中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

南京の旅(17) 人の情け

2007-09-30 07:23:17 | 中国のこと
 今回の南京への旅は行き帰りに上海に寄ったので、出発から帰国までは1週間の比較的短いものだったが、経験したことは多く、それだけに思い出も多い。

 私は中国に行くにしても一人旅が多い。もっとも中国語の力はきわめて低いから、旅先ではガイドについてもらう。ガイドと言ってもほとんどが友人達だ。団体ツアーにはこれまで3回ほど参加したが、少々気ままなところがある私は一人旅の方が気兼ねがなくていい。旅行社が企画する団体ツアーの謳い文句は、良いホテルに泊まり、美味しい料理を食べて、名所を見ると言うものだが、一人旅に慣れるとそれだけでは何か物足りなくなる。

 ホテルは寝ることができればいい、食事もレストランの料理でなくてもいい、観る所も決まりきった観光地にあるものでなくてもいい、ちょっとしたことでも人との触れ合いがあると、それだけでとても満足できる。たとえば前に書いた南京の朝の公園での孫を連れた夫婦との出会いなどは、ほんの短いもので、孫を中心にして少し言葉を交わし笑顔で挨拶して別れた、ただそれだけのことだったのだが、何かしらほのぼのとした思いが残った。まして南京の敏敏の祖父母や親戚の人達や、上海での敏敏の両親と弟などの温かい歓迎は毎日笑顔が溢れていて、言い知れない嬉しいものだった。今回の旅の最大の収穫は、そのような人の情けと笑顔に多く触れたと言うことだった。

 帰国する前日のことも忘れられない。前の日の夜に上海の唐怡荷と敏敏と食事をすることにしたが、その前にホテルのロビーで翌日のことで話し合った。怡荷は勤務があり、敏敏は取引先の会社を訪問しなければならないので空港まで見送れないと言う。私はこれまでに何度も上海の空港で乗り降りして手続きもできるから、タクシーで空港に行くと言ったが、2人とも頑として承知しない。怡荷は何とかして車と運転手の都合をつけると言う。敏敏はどうしてもなければママにタクシーで空港まで送ってもらうと言う。2人とも絶対にいけないと言う。1人だし、年寄りだし、脚が悪いしと、もっともではあるが、私にしては格好の悪い理由を並べ立てたので苦笑してしまった。1人ではなぜいけないのかと聞くと、敏敏は悪い運転手だったら怖い、まっすぐに空港に行かないであちこち曲がり道をして高い料金を取るかも知れないからと言う。空港までは一直線の道じゃないか、そんなことはないと言っても、ダメと言って聞かない様子は真剣で可愛かった。何だか娘か孫に心配されているような気持ちになってきて、結局は素直に彼女達に従うことにした。敏敏と話している間に怡荷はキャリアウーマンらしくてきぱきとどこかに電話していたが、やがて自分の会社の車とドライバーの手配ができたと言った。それからホテルの係員と交渉して、チェックアウトが午後になるが超過料金は取らないように話をつけてくれた。確かに2人とも今では私とはとても親しい仲だが、このようにまるで身内のように心配し、惜しみなく世話をしてくれるのは本当に嬉しかった。

 こんなことも含めて、今度の南京、上海の旅で改めて強く感じたのは、やはり旅と言うものは人の情けに触れるのが一番だと言うことだった。食べる、観る、泊まるだけではつまらない。どんな小さなことでもいい、また行きずりのことでもいいから、人との心の触れ合いができれば、旅をした甲斐があると思っている。幸いなことに、これまでの旅は人との触れ合いがいろいろあって、そこから若い友人達が多くできたことに満足している。

 
 


南京の旅(16)-朝の公園②-

2007-09-29 09:21:32 | 中国のこと
 公園の中には大きな池があり、ベンチも置かれている。人々は思い思いに散策したり、話したりして朝のひと時を楽しんでいる様子だった。中国にはよくある大声で話す者もなく、広い公園の中は大勢の人がいるとは思われない静かな落ち着いた雰囲気だった。


遠くに見えるのは獅子山の閲江楼。


 孫と憩う夫婦。朝食をとっていたようで、孫に自由市場で買ったのかも知れない包子(パオツ)を食べさせていた。両親はおそらく2人とも仕事に出ているので面倒を見ているのだろう。祖父母と言ってもまだ若い感じだ。近寄って挨拶し、赤ん坊をあやして歳を聞くと1歳くらいらしかった。


池のそばの池亭では老人達が集まって談笑していた。


新聞を読む。


トランプ


テニス帰り


歌う。

 
 池のそばの小さい広場では音楽に合わせてダンスをしていた。社交ダンスも中国では盛んなようで、これまでに行ったあちこちで見たことがある。

踊る老夫婦


中年のカップル


 小鳥を楽しむ。家で飼っているのを鳥籠に入れて持ってきて、木陰に吊るして鳴かせていた。競うように澄んだ鳴声が聞こえ、いかにも朝らしい爽やかな感じだった。







 日本では、都会にはかつてのような向こう三軒両隣の生活はほとんどなくなったし、農村部などでは若い人たちは都会に出て行くから、孤独を強いられている老人は多いようだ。厚生労働省が行った高齢者を対象とした調査で家族や親族による65歳以上の高齢者への虐待が全国で昨年度1万2575件に上ったと言う。高齢者受難の時代と言うか、どうにも暗い話ではある。もちろん皆が皆そのような状況下にあることはないだろうし、良い家族に恵まれた幸せな老人も多いのだろうが、老人にとってはだんだん住みにくい世の中になってきているような気はする。

 中国では各地で、特に朝に老人達が思い思いにゆったりと自分のひと時を楽しんでいるのを見るが、羨ましいと思う。暇を持て余しているのだろうとか、現実は厳しくてやはり孤独なのではないかという憶測や、勤勉な日本人とは違って遊び好きなのだというような意地の悪い見方もできるかも知れないが、少なくともこの公園のような光景は日本ではまず見られないのではないだろうか。私には中国人は自分のスタイルで生活を楽しむことを大切にしているように思われる。北京の天壇公園で、敷石の上に箒のような長く大きい筆に水を含ませて達者な文字を書いている老人を見たことがあるが、その孤独ではない孤高のような姿に中国ならではの光景を見たような気がしたことがある。

 中国は65歳以上の高齢者が7%を超える高齢化社会に既に入っていると推察されている。さらに、2050年には65歳以上人口は全体の20%を占め、世界の老人の4分の1を中国が占めるだろうと言われているようだから、中国でもこれからは高齢者問題が大きくなってくるのかも知れない。今のような朝の老人達の姿はどうなっていくのだろうか。


南京の旅(15) 南京で⑨-朝の公園-

2007-09-28 07:54:43 | 中国のこと
 自由市場を抜けたところに公園がある。ここで朝、太極拳などをやっていると敏敏が言っていたので行ってみた。

 あたりの様子から何となくこじんまりした公園かと思っていたが、入ってみるとかなり広いようで結局全部は回りきれなかった。総統府で買ったそれほど大きくない地図にも載っているから、大きな公園のようだ。綉球公園とある(綉球は刺繍をした布で作った鞠)。

 広い公園には大勢の人がいた。集団で、個人でいろいろなことをしている。中高年者ばかりで若い人の姿は見られなかった。平日だったからか、若い人たちは朝はこのような所には来ないのだろうか。

 太極拳。中国の朝の公園や広場で見られる「定番」のようなもので、これまで行った所でも必ず見られたものだ。
 
指導者に従ってやっている。




  「金陵老人大学下関分校」という看板のある建物の前で。金陵(チンリン)は南京の古称または雅称。下関(シャアクァン)はこの公園のある地区。老人大学の受講生なのだろう。


1人で。


脚を伸ばす。他の場所では太い木の幹を両手で押している人もいた。


剣舞。剣を持って緩やかに体を動かす。


大きな扇を開いたり閉じたりしながら、ゆったりと動く。扇をバサッと音を立てて一斉に開く。


  さまざまな健康法があるものだと思って見て回っていると、面白いことをやっているグループもあった。

  いろいろな物を使って踊る女性達。作り物の船の中に入って船が波に揺れているように体を揺らしながら進んだり、その後から櫂を持った女性が船を漕ぐように進む。他にも何人かいて、輪になって踊っている




  踊りの輪の中央で大きな円盤のようなものを両手に付けて閉じたり開いたりして踊る女性。かなり高齢のようだ。円盤が何を表しているのかは分からなかった。


囃し方が鉦や太鼓を打ち鳴らすリズミカルな音に合わせて踊りが進む。


 いったいどういうことを演じているのかさっぱり分からなかったが、皆真剣に演じていた。

もう1つは龍踊りのグループだった。長い布製の龍を頭から尾まで7人が長い棒で支えて進む。先頭は珠。

  
  龍を支えた棒を上下左右に動かして進む。全員が息を合わせて、いかにも龍が躍動しているように動きながら進む。かなりの練習が必要だと思われた。時々龍の前に珠が突き出されて、龍はそれを銜えようとする。


動きはかなり激しい。


やはり囃し方の打ち鳴らすリズミカルな音に合わせて動く。


龍を折り畳んでしばらく休憩してからまた始める。



  この2つのグループがやっていることはかなりの運動量(特に龍の踊り)のようだが、祭か何かの出し物の練習なのか。それともこれも健康法の一種なのだろうか。2日目にはこの龍の踊りと同じ場所に、違うグループが来ていたが、もう演技を終わって片づけをしていた。このようなグループはいくつもあるのかも知れない。
 

南京の旅(14) 珍しい食べ物

2007-09-27 06:24:56 | 中国のこと
 中国に行くとよくこれまでに食べたことのない食べ物や料理に出会うことがある。これまでにも蛙や蛇はもちろん、大ヤモリや竹鼠、駱駝の足の掌、蜂、蚕を細くしたような昆虫の幼虫などを食べたことがあるが、どれもなかなか美味だった。今回の旅ではゲテモノのようなものは食べなかったが、それでもいくつか日本ではあまり口にしないものを食べた。

糸瓜(ヘチマ)
 上海の敏敏の両親の家でキュウリではないよと言って出された。薄く輪切りにして炒めてあったが、少し苦味のある良い味のものだった。日本でも若い糸瓜は食べるらしいが、私には経験がないし、売っているのを見たこともない。

南京の自由市場で。皮をむいたものも売っていた。

 
菱(ヒシ)の実
 これも敏敏の両親の家で茹でたものが出されたが皮は硬くて、敏敏に歯に気をつけてと言われた。中身は白いでんぷん質で栗のようにあっさりしている。ウォーターマロンと言うとか。菱の実は食べたことがあるが、黒くて小さいものだった。それに比べると巨大と言ってもいいような大きさで、調べてみると日本でも「唐菱」と呼ばれて栽培されてきているようだ。


自由市場で、1斤(500グラム)を2元(約30円)で買って持って帰った。


田鰻
 日本でも地方によっては食べるらしいが、私は食べたことがなかった。中国の市場では必ず売っているから、日常的な食材なのだろう。敏敏の家では開いたものを3センチくらいに切って炒め、醤油で味付けしたものが出された。鰻のような脂っこさはないし、泥鰌のような臭みも無い。

自由市場で。


蓮の実
 敏敏の伯父さんが買ってくれた。日本では種子を砂糖漬けなどにしたものがある。中国では種子が入っている花托ごと売られている。種子の皮をむいて中の胚乳を食べる。杭州でガイドが買ってくれたものを2、3粒食べたことがあった。持って帰ったものは種子を茹でてから砂糖と蜂蜜で煮た。
 前左は種子。前右は胚乳。

蝦と烏龍茶の炒め物。
 特に変わった料理ではないが、茶を使った料理は珍しいから書き留めておく。南京の江南料理店で出されたものだが、烏龍茶の葉を空揚げにしてから蝦と一緒に炒めて醤油で味付けしたもののようで、なかなか美味かった。一度作ってみようかとも思う。同様なものは杭州で、杭州の有名な龍井茶と小蝦の剥き身との炒め物を食べたことがあるが、あっさりした味付けのものだった。


 


中秋名月

2007-09-26 08:48:24 | 身辺雑記
 昨夜は旧暦8月15日、日中の残暑は日が暮れると遠のき、涼しい風が心地よかった。空はほとんど雲はなく澄みきって、まさに明鏡のような満月が、日が落ちて暗くなるとすぐに東の空に輝いていた。やはり中秋名月は旧暦で見るのがいい。


 西安の李真がチャットで「海上昇明月 天涯共此時」(海の上に名月が昇り、離れた場所でこの時を共にする)という唐詩を教えてくれたが、前にも聞いたことがあった。遠く離れている家族や友人が明月を見て互いを懐かしみ偲び合うことを意味しているようで、唐代の賢宰相と言われた張九齢(678~740)の「望月懷遠」(月を眺め遠くを懐かしむ)の名句と言われる。中国では中秋節によく使われる句のようだ。

 昔は月見団子や芋、枝豆、栗などの秋の収穫物、芒や秋の草花を供えて月を祭った。芋を供えたから「芋名月」とも言ったようだ。今では、特に都会ではあまりしなくなっているようだが、地方ではこの習慣はまだ残っているのだろうか。いくつの時だったか、幼い頃に部屋の灯りを消して暗くなった縁側に供えた月見団子や芒が、皓皓と輝く満月の光に照らされて影絵のように見えたことをかすかに覚えている。記憶の中の月の光は今よりもずっと明るかった。

 中学生の頃には滋賀県の大津に住んでいた。ある年の秋の十五夜(新暦)に、母が作った月見団子を重箱に入れて、紫式部が「源氏物語」の想を得たことで知られている石山寺に家族そろって行った。暗い境内はかなりの人出だった。石山寺は近江八景の「石山秋月」として知られた寺だから、おそらく月見客だったのだろう。この寺の名は巨大な岩石の上に建っていることに由来するから、境内には岩が多く見られた。その1つの岩陰で休むと、まだ幼かった一番下の妹が月などはそっちのけで「おだんご、おだんご」と母にせびったので両親はおかしそうに笑っていた。もう60年も昔のことになったが、暗い中でしゃがんで母の手作りの月見団子を食べていた妹達の姿を懐かしく思い出す。

南京の旅(13) -自由市場②-

2007-09-25 08:59:40 | 中国のこと
魚はエアポンプで空気を注入している容器の中で生きたまま売られている。

 



家鴨と鳩


  鳥を竿秤で重さを量るとすぐに処理してくれる。首の血管を切って血を抜き、湯につけて羽毛をむしり取る。何やら哀れな光景である。


豚肉。中国人にとって豚肉は必需品である。


ペディキュアをしたような爪の赤い豚足や内臓なども売っている。


豆腐の加工品。馴染みの豆腐干のほかにも見知らぬ製品がいろいろあった。


敏敏が祖母と一緒に買い物に来ていた。


豆腐干を買う敏敏の祖母。


  餅(bing ピン) 。小麦粉をこねて薄く伸ばして焼いたり蒸したりしたもの。中国人の好むもので、いろいろな餅がある。家庭でも作る。


餅を焼く。思わず買いたくなるくらい美味しそうだ。



 
 朝食を食べる人達。饅頭(mantou 餡なし蒸しパン)や包子(baozi 餡入りまんじゅう)が湯気を立ててうまそうである。麺もある。




蛇酒。強壮剤だろう。自由市場の中では変り種。



南京の旅(12) 南京で⑦-自由市場-

2007-09-24 09:45:09 | 中国のこと
 南京で泊まったホテルは、敏敏の祖父母の家から2、3分の所にあり、宿泊料金は3000円くらいで安いが、設備などには別に問題はなかった。このホテルの前の広い道路を渡ってすぐのところに、朝の自由市場が開かれていた。

 道路から入った幅5、6メートルくらいの道の両側には、100メートル程の間にたくさんの露店や朝食を提供する店が並んでいて、買い物客でごった返していた。


 私はこのような庶民の生活感の溢れている雰囲気が大好きなので、2日間通って楽しんだ。さまざまな品物が売られていて、人々はここでその日の食事の材料を買うらしかった。いちいち値段は確かめなかったが、かなり安いらしい。

野菜はどれも朝採りらしく新鮮そうである。


小芋、ピーマン、枝豆、ゴーヤなど。


蓮根、玉葱、ピーマンなど。敏敏の祖父母の家で蓮根を使った美味しい揚げ物が出た。


大きな冬瓜。切って量り売り。


漬物。これも人気があるようで、次々に買っていた。


桃と棗。生の棗はリンゴのような食感で美味しい。


栗。殻つきと剥き身。敏敏の祖母は家鴨と栗の料理を作ってくれた。


いろいろな穀物。そばで黒胡麻を臼で挽いている。


月餅

2007-09-23 09:03:30 | 中国のこと
 西安の謝俊麗(シェ・チュンリイ)から月餅が送られてきた。

 月餅は中国では旧暦8月15日の中秋節にはなくてはならない縁起物のようなもので、その日に合わせて人々は月餅を贈り合う。旧暦だから新暦では中秋節は毎年違う。去年は10月6日だったが、今年は9月25日。俊麗からの月餅はちょうど時宜に適っていたわけだ。もっとも俊麗は今年の中秋節は何日だったかは知らなかったようで、美味しくて好きだから私にもと思って送ってくれたようだ。

 送られてきた月餅は普通に見かけるものよりは小ぶりである。上海の敏敏の両親におみやげとしてもらった有名な杏花堂の月餅(左)と比べてみる。北京空港の土産物店ではもっと小さいものを売っていたが、年中売られているいかにも土産物と言うようなものだった。


 9個送られてきたが全部種類が違う。店には30種くらいあるそうだ。

 核桃金糸棗は胡桃と棗の入った餡、草苺はイチゴ味、蛋皮紅豆沙はケーキの皮に小豆の餡が入ったもの、緑豆沙龍巻酥は緑豆の粉の餡の入ったパイ皮、蛋皮珈琲は珈琲味などさまざまなものがある。今時風に創作したものなのではないだろうか。


 ブランド名は「米旗ミィチィ」だが、ローマ字で「Maky」としていて、マイキーと読むと日本語の発音のようになる。「MOON CAKE」とも書いてあるし、「New Taste」などの英語も書いているので、俊麗に若者に人気があるのかと尋ねたが、そうでもないと言った。やはり中秋節頃の限定販売らしい。


 早速食べてみたが、甘さもほどほどで美味しい。小さいから1回で食べ切れる。

南京の旅(11) 南京で⑦-夫子廟-

2007-09-22 08:48:38 | 中国のこと
  閲江楼を見た日の夕刻、敏敏と璐璐と一緒に、市内南部の夫子廟(Huzimiaoフツミャオ)と言う繁華街に出かけた。

「夫子」とは孔子や高名な儒学者を称する言葉で、日本語では「ふうし」と言う。夫子廟は普通には孔子を祭る廟のことを意味している。孔子廟は文廟、聖廟、聖堂(東京の湯島聖堂)などとも呼ばれる。

  敏敏は出かける前に、南京で一番賑やかな所ですと言っていたが、南京では夫子廟のある繁華街とその近くにある昔の科挙の試験場の跡地を含めた一帯を夫子廟と言っているようだ。

 タクシーを降りて夫子廟の区画内に入ると樹木の多い街並みに入る。ここには現代的な店が並んでいる。


夫子廟の門


 主殿である大成殿。修理中であった。南京の夫子廟は古く宋代の1034年に創建されたが、その後幾度も戦火で焼失し、現在のものは清の同治年代に建設された原図を基本にして1986年に再建された、比較的新しいものである。


大成殿の前には中国で最大と言う孔子像がある。


  大成殿の内部正面には、これも中国国内では最大と言う孔子画像がある。高さは6.5メートル、幅は3.5メートルあると言う。周囲の壁には孔子の事跡を描いた絵がある。


大成殿を通り抜けると小さい門がある。「東南第一学」は南京のある地方で最高の学校と言う意味だろう。


  この門の中に入ると左右に学宮と言う昔の学舎がある。宋代には学宮で秀才(各県の官吏登用試験の合格者)が学び、上級の省級の科挙試験の準備をした。 

中庭には、鐘楼と鼓楼がある。





正面の明徳堂。ここで試験の結果が発表されたと言う。


  夫子廟の前は広場になっていて、その前(南側)には南京城内を流れる秦淮(しんわい)河がある。広場の西側は繁華街になっている。

繁華街にはレストランやみやげ物店がたくさんある。




 今読んでいる「中国性愛文化」(劉達臨著、鈴木博訳:青土社)によると、明代の中期以後になると秦淮河の両岸には遊女を置く妓院が建ち並び、全国の妓業の中心地となって、全国に秦淮の名を馳せたとある。
 また清末にはこのあたり一帯は科挙の試験場とともに遊郭も多くある歓楽街だったようだ。当時この河で遊女を伴って舟遊びをする人々は多かったと言う。

秦淮河に舫う遊覧船。








南京の旅(10) 南京で⑥-獅子山閲江楼-

2007-09-21 09:52:43 | 中国のこと
 紫金山天文台に行った翌日、王解寧さんの案内で西北部にある獅子山に行った。やはり敏敏と璐璐が同行した。

 獅子山は海抜78メートル、長江を一望できることから古くから軍事戦略上重視されていた。明の太祖朱元璋が獅子山の戦いで元の40万の大軍を破って1368年に明帝国の建国を実現することができた故地である。

タクシーで南門前に乗りつけ、ここから入場した。


 南門のそばに城壁があり、儀鳳門という門がある。城壁は明代のもので石組みが美しい。



 南門から入ってしばらく行くとエレベーターがあり、これに乗って頂上まで上った。頂上には閲江楼と言う大きな楼閣がある。

閲江楼。7層51メートルの楼閣である。


 朱元璋は建国後、「閲江楼記」という文章を作り、獅子山の頂上に閲江楼という楼閣を建設することを決めた。彼はそこで「碧色の瓦に朱塗りの柱」という楼閣の姿を構想した。しかしその後は民生の安定を優先して基礎工事だけで建造は中止、その後も実現することはなかった。現在の閲江楼は2001年に建造されたものである。長江沿いには古くから有名な3つの楼閣(湖北省武漢の黄鶴楼、湖南省洞庭湖の岳陽楼、江西省南昌の滕王閣)があるが、閲江楼はそれと共に4大楼閣と自称している。

閲江楼の正面の階段。ここから楼閣内に入る。



横から見た閲江楼。朱元璋がイメージしたように、藍色の瓦と朱塗りの柱が美しい。


楼内の各層にはいろいろな展示物がある。

 明朝歴代皇帝画像。一番左が太祖朱元璋。明王朝は第17代崇禎帝が清軍に包囲されて自殺し1644年滅亡した。17人の皇帝像の説明を見ていくと、英明君主もいれば暗愚な皇帝もいたことは他の長期王朝と同じである。


五色土。朱元璋が獅子山の戦いの前に発見したと言う土。彼は祭壇を設けて祭祀を行なったと言われている。


   鄭和遠征図。鄭和は明の永楽帝時代の宦官でイスラム教徒。大艦隊を率いて1405~1433年に前後7回、インド洋や南洋に遠征した。
 

閲江楼から見た城壁。南京の城壁は高さ20m、延長約34kmで世界最長と言う。13の城門がある。


最上階。百獅台という獅子の彫刻がある紅木(マホガニー)製のテーブルと椅子がある。


最上階の天井の黄金の龍のレリーフ。


最上階から見た長江大橋。


  長江大橋は自国技術で建設された中国では最初で最大の大橋。9年の歳月を要して1968年に開通した。自動車、鉄道の両用2階建て。

最上階から見た秦淮河。この河は城内を流れて長江に注ぐ。


南京市街



 最上階から降りる時にはエレベーターを使った。エレベーターはこのような歴史を意識した建築物には似合わず興醒めでもあるが、まあ観光名所として売り出していて、大阪城や名古屋城のようなものと思えばいいのだろう。

 
 帰りは歩くことにした。静かで緑が美しい。璐璐は何度も来たことがあるのか、よく地理を知っていた。

桂花(木犀)の木。今頃は満開になっていて芳香が立ち込めているだろう。


両側にたくさんの桂花の木がある道。


城壁。頑丈で美しい。


城壁の近くに置かれた明代の大砲。


朱元璋像


東門のあるところに下りた。


東門の前の壁。



 この日も楼内も外も階段続きだったので、王解寧さんがずっと介助してくれた。2日間、王さんには本当にお世話になり有難く思った。真心こもる親切が忘れられない。