連載小説「六連星(むつらぼし)」第12話
「 煙害の山脈(やまなみ)」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/3a/a467ee9b23aaff8c9d73a96952c6b37f.jpg)
山間をひたすら走る国道122号線と渡良瀬渓谷鉄道に沿って、
常に車窓の右側を流れていた渡良瀬川が、足尾の街の直前で道路を横切って、
左側へとその流れを変えました。
その瞬間に、赤茶けた足尾の市街地へと進む旧の街道と、町を避けて
そのまま、急斜面を直進していくバイパスとの分岐点が突然目の前に現れます。
ここが長い間、銅山で栄えてきた足尾町の玄関口です。
旧街道は渡良瀬川とともに左方向へ曲がり、
低い瓦屋根ばかりの赤茶けた屋並みの中へ、吸い込まれるようにして消えていきます。
「足尾1000軒」と呼ばれた家々の密集を、左手の狭い盆地の中に見下ろしながら、
バイパスは一気にその高度を上げていきます。
およそ2キロほどを登り終えると、バイパスは足尾町の全てを見下ろす高台に出て
さらに正面には、銅山観光へ下っていく真っ赤な橋が見えてきます。
「低い屋根で、長屋風の建物がいくつも連なっているのが見えるだろう。
それが銅山で働いていた工夫たちが住んでいた長屋だ。
足尾1000軒と呼ばれ、往時はすこぶるの繁栄をみせたようだ」
「それにしても、あまりにも赤茶色に錆びれたような街並みだわね・・・・
銅の精錬所は、まだ稼働をしているのかしら」
「左の山裾方向に、パイプや煙突などが見えるだろう。それが昔の精錬所の施設跡だ。
いまは、銅では無くリササイクル工場として、使われているみたいだ」
「ねぇ・・・・痛々しいほどの禿げ山と、荒れた地層があちこちに見えるけど、
あれが煙害の傷跡なの?」
「銅の製錬は、銅鉱石を火で蒸し焼きにして、硫黄分を取り除くことから始まる。
鉱石を蒸し焼き(焙焼:ばいしょう)にすると、鉱石中の硫黄分が
酸素と結合して亜硫酸ガスを発生させる。
亜硫酸ガスは煙と一緒に空気中に放出をされるが、
このガスが植物などに触れると、植物は枯れ、農作物にも被害が起こる。
ここの足尾銅山の銅鉱石には、特に硫黄分が多く含まれていて
より多くの亜硫酸ガスを発生させたようだ。
山中での焙焼によって、一帯の山の草木が枯れてしまい、
今見るように、一面に山肌が荒れ果ててしまった」
「トシさんは、ものすごい詳しいのねぇ。
なんでそんなに、足尾のことに詳しいの?」
「平成8年(1996)から毎年行なわれている活動で、
市民ボランティアグループによる、「足尾に緑を育てる会」というのがある。
足尾銅山の鉱毒による煙害で“はげ山”になってしまった足尾の山に
緑を戻そうとして、地道に活動を続けている団体のことだ。
この植樹活動には、実は、君のお母さんも参加をしている。
発足当時からのメンバーさんの一人で、いつもお洒落な君のお母さんが、
首にはタオルを巻きつけて、頭には手拭いで姉さんかぶりにしたあげく、
ジャージに軍手と長靴という、完全武装の姿でやってくるんだぜ。
一度、君にも見せたいね」
「すみに置けないわね、トシさんも。
ということは、一年に一度以上は、私の母と行き会っているということになるわね。
な~んだ。遠い昔の知り合いだけかと思っていたら、私の知らないところで、
いまだに二人はしっかりと、繋がっているんだ・・・・」
「別に、悪気も他意もないさ。
志をおなじくする同士だ、特に問題はないだろう」
「植樹活動の際に、(七夕のように)たまたま二人が、
禿げ山の中で会うこと自体は、なんの問題もありません。
でも問題はそのあとだわよ。大人たちには秘密が多すぎる。
ちょっと目を離した隙に、なにをしているのか解らないんだもの。
まったく油断はできません」
「君は、いったいなんの話に興味が有るの。
ここの禿げ山の由来が聞きたいのかな、それとも大人のゴシップが聞きたいのかな?。
その、どっちだい。実によそ見の多い女の子だ」
「せっかくですので、お母さんも活動に参加をしていると言う
その禿げ山の由来の方を、お願いします」
煙害のきざしが現われ始めたのは、明治18年頃からで、
産銅量が4,000トンに達してからは、さらに顕著になった・・・
と俊彦が語り始めました。
これに拍車をかけたのが、明治20年、4月8日に起きた松木村の大火です。
おりからの強風にもあおられて、松木・仁田元・久蔵の奥から
赤倉・間藤・田元付近までの広範囲にわたって、山林や家屋が焼失をしました。
さらに日毎に増大する煙害のために、幼木は生育できず、
山地の荒廃は年とともに進み、やがて一帯は、草木の生えぬ裸地に変わってしまいました。
松木村の記録によれば、煙の被害は養蚕を中心に明治18年頃から始まり、
21年には、桑の木が全滅をしてしまいます。
翌22年には養蚕をやめ、他の農作物も明治33年までには無収穫となり、
馬も、毒草を食べて死亡したと記されています。
明治25年当時には、戸数40戸、人口270名だったものが
明治33年には戸数30戸、人口174名にまで減り、
その翌年には1戸を残して全員が松木村をさり、明治35年に廃村となってしまいます。
煙害対策がはじまったのは、明治30年に政府の鉱毒予防命令が出てからのことです。
被害を食い止めるための、いろいろな方法が試みられました。
脱硫塔の建設などもその一つですが、煙害の除去にはいずれもあまり効果がなく、
一方の産銅量は、第一次世界大戦とともに急増をして、煙害はますますひどくなります。
見舞金の支払いや、激害地の山林約1,000㌶などを買い取りますが、
根本的な対策はとれず、昭和31年に自熔製錬法が導入をされて、
硫酸を取り除くことができるようになるまでの長い間、こうした煙害は
実に延々と続いてきました。
「一世紀の間は、駄目だろうと言う学説もあったが、
いまでは、長年植えてきた甲斐もあって、下の方からだんだんと緑が甦って来た。
が、ここで思わぬ敵も出現をしてきた
保護条例で増えすぎた鹿たちが、日光の山に溢れて来て
植えたばかりの若木や新芽を狙い始めた・・・・まったくもっての、予想外の展開さ。
駆除するわけにもいかないし、困ったもんだ。
しかし、鹿が足尾にやってくるということは、
裏を返せば足尾の山が、復活のきざしを見せ始めたということにもなる。
そうだ。言い忘れたが、実はあの
(不良の)岡本も参加をしているんだぜ。
もちろん身分を隠しての参加だが、
その心意気だけは充分に評価が出来る」
「へぇ・・・・
岡本のおっちゃんも、ただの不良じゃないんだ。
なかなかやるわね、味なもんだ。
見上げた不良だわねぇ・・・・」
左に足尾の街を見下ろして、ぐるりと最深部まで回り込んだ122号線は、
町中を抜けてきた旧道と合流した地点から、この道の最大の難所
日足(にっそく)峠に向けて大きく右折をします。
渓谷に沿いながら、登りばかりが続く坂道を15分ほど駆け上がると、
目の前に全長2700mの『日足トンネル』が現れます。
このトンネルを抜けると日光への長い下りがはじまります。
2キロ余りにわたる下り坂が終わると、いろは坂へと続く国道120号と交差をします。
右へ曲がれば、その先には徳川家康が祀られている東照宮のある日光の市街地へ出て
左に曲がれば、いろは坂を経由して、中禅寺湖畔と奥日光方面へ出られます。
俊彦の車はそのまま直進をして、ここからは数分の距離に有る
日帰り温泉施設「やしおの湯」をめざします。
(13)へ、つづく
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「 煙害の山脈(やまなみ)」
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山間をひたすら走る国道122号線と渡良瀬渓谷鉄道に沿って、
常に車窓の右側を流れていた渡良瀬川が、足尾の街の直前で道路を横切って、
左側へとその流れを変えました。
その瞬間に、赤茶けた足尾の市街地へと進む旧の街道と、町を避けて
そのまま、急斜面を直進していくバイパスとの分岐点が突然目の前に現れます。
ここが長い間、銅山で栄えてきた足尾町の玄関口です。
旧街道は渡良瀬川とともに左方向へ曲がり、
低い瓦屋根ばかりの赤茶けた屋並みの中へ、吸い込まれるようにして消えていきます。
「足尾1000軒」と呼ばれた家々の密集を、左手の狭い盆地の中に見下ろしながら、
バイパスは一気にその高度を上げていきます。
およそ2キロほどを登り終えると、バイパスは足尾町の全てを見下ろす高台に出て
さらに正面には、銅山観光へ下っていく真っ赤な橋が見えてきます。
「低い屋根で、長屋風の建物がいくつも連なっているのが見えるだろう。
それが銅山で働いていた工夫たちが住んでいた長屋だ。
足尾1000軒と呼ばれ、往時はすこぶるの繁栄をみせたようだ」
「それにしても、あまりにも赤茶色に錆びれたような街並みだわね・・・・
銅の精錬所は、まだ稼働をしているのかしら」
「左の山裾方向に、パイプや煙突などが見えるだろう。それが昔の精錬所の施設跡だ。
いまは、銅では無くリササイクル工場として、使われているみたいだ」
「ねぇ・・・・痛々しいほどの禿げ山と、荒れた地層があちこちに見えるけど、
あれが煙害の傷跡なの?」
「銅の製錬は、銅鉱石を火で蒸し焼きにして、硫黄分を取り除くことから始まる。
鉱石を蒸し焼き(焙焼:ばいしょう)にすると、鉱石中の硫黄分が
酸素と結合して亜硫酸ガスを発生させる。
亜硫酸ガスは煙と一緒に空気中に放出をされるが、
このガスが植物などに触れると、植物は枯れ、農作物にも被害が起こる。
ここの足尾銅山の銅鉱石には、特に硫黄分が多く含まれていて
より多くの亜硫酸ガスを発生させたようだ。
山中での焙焼によって、一帯の山の草木が枯れてしまい、
今見るように、一面に山肌が荒れ果ててしまった」
「トシさんは、ものすごい詳しいのねぇ。
なんでそんなに、足尾のことに詳しいの?」
「平成8年(1996)から毎年行なわれている活動で、
市民ボランティアグループによる、「足尾に緑を育てる会」というのがある。
足尾銅山の鉱毒による煙害で“はげ山”になってしまった足尾の山に
緑を戻そうとして、地道に活動を続けている団体のことだ。
この植樹活動には、実は、君のお母さんも参加をしている。
発足当時からのメンバーさんの一人で、いつもお洒落な君のお母さんが、
首にはタオルを巻きつけて、頭には手拭いで姉さんかぶりにしたあげく、
ジャージに軍手と長靴という、完全武装の姿でやってくるんだぜ。
一度、君にも見せたいね」
「すみに置けないわね、トシさんも。
ということは、一年に一度以上は、私の母と行き会っているということになるわね。
な~んだ。遠い昔の知り合いだけかと思っていたら、私の知らないところで、
いまだに二人はしっかりと、繋がっているんだ・・・・」
「別に、悪気も他意もないさ。
志をおなじくする同士だ、特に問題はないだろう」
「植樹活動の際に、(七夕のように)たまたま二人が、
禿げ山の中で会うこと自体は、なんの問題もありません。
でも問題はそのあとだわよ。大人たちには秘密が多すぎる。
ちょっと目を離した隙に、なにをしているのか解らないんだもの。
まったく油断はできません」
「君は、いったいなんの話に興味が有るの。
ここの禿げ山の由来が聞きたいのかな、それとも大人のゴシップが聞きたいのかな?。
その、どっちだい。実によそ見の多い女の子だ」
「せっかくですので、お母さんも活動に参加をしていると言う
その禿げ山の由来の方を、お願いします」
煙害のきざしが現われ始めたのは、明治18年頃からで、
産銅量が4,000トンに達してからは、さらに顕著になった・・・
と俊彦が語り始めました。
これに拍車をかけたのが、明治20年、4月8日に起きた松木村の大火です。
おりからの強風にもあおられて、松木・仁田元・久蔵の奥から
赤倉・間藤・田元付近までの広範囲にわたって、山林や家屋が焼失をしました。
さらに日毎に増大する煙害のために、幼木は生育できず、
山地の荒廃は年とともに進み、やがて一帯は、草木の生えぬ裸地に変わってしまいました。
松木村の記録によれば、煙の被害は養蚕を中心に明治18年頃から始まり、
21年には、桑の木が全滅をしてしまいます。
翌22年には養蚕をやめ、他の農作物も明治33年までには無収穫となり、
馬も、毒草を食べて死亡したと記されています。
明治25年当時には、戸数40戸、人口270名だったものが
明治33年には戸数30戸、人口174名にまで減り、
その翌年には1戸を残して全員が松木村をさり、明治35年に廃村となってしまいます。
煙害対策がはじまったのは、明治30年に政府の鉱毒予防命令が出てからのことです。
被害を食い止めるための、いろいろな方法が試みられました。
脱硫塔の建設などもその一つですが、煙害の除去にはいずれもあまり効果がなく、
一方の産銅量は、第一次世界大戦とともに急増をして、煙害はますますひどくなります。
見舞金の支払いや、激害地の山林約1,000㌶などを買い取りますが、
根本的な対策はとれず、昭和31年に自熔製錬法が導入をされて、
硫酸を取り除くことができるようになるまでの長い間、こうした煙害は
実に延々と続いてきました。
「一世紀の間は、駄目だろうと言う学説もあったが、
いまでは、長年植えてきた甲斐もあって、下の方からだんだんと緑が甦って来た。
が、ここで思わぬ敵も出現をしてきた
保護条例で増えすぎた鹿たちが、日光の山に溢れて来て
植えたばかりの若木や新芽を狙い始めた・・・・まったくもっての、予想外の展開さ。
駆除するわけにもいかないし、困ったもんだ。
しかし、鹿が足尾にやってくるということは、
裏を返せば足尾の山が、復活のきざしを見せ始めたということにもなる。
そうだ。言い忘れたが、実はあの
(不良の)岡本も参加をしているんだぜ。
もちろん身分を隠しての参加だが、
その心意気だけは充分に評価が出来る」
「へぇ・・・・
岡本のおっちゃんも、ただの不良じゃないんだ。
なかなかやるわね、味なもんだ。
見上げた不良だわねぇ・・・・」
左に足尾の街を見下ろして、ぐるりと最深部まで回り込んだ122号線は、
町中を抜けてきた旧道と合流した地点から、この道の最大の難所
日足(にっそく)峠に向けて大きく右折をします。
渓谷に沿いながら、登りばかりが続く坂道を15分ほど駆け上がると、
目の前に全長2700mの『日足トンネル』が現れます。
このトンネルを抜けると日光への長い下りがはじまります。
2キロ余りにわたる下り坂が終わると、いろは坂へと続く国道120号と交差をします。
右へ曲がれば、その先には徳川家康が祀られている東照宮のある日光の市街地へ出て
左に曲がれば、いろは坂を経由して、中禅寺湖畔と奥日光方面へ出られます。
俊彦の車はそのまま直進をして、ここからは数分の距離に有る
日帰り温泉施設「やしおの湯」をめざします。
(13)へ、つづく
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