されている。魯迅はこの酒屋のある所を魯鎮(Luzhen)としているが、これは紹興を指している。

 現在も紹興市内には咸亨酒店と言う酒屋があり、魯迅先生のお蔭で有名になって観光客などで賑わい、新館まで建てていて、そこで昼食をとった。作品から想像されるのは村の小さな居酒屋という感じだが、今見る咸亨酒店は大きなものである。この店は魯迅が住んでいた当時からあったものかどうかは分からないし、後から魯迅の作品から拝借して咸亨酒店という名をつけて有名のなったのかも分からない。



 旧いほうの店の前に孔乙己の銅像がある。作品の中で描かれているように痩せて背が高く長衣を着て、小皿に盛られた豆を摘まんでいる。

     
 
 この豆は茴香豆(huixiangdou ういきょうまめ)と言い、蚕豆を茴香の香りと塩味をつけて半乾きにしたもので、魯迅の作品に次のような描写がある。
 
  「子どもたちが孔乙己を取り囲むと、かれは子どもたちに茴香豆をくれてやる。ひとり一粒である。子どもたちは、豆を食べてしまっても立ち去らずに、目をじっと皿のほうに向けている。孔乙己はあわてる・・・」(竹内 好訳)




 茴香豆は今でも売っていて、紹興酒のつまみには最適だと言う。西安の謝俊麗は「まずいよ」と言っていたが、私にはなかなかおいしく思われた。別の店で売っていたので買って帰ったが、食べてみると肝心の茴香の香りがせず、やはり咸亨酒店で買えばよかったと悔やんだ。



 


江南の旅 -径山寺-

2006-10-23 13:46:25 | 中国のこと
 杭州の東北に隣接している余杭(Yuhang)はかつては市であったが、現在は杭州市に属していて余杭区になっている。この余杭の山中、杭州から車で2時間足らずの所に、万寿禅寺、古名を径山寺(Jingshansi)言う唐代に建立された禅宗の古刹がある。京都の五山の1つである東福寺と縁が深く、毎年東福寺から10人くらいが参詣に訪れるそうである。それほど大きな寺ではないが、落ち着いたたたずまいで静かな雰囲気だった。日本から訪れたある僧は徒歩で帰る時、先人が歩いた道を辿っているのだと言って涙を流したと言う。

山門。中国の寺は山門や土塀を黄色く塗っている。




大雄宝殿(本殿)


山門に対面する九龍壁


 この寺がある付近は古くからの茶の産地で、径山茶、別名を径山香茗と言う。産出量は多くないようで、杭州でもあまり売られていないと言う。径山寺では南宋の時代に茶会が盛んに行われ、その形式が日本に伝えられたと言う。いわば日本の茶道の発祥の地と言うわけだ。

 径山寺からの帰途に茶の生産農家があったので、そこで径山茶を試飲してから買った。茶葉は大きく日本の茶とは形状が違うが爽やかな味である。中国茶と言うと烏龍茶と思う人はまだかなりいるようで、中国の観光地のみやげ物店などでも、日本人と見ると烏龍茶を勧めることが多い。実際には中国人が飲むのは圧倒的に緑茶が多く、400以上の銘柄があると言われている。浙江省は特に有名な茶が多い。杭州の龍井茶(Longjingcha)は中国十大銘茶の筆頭に挙げられている。この径山茶も浙江十大名茶と称している。
 



祭礼

2006-10-22 22:52:59 | 身辺雑記
 今日はこの川面地区の川面神社と皇太神社の祭礼で、朝から太鼓の音がして、祭の気分。この地区に3基あるだんじり(山車)が終日街を回る。夜9時過ぎ、私の家の近くに太鼓の音が近づいたので出てみた。電灯で美しく飾っただんじりを引いたり押したりする人たちとそれについてぞろぞろ歩く人達で狭い道路はいっぱいになっている。太鼓の音や掛け声で浮き立った雰囲気だ。家々には神灯が飾られ、家人が門先にたたずんで眺めている。いつからの風習かは知らないが、かなり昔から伝えられてきたものだろう。このような伝統行事を守っていくことは、近代化、都市化が進んだ現在ではなかなか難しいこともあるのだろうが、このだんじり引きは若い人達が受け継いでいっているようだ。
















江南の旅 -杭州-

2006-10-21 11:02:29 | 中国のこと
 中国の地図を見ると雄鶏のような形をしている。胸の辺りには上海があり、その南にあるのが浙江(Zhejiang せっこう)省、北に江蘇(Jiangsuこうそ)省、東に安徽(Anhuiあんき)省がある。

  

 この江蘇、安徽の南部と浙江北部は、中国最大の大河である長江(通称揚子江)の下流にあって江南と呼ばれ、古くから自然の恵み豊かで文化の発達した地方である。今回は上海を起点にして、浙江省の省都である杭州(Hangzhou)と紹興(Shaoxing)を訪れた。

 杭州には上海から高速道路で約2時間で行ける。途中は豊かな農地が広がり運河もよく見られる。流れがあるかないかのような水面を大小の船が往来しているのは、いかにも中国的な風景である。



 杭州に近づくに連れて、およそ農家とは思われないような立派な住居が次々に姿を見せる。杭州は絹織物の産地として有名で、このあたりの農家は養蚕業を営んでいるので非常に豊かだと言う。



 杭州は10~13世紀に南宋の首都臨安として外国貿易で繁栄し、多くの文人達がこの地で活躍した。風光明媚な西湖に面し、蘇州とともに「天に極楽あり、地上に蘇杭あり」とその繁栄ぶりが謳われた。13世紀にこの地を訪れたマルコ・ポーロは、有名な「東方見聞録」で「世界第一の豪華・富裕な都市」と賞賛している。今でも落ち着いた、豊かさを感じさせる都市である。

 杭州と言えばやはり西湖(Xihu)だろう。面積は6平方キロ弱の小さな湖だが、杭州の西に面し、他の三方は緑豊かな丘陵に囲まれた美しい湖で、湖面には大小の遊覧船が行き交っている。かつての王侯貴族や文人、富裕な商人達がこの湖で優雅な舟遊びを楽しんだということだが、今は庶民の楽しみとなっている。



西湖から見る杭州






 蘇堤(Sudi)。11世紀の北宋の詩人で文章家であった蘇軾(蘇東坡)が杭州の太守として赴任中に、湖を浚渫して作らせた長さ2.8キロの堤。春の明け方の様子が良いとされ、「蘇堤春暁」として「西湖十景」の中に入れられている。
 


 白堤(Baidi)。唐の詩人の白居易(白楽天)が造らせたと言われる堤。途中に錦帯橋と言う橋がある。



 人工衛星から撮った西湖。西にあるのが蘇堤、北にあるのが白堤。(Google Earth)


地蔵堂のノラ達

2006-10-12 18:25:51 | 身辺雑記
 街に降りていく途中に小さな地蔵を祭る祠がある。どこかの企業が寄進した休憩のための建物で雨ざらしにならないようになっている。いつもきれいに掃除され花も取り替えられている。この地区に古くからあるのだろうが由来は知らない。



 ここはまた野良猫の溜まり場でもある。いつごろからそうなったのか、以前犬を飼っていた頃は猫には関心がなかったので覚えていない。猫を飼うようになってから興味を持つようになり、通る時には立ち寄って見るようになった。最近は数匹だが、去年のある時期には十数匹もいて、夏の夕方などに建物の屋根の上にも寝そべっていてなかなか壮観だった。それぞれの休んでいる姿態が面白く、立ち止まって見ていたものだ。






 一口に野良猫と言ってもさまざまな大きさや毛色、顔つきのものがいて、見ていて飽きない。それに猫を飼うようになったせいか、どの猫も可愛いと思うようになった。時には連れて帰ってみたいと思うこともあった。どれももちろん雑種で、およそ由緒、血統のまともなものなどはいないが、ノラはノラの面白さがある。いつの間にか、やっと目が開いて間もないような子猫がミャアミャア啼いてよろよろ歩いていることもある。祠の近くのどこかで生まれたものだろう。何匹も見ることもあり、どれがどれの子か、これとこれはきょうだいだろうなどと考えるのも面白かった。









 我が家の猫に比べるとやはり野良猫は違っている。何と言っても警戒心が強い。近づくとじっとこちらの様子を窺い、ある距離までになるとさっと逃げる。それに概して目つきが悪い、と言うか鋭い。我が家のミーシャももともとはノラの子だったが、生来の気質もあったのか、穏やかで人懐っこく、近所でも可愛がられている。ミーシャと見まがうばかりによく似たのがいたことがあるが、よく見ると目つきが違っていた。やはり環境の影響も大きいのだろう。



 ここの猫達を、かつてある老婦人がよく世話をして、餌を与えることはもちろん、避妊手術も受けさせたと言うことだ。よほどの猫好きなのだろう。他にもそのような人がいるのか、建物の隅には寝るための箱が置いてあり、冬にはタオルなどを敷いたり、ビニールの布で覆ったりしているので、その中に何匹も重なって寒さを避けて丸くなっている様子もまた面白かった。餌もいつも置いてあった。

 しかし猫好きがいれば猫嫌いもいるのは当然で、それに何と言ってもこういう場所だからだろう、ある時ねぐらや餌の容器がすべて取り払われ、「猫による迷惑をなくしましょう」と書いた役所のポスターが貼られた。さすがに猫そのものを駆除するのは気が引けたのか困難だったのか、猫党の「良識」に訴えたのだろう。私は、それまで餌をやったことはなかったがある夕方薄暗くなった時に、たまたま持っていたパンを何気なく千切って与えていたら、離れた所から1人の婦人に「おじいちゃん。おじいちゃん。餌をやったらあかんよ。書いてあるやろ」と叱られたことがあった。しかし、その当座は姿を見せなくなったノラ達はやがてまた戻ってきたし、餌をやる人も復活した。いつの間にかポスターもなくなった。今でも時々若い女性が餌を持ってきて与えているのを見かける。そのいとおしそうな様子を見ていると、猫が好きなのだが家では飼えない事情があるのだろうかと思ったりする。



 このところ再びポスターが貼られた。また「浄化作戦」が始まるのか。私は今では猫好きになっているので、ここで猫達を見るのは心慰められるものがあるが、しかし、やはり公共の場所なのだから、ノラの溜り場としては不適当なのだろうと複雑な気持ちになる。

サービス

2006-10-11 09:07:50 | 中国のこと
 中国語辞典で「サービス」を引くと「服務(fuwu)」とある。しかし、この言葉はあっても、かつての中国ではおよそサービスと言う概念などは存在しないかのように、店などでサービスらしきことはなかったようだ。従業員を服務員(fuwuyuan)と言うが、要するに服務(仕事に従事)さえしていればいいので、客にサービスなどする必要などないということなのだろう。まして笑顔などは期待もできず、仏頂面で対応されるのが当たり前のことだったようだ。特に国営企業はひどく、西安の李真は買い物をしても店員に怒鳴られることさえあったそうだ。中国での官の民に対する態度の横柄さ、尊大さは、中国人にとっても不愉快なことらしいが、国営企業の従業員は公務員だから、そういう態度になるのだろう。旧ソ連でも国営企業での店員の無愛想さ、横柄さはよく話題になっていたが、お客さんなどという考えなどはなく、売ってやるということだったのだろう。

 国営企業でなくても小さい店でも店員の態度の悪いことは、今でもあるようだ。前にも紹介したことがある埼玉大学教授の山口仲美さんの「中国の蝉は何と鳴く?」(日経BP社)には、北京の小さな写真屋の若い女の子の店員のあまりにも態度の悪い応対に呆れた体験がある。読んでいても腹が立つような、日本ではとても考えられないその小娘の態度は、山口さんの中国人の友人も「前にも喧嘩して、感じが悪いからもう行かない」と言ったくらいのものらしい。それでも店が成り立っているのが不思議でもある。それに疑問を持たない中国人がまだまだいると言うことなのだろう。

 数年前に上海の繁華街の淮海路(Huaihailu)の茶店で買い物をした時、店を出たら同行していた卒業生の女性が「お釣りを投げて寄越すのよ」と呆れたように言った。別に悪意があって投げつけたということではないが、ぽいと彼女の前にほうったらしい。店員としてはごく普通の行動だったのだろうが、日本ではおよそ考えられないことだから彼女が驚いたのは無理もない。私も経験したことはある。まるでトランプを配る時のように、ひょいと釣銭を手から離してカウンターに投げやる程度なのだが、やはり日本人にとってはあまり感じの良いものではない。それでなくても、中国の店で「有難うございました」などという言葉を期待するのは、およそ無駄と言うものだ。売り手が客に感謝するなどとは考えられないことなのだろう。

 上海の旅行社に勤めている唐怡荷は、日本に来て会社勤めをした経験もあって、かなりの親日家だが、それだけに同胞の態度、とりわけマナーについては日本の場合と比較して手厳しい。以前あるレストランで食事をしようとしたが、あいにく混んでいたのでしばらく待つことになった。店の入り口の前には日本のレストランにもあるような予約台があり、その前に制服を着た若い女性の従業員が3、4人いて喋っていた。その様子を見て唐怡荷が私に「あれを見て。ああいう態度でしょう。自分達の仕事が何なのか分かっていないのよ」と苦々しげに言った。果たしておしゃべりに夢中になっていたせいか席が空いても私達に知らせず、こちらから催促してやっと店内に入れたので、彼女はますます不愉快そうな顔をした。

 しかし、こんなことばかりではない。西安から洛陽まで列車で行った時、途中で回って来た車内販売係の女性は親しそうな笑顔で愛想が良く、しばらく談笑したし、ホテルの売店の女性達も外国人相手が多いということもあるのか概して愛想は良く丁寧な応対をする。西安のレストランで2階にあるトイレに行こうとしたら、上から男性の店員が下の女性店員に声をかけ、彼女は階段を上る私の腕を取ってくれ、降りる時にはその男性が支えてくれたのには恐縮した。中国でも経済発展に連れてサービスは、だんだん良くなっているのだろうとは思う。経験したことはないが、列車の切符販売や郵便局などではどうなのだろう。銀行では特に愛想が良いことも悪いこともなく、ごく事務的だった。

 最近乗った中国民間航空(民航)の便は、JALとの共同運航便で、珍しく機体はJALのもので客室乗務員は全員日本人だったが、皆笑顔で丁寧な応対だった。日本と中国の間を運航する民航の国際便には、普通は日本人の乗務員は1名くらいしか乗っていないが、中国人の乗務員に比べるとにこやかで物腰が丁寧だ。中国人の乗務員は無愛想と言うことでもないのだが、何となく事務的で暖かさに乏しいことが多いように思う。

 よく言われることだが、日本ではサービスということが徹底しているようだから、これに慣れて当たり前と思ってしまうと、どの国に行ってもサービスは良くないと感じるだろう。


旧暦(陰暦、農暦)

2006-10-10 15:26:00 | 身辺雑記
 私が最後に勤務した学校におられたO先生が亡くなった。私よりも1歳年上だし女性だから、もう少し長生きされてもと思う。国語の教師で古典文学の造詣が深く、礼儀正しい賢い方だった。高校を退職されてからはある私立大学の教壇に立たれていた。私が勤務していた頃、この先生が何かの話の折に、日本の伝統行事は旧暦でするのが季節感に合っていいと思います、例えば七夕などは新暦ですると、まだ空気は澄んでいないので曇りが多くてよくありませんと言われたのが印象に残った。
 
 私が中国に関心を持つようになり、中国では年中行事には旧暦(陰暦)を使うことを知って、なおさらO先生が言われたことが理解できるようになった。中国では旧暦を農暦と言い、農業上必要な知恵の産物だった。中国の黄河流域で生まれ発達したもののようだから、日本の季節とはやや合わない点はあるが、それでも大まかには合っている。西安の李真がよく「立秋を過ぎたので涼しくなりました」と言っていたが、こちらは8月初旬で「立秋とは名ばかりの・・・」と挨拶に使われそうなまだ暑い時期だが、西安あたりではほぼ暦どおりなのだろうと思った。

 日本での春の節句となっている3月3日は「桃の節句」と言われるが、この節句のシンボルの桃は、この時期には自然界ではまだ咲かない。もっとも近頃では温室栽培のものがその頃に合わせて出回ってはいるが自然の姿ではない。旧暦では今年の3月3日は新暦の3月31日で、この頃にはもう春めいている。先日の中秋名月は「15夜の月」と言うが、旧暦(陰暦)は月の満ち欠けで日が決められるから、旧暦8月15日は新暦では8月8日で、「15夜」と言ってもぴんとこない。それにやはり15夜は先日の10月6日(旧暦8月15日)がいい。空は澄み渡り満月はことのほか美しく、涼しさが心地よい。

  ある衣料品販売企業の経営者が書いた本を読んだことがあるが、この人は衣服の仕入れ、販売は旧暦を基準にしていて、これだと無駄がないと言っていた。今年は旧暦では7月の次に閏7月と言うのが来て7月が長かった。こういう現象が販売の参考になるらしい。

 中秋節のことを書いたときにO先生のことを思い出していたのだが、思いもよらず数日にして訃報に接することになった。心からご冥福を祈る。