ASD(自閉スペクトラム)は遺伝によるものと言われる。
ASDとは言わないまでも、勉強ができるか否かは環境によるとは思う。
どこまでやっていいか?を判断する限界とも言えるかもしれない。
第一人者とか誰もやっていないことをやるときには、とことんやるしかないんですよ。
手本がいないしテキストもないから、やれる限りやってみるしかない。
手を抜ける場所がどこにあるかさえわからないから、とにかく限界までやってみるわけです。
いろいろ調べもするし勉強もする。
それで試してみて更に足りない知識や技術を身につける。
そんなことをしているうちに、教科書で教える範囲外を学んでしまうのですよ。
「勉強しろ!」
という大人ほど、勉強していないと思う。
勉強なんて強制されてやるものじゃない。
自分のやりたいことのために学ぶのが勉強ですよ。
強く勉めるのです。
そりゃ強くもなる。
「そこまでやったら心配だし可愛そう」
「なんでそこまでやるの」
「やりすぎは体に悪い」
「そのへんでやめなさい」
自分の価値判断で他人の限界を決めてないか?
限界さえわからないのが子供であり、可能性の塊ですよ。
その芽を摘み取っているのが、環境だったりする。
手を抜くことが当然の環境で育てば、それは手を抜くことを覚える。
思考の限界が低くなってしまう。
追求の限界が早いし浅い。
失敗した場合のごまかし方や、どれだけ嘘がつけるかや、逃げる方法が当然の環境なら、追求さえしない。
逆に追求の限界が途方も無い環境なら、天元突破もする。
工学を追求するのが当然の環境なら、ノコギリやハンダゴテを使うことに遠慮はしない。
政治を追求するのが当然の環境なら、歴史や人文への興味は尽きない。
芸術を追求する環境なら、光や表現手法を追求する時間に制限を設けない。
そして最初に戻れば、なんの手本もなくどこまでやればいいかもわからない状態なら、どこまででも追求するしかない。
とんでもないバカか、とんでもない天才か、周りから見れば全くわからないレベルに突入する。
そういう人間は限界を与えたり制限を与えるよりも、放っておく勇気が必要なのだと思う。
とことん追求しなければわからない領域があることを知らなければ、
「これ以上やってなんの意味がある?」
という疑問や不安で途中でやめてしまう。
他人の目的で浪費される会社などは辞めてしまうべきだとは思うけれど。
限界を決めるのは他人ではなく、それこそ自分自身だ。
今回はだめだけど、次はもう少しうまくやろうと、絶えず歩みを止めなければ、いずれたどり着く。
目標は口に出せば叶うと思いますよ?
目標は進めば進むほど高くなる前提で。
数少ないチャンスを掴み取ったり、流れ込んだりするのは、その目標を持ち続けて、必死にチャンスを待ち構えているから。
それさえなければ、そのチャンスに気づくことさえない。
チャンスは誰かが与えてなどくれない。
それを見つけるのは自分自身。
それが遺伝だとは全く思えない。
周囲の人間関係や環境が低い限界や天井知らずの限界を作り出す。
誰だって凄くなれるし、誰だって凡庸になれる。
私が物事を教えるときは、その振れ幅を意識する。
枠にはめないほうが人は育つと思うのよ。
親がなければ子は育つ。
教師などいないのよ。
すべての人が学び続けているのだから。