中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

大晦日

2006-12-31 20:59:24 | 身辺雑記
 結局、慌しくしていても、居直っていてもこの日はやって来る。どうもヘルペスがすっかり治まっていないのか体が何となくだるいとか何とか、自己弁解のようなことを言いながらごまかし程度の掃除をして今年の終わりを迎えた。男やもめに蛆が湧くと言うが、その寸前の状態だ。そのくせ気が向いたことはするのだからいい加減なものだと思う。内田百の随筆には、大晦日に借金取りと攻防する情景がユーモラスに描かれているが、今はそんなことに煩わされることもない。いたって静かな暖かい日だった。それでも街に出るとたくさんの人が右往左往していて大晦日らしい雰囲気だった。百貨店の中も大混雑で、いくつもあるレジはどれも長蛇の列、恐れをなして予定の買い物は別の店ですることにして退散した。

  「国民的行事」とやらのNHKの紅白歌合戦が始まっている時刻だが、テレビは点けていない。もう何年もこの番組は見たことがない。国民的とか何とか大仰に言われると、ついそっぽを向きたくなるのは天邪鬼かも知れないが、好きになれないのだから仕方がない。最近は同じ時間帯でやっている民放の格闘技K1の放映に人気が集まっているようだが、それも観る気は起こらない。要するに独り者は独り者らしく静かに年を越したいのだ。

 沈思して今年を顧みるというほどのことでもないが、やはり今年もいろいろなことはあった。健康面では最後になってヘルペスとやらとお付き合いしたが、寝込んだわけではないから、まずまず元気に過ごせたと言っていいだろう。経済的には年金生活者だから思わぬ大金が転がり込むこともなかった。宝籤やロト6が当たったら、競馬で大穴を取ったらと狸の皮は何枚も数えるのだが、買わないのだからどうにもならない。まあ、子ども達に負担をかけることもなく、今年も中国旅行もできたから満足するべきなのだろう。何よりも、今年も卒業生達と楽しく過ごし、中国の若い友人達との交流も楽しめたのは一番いいことだったと思う。

 これだけはすると決めている、妻に年越し蕎麦を作って供えることもした。元旦の雑煮の準備もできた。後はテレビで各地の除夜の鐘を聴くだけだ。本当は近くの寺に出かけて生の鐘の音を聴けば趣きもあるのだろうが、それほどの執念もない。唐の詩人の張継の「楓橋夜泊」で有名な中国蘇州の寒山寺には、毎年大晦日になると日本からたくさんの観光客が除夜の鐘を聴きに訪れるそうだが、いくら中国迷爺爺と自称していてもとてもそんな気は起こらない。

 何やら孤老のひねくれた年末の感想になってしまったようだが、ともあれこの1年間私に有形無形の心遣いをしてくださった友人、知人、卒業生達には心から感謝したい。そして、来年も狷介な老人にだけはならないように、心の若さを保つことを心掛け、好奇心をいっそう旺盛にし、多くの人達と交流し学んで行こうと思う。



新疆からのプレゼント

2006-12-30 09:03:32 | 中国のこと
 昨夜、新疆ウルムチの趙戈莉から小包が届いた。開いてみるとマフラーに包んだ花瓶が入っていた。早速電話して礼を言った。新疆は中国の西の端にあり時差は3時間くらいだが、電話の声ははっきりしていてすぐ近くにいるようだった。少し風邪を引いているようで鼻声を出していたが、気温はマイナス18度だと言う。今の新疆は厳寒の時期だ。春になって「暖かくなりました。8度くらいです」と言う便りをもらったことがあるから、その寒さはちょっと想像できない。

 送ってくれたマフラーは彼女が南新疆のカシュガルで買ったもので、ウイグル族の手織りと言うことだった。柔らかい手触りだ。花瓶は銅製で表面に民族的な模様が彫ってある。花瓶の中に良い香りの乾燥したラベンダーの花が詰めてあるのは戈莉の心遣いだろう。こんな小さいものしか送れなかったから、新疆に来られたらもっと大きいものをあげますよと戈莉は言ったが、これで十分だ。どちらも気に入った。何よりもその気持ちが嬉しい。



 これまでにも彼女は私の誕生日や新年などに何度もプレゼントを贈ってくれている。彼女と出会ったのは、2001年に高校時代の友人夫妻とウルムチ、トゥルファンを訪れた時にガイドしてくれたのが最初で、その後2003年に北新疆のアルタイ地方のカナス湖に行った時にも同行してくれた。いつも笑顔の明るく元気な娘で、旅行中は楽しく過ごせた。それからもう3年もたつが、これまでにこまめに便りやプレゼントを贈ってくれたり、電話で話したりしているので、何かしら身近な存在に思える。彼女もメールや手紙では私を「おじいちゃん」と呼んでいる。今年の5月に結婚したのでお祝いを贈ったらとても喜んでくれ、結婚式の写真を送ってきたが、孫娘の花嫁姿を見ているようで嬉しかった。

 新疆のような遥か遠い地にいて、2回しか会ったことがないのに、こうしてずっと親しく付き合っていける関係になったのは幸せなことだと思う。寒い夜だったがとても暖かい気持ちになった。

初雪

2006-12-29 09:22:00 | 身辺雑記
 昨日は久しぶりに寒い日だった。夕方は風が強く、低気圧だろうと思った。今朝起きて外に出ると、庭木や屋根がうっすらと白くなっている。この冬初めて見る雪だ。気温は5度。夜半は零度近くになったのだろう。通りかかった近所の婦人が「冷たいものが降りましたね」と挨拶した。



 最近、北海道美唄に住むSさんという人とブログで知り合った。60代前半(?)、ブログ歴1年の、好奇心旺盛でエネルギッシュな男性のようだ。ブログも私のような堅苦しいものではなく、日常生活が自然体の文章で綴られている。このSさんのブログを見ると11月の半ばには霙が雪になっているし、12月に入ると大雪、雪下ろしの知らせもあった。私が住んでいる宝塚などから見ると想像できない雪国だ。そんな所にいるSさんからすると、ここの初雪、初積雪など「かわいらしい」と言うほかはないものだろう。

 空は快晴、今日の気温予想は最高6度だが、また暖かくなると聞いている。

プティ・サレのポテ

2006-12-29 09:21:27 | 身辺雑記
 最近とみに食事は簡単になってきた。興味がないことはないのだが、どうも独りでする食事は「いただきます」「ごちそうさま」もなくて味気ない。時にはまるで餌だなあなどと思いながらそそくさと済ませてしまい、余韻も何もあったものではない。毎日作っているのですかと尋ねられることがあって、まあねとか何とか曖昧な返事をすると、感心ですねえと言われるが、そんなことでもない。

 料理には興味があり料理の本を見るのは好きで、妻がいた頃は何かと手の込んだものを作ったこともある。チーズケーキなども何種類か焼いたものだ。それが、妻がいなくなるとだんだん作らなくなった。やはり「美味しいねえ」と言われないと作る興味も失せてしまうようだ。

 それでも時々、ちょっと作ってみるかという気を起こすことがある。10日ほど前の新聞の家庭欄にプティ・サレという豚のバラ肉の塩漬けを使った料理の記事があり興味を持った。フランスの料理らしい。この塩漬け肉とキャベツやジャガイモを煮込んだポテという料理を作ろうと言うわけだ。主役のプティ・サレを作るだけで1週間かかるのだが、後は煮込むだけで簡単そうなのでやる気が出たのだった。

 新聞のレシピではバラ肉は1キロ使うようになっているが、多過ぎるようなので半量にした。このブロック肉に塩と砂糖と胡椒をすり込んでビニール袋に入れ、重石をのせて冷蔵庫で1週間寝かせるだけで、大した手間はかからない。





 1週間たったので取り出して、流水に15分さらして塩抜きする。これをたっぷりの水で3~4時間ゆっくり煮る。やわらかくなったらキャベツを加えて30分ほど煮る。今回はジャガイモは使わないことにした。ざっとこれだけのことでいたって簡単なものだ。



 出来上がったスープの味見をすると、香りはいいがどうも水臭い。水が多過ぎたらしいので、別の鍋に取って煮詰めたら何とか良い味になった。さて、皿に取って食べてみるとまあまあの味だった。肉質が少々ぱさついているのが難点だが、これは安かったから仕方あるまい。皿に盛り付けてみると、新聞にあった写真と比べるとどうにも泥臭いが、まあ専門のシェフのものと比較するほうが無理なことだ。自己採点で60点と言うところか。別にとりわけ洗練されたものではなく、ごく普通の家庭料理なのだろうが、豚肉もキャベツも安いから、経済的な料理ではある。


 
  しかし、やはり500グラムでも多かったようで、もちろん一度には食べ切れない。いくら旨くても年内こればかり食べては飽きるだろう。キャベツも4分の1だけ使っただけだから、まだたくさん余っている。これも何とかしなければいけない。多い材料で作ったほうが旨い味になるとは言っても、どうも後のことを考えずにたくさん作ってしまうのが私の悪い癖のようだ。とかく独りの生活は侘しい。

海底ケーブル切断

2006-12-28 10:44:09 | 中国のこと
 昨日は一日中、西安の李真や袁毅は2人ともずっとオフラインになっていてチャットができなかった。夕方李真に電話したら、台湾の地震の影響で、海底ケーブルが切れてインタネットが通じなくなったと言った。

 台湾の地震はこちらではあまり大きなニュースにならなかったこともあって、知らなかったのだが、インタネットの「中国情報局」と言うサイトを見ると、

「26日午後8時26分頃(現地時間)、台湾南部の屏東県恒春の沖合でマグニチュード6.7の地震が発生した。27日午前までに、死者が2人、負傷者は42人に上ると報じられている。インターネットと電話の通信に影響が出ており、台北からは日本、中国大陸への電話が不通になっているとの現地情報もある。」

とあった。この地震のために中国の海底ケーブルが少なくとも6本切れ、北京、陝西省・西安、重慶、湖北省・武漢などでネットへの接続が困難になったらしい。

 台湾沖のケーブルが切断したら、なぜ日本と中国との間も不通になるのか、そのあたりのことはよく分らないが、私などはチャットするくらいだからいいとしても、企業などは打撃を受けるだろう。東京の旅行会社にいる施路敏は、電話もファックスも通じないから北京などの現地旅行社と連絡できないからとても困ると言っていた。

 この文章を書いている間に、西安のほうは何とか回復しかけたようだが、文明の利器も自然のちょっとした不機嫌な行動にはもろいものだ。

 

金縛り

2006-12-27 10:09:50 | 身辺雑記
 珍しく金縛りに遭った。

  夢の中で体が重くなり動くことができなくなった。何とか動こうとするのだが、体は石のように重くて身動き1つできない。そのうちにあがいている自分の姿が見えた。上下とも薄いラクダ色の袋のような衣服を着ているようで、どちらかの腕を胴の下に敷いている。何やらミイラが投げ出されているようだった。それでその腕を体の下から引き抜こうとしたが、それもできない。思い切り力を入れて、エイ!とかワオ!とか何か一声喚いてどうにか腕を抜くことができた、と思った途端に体が軽くなって現に戻った。まだ息苦しい感じだったがほっとして溜息をつき、ああ、金縛りだったのだと思った。たぶん、実際に大声を出したのだろうと思う。妻がそばに寝ていたら、びっくりして目を覚ましたのではないだろうか。

  若い頃はよく金縛りを経験した。おおかたは上を向いてうとうとしかけた時に起こったようだ。それほど恐怖心は起こらないが、とにかく何とか動こうとしても、まったく動けない。上から押さえられているようにべったりと寝床に張り付き息苦しく、金縛りとはよく言ったものだ。もがいているうちに急に動けるようになり、大きく息をついて目が覚める。実際にその時にはどういう格好や動きをしているのだろうか、見てみたい気もする。

  いったいこのようなことがどのようして起こるのか、インタネットで調べてみた。それによると、医学的には「睡眠麻痺」と呼ばれる現象で、夢を見る時の睡眠であるレム睡眠の時に起こると言う。

 「夢を見ている時には脳は活発に活動しているが、体は活動を休止している。レム睡眠は肺の活動も休止させてしまうことがあり、そのことによって息ができなくなり人が胸の上に乗っているような感じになり、それと夢が重なり人が体の上に乗っているように感じ、そして体の活動が休止しているため、動けないように感じるのである。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 私は冬によく金縛りを経験するようなので、布団が重いからだと思っていたが、そうでもないようだ。金縛りに遭うと人が自分の部屋に入っているのを見たり、耳元で囁かれたり、体を触られているように感じることもあり、これは現実のことで、現れたのは幽霊ではないかと、多大な恐怖を覚える人も多いともあるが、私は経験したことはない。経験したらおそらく怖いことだろう。人が幽霊を見たと言うのは、こういう経験をしたからなのかも知れない。金縛りではないが、ひどく気味の悪い夢を見ることはある。そんな時にはみっともない話だが悲鳴を上げて目を覚ましたこともある。目が覚めて子どものように、ああ怖かったなと溜息をつくと、体が布団から出ていて冷たくなっている。体が冷えたからぞっとする夢を見たのかも知れない。

 金縛りに遭うと息が止まるような感じで(実際に休止しているらしい)、怖いことは怖いが、死ぬようなことはないようだ。人間の生理現象、特に脳の働きはなかなか複雑なものだと思う。

季節外れ

2006-12-25 14:12:30 | 身辺雑記
 街に出る途中にある、このあたりの旧家の庭に大きな素心蝋梅の木がある。毎年の時期には見事に花を着け、あたりに芳香が漂う。

 秋の終わりには葉は黄色くなり、やがて落ちる。そばを通って今年はまだ落葉していないなと思い立ち止まってよく見ると、枯葉の残る枝の先に花が咲いていたのでちょっと驚いた。あたりにかすかに香りもある。蝋梅の花は葉が落ちてしまった2月頃に咲く。新しい葉はまだ出ていないで、黄色い花がびっしりと枝に着き、樹全体が黄金色の見事な眺めになる。このようにまだ葉が落ち切っていないのに花が咲いたのは、12月に入っても暖かい日が続いたためではないだろうか。狂い咲きと言うことではないが、少し季節外れだ。



 近頃は野菜や果物などはビニールハウスなどの温室栽培が発達しているので、旬という感覚が薄れてきている。しかし、やはりその季節に合ったものがいい。胡瓜が出始めると夏になるなと思ったり、蜜柑の香りに冬の訪れを感じたりするのは、日本の風土に似合っていたと思う。それが今ではのっぺらぼうのような感じになってしまった。花でも花屋の店先は年中春の盛りのようだ。さすがに自然の中の樹木や街路樹、庭木などの花は季節の到来を知らせてくれるが、今年の蝋梅は少し勘違いしたようだ。蝋梅はその季節らしい早春の陽光の中で咲くとその美しさが際立つ。蝋梅は私の好きな花の1つだが、季節外れに咲いては魅力が乏しく、枯葉の中に埋もれてちょっとかわいそうにも思う。こんなに早く花が咲いては、来年の蝋梅はあまり期待できないかも知れない。



廃業

2006-12-24 17:40:30 | 身辺雑記
 今年最後の散髪に、行きつけのY理髪店に行った。最近胃癌の手術をして体力が衰えたために、店には出ていたが鋏を持つことはしなかった店主が久しぶりにやってくれた。始まってしばらくは雑談していたが、そのうちに「先生の頭を刈るのもこれで最後ですわ」と言った。私が教師をしていた頃からこの店に通っていたので、彼も彼の弟も、長くいる雇いの店員も皆私を今でも「先生」と呼ぶ。退職してからも「先生」と言われるのはどうも落ち着かない気分なのだが、この店では仕方がないと思っている。どうして?と聞き返すと、この年末限りで店を閉じると言う。突然のことで驚いたのと同時に、ではこれからはどこに行こうかと考えて、思わず「困ったなあ」と言った。
 
 彼は私と同い年であることもあって、長く通ううちに何とはなしに気の置けない関係になっていて、私の頭のことはちゃんと心得て、いつも満足できる仕上がりにしてくれていた。教師になった昭和30年代の初めの頃は、彼はまだ大きな理髪店の職人だった。その店は勤務先から帰る途中にあり、通っているうちに店では先輩格の1人の彼とは顔馴染みになった。その後独立して、たまたま当時私が住んでいた家の近くに店を持った。「28の時だったな」と彼は言った。「へえ、そんな年だったのか。お互いに若かったのだなあ」「そうよ。店を持ってから46年になる」。今更のように、過ぎ去った歳月の速さと遠さに驚いた。当時3歳くらいだった私の長男も妻に連れられて、この店で整髪してもらうようになり、次男も同じように馴染みになった。息子達は成人してもこの店が好きでずっと通っていた。「もう50年近くも来ていたんだね」「そう、半世紀だ」。半世紀と言う彼のその言葉で改めていろいろなことを思い出した。遠くなった頃のことなのに、不思議にそれほどの年月が過ぎたようには思えなかった。しかし、あの頃の私は硬くて多い髪を持て余していたが、今鏡に映っている私の頭は薄くなり白いものがほとんどだし、その私の頭を触っている彼の頭も白く、顔の皺も深くなっている。2人の上を50年近い歳月は間違いなく過ぎたことを改めて認識させられた。

 いつもと同じように、いや、気のせいかいつもより丁寧に仕上げてもらったように見える頭を見て「最後にYさんにやってもらって良かった」と言い、満足して椅子から下りた。他の客はいなかったので店の隅のソファーに腰を下ろすと茶と茶菓子を出してくれ、しばらく皆と思い出話などをした。彼は73、弟は71、店員は60を越している。お互いに年を取ったものだとつくづく思った。ひとしきり思い出話などをしてから腰を上げ、長い間有難うございました、どうかお元気でと言い交わし、頭を下げあって店を後にした。最寄の駅まで歩きながら、とうとう店を閉じるのか、何にでも終わりはあるからなあ、仕方ないなあと考えた。




柚子湯

2006-12-22 20:23:51 | 身辺雑記
 今日は冬至。昼が一番短い日だ。明日から春分に向けて日は次第に長くなっていく。一陽来復と言うが、春はまだ遠い。

 冬至だから今夜は柚子湯をすることにして柚子を買ってきた。半分に輪切りにして風呂の湯に浮かべると、良い香りがした。皮の黄色も良いものだ。湯船に浸かって浮かんでいる柚子を見ていると、私の体の動きで湯が動き、それに連れて柚子もぷかぷかと移動して、私に近づいてくる。その様子が何となく愛らしい感じもした。鼻先で止まると良い香りがする。手にとって切り口を嗅いだり、皮に爪でちょっと傷つけたりすると香りが強くなる。安物を買ったからこの程度なのだろうか、高いものならもっと香りが強いだろうか、いや、そんな良い柚子なら風呂に入れないで飲むほうの柚子湯にしたほうがいいかなどと取り止めもないことを考えているうちに体が温まってきた。柚子は血行促進効果が高く、冷え性や神経痛、腰痛などをやわらげ、とくに血液の流れを良くするとかで、気のせいかいつもよりは温まった感じがした。香りもいいし、視覚的にも美しく、体も温まる。柚子湯はなかなか良いものだと改めて思った。我が家の湯船はステンレス製で、これが檜で作ったものならもっと情趣があり温かさも違うのではないだろうか。



 冬至と言えば、かぼちゃを食べる風習も昔からあるようだ。妻は冬至の夜の食卓にはいつもかぼちゃを出した。これが息子達にはかなり不評だったが、「冬至にかぼちゃを食べるといいのよ」と妻は半ば強制的に食べさせようとするし、幼い頃から「お母さんの作ったものは嫌いと言ってはいけない」と言い聞かせていたので、しぶしぶ食べていたようだった。妻も工夫してポタージュにしたりしたが、やはり息子達には有り難くない風習だったらしく、妻が逝ってだいぶたってからも、「あれはかなわなかったなあ」などと話し合っているのを聞いておかしく思ったものだった。私もことさらにかぼちゃを食べようとは思わないので、妻がいなくなってからは冬至だからと言ってわざわざ買うことはしなかったが、街の和食の店で今日食べた弁当にはかぼちゃの煮たものが一切れ入っていたから、図らずも風習を守ったことになった。

 妻は節分の夜には鰯を焼いて出した。冬至のかぼちゃと同じように妻はそういうことにかけては几帳面だった。しかし、土用の鰻は出たことがなく「君は土用の鰻は出さないねえ」と冷やかしたこともあった。結婚した頃も子供ができた頃も今と違って中国産の鰻などはなかったので、鰻はそれほど安いものではなかったから、あの頃の妻にとって鰻については、風習を守るよりも家計を守るほうが大きなことだったのだろう。それとも妻は鰻があまり好きと言うほうではなかったから気が向かなかったのか、今となっては確かめようもないことになった。

水槽の魚

2006-12-22 09:40:18 | 身辺雑記
 昼食に寿司屋に入った。カウンターに座って前を見ると壁に水槽が置いてあり、中に何匹かの海魚が泳いでいる。アジが3匹、タイが1匹、名前は知らない朱色の魚が1匹、ハゲが1匹、カレイが1匹いた。水槽の中には金属製の四角い籠が取り付けてあって、中にクルマエビらしいのと、サザエがいる。

 近頃水族館には行っていないから、魚が泳いでいる姿を久しぶりに見たので、注文した寿司が運ばれてくる間、茶を飲みながらその様子を眺めた。アジは鮮魚店などで見るのと違ってきれいに輝く白銀色をしている。胸鰭を広げてゆっくりと泳ぎ回り、尾鰭を見せて少し底の方に向かっている後姿は着陸しようとしている旅客機のように見える。その中の1匹は時々風船ガムを膨らませるように、口から得体の知れない丸い袋のようなものを出してはすぐに吸い込む。タイは水槽の中ほどを泳いでいたが、やがて底に敷いてある小石の上に体を置いてガラスに凭れ、鰭だけを動かしている。尾鰭や鱗の一部が白っぽく傷んでいるようで、何かぐったりとして弱っているように見えた。ハゲは青い色の鰭を動かしながら水槽の中央に空中停止しているようにしている。口がひどく突き出た面白い顔をしていたが、ウマヅラハギと言うのだろうか。朱色の魚は浮いたり沈んだりしていた。カレイは鰭を波打たせながら底で横たわっている。どの魚も大きな丸い目で、瞼がないから瞬きはしない。無表情なようなびっくりしたような顔つきで、見ていると朝の電車の中で前に立った、目がひどく大きな若い娘の顔を思い出した。

 じっと観察しているうちに寿司が運ばれてきたので食べながら見続け、この魚たちはいったいどこで捕らえられてここに運ばれてきたのだろうかと考えた。最近は生きたまま運搬する方法が発達しているから、案外遠くの漁場で数日前に水揚げされ、いくつかの経路を経てこの店に運ばれてきたのかも知れない。そうして偶然に同じ水槽に同居することになったのだろうが、つつき合ったり、体をぶつけ合うこともなく、と言って仲が良さそうでもなく、勝手気ままにゆっくりと狭い空間を泳いでいる。熱帯魚などの飼育と違うから、空気は送り込んではいるが餌をやっている様子はない。いずれ近いうちに寿司のタネにされて、目の前にあるガラスケースの中に並べられるのだろう。そう考えると何かしら哀れにも思えてきた。その癖、あのアジやカレイを活け作りにしたらさぞ旨かろうなどと想像したりもするのだから、いい加減なものだ。

 1人で食事をすると、いつもならそそくさと済ませてしまうのだが、目の前で泳いでいる魚を見てあれこれ考えながら食べたものだから珍しくゆっくりしたけれども、魚に気を取られて食べた寿司の印象はあまり残らなかった。