2月28日は妻の命日。月日のたつのは速いもので、逝ったのは1999年だから、早や年月は一回りめぐったことになる。
12年、長いようで短かったが、さまざまなことがあった。先日も知人のSさんと話をしたのだが、もし妻が生きていたら何もかも今とは違っているだろう。お母さんがいなくなって、寂しいだろうからと長男に勧められてパソコンを買い、メールを始め、それが契機になって卒業生のK君に誘われて中国に行き、以来中国には友人も増えた。Sさんを知ったのも中国語を習うようになったからだ。中国の貧困農村地区の子ども達を支援する会にも入り、そこからの付き合いも広がった。パソコンでブログをするようになり、それを通じて知己も増えた。ネコのミーシャも来た。
このようなことはもし妻が生きていたらほとんど無いことだろう。それでは、現在の私の生活はどんなものになっていただろうと時折考えることもあるのだが、もちろん想像できない。妻がどのようなお婆さんになっているかなと思うことはあっても、それも想像できない。あれこれ考えても無駄なことで、結局は妻が逝き、私の生活は激変したのだ。それもまた運命だったのだろう。あれこれ考えてみても無益なことで、今を前向きに生きていくしかない。
「ゆく」は、「行く」、「往く」、「逝く」などと書かれる。「行く」には「帰る、還る」があるし、「往」には「復」あるが、「逝く」には戻りはない.行ったきりだ。それは分かりきったことなのに、妻が逝ってからの12年間、幾度となく戻ってくれることを願った。1日に1時間でいいから戻ってほしいとも思った。こうしてパソコンに向かっているときに、ふと「会いたいなあ」と呟くことがあり、そのたびに涙が滲み、妻にはもはや声も手も届かないことを思い知らされる。
妻は息子達に優しい良い母親だった。最後の別れのときに長男は柩の側にしゃがんで何か話しかけていたし、次男は出棺の時には子どものように泣いた。30半ばを過ぎ結婚して子どもがいても、息子達にとってはいつまでたっても幼い頃に慈しまれた母親なのだろう。息子達の嘆く様子を見ながら、母親というものは子どもにとってかけがえのない存在だと言うことを改めて知ったし、それは私にとっても同じで、かけがえのない伴侶だった。
今年も卒業生のサヨコさんから花が届いた。妻の1周忌からずっと続けてくれている。私が顧問をしていた生物部の卒業生で、卒業してから夭折したS君の姉で、「弟が生きていたらきっとしていると思います」と言ってくれる。有り難いことだと思う。
今日は妻が好きだったちらし寿司でも供えよう。