どんなに天才でも、バカになれるときというものがあると思う。
良いと思ってやっていたことが、実は最悪なことで、愛する人を失くす原因だったとき。
自分を含む仲間が目的に反した悪で、社会から否定される状況のとき。
絶望に打ちひしがれて自死を選ばざるを得ないような状況のとき、それでも生きて考えられる人は、思考を停止する。
バカになれる。
小さな頃、特に何も考えているわけでもなさそうな、ニコニコしてフラフラしている男性がいた。
子供がバカにしても何をするでもなくニコニコしている。
誰からか、彼はものすごく優秀だったけれど、一緒に住んでいた祖母が亡くなってからああなってしまったと聞いた。
彼は万引きしたところを捕まったと聞いて以降、姿を見かけなくなった。
そこから自力で這い上がってきた人は、とてつもない力を発揮することもある。
自分を否定し、他人を否定し、社会を否定し、それでも自分の生きる意味を見つけて、その目的のために努力するのは、並大抵のエネルギーではない。
経験値が全く違う。
逆に刺激のない、他人から見れば幸せな状況に浸ってしまっても、思考は停止する。
自分や現状に対する危機感がないから、成長が停止する。
ほとんどが、ただ使役されて、社会の歯車となり、その状況に気づかないまま現役を終える。
これは可愛そうなことに、本当の意味での社畜だと思う。
それを幸せとするか、不幸とするか、人それぞれだとは思う。
過去に縛られないことも重要だと思うけれど、経験は大事にしたい。
災害を乗り切った経験など、何も経験していない人よりも格段に経験と知識がある。
失敗をした人は、何もしていない人よりも、何かを行っている。
失敗をしない生き方が、賢い生き方とも言えるかもしれない。
日々のなんでもない日常を繰り返す、なんてことない生活。
子供の養育費と老後の資金を心配し、そのために働き続ける。
それでもいわゆる成功した人を見ると、自分と大して違わないのに不公平だと思う。
自分も社会も文化も環境も変わり続ける。
それを他山の石として捉え続けることもできる。
経験し考えた人から見れば、変わらずに沐浴を続ける人はバカであり、良いカモとも取れる。
バカか天才かは、紙一重なんだとは思う。
ゴリラからバナナをもらって、非常に失礼だと思うか、とても幸せなことだと思うか、なんでもない日常だと思うか、それぞれだとは思う。