今、『明治百話』(岩波文庫)という本を読んでいる。明治4年生まれの篠田鉱造という人が報知新聞の記者をしていた明治35年に幕末維新期の実話を採取して、新聞に連載した。その後、明治末年頃から明治の話を集めだし、昭和6年に出版されたのが『明治百話』である。話題を持っている人がいると聞くと出かけていって聞き書きしたもので、なかなか面白い。テープに録るということもなかった時代なのに、話者の語り口が生きいきと再現されていて、当時はこのような話し言葉だったのかと、その点でも興味を引かれる。
俳人の中村草田男の名句とされる「降る雪や明治は遠くなりにけり」が発表されたのは昭和11年のことだから、昭和8年生まれの私にとっては、明治は遠いどころか、知ることもない暗い闇の中に沈んでいるもので、祖父母や両親が明治生まれであることだけで、明治を知っているに過ぎない。父方の祖父は明治3年生まれだったが、その祖父と東京で同居している時に教えてもらったような気がするのが、次のような歌のようなものだった。
狆ワン 猫ニャア チュウ 金魚に放し亀 牛モウモウ 狛犬に鈴ガラリン 蛙が三つでミヒョコヒョコ 鳩ポッポに立石石灯籠 小僧がこけてるカイグリカイグリ 布袋大黒にちんば恵比須 がんが三羽に 鳥居におかめにヒュウドンチャン 天神西行子守に相撲取り どっこい天王 わいわい五重の塔・・・(以下失念)
記憶間違いのところもあるかも知れないが、これは縁日か何かで出ている露店に並べられている種々雑多な小物玩具を羅列したものらしい。メロディーのようなものはないがリズミカルなので覚えやすかった。声に出していると、がらくたのようなさまざまな玩具とそれが売られている様子、さらには縁日の様子までが想像される。
もっとも祖父は元裁判官で謹厳な人だったから、教えてくれたのは父だったかも知れず、そのあたりははっきりしないが、父にしても明治38年生まれで、幼い時にこの歌を聴かされたのだろうから、いずれにしても明治の頃のものだ。だからこの歌は私の中にどうにか存在している明治なのだ。
もう1つ私の心の中にある明治としては、父方の祖母から聞かされた話がある。祖母の父は濱野定四郎と言って大分の中津の出身の士族で、同郷の福沢諭吉の弟子であった。福沢諭吉に従って上京して維新期を江戸、東京で過ごし、諭吉が創設した慶応義塾に学び、後に慶応義塾の3代目の塾頭になった。曽祖父の家と福沢諭吉の住まいは近かったようで、祖母の話では「大晦日に尻からげをなすって杖をつかれた福沢先生が枝折戸を押して庭に入っておいでになってね、大きな声で濱野さんいらっしゃるかとおっしゃった。私たち姉妹は縁側に並んで座ってお迎えし、手をついてご挨拶して・・・」というような情景があったらしい。どういうことで祖母が私のこのような話をしたのか、福沢先生の記憶はあるかと尋ねたからか、記憶は定かではないが、ただ祖母が話してくれたこのエピソードがひどく印象的に思われて、今も覚えている。
私にとっての明治はこの程度のもので、それは息子たちにも伝えていないので、私限りのものだ。明治の古老と言っても、私の母が明治の末の44年生まれで生きていれば今年97歳になるから、もはや明治生まれのほとんどが鬼籍に入っていて、往時の話を聞くこともかなわない。しばらくは『明治百話』で楽しむことにしよう。
俳人の中村草田男の名句とされる「降る雪や明治は遠くなりにけり」が発表されたのは昭和11年のことだから、昭和8年生まれの私にとっては、明治は遠いどころか、知ることもない暗い闇の中に沈んでいるもので、祖父母や両親が明治生まれであることだけで、明治を知っているに過ぎない。父方の祖父は明治3年生まれだったが、その祖父と東京で同居している時に教えてもらったような気がするのが、次のような歌のようなものだった。
狆ワン 猫ニャア チュウ 金魚に放し亀 牛モウモウ 狛犬に鈴ガラリン 蛙が三つでミヒョコヒョコ 鳩ポッポに立石石灯籠 小僧がこけてるカイグリカイグリ 布袋大黒にちんば恵比須 がんが三羽に 鳥居におかめにヒュウドンチャン 天神西行子守に相撲取り どっこい天王 わいわい五重の塔・・・(以下失念)
記憶間違いのところもあるかも知れないが、これは縁日か何かで出ている露店に並べられている種々雑多な小物玩具を羅列したものらしい。メロディーのようなものはないがリズミカルなので覚えやすかった。声に出していると、がらくたのようなさまざまな玩具とそれが売られている様子、さらには縁日の様子までが想像される。
もっとも祖父は元裁判官で謹厳な人だったから、教えてくれたのは父だったかも知れず、そのあたりははっきりしないが、父にしても明治38年生まれで、幼い時にこの歌を聴かされたのだろうから、いずれにしても明治の頃のものだ。だからこの歌は私の中にどうにか存在している明治なのだ。
もう1つ私の心の中にある明治としては、父方の祖母から聞かされた話がある。祖母の父は濱野定四郎と言って大分の中津の出身の士族で、同郷の福沢諭吉の弟子であった。福沢諭吉に従って上京して維新期を江戸、東京で過ごし、諭吉が創設した慶応義塾に学び、後に慶応義塾の3代目の塾頭になった。曽祖父の家と福沢諭吉の住まいは近かったようで、祖母の話では「大晦日に尻からげをなすって杖をつかれた福沢先生が枝折戸を押して庭に入っておいでになってね、大きな声で濱野さんいらっしゃるかとおっしゃった。私たち姉妹は縁側に並んで座ってお迎えし、手をついてご挨拶して・・・」というような情景があったらしい。どういうことで祖母が私のこのような話をしたのか、福沢先生の記憶はあるかと尋ねたからか、記憶は定かではないが、ただ祖母が話してくれたこのエピソードがひどく印象的に思われて、今も覚えている。
私にとっての明治はこの程度のもので、それは息子たちにも伝えていないので、私限りのものだ。明治の古老と言っても、私の母が明治の末の44年生まれで生きていれば今年97歳になるから、もはや明治生まれのほとんどが鬼籍に入っていて、往時の話を聞くこともかなわない。しばらくは『明治百話』で楽しむことにしよう。