落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (110)単刀直入に・・・

2015-08-23 11:54:38 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(110)単刀直入に・・・



 2人のあいだに、少しのあいだ沈黙の時間がおとづれる。
すずの横顔が、窓の外を見つめている。
勇作は黙り込んだまま、静かに、コーヒーカップを掻きまわす。



 (何から切り出せばいいんだろう・・・単刀直入に質問したらたぶん、すずが傷つく)


 少しずつ、沈黙の時間が重くなる。
静かなすずの横顔は、相変わらず、窓の外を見つめている。
(君は認知症だろうと言えない、俺には。どう切り出せばいいんだ、こんな時・・・)
カップを掻きまわす勇作の手は、いつまでたっても止まらない。



 「遠慮しないで正直に聞けばいいでしょ。君はMCI(軽度認知障害)だろうって」



 窓の外を見つめていたすずの視線が、いつのまにか勇作の正面に戻って来た。
一番言いにくいはずの言葉を、すずは、臆することなく口にした。



 「自分でもはっきり、初期の認知症と気が付いています。
 でもねぇ。最初は加齢から来る、ただの物忘れだとばかり思いこんでいました。
 普段から使っているお野菜の名前が、ある日突然、出てこなくなるの。
 形はちゃんと覚えているのよ。だけど、野菜の名前は出てこない。
 焦りました、そのときは。大丈夫なんだろうか、わたしの頭はって・・・
 その頃かしらねぇ。
 その日の出来事や、会話の内容などを、せっせとメモするようになったのは」


 「いつからなんだ。君が、認知症と気がついたのは?」


 「皮肉よね。あなたが早期退職を決意した、あの日。
 退職して福井に帰ると、わたしに電話をくれたでしょ。ちょうどその日。
 有頂天になって喜んでいたわたしが、次の瞬間、あれ?て、自分の不調に気が付いた。
 あなたが帰って来る日。あなたの好物をたくさん作って歓迎しょうと考えたのに、
 いくら考えても頭の中に穴が開いたまま、あなたの好きなものが浮かんでこないの。
 なんでだろうと焦ったわ。その時は。
 でもね。その後そんな症状が、たびたび私の頭の中で発生するようになりました」



 午後2時を過ぎた喫茶室に、2人以外、誰の姿も見えなくなった。
賑やかに動いていた厨房の食洗器も、今は静かに停止している。
閉店したわけではない。2人に遠慮するように、周囲の物音が急に静かになった。


 「恋しい人が、ようやくのことでわたしの手元へ帰って来るというのに、
 言えないでしょ、認知症になりましたなんて。
 平静を装うために苦労してるのよ、これでもせいっぱいに。あたしったら」


 すずがにこやかに、いつもの笑みを顔に浮かべる。
すずはすでに、自分の病気を知っている。
知っているからこそ、病気に抗うため必死になって、事細かなメモを取り続けている。
事実を知った勇作が、ふぅ~っと重い溜息をつく。



 「そんな風に重い溜息をつかないちょうだい、勇作。
 事実なのだから、仕方がありません。
 あなたに謝るようですね。
 せっかく戻ってきてくれたというのに、わたしがこんな女で申し訳ありません」



 「君が悪いわけじゃない。病気だもの、仕方がないさ。
 だけど正直、こころの底からショックを受けた・・・
 65歳以上の5人に1人が、やがて、痴ほう症になる時代が来ると言われている。
 だけどまさか現実に、君がそのひとりになるとは、夢にも考えていなかった」



 「でもこれが、いまのわたしの事実なの。
 夢ならいいけど、記憶を忘れたくなくて、必死に抗っているわたしが居るのよ」



 すずが毅然と胸を張る。その言葉に迷いは見られない。
(すずはひとりで、MCI(軽度認知障害)とたたかいはじめている。
俺とすずの老後は、認知症とのたたかいになるんだろうか・・・)
勇作の胸の中を、不安を帯びた重い黒い雲が、ゆっくりと横切っていく。


(111)へつづく


『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

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