連載小説「六連星(むつらぼし)」第11話
「鉱毒事件と暴動の渓谷」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/04/46db6ca8ea3e4e20f6cbc4e3387efa8e.jpg)
助手席に座っていた響が、いつのまにかシートベルトを外しています。
俊彦の肩へもたれかかりながら、進行方向右側に沿って刻々と姿を変えていく、
渡良瀬川渓谷の美しさに見とれています。
赤城山のもっとも東端で、渡良瀬川と合流をした国道122号線は
途中の草木ダム湖で一息をついた後、さらに高度を増していく山々の間を縫いながら、
ひたすら北上をつづけいきます。
この道は、足尾銅山から、東照宮のある日光市へと至る約30キロ余りの山道です。
渡良瀬渓谷からは片時も離れずに、さらに、川に沿って走る渡良瀬渓谷鉄道との並走も、
終点である足尾町まで続きます。
関東平野と日光を結んでいるこの国道122号線の大部分は、
江戸時代のなかばから、江戸と足尾銅山を結ぶ銅街道(銅山街道)として整備をされました。
この牛馬たちの道をもとにして戦後になってから、本格的な自動車道として
長い時間をかけながら、少しずつ整備がすすめられました。
ここはまた、徳川家康が祀られている日光東照宮と江戸を結ぶ最短の街道としても
有名で、真北にある北極星をめざすことから『北辰の道』としても知られています。
毎年、京都から日光東照宮への参詣に向かう朝廷からの例幣使たちも、
15日間をかけた旅の日程の最後に、この山間の道を歩きました。
さらにこの道は、はるか東北地方へも山を越えて連なります。
特に会津地方との結びつきは深く、この先で日光と会津を結んでいる会津西街道は、
参勤交代の街道として頻繁に使われたため、いまでも随所に
宿場町などの面影を色濃く残しています。
「どこまで行っても、凄い渓谷美が続いているんだもの・・・・
トシさん、新緑の頃ならここは別世界でしょうねぇ、紅葉もすごいだろうなぁ。
こんな冬枯れの季節じゃなくて、もっと良い季節に来たいわよね~
ねぇ、ねったらさぁ」
「お前さんは、いったいいつまで俺のところへ居座るつもりだ。
このまんま桐生に居着きそうな、そんな気配がする」
「あら、迷惑なの。あたしが居たら ?・・・・」
「きっかけをつくったのは、俺の方だ。
行きがかり上、今さら、出て行けとも言えん」
「トシさんのところは、居心地がとってもいいんだもの。
このまま居着きたいくらいだわ。
なんなら、お嫁さんになってあげても良いくらいです」
「まっぴらだ。それじゃあこっちが持たない。
まあ、そう気にせずに、気が済むまで居るがいい。
どうせ、殺風景な男の一人暮らしだ。華が有って俺も助かる」
「ピンクの下着が干して有ると、誰か困る人がいるんじゃないの?」
「そういうときには、余所で会う。
子供が大人の込み入った事情に、介入はしない。
油断も隙もないな、響は」
「この綺麗な渓谷の水の、源流部はどこなの」
「日光の皇海山(すかいさん)に源流部がある。
そこから銅山で有名な足尾山塊の水を、たくさん集めて流れだしてくる。
栃木県から群馬に向かって南西方向へ流れだしてきて、最後は利根川へ合流をする」
「銅山って、あの鉱毒事件の原因になった、あの足尾のこと?」
「よく知ってるね、その足尾だ。
綺麗な水に見えるけど、足尾鉱毒事件や川俣事件を起こしたほど、
此処は、明治時代に大規模に汚染されてしまった河川だ。
去年の大震災であちこちの地層がずれたために、隠れて蓄積していた鉱毒が
あらたな汚染環境として発見をされたために、
過去の出来事として片付ける訳にもいかなくなったようだ。
川だけではなく、足尾一帯の自然環境も、銅山開発の排煙や鋼毒ガスなどの
有害物質のために深刻で、壊滅的な被害を長年にわたって受けてきた。
そればかりか・・・・
払い下げられた国有林を無計画に伐採をしすぎたために、
山林の荒廃が進んだ結果、渡良瀬川の洪水を増大させてしまったと言う、
きわめて苦い、過去の教訓がある」
「足尾銅山鉱毒問題が初めて国会でとりあげられたのは、
明治24(1891)年12月25日の、有名な田中正造の質問演説のことでしょう。
【とに角、群馬・栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は、足尾銅山から流れて、
両沿岸の田畑1,200余町の広い地面に鉱毒を及ぼし、
2年も3年も収穫が無かったのである。
特に明治23年という年は、1粒も実らない。
実らないのみならず植物が生えないのである。】
そして、その時の質問書には
【去る明治21年より現今に至り毒気はいよいよその度を加え】
と、その鉱毒被害の経過も指摘しているのよね。
でもこの時の農民たちの必死の訴えを、国は一切無視した。
このあと、明治34年に田中正造が衆議院議員を辞職までの11年間で、
議会における質問書や演説、その他の発言の320件のうち、
足尾の鉱毒問題関係が、半数以上を超えているのよね・・・・」
「驚いたな。その通りだよ。どこでそんな勉強してきたの」
「全部、お母さんからの受け売りです。
話としては知ってたけど、ここがその川だということは、たった今知りました」
「田中正造の活躍もあって、
明治29年までの段階で、古河市兵衛(足尾銅山主)との示談契約工作がなされ、
栃木と群馬の両県で、鉱毒被害関係43か町村が示談契約を結んだ。
しかし、明治29年7月と、9月の2回
特に9月8日の大雨と大洪水は、古今でも無例といわれ、
渡良瀬川の下流沿岸一帯に、きわめて大量の鉱毒を押し流した。
その被害の大きさから、社会問題として再び注目を集めることになり、
局面が、ここから大きな転換をはじめた。
ついには、鉱毒問題の解決を、示談という方法でなく、
銅の生産そのものを止めさせる、足尾銅山鉱業事態の停止を目標とした
沿岸住民の大運動が大同団結をすることになった。
明治29(1896)年10月5日、渡良瀬村(現館林市)の雲龍寺で
群馬と栃木の両県によって「鉱毒事務所」が設立されたのをきっかけに、
おおくの同士たちが、精神的契約書「雲龍寺の連判状」を結び、
組織作りが、いっきに活発化をしはじめる。
これをきっかけにして、請願陳情運動も高まりをみせ、
その請願陳情の運動も1次・2次・3次としだいに深刻化を呈してくる。
それらが、明治33(1900)年2月13日の第4次請願陳情運動において、
ついに、権力と衝突をする川俣事件の発生をうむことになった」
「川俣事件 ?」
「うん、おそらく近代日本では、最初の公害闘争の記録だと思う。
明治33(1900)年2月13日に、足尾銅山の鉱毒問題を解決するため
2千5百余名の被害民たちが、決死の覚悟で、第4回目の東京大挙押出し(請願)を決行した。
前夜から雲龍寺(現館林市)に集結した被害民たちは、
朝9時頃同寺を出発し東京へ向かった。
途中で警察官と小競り合いを演じながら、
正午頃に、佐貫村大佐貫(現・群馬県邑楽郡明和村)へ到着をした。
ここで2台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手前の同村川俣地内の
上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで、
待ちうけた、3百余名の警官と憲兵が、暴力で蹴散らし
多くの犠牲者を出して被害民たちは四散した。
この事件で被害民15名がその日のうちに捕縛され、
さらに翌日以降の捜査で、100余名が逮捕をされている。
このうちの51名が、兇徒聚衆罪等で起訴をされた。
それが、民衆たちが、権力と初めて闘ったという
公害闘争の記録、川俣事件だ」
(12)へ、つづく
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・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (44)たまの機転
http://novelist.jp/62618_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html
「鉱毒事件と暴動の渓谷」
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助手席に座っていた響が、いつのまにかシートベルトを外しています。
俊彦の肩へもたれかかりながら、進行方向右側に沿って刻々と姿を変えていく、
渡良瀬川渓谷の美しさに見とれています。
赤城山のもっとも東端で、渡良瀬川と合流をした国道122号線は
途中の草木ダム湖で一息をついた後、さらに高度を増していく山々の間を縫いながら、
ひたすら北上をつづけいきます。
この道は、足尾銅山から、東照宮のある日光市へと至る約30キロ余りの山道です。
渡良瀬渓谷からは片時も離れずに、さらに、川に沿って走る渡良瀬渓谷鉄道との並走も、
終点である足尾町まで続きます。
関東平野と日光を結んでいるこの国道122号線の大部分は、
江戸時代のなかばから、江戸と足尾銅山を結ぶ銅街道(銅山街道)として整備をされました。
この牛馬たちの道をもとにして戦後になってから、本格的な自動車道として
長い時間をかけながら、少しずつ整備がすすめられました。
ここはまた、徳川家康が祀られている日光東照宮と江戸を結ぶ最短の街道としても
有名で、真北にある北極星をめざすことから『北辰の道』としても知られています。
毎年、京都から日光東照宮への参詣に向かう朝廷からの例幣使たちも、
15日間をかけた旅の日程の最後に、この山間の道を歩きました。
さらにこの道は、はるか東北地方へも山を越えて連なります。
特に会津地方との結びつきは深く、この先で日光と会津を結んでいる会津西街道は、
参勤交代の街道として頻繁に使われたため、いまでも随所に
宿場町などの面影を色濃く残しています。
「どこまで行っても、凄い渓谷美が続いているんだもの・・・・
トシさん、新緑の頃ならここは別世界でしょうねぇ、紅葉もすごいだろうなぁ。
こんな冬枯れの季節じゃなくて、もっと良い季節に来たいわよね~
ねぇ、ねったらさぁ」
「お前さんは、いったいいつまで俺のところへ居座るつもりだ。
このまんま桐生に居着きそうな、そんな気配がする」
「あら、迷惑なの。あたしが居たら ?・・・・」
「きっかけをつくったのは、俺の方だ。
行きがかり上、今さら、出て行けとも言えん」
「トシさんのところは、居心地がとってもいいんだもの。
このまま居着きたいくらいだわ。
なんなら、お嫁さんになってあげても良いくらいです」
「まっぴらだ。それじゃあこっちが持たない。
まあ、そう気にせずに、気が済むまで居るがいい。
どうせ、殺風景な男の一人暮らしだ。華が有って俺も助かる」
「ピンクの下着が干して有ると、誰か困る人がいるんじゃないの?」
「そういうときには、余所で会う。
子供が大人の込み入った事情に、介入はしない。
油断も隙もないな、響は」
「この綺麗な渓谷の水の、源流部はどこなの」
「日光の皇海山(すかいさん)に源流部がある。
そこから銅山で有名な足尾山塊の水を、たくさん集めて流れだしてくる。
栃木県から群馬に向かって南西方向へ流れだしてきて、最後は利根川へ合流をする」
「銅山って、あの鉱毒事件の原因になった、あの足尾のこと?」
「よく知ってるね、その足尾だ。
綺麗な水に見えるけど、足尾鉱毒事件や川俣事件を起こしたほど、
此処は、明治時代に大規模に汚染されてしまった河川だ。
去年の大震災であちこちの地層がずれたために、隠れて蓄積していた鉱毒が
あらたな汚染環境として発見をされたために、
過去の出来事として片付ける訳にもいかなくなったようだ。
川だけではなく、足尾一帯の自然環境も、銅山開発の排煙や鋼毒ガスなどの
有害物質のために深刻で、壊滅的な被害を長年にわたって受けてきた。
そればかりか・・・・
払い下げられた国有林を無計画に伐採をしすぎたために、
山林の荒廃が進んだ結果、渡良瀬川の洪水を増大させてしまったと言う、
きわめて苦い、過去の教訓がある」
「足尾銅山鉱毒問題が初めて国会でとりあげられたのは、
明治24(1891)年12月25日の、有名な田中正造の質問演説のことでしょう。
【とに角、群馬・栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は、足尾銅山から流れて、
両沿岸の田畑1,200余町の広い地面に鉱毒を及ぼし、
2年も3年も収穫が無かったのである。
特に明治23年という年は、1粒も実らない。
実らないのみならず植物が生えないのである。】
そして、その時の質問書には
【去る明治21年より現今に至り毒気はいよいよその度を加え】
と、その鉱毒被害の経過も指摘しているのよね。
でもこの時の農民たちの必死の訴えを、国は一切無視した。
このあと、明治34年に田中正造が衆議院議員を辞職までの11年間で、
議会における質問書や演説、その他の発言の320件のうち、
足尾の鉱毒問題関係が、半数以上を超えているのよね・・・・」
「驚いたな。その通りだよ。どこでそんな勉強してきたの」
「全部、お母さんからの受け売りです。
話としては知ってたけど、ここがその川だということは、たった今知りました」
「田中正造の活躍もあって、
明治29年までの段階で、古河市兵衛(足尾銅山主)との示談契約工作がなされ、
栃木と群馬の両県で、鉱毒被害関係43か町村が示談契約を結んだ。
しかし、明治29年7月と、9月の2回
特に9月8日の大雨と大洪水は、古今でも無例といわれ、
渡良瀬川の下流沿岸一帯に、きわめて大量の鉱毒を押し流した。
その被害の大きさから、社会問題として再び注目を集めることになり、
局面が、ここから大きな転換をはじめた。
ついには、鉱毒問題の解決を、示談という方法でなく、
銅の生産そのものを止めさせる、足尾銅山鉱業事態の停止を目標とした
沿岸住民の大運動が大同団結をすることになった。
明治29(1896)年10月5日、渡良瀬村(現館林市)の雲龍寺で
群馬と栃木の両県によって「鉱毒事務所」が設立されたのをきっかけに、
おおくの同士たちが、精神的契約書「雲龍寺の連判状」を結び、
組織作りが、いっきに活発化をしはじめる。
これをきっかけにして、請願陳情運動も高まりをみせ、
その請願陳情の運動も1次・2次・3次としだいに深刻化を呈してくる。
それらが、明治33(1900)年2月13日の第4次請願陳情運動において、
ついに、権力と衝突をする川俣事件の発生をうむことになった」
「川俣事件 ?」
「うん、おそらく近代日本では、最初の公害闘争の記録だと思う。
明治33(1900)年2月13日に、足尾銅山の鉱毒問題を解決するため
2千5百余名の被害民たちが、決死の覚悟で、第4回目の東京大挙押出し(請願)を決行した。
前夜から雲龍寺(現館林市)に集結した被害民たちは、
朝9時頃同寺を出発し東京へ向かった。
途中で警察官と小競り合いを演じながら、
正午頃に、佐貫村大佐貫(現・群馬県邑楽郡明和村)へ到着をした。
ここで2台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手前の同村川俣地内の
上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで、
待ちうけた、3百余名の警官と憲兵が、暴力で蹴散らし
多くの犠牲者を出して被害民たちは四散した。
この事件で被害民15名がその日のうちに捕縛され、
さらに翌日以降の捜査で、100余名が逮捕をされている。
このうちの51名が、兇徒聚衆罪等で起訴をされた。
それが、民衆たちが、権力と初めて闘ったという
公害闘争の記録、川俣事件だ」
(12)へ、つづく
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・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (44)たまの機転
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