中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

行儀よく座れる座席

2011-06-30 10:38:03 | 身辺雑記

 JR東日本が「自然に行儀よく座ってしまう」新しい通勤電車用の座席を開発し、今月から東京の山手線の1車両に試験的に導入し、乗客の評判を聞いたうえで、本格的な導入を検討することにしているというニュースを見た。 

 人間工学の専門家と共同開発したもので、乗客が座る部分の両側を最大8.5センチ盛り上げることで、太ももを閉じた状態にさせ、足を広げた状態では座りにくいようになっているのだそうだ。また座る部分のへこみを奥にずらし、背もたれを垂直近くすることで、乗客が自然に深く座るように促し、浅く座って脚を前に投げ出す姿勢がとりにくいようにした。座席に定員どおりの人数が座れるようになるほか、脚を投げ出す人がいなくなることで、立っている人のスペースも広がり、マナーの向上だけでなく、ラッシュ時の混雑の緩和も期待できるということだ。

 

 私がよく利用する電車は、最近映画化もされた阪急電車の今津線という路線だが、近頃は傍若無人に脚を広げたり投げ出したりしている姿はあまり見かけない。私のような時代遅れの短足の者は、脚を広げることも投げ出すこともしないが、最近の若者のようにあれだけ脚が長ければ、投げ出したくなるのも無理はないとと思ったりもするが、やはり迷惑な姿勢ではある。この路線で見る限りでは、マナーの面ではあまり問題が無いように思うが、東京あたりの通勤電車では、まだまだラッシュ時のマナーに問題がある乗客がいるから、このような座席を考えようとしたのだろう。

 

 それにしても、考えることが日本的と言うか、芸が細かいというか、座席の形を工夫して乗客に行儀よく座ってもらおうなどとは、よその国では考え付くことなのだろうかと思う。人によっては要らぬおせっかいだと謗るかも知れない。JR東日本研究開発センターでは「座る人のことだけ考える従来の発想を転換し、座っている人と周りの人がどちらも快適に過ごすにはどうしたらいいかを考えて開発しました」と言っているそうだが、さて反応のほどはどうか。 

 

 

 

 


杖を持つと

2011-06-28 09:09:58 | 身辺雑記

 父の日に長男から贈られた杖もだいぶ使い慣れてきた。トレッキング用だから軽くて丈夫、扱いやすい。杖を突くと特に歩きやすくなったかどうかはよく分からないのだが、急な坂道を下るときにはいい。雨の日以外は持つことにしている。

 

 ところが杖を持つようになると、電車で座席を譲られるようになったのには、いささか困惑している。一日に3回譲られたこともある、いずれも一駅で降りるところだったから、そう言って辞退するのだが立たれてしまうから礼を言って座るが、どうも居心地が良くない思いをする。私が杖を持っていなかった時は、席を譲られることはほとんどなかった。この10年で、2,3回くらいのものだ。私がよく利用する私鉄の路線は出発駅から終着駅まで15分だから立っていることは苦にならない,どうしても座りたいときは一電車遅らせたりした。

 

 それが杖を持つようになった途端に席を譲られる。よほど老人に見えるのか。いや老人には違いないのだが、杖を持つと老人というイメージが強くなるのか。街に出るとところどころに大きな鏡が据えつけてある場所がある。そこを通る時に自分の姿を見てみると、なるほど「おや、おじいさん、こんにちは」と呼びかけたくなるような姿がそこにある。杖一本でこれほど見た感じが変わるものかと、ちょっと情けなくなった。歩き方もゆっくりになったから、ますます老人臭く見えるのだろう。

 

トボトボと歩いて妻に注意され」という川柳を見た。「おとうさん、そんな年寄り臭い歩き方しないでよ」とでも言われたのか。妻が生きていたら今の私を見てどう思い、どう言うだろうかと考えた。いや、私より2歳下の妻こそがどんなお婆ちゃんになっているのかとも考えるが、生きていてくれるなら、どんなにお婆ちゃんになっていても良いと思う。

 


孫と会う

2011-06-26 10:42:00 | 身辺雑記

 久しぶりに孫息子と会って食事した。あらかじめメールで寿司がいいか、ピザがいいかと聞いたらピザと言ったから、私鉄で一駅のところにあるAというイタリアンレストランに連れて行った。この店はあるイタリア人の男性(故人)が40年以上も前に開いたもので、現在地に移ってからも30年以上になる。個人の邸宅を買い取って改造したというなかなか洒落た造りの店だ。

 

 この店のピザはどれも美味しいが、私は特にホワイトという、トッピングがチーズだけのものが好きだから、それと、孫が言ったトマトの物を注文した。大学の講義が終わったのは4時半頃で腹が空いていると言っていたから、さっそくうまそうに食べていた。

 

この孫は次男の息子で大学2年生になる。小学校の教師を希望しているとかで私学の教育学部に通っている。今では私よりもずいぶん背丈が伸びているが、幼い時からおとなしい子で、今でも無口でおっとりしている。4人の孫のうちで1人だけの男だから、何となく気になる存在だ。食べながら話をしたが、彼の方からいろいろ話しかけてくることはなく、私が話すとそれに応えるくらいだが、別に無愛想ということでもない。大きな声で笑うこともなくフフフという感じだ。こんなことで女の子にはもてないだろうと思って、彼女はいるのかと尋ねたら曖昧に頷いたが、今は違うと言った。地元の子らしいから、孫のような性格の男子は物足りないのかも知れない。

 

 「オヤジとは最近うまくいっていないのか」と尋ねると、「誰に聞いた?」と言ったが、特に気を悪くした様子もない。実は昨年あたりからちょっとした言葉の行き違いで互いに口をきかなくなったと息子からも嫁からも聞いていた。高校生くらいまでは父子は仲がよく、2人ともサッカーをしていたので、2人でボールの蹴り合いをしていたし、息子のサッカーの試合はよく観に行って、その批評をしたりしていた。「今頃反抗期と違うか。普通は中学生くらいであるのだぞ」、「お父さんは寂しそうだったぞ」などと言ったら笑っていたが、その様子からは今はそれほど深刻な状態ではなさそうに思った。

 

 大いに話が弾むというようなものではなかったが、やはりたった一人の男の孫とひとときを過ごすのは心が和むものだった。もう少しはきはき話すようにならないと教員採用試験の面接の時に不利だという心配もあるが、また時々会って、私が教育委員会の事務局にいたときの経験などを交えて、追い追い話してやろうと思う。

 

 駅で別れる時に、こちらを振り返ったので「オヤジと仲よくしろよ」と声をかけたら、にこりとして頷いた。いくつになっても孫は可愛いものだと思う。

 


梅雨の合間に

2011-06-24 12:30:57 | 身辺雑記

 日中は気温は30度近くに上がり、湿度も80%以上、不愉快な梅雨の日。家にいても仕方がないので夕方外に出た。

 

 家のすぐそばにある小さな水田には稲の苗が植えられている。何となく涼しげな風情なので眺めていた。

 

 

 

 急にさっと強い風が吹いてきて、稲の苗がいっせいに風にそよぎ、水面に波紋ができた。とても気持ちがよく、しばらく風を楽しんだ。  

 

  

 

 近くの家々のアジサイは今が盛りだが、雨が降っていないと心なしか表情が冴えない。やはりアジサイは梅雨の雨に濡れているのが、似合うようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 蒸し暑いのにはうんざりするが、梅雨が明ければ猛暑の夏。梅雨のない西安では毎日30度を超す暑さだと李真が言っていたが、日本でもどうなるだろうか。去年よりはましだろうとも言われているが、それでも熱中症に注意ということがたびたび警告されている。

 

 日が暮れて夕焼け空になったが、気のせいか夕焼けまでが暑い感じだ。

 

 


ある女子高生

2011-06-23 10:06:06 | 身辺雑記

 男性物の衣料店を経営しているI君の店に行き、店の奥で雑談していたら、急にI君が店の入口のほうに向かって「よう、来たのか」と言った。振り向いてみるとI君の娘が入ってきた。私には顔を向けず挨拶もしないで傍らを通ると、父親の側に行って持っていた黒いシャツを見せながら何か話していた。

 

 I君には悪いのだが、私は高校2年生のこの娘が苦手だ。まだ幼い頃I君夫婦は離婚し、娘は母親に引き取られた。それからも養育費のことなどもあって元家族は何度も食事したりして会っていたようだが、やがて小学生も高学年になると一人で店に遊びに来るようになった。その頃には私とも話をしていたが、中学生になると何が気に入らないのか話をしないようになり、店に来ている時に私が行っても白い目を向けるだけで、会釈もせず、「こんにちは」も言わずに無視するようになった。私は教師をしていたから中学生や高校生は好きなのだが、挨拶のできない子は苦手だ。それに父親と話している口調も内容も乱暴で聞き苦しい。だから今では店を覗いても、この娘がいると早々に退散することにしている。

 

娘を引き取った母親は、親としての能力がまったく欠けているようで、そのこともあってか、中学生になると扱いの難しい子になり、登校拒否の状態にもなった。I君の話では親や学校の教師、と言うよりも大人に対して不信感を持っているようだった。特に問題行動を外で起こすこともなかったようだが、I君はいつも心を痛めていた。娘の境遇を哀れに思うのか、厳しいことも言わずに放任していたようで、それが結果として裏目に出たのかも知れない。高校進学は無理と言われていたが、今は私学の単位制高校に入っている。

 

 それはそれとして、久しぶりに会った娘を見て驚いた。左の耳朶にも左下唇にもピアスをし、二つのピアスを3、4本の銀色のチェーンでつないでいる。そのチェーンには赤や青のまがい物のジュエリ-がいくつか付けてある。大阪の町などでは、ずいぶんイカレたような風体の高校生らしい娘は目にしていたが、こんなのは初めて見た。服装は黒っぽく、けばけばしいものではないが、顔に着けているアクセサリーはおよそ高校生には見えない派手なもので、私のような老人は呆れ返るしかないようなものだった。いくら単位制高校と言っても、まさかこの格好で通学はしていないだろうが、かなり人目を引くだろう。このようなアクセサリーの着け方を自分で考えたのではないだろうから、一部の高校生以上の女性には知られているのかも知れない。

 

 翌日またI君に会った時に、あんな格好をしていたら良くない男に目をつけられるよと言うと、彼はちょっと暗い顔をして、僕は慣れましたけれどねと言った。何か父親の言うことなどは聴かないと諦めているようだったし、注意でもして娘が離れていったらと懼れてもいるようだ。他人の子ながら、いったいこれからどうなるのだろうと心配になってしまった。

 

 パソコンが好きでそれなりに扱うようだから、そのような専門学校にでも行かせたらどうかと言うと、本人は介護のほうをやりたいらしいということだ。それはいいことだが、何はともあれ、人生のはじまりとしての大切な時期、たまには親や大人の言うことにも耳を貸し、真っ当に過ごすようになってほしいと思う。そのためにもI君も、もう少し娘を気儘にさせずに、耳に逆らうことでも言ってやるほうがいいのではないだろうか。

 


子どもを育てやすいか

2011-06-21 09:10:34 | 身辺雑記

 街で親に連れられた子どもを見ると可愛いと思うが、この子達を大きくなるまで育てるのはなかなか大変だろうなと思いもする。私達夫婦の子育ての時代はどうだったのか。仕事が忙しいのにかまけて子育てはほとんど妻に任せっきりで、そのことでは妻は本当によくやってくれたと、今も感謝している。経済的にはさほど豊かではなかったが、今頃と違って世間一般がつましい時代だったから、子育てにあくせくしたり悩んだりすることは、妻の性格もあってかあまりなかったように思う。2人の息子達は順調に結婚してそれぞれ親になったが、とくに深刻な問題もなく、孫達は皆大きくなった。

 

 内閣府が昨年、日本と韓国、アメリカ、フランス、スウェーデンの5か国それぞれ20歳から49歳までの男女1000人を対象にしで行なった少子化に関する国際意識調査の結果では、「自分の国を子どもを育てやすい国だと思うか」という質問に対して日本では52.6%が「そう思う」と答えたようだ。他の国では、スウェーデンが97.1%で最も高く、アメリカは75.5%、フランスは72%で、韓国は16.2%だった。

 

子どもが育てやすい理由はいろいろあるだろうが、男女共働きがどこの国でも多くなっているから、やはり子ども、とくに幼児の保育施設が充実しているかどうかが大きな要因になるだろう。「育てる」は何歳頃までかはわからないが、小中学生まであたりとすると、学校以外の諸施設が整備されているかどうかということも関係するだろう。スウェーデンの親はほとんどが「育てやすい」と思っているのは、よほど子育てのための社会的なインフラが整備されているのだろう。韓国がかなり低いのはどういう理由なのか。

 

 「ほしい子どもの人数」は、日本では「2人」と答えた人が51.8%で半数を超え、「3人」の32.5%を合わせると、84.3%が「2人」か「3人」と答えた。まあそんなところだろうと思う。しかし、「希望する人数まで子どもを増やしたい」と答えた人は、日本では42.8%で、5か国の中では、韓国の35%に次いで低い一方で、「今より子どもを増やさない、増やせない」は47.5%で、最も高くなっている。その理由としては、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が最も多く、男性が44.6%、女性が39.5%だった。

 

 回答者の半数以上が日本を「子どもを育てやすい国」と考えているのに、希望する子どもの数まで増やさない、増やせないというのも半数近くあるのは矛盾しているようにも思うが、例えば子どもが2人であれば育てるのにあまり苦労はないが、それ以上になると生活面で難しいということだろう。まして夫婦共働きであれば負担は大きい。私には息子が2人いるが、彼らが幼いときにはもう1人、できれば女の子がほしいと思うこともあったが、収入や妻の負担を考えると現実的ではなかったので諦めた。

 

 最近は晩婚化が進んでいるようだから、一人っ子という家庭も少なくない。あまり少子化が進むと将来的には国力の面にも影響するだろうが、と言ってなかなか3人も4人も持つことは難しい。それですべてが解決されるとは思わないが、若い親達のために保育所などをもっと増やすことも必要ではないか。

 


父の日の贈り物

2011-06-19 10:29:04 | 身辺雑記

 長男から杖をプレゼントされた。mont-bellというアウトドア用品のメーカーの、トレッキング用のアルパインポールというものだ。

 

 前から不調だった右脚が最近相変わらずよくなく、歩くとふくらはぎが張ってきて辛い。脚に障害があり、杖を使っているHg君の奥さんから杖を使うように勧められていたのだが、踏ん切りがつかなかった。それでも数年前に、坐骨神経痛で右脚がかなり痛かった頃に、上海の豫園商場の専門店で買ったステッキを2、3回使ってみると確かに楽なのだが、少し重いので止めていた。そんなことを長男と電話で話していた時に言うと、山用のストックがいいのじゃないかと言った。そのことを何となく心に留めていたところへ贈ってくれたのだった。

 

 父の日に杖を贈られるとは、いよいよ老人になったという思いがしたが、実際老人なのだから見栄を張ることもあるまい。贈られたストックはジュラルミン製で軽量、長さも調節でき、グリップがT字型のもので扱いやすい。街ではおしゃれなデザインの木製の杖が売られているし、使っている人もよく見かける。トレッキング用のものだから街中で使うのには少し見栄えがよくないかもしれないが私にはこれで十分だ。軽いのがいい。

 

 だが、使い慣れていないせいもあってか、杖をつきながら歩く格好はどうにも老人臭い。さっさっと脚を運べないから、どうしても脚の運びがのろくなる。ステッキを使いながら颯爽と紳士風になどということからは程遠い。まさに脚の弱ったおじいちゃんだと我ながらおかしくもなる。今さら自嘲しても始まらない。要するに若い頃からの鍛錬不足の結果なのだ。70近くになってまだ脚も達者だった頃に、心がけてウォーキング、せめて散歩でもすればよかったのだが、ぐずぐずと実行できずにとうとうその報いが来た。ブログ友のSさんやOjさんのように毎日欠かさずにウォーキングを続けていたならばと思う。先日Hg君たちとバラ園に行ったとき,ある山寺に立ち寄ったが、急坂で上るのに難渋した。Hg君はすたすたと早足で登っていた。彼は65歳になるが、その頃には私もあのようだったと羨ましく思った。今さら悔やんでも遅く、自業自得というほかはない。

 

 息子から贈り物をされるのは嬉しいものだ。毎年長男からは父の日に、次男からは7月の誕生日にプレゼントが届く。私も長男の誕生日には日本酒を、次男にはビールを贈っている。そのたびにいつも、息子というものはいいものだと思い心が和む。

 

 


結婚適齢期

2011-06-17 09:02:13 | 身辺雑記

 私の母は21歳で結婚した。当時の年齢の数え方なら、数えで22歳だ。翌年には私が生まれて母親になった。21歳と言うと私の一番上の孫娘よりも1歳若い。孫娘はまだ学生で、就職できるかどうかで精一杯だから、今はとても結婚などは考えられないが、母の頃はそれが結婚適齢期だった。私の妻は23歳で私と結婚したが、その頃では早くも遅くもなかったようだ。長男夫婦も次男夫婦も同い年同士で、それぞれ26歳で結婚した。 

 

今では女性の結婚年齢はだんだん上がってきて、30歳近くなるまで結婚しないのはざらにいる。卒業生のF子には2人の娘がいるが、どちらも30歳前後で、まったく結婚する気配もないようで、学校卒卒業後も親と同居し、基礎的生活条件を親に依存している未婚者を言う「パラサイトシングル」のような状態らしく、F子も何となく諦めているように思える。

 

 このような女性達は少なくないようで、それは若い女性に高学歴者が増え、仕事の上でもそれなりの経験と地位を持つようになっていることにもよるらしい。だから今では結婚適齢期は一定の年代を言うのでなく、「結婚したくなった時が適齢期だ」などとも言われるようだし、結婚適齢期という言葉自体が不適切という意見もあると言う。

 

今はともかく、かつては女性が結婚することは母親になることの前提のようなもので、そうすると身体的にも精神的にも十分に成熟していることが望ましく、そこから適齢期などということが言われたのだろう。私の母親は昭和7年に結婚したが、それ以前の明治大正期にはもっと結婚適齢期は早かっただろう。特に農村では、童謡の『赤とんぼ』に「十五で姐やは嫁に行き」とあるように、農家の働き手としても早く結婚することが必要とされていた現代ではおおむね15歳以下での結婚を認める国はなく、男女平等が進んでいるとされるスウエーデンでは、婚姻適齢が男子21歳以上、女子18歳以上となっているそうだ。日本の民法では男子は18歳以上、女子は16歳以上が「婚姻適齢」と定められているが、将来的に政府方針として男女共に18歳に統一する方向だと言う。

 

 江戸時代には庶民の女性は16歳にもなれば結婚可能とされていたようで、適齢期は1719歳、19歳を過ぎると良い縁談は期待できなかったそうだ。まして20歳を過ぎると娘盛りは過ぎたとして年増(としま)と言われ、234歳も過ぎて30歳間近ともなると中年増(ちゅうどしま)とされ、30歳を過ぎると大年増(おおどしま)などと呼ばれて、結婚には無縁のようにみなされていたようだ。40歳を過ぎるともはや婆さん扱いされた。「アラフォー」などと言って、熟女とか女盛りのようにもてはやす今時とははなはだしい違いだ。実際、今のアラフォーは若々しく活気がある。江戸時代は栄養面や、環境の苛酷さへの対処の面で、現在よりは老けるのは早かったのだろうし、とりわけ生活の厳しい農村部では早く老いただろう。男でも40歳半ばを超せば隠居同然に見られたようだ。

 

 ある新聞のインタネットのMSNに「恋人探し」という、若い男女が自分の写真を掲載して自己紹介し交際や結婚相手を求めるという企画がある。どれくらい本気なのか分からないが、登録している男女は洗いざらいに自分を紹介している。今時風のあけすけな感じだ。その中のある女性が、「明るく楽天的なオンナノコです。27歳です」と紹介しているのを見て、27歳でオンナノコでもあるまいと笑ってしまったが、本人はまだ女の子だと思っているのかも知れない。江戸時代なら立派な中年増で大年増に近いのだが、まあ、ご愛嬌と思えばいいのだろう。

 

最近は男女ともに10代でも身体的には成熟しているが、精神的にははなはだ未熟というのが増えているように思う。だから10代で結婚する者は少なくないようだが、どうも精神面では結婚という現実に付いていけないようで、マスコミの話題になるようなことをしでかしている。家事一つとってみても、江戸時代は10歳近くにもなれば女の子は飯炊きや掃除などをするのが当たり前のようだったらしいし、それほど昔のことでもなくても、私の子どもの頃でも家の「お手伝い」をするのは当たり前だった。妻も小学生の時には末の妹を負ぶって遊んでいたと聞いた。今はお手伝いよりも勉強ということなのか、そのようにして成長していけば、結婚ということには関心が薄れるのかも知れない。

 

 最近では晩婚化が進んでいて、日本人の初婚の平均年齢は男性29.1歳、女性27.4 という調査もあるらしい。そうするとこのあたりが、結婚適齢期ということになるのだろうか。私には孫が4人いるが、せめて一番上の孫娘の結婚は見たいと思っているが、今は22歳、見られるかどうかははなはだ覚束ない。まして曾孫の顔を見ることなどは不可能ではないかと思っている。

 

 


職人

2011-06-15 09:20:03 | 身辺雑記

 古い敷き布団を捨てようかと思ったが、粗大ゴミでとか何とか手続きが煩わしいので、隣町にある布団店で打ち直してもらうことにした。この布団店には何ヶ月か前に掛け布団の打ち直しを頼んだが、その時に妻が生前にこの店を利用していたことを主人が覚えていたので、何とはなしに親しみを覚えていた。

 

 約束した日に主人が取りに来てくれたが、出した敷布団を見ると「これは奥さんのご注文で私が作ったものです。すぐ分かりました」と懐かしそうに言った。震災前までは布団職人をしていたから、自分が作ったものはすぐに分かるのだそうだ。掛け布団の時と同じでまた妻のことが出てきたので嬉しく思ったし、「職人でしたから」という言葉にひどく親しみを感じて、夕暮れの薄闇の中で、笑顔で何度も頭を下げて帰って行く主人を見送った。

 

 私は「職人」という言葉が好きだ。言葉というよりも職人そのものが好きだ。手先一つで物を作り上げていくその仕事にとても興味を惹かれる。職人とは「手先の技術によって物を製作することを職業とする人」(広辞苑)だが、かつては身近にいた職人も近頃ではあまり見かけなくなった。現在では手工芸品の製作者、建具作り、指物師、大工、左官、庭師などを職人と言うが、大工も「工務店」とやらになって、何となく職人と言うよりは技術者という感じになったし、左官なども必要とする建築が少なくなったのか、以前のように壁土を練っている姿を見かけない。もっとも地方に行けば伝統工芸品の製作者などの職人はまだまだ多く存在しているだろう。

 

 藤沢周平の初期の作品である『帰郷』は、故郷の木曽福島に帰ってくる老ばくち打ちが主人公だが、その故郷の「八沢は、軒並み曲物師、塗師、指物師が並ぶ漆器の町である」とある。木曽福島(現木曽町)では今も木曽檜を用いた木工芸品や漆器を生産しているようだ。一度行って、職人の仕事を見てみたいような気持ちに駆られもする。

 

     木曽観光協会HPより

 

 前に若者達が宮大工の修行をしているのをテレビで見て、その志と真剣さに感動したことがあった。テレビや展覧会などで、現代の名工と呼ばれる人の作品を見ることがあるが、その精緻な技には感嘆する他はない。こうなると芸術家の範疇に入れられるようだが、やはり「職人」と呼ぶほうがふさわしいと思うし、おそらく本人もそのように思っているのではないだろうか。

 

私の長男は将来は建築のほうに進みたかったが、あるとき住宅の建築現場を通りかかった時に、ベニア板を大きな鋲打ち機のような道具で止める作業しているのを見て熱が冷めた。素朴な大工仕事に憧れがあったのかも知れない。それなら大工に弟子入りすればよいのにそこまでの踏ん切りはつかなかったようだ。手先仕事が好きで、ギターをやっていたので、ギター作りの職人になることを勧めたこともあったがそれもならず、結局は機械工学のほうに進学してしまった。卒業後はある機械メーカーに就職したが、そういうところにも、やや気難しく頑固な職人気質の老社員が現場にいたようだ。

 

 職人は「寿司職人」とか「菓子職人」など食品を扱う人達を呼ぶこともあるし、調理師、理容師なども職人ではないだろうか。職人と言うと何か貶めた感じを受ける向きもあるようだが、私には軽々には余人が真似できない熟練を必要とする仕事を生業にしている職業だと思い、「職人」と聞くとある尊敬の念を抱く。だから布団店の主人の「職人でしたから」という言葉に、そうかこのような職人もいたのだと親しみを感じたのだった。身近には職人の姿は見られなくなったが、家の中のさまざまなものを見ると、職人はまだまだ多くいるのだろうと思う。最近は何かにつけて機械作りのようで、手作業などは衰退していくのだろうが、やはり「職人」はいつまでも生き残ってほしい。

 

 

 

 

 

 

 


開心野菜畑

2011-06-13 22:04:11 | 中国のこと

西安の李真の家族は最近畑で野菜を作っている。家から車で片道15分くらいの所に20平方メートルの畑を借り、そこで、豆やトマト、青梗菜などの葉菜類などを植えていると言う。畑は農家から借り、賃貸料は年に680元(約九千円)、給水用の水道も管理者が設置してくれていて自由に使え、野菜の種子も無料で分けてくれるそうだ。専門家(農家か)がいろいろ指導もしてくれるそうだ。

 

 このような畑は「開心野菜畑」と言うそうで、最近、西安南郊外周辺の土地はほとんど、この開心野菜畑になったと李真は言った。「開心 kaixin」は愉快、楽しいという意味だ。家族で楽しむ野菜畑ということだろう。中国の西部開発計画の中心部である西安の最近の発展は著しく、私は10年くらい前にはじめて西安を訪れたが、その頃に比べるとその発展振りには目を見張る思いがする。その反面、かつては多くあった農地はどんどん企業の建物や高層住宅が林立する場所に変わってきている。私としてはこのような「発展」はあまり好きではないが、西安の市民の中にも騒がしく、潤いのない都会化に心地よくない思いをしている人たちも少なからずいるのだろう。そこで心の憩いを求めて野菜作りでもしようかということで、開心野菜畑のようなものに人気があるのだろう。

 

 畑をしようと言い出したのは李真の母親だったそうだ。母親は12歳まで農村で育ったので土いじりには関心があったようで、これまでにもベランダで花や野菜を作っていたが、あまりうまくできなかったらしく、それで開心野菜畑を借りることにしたそうだ。今では両親も楽しんでやっていると李真は言った。その李真もこの野菜作りは気に入っているようだ。中国はこの2、3年発展が速すぎ、それにちょっと不安があった、野菜を作っていると心が緩やかになると言った。それに農家の苦労も実感として分かるようだ。このあたりが辛苦を味わった「文革世代」の両親を持ち、消費意識が強い次世代の「八〇后」とは違う堅実さなのだろう。

 

 中国は最近、何でもお金が掛かる、みんながお金を儲けたいと考えていると李真は言う。先日息子の宸宸(チェンチェン)を連れて水族館に行ったが入場料は高い、お金のない家族は来られないだろうと思う、出稼ぎの人の子もそんなところに行ける料金ならいいのにとも言った。李真が今の生活に流されることなく、ささやかな家庭菜園づくりを経験しながら、農家の苦労に思いを寄せ、恵まれない人たちのことを考えるようになることはとても良いことだと思う。私はこのような真面目な生き方をする李真が友人として好きだ。