中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

麗江への旅(12) 納西古楽

2010-03-31 12:22:49 | 中国のこと
 麗江での2日目の夜、納西古学の演奏を聴きに行った。東大街に面して納西古楽会の会館があり、ここで毎晩8時から演奏が行われる。


 納西古楽は、唐代の宮廷音楽を現代に受け継ぐ貴重な音楽で、中国古典音楽の「生きた化石」とも言われているとのことである。

 古楽の演奏にはさまざまな弦楽器や打楽器が使われる。演奏するのはこの夜は25人だったが、高齢者が多く皆それぞれに風格がある。10年ほど前にNHKの番組で紹介されたことがあった。それに惹かれて2001年に聴きに来たから、今回は2度目だった。この古楽会の歴史は長いようで、舞台の上に掲げられているのは物故者の写真である。中には演奏中に急死した会員もあったと言うことだった。


 80歳以上の高齢者が紹介されたが、写真の中で横を向いている老人が最高齢の85歳、中央のサングラスの老人がそれに次ぐ83歳とのことで、他にも80歳以上が5人ほどいた。若い人は少ないようで、50代と思われるのが数人、琴を弾く女性が30代くらいで一番若いようだった。このような古典的な楽器の演奏の後継者は少ないのかも知れない。


 この老人は目が不自由で、舞台には職員と思われる女性の肩につかまりながら入ってきた。なかなか風格のある、毅然とした感じだった。ナシ語の歌も独唱したがゆったりとしたものだった。


 小さな木製の打楽器を叩きながら高い声で歌う女性。

 
 演奏された曲はこれが古代の宮廷のものかと思わせるゆったりとした雅やかなものだ。ただ前の席に男女2組の4人がいて、そのうちの私の前に座っている男が行儀が悪く、絶えずキョロキョロ辺りを見回したり、ガサガサと体を動かしたり、連れの女を引き寄せて話したりするので煩わしかった。この4人は、演奏が終わった途端に立ち上がって出て行ったが、何しに来たのかと思わされた。2001年の時には隣席の男がひまわりの種を食べ続けてうるさかったが、どうも中国人の観光客の中には行儀の悪い者がいる。他山の石としなければならないだろう

 それはともかくとして、麗江に行く人はこの古楽を聴けばいいだろう。好みに合うかどうかは分からないが、麗江という町の雰囲気に合っているようだ。それにしても唐代の音楽がよく今に伝えられたものだと思う。これも麗江ならではのことなのだろう。




麗江への旅(11) 麗江古城散策⑤

2010-03-30 12:15:50 | 中国のこと
木府



 麗江ナシ族の支配者であり中国王朝から土司の官職を世襲していた木(ムウ)氏の政庁と居宅である。清朝時代の戦禍や文化大革命(またしても文革!)で破壊されたが、1996年に麗江地方政府によって大規模な修復工事が行われ現在の姿になった。

 議事庁。ここで政務が執られた。


 木氏の座所のある建物。


 玉座。虎の皮が敷かれているが、自分はこのような虎の皮に座るような野蛮な者だという恭順の意を中国皇帝に表したものだとされている。


 天井の龍の絵。龍は中国皇帝の象徴で、これも皇帝の下にいるという意を示したものか。


 万巻楼。多数の書籍が収められていたと言う。


 これはどのような建物かは聞き漏らしたが、他にもいろいろな建物がある。

 
 盆栽。ナシ族は盆栽の技が巧みだと言う。



 木府眺望。
              

麗江への旅(10) 三八婦人節②

2010-03-29 10:14:33 | 中国のこと
 新城区の紅太陽(ホンタイヤン)広場でも踊っているというので、そちらに向かった。四方街から新華街を通って古城街を出ると、そこは石畳の広場になっている。玉河広場と言う。

 古城の出口。中央が新華街。ここを通って行くと四方街に出る。


 この広場から新大街という大通りに出る。このあたりは古城区とは違って近代的なビル街である。ここにも民族衣装姿が溢れていた。


 紅太陽広場はそれほど広くはないが、やはり大勢集まって踊りの輪を作っていた。




 踊りを見るリス族の女性。民族衣装が美しい。




 踊りの輪の中央で、体を激しく揺らしながら管楽器を吹く男性。見物していたリス族の女性の夫君だそうで、このような民族的な文化活動をしているとのことだった。




 演奏が終わり踊りが止むと、踊っていた婦人たちはいっせいに歓声を上げて男性に近づき、口々に賞賛の声をかけた。男性はまた吹き始め、皆踊りだす。踊るのが楽しくてたまらないという様子であった。

 四方街でもそうだったが、ここでもいろいろな民族が手をつなぎ合って踊りを楽しみ、いかにも多民族が暮らす麗江らしい心地よい風景だった。

 四方街でも紅太陽広場でも動画で踊りの様子を撮ったが、再生してみると音楽も入っているのでなかなか楽しい。ブログに載せられないのが残念だ。


                 

麗江への旅(9) 三八婦人節

2010-03-26 10:43:26 | 中国のこと
麗江での3日目、3月8日は国連が定めた国際婦人デー。日本ではほとんど話題にされることはないが、世界的には知られた記念日で、中国では三八婦人節と言って、女性の権利を守る啓蒙活動が行われる日だ。多くの企業で働く女性はこの日は半日の休日となり、友人達と近くの観光地へ出かけたりショッピングを楽しんだりする。

 この日には麗江でも女性達が広場に集まって踊りをするということなので、まず四方街に出かけることにした。四方街に通じる道路には民族衣装をつけた女性達が列を作って歩き、四方街は人で溢れていた。

イ族 
 

 

ペー(パイ)族
 



これもペー族


 四方街では大きな踊りの輪ができ、民族音楽に合わせて踊っていた。




 日本の盆踊りのように少しずつ移動していくのだが、手をつないで踊る。音楽のリズムやテンポはいろいろある。老婦人達は皆まじめな顔で踊っているが、若い人は笑顔で楽しそうだった。

ナシ族。




イ族。


ペー族。


 観光客も一緒に踊る。


 見物するナシ族。


 

麗江への旅(8) 麗江古城散策④

2010-03-25 10:02:46 | 中国のこと
 麗江は水の豊かな城市である。古城内には豊かに水が流れ、石造りの橋も多い。

 この水は麗江の北にある玉龍雪山に源を発し、古城内で清澄な流れを作っている。水路のそばには柳が植えられ、風情がある。水路の中には魚の姿も見られる。










 川のほとりのレストラン。


 石造りの橋はどれも時代がかっていて趣がある。

 万子(ワンツ)橋。昔、官僚か金持ちの商人が、子どもがたくさん生まれるようにと願って寄進したと言われる。


 大石(ダアシイ))橋。大きな橋という単純な命名。近くには小石橋もある。


 ナシ族は清潔好きで水を大切にすると言う。だから水路は清潔に保たれていたが、最近は外部からに移住者のマナーがあまり良くなくて、水路が汚れると言うこともあるようだ。実際2001年に来た頃に比べると少し水質が悪くなったかなと感じた。

 三眼井(サンヤンチン)。古来のナシ族の生活の知恵を表す水場。泉からでた水路を3つに区切り、一番上流は飲用に、次は野菜洗いに、最後は洗濯に用いている。


 いちばん奥が湧き水で飲用。


 同じようなものは日本にもあり、やはり水の豊かな岐阜の郡上八幡では、水舟と呼ばれる水場がある。そのシンボル的なものが連歌の始祖の飯尾宗祇が愛用した宗祇泉である。今は生活用水としては使われていない。


 また水路をせき止めて水を路上に溢れさせて洗うことも明代から行われているようで、広い四方街もこのようにした毎日夕方にきれいにすると聞いた。ナシ族は水を大切にして生活に有効に利用している。

 古城区から新城区に出たところにある玉河広場に大きな水車が2基ある。これは比較的新しいもので、水の町の麗江に水車がないのは寂しいという声があって作られたとかだが、いささか取って付けたような感じだ。

 
 麗江の豊かな水源となっている玉龍雪山。ナシ族の信仰の対象の聖山。最高峰は未踏峰。2001年撮影。

 
 市内からも見える。



麗江への旅(7) 麗江古城散策③

2010-03-24 11:39:18 | 中国のこと
 古城には道路が迷路のように、網の目のようにつながっている。西安の袁毅は去年夫婦で麗江に行ったが、「私はあそこに行ったら、すぐ迷子になった。道が似ているし、店も似ています」と言った。古城内の四方に道が通じていて、どこも似たようなたたずまいで。確かに迷いやすく、海珠が地図を片手に的確に判断してくれたので迷うことはなかったが、それでも一度来た道でも、右へ行くのか左に行くのかと戸惑うことがあった。

 その道も古城の西北部に来ると比較的広い場所に出る。四方街と言う。






 この広場は名称のとおり古城の四方に道が通じている。東へ通じる道は五一街、西には黄山下段、南には七一街、北には東大街と新華街がある。このうち東大街が最も広く、北に通じているのになぜ東大街と言うのかは分からないが、古城外の新城区に通じる。


 四方街には観光客が多く集う。その観光客を目当てに馬で城内をめぐる商売をする者もいる。麗江はその昔、麗江南方の大理で加工された雲南茶などをチベットなど西方に運び、馬などを持って帰る交易路であった「茶馬古道」の基地だった。その茶馬古道を行き交いした馬に乗ってもらおうというものだ。


 馬曳きはレッサーパンダの毛皮の帽子をかぶり、ヤクの毛皮の上着を着ている。



 東大街と新華街との間に西河という川があり、それに沿って酒吧条街がある。酒吧はバーで、このあたりには昼はレストラン、夜はバーという店が並んでいる。「SAKURA」などという店もあるのは日本人観光客目当てのものだろう。ここだけでなく、とにかく観光化が著しく、少々興醒めするほどだ。








 四方街の西に通ずる細く狭い黄山下段と言う街路があり、すぐに比較的急な坂道になり、獅子山と言う小高い所に行き着く。ここから古城が一望できる。


 麗江古城には中国の各地の古い城市にあるような城壁がない。言い伝えによれば麗江の支配者は木氏であったから、これを城壁で囲むと「困」となるので造らなかったと言うのだが、真偽の程は分らない。まあ、それだけ長い年月の間、外敵と戦うこともない平和な時代が続いたということなのかも知れない。

麗江への旅(6) 麗江古城散策②

2010-03-23 11:24:32 | 中国のこと
 中国は北京時間で統一されているから、中国全土どこでも時差は日本と1時間だが、麗江はかなり西にあるから暮れるのも遅いが夜が明けるのも遅い。だから古城の商店も9時を過ぎてしばらくしないと開かない。その代わり夜は12時くらいまで開いていて観光客も多いらしい。

 朝の野菜売り。


 朝の街頭の軽食の屋台。
 
 銀細工の店。


 茶舗。円板のようなものは雲南産のプーアール茶。


 小物などの雑貨店。


 石を売る店。これは肉の切り身のような石。


 モソ(摩梭)人の店。美しい色彩のショールなどを織って売っている。モソ人はナシ族の一支族とされている。自分たちはモソ族と言っているようだが、中国の55の少数民族の中には入っていない。母系社会として知られている。古城内にはモソ人の店をよく見かける。


 たそがれ時の繁華街。


 夜の街角で。


 夜の商店街。ここは少し中心部を外れている。


 夜のレストラン街。


 あちこちに公衆トイレがあり、なかなか清潔に管理されている。やはり重厚な木造建築。


 男子トイレは2階にあった。何かレストランのような感じである。


 中国農業銀行。これも伝統的な木造建築。





発熱

2010-03-22 11:04:34 | 身辺雑記
 珍しく熱を出した。この1週間ほど咳が激しく、とくに朝方と夜はひどくて、咳き込むと頭がぼんやりして息苦しくなり、気を失うのかと思うくらいで気味が悪い。それで医者に行って薬をもらってきた。帰ってからも体が重いので検温してみたら37.4度あり、おやおやと思って急に病人気分になった。37.4度などはさして高熱ではないが、平熱が36.3度くらいの私にとってはやはりこれは熱があるという状態だ。

 それでベッドにもぐりこみそのまま寝込んでしまい夕方5時頃目が覚めた。すこしはすっきりしたかと思ったが、体温は少し上がって37.8度になっている。食欲はまったくなくまだ眠たいようなのでまたベッドに入ったが、そのまま朝まで眠っていた。それが土曜日から日曜日にかけてのことで、こんなによく眠ったのも珍しい。

 日曜日は卒業生との恒例の昼食会だったのだが、咳もあるし、熱もあるからどうにも体がだるくて出かけられない。世話役のHg君の奥さんに11時ごろ電話して休むことを伝えた。そしてまた眠ってしまい、目が覚めたのは3時ごろだった。体はかなり軽くなったように思ったが、それでもまだ熱がある。そうこうしているうちにHg君の家に集まっている昼食会の参加者から電話があった。「珍しいね」とか「鬼の霍乱やなあ」などと言われた。

 ここ10年ほど熱を出した記憶がない。知らない間に上がっていたこともあったのかも知れないが、体調に変化はないし、気にかけなかった。まだ少し熱は残っているし、のどもごろごろいっている。やはり風邪を引いたのかも知れない。今夜も早く寝ることにしよう。多分明日には平熱に戻るだろうと期待しているが、今更のように年も年だから早めに処置しなければと思った。油断と過信は禁物だ。

 (一夜明けて・・・)昨夜も良く眠り、目が覚めて検温したら36.4度。どうやら戻ったようだが、まだコーヒーの香りがわからない。


麗江への旅(5) 麗江古城散策

2010-03-19 08:51:03 | 中国のこと
 古城内は道路が網の目のように広がり、道路の両側にはナシ族の特徴のある木造建築が並ぶ。


 繁華街に近いところはほとんどすべて商店になっていてあまり特徴のある住居の様子は見られない。商店を経営するのはほとんど移住者で漢族が多く、ナシ族から土地を借りて店を経営している。

 
 ナシ族は経営の才はあまりなく、土地を貸すことで結構安楽に暮らしているようだ。私達が宿泊した客桟は中心部から少し離れた所にあったが、それでも土地の賃貸料は10年で10万元とのことだから、繁華街ではもっと高いのだろう。


 古城内の道はすべて石畳になっている。3日間歩き回りかなり疲れた。








 中心街に近い道路の敷石は非常に美しい。色彩のある小石が混じっていて、石の化石のようだ。長い年月の間にかなり磨り減って表面は光っているし凹凸があって歩きにくい。脚が悪いから足元を気にして歩き、両側の商店をゆっくり見られなかった。





麗江への旅(4) 納西族

2010-03-18 09:35:06 | 中国のこと
 麗江で最も人口が多い納西(ナシ。ナーシーとも表記)族は麗江を中心に集中的に居住しているチベット系の少数民族である。ナシ語を使用しているが、古くから漢族との交渉もあったので大多数が漢語(中国語)も話せる。

 農業を主としていて、水稲、トウモロコシ、ジャガイモ、小麦、豆類、綿花、麻などを栽培している。麗江古城のナシ族は外部からの移住者に自分の土地を賃貸している者が多いようだ。

 ナシ族の女性達。胸で交差した白い帯と星を象った円板をつけたベルトが特徴。










 ナシ族の老人。2001年4月。麗江近郊の東河村で。


 古くから東巴(トンパ)文字という文字を持っている。これは「生きている象形文字」と言われ、世界で現在使われている唯一の象形文字だそうだが、普通のナシ族の人は使うことが出来ず、彼らの民間信仰であるトンパ教の儀式を司るシャーマンであるトンパによってわずかに伝えられているに過ぎない。

 トンパ文字。約400文字があり、1つの文字は使い方によって違う意味となることもあるようだ。




 トンパ経。ナシ族の古代文明の集大成で、過去の各社会段階での社会生活の諸側面がトンパ文字で記述されている。7世紀ごろに興り、千年の歴史を経ているが、例の文化大革命の時に多くは焼き捨てられた。このような貴重な文化遺産が、人為的なことで失われたのは残念なことだ。


 大トンパの和学文師。2001年に訪れた時に会ったが、故人となった。