今朝、私のもとに届いたメールに載せられていた一編の詩を紹介します。
作者は不明だそうですが、アメリカのある病院の壁にひとりのベトナム帰還兵が書き付けたものと言われているようです。
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『グリフィンの祈り』
大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと神に求めたのに、
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった
偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことをするようにと、病気をたまわった
幸せになろうと、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった
人生を享受しようとしてあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった
求めたものはひとつとして、与えられなかったが、
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにも関わらず、
心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられた
私はもっとも豊かに祝福されたのだ
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私にも夢があって、それを実現するために日々を生きてるわけですが、つまり常に「求めている」状態なわけです。
2500年前に釈迦は、この「求める」ことを「執着」という言葉で表現しました。
こうありたい自分を目指して突き進むことが、いつしか「執着」と呼ばれるものにすりかわってしまうと、叶うものも叶わなくなるんじゃないか・・・。
そう思うようになりました。
今までも思い当たる出来事がいくつかあります。
執着すればするほど、手に入らなくなってしまうばかりか、足を引っ張るような現象が起こってしまう。
こうなったらシアワセだな、楽しいだろうな、でなく「ねばならない」と歯を食いしばってしまうと・・・おじゃんになってしまうような。
夢を描くのはもちろん素敵なこと。
でも、そうじゃなきゃダメだ!とか悲壮な顔をするんじゃなくって、目の前にあることに黙々と取り組んで、自分の大好きなことをやってシアワセを味わうのが大事と思うのです。私はね。
そして、願ったことと反対のことが起こったとしても、必ずそれには意味があり、そこからまた新たな展開が開かれていると信じています。