11日、運営委員会を開きました。
次回散歩の具体的な相談と、会報の次号打ち合わせをしました。
会報40号は、白洲邸へ向けての記事・写真が主になります。今回の撮影者はYGさんです。
白洲邸という看板を目にしてバス道路から入ります。進むと二股の道に参ります。さて、どっち?
右側が明るく清々していましたので、そちらかと一瞬思いました。そちらは実は駐車場。
何台も止められるようでした。
左の道に進みますと、白洲邸インフォメーション。入館料1000円でした。
この看板の筆跡は、次郎さんのでしょうか?
実は…違うのです。
折角参りましたが、母屋内は撮影禁止でした。とにかく外側だけの映像です。
正面に進めば、展示館と喫茶室、そして白洲邸母屋が建ち並んでいました。
英国留学の経験者で如何にもジェントルマン風情の白洲次郎が、
東京から大分離れた町田・鶴川に住まい、
農業をして自分たちの食糧を確保していたそうです。
その農作業の合間でしょうか?寛いだ次郎氏の肖像写真が、
休憩室に今は使われている、もと納屋だった正面に飾られていました。
母屋の前を通り過ぎると、鬱蒼とした裏庭のプロムナード。
高低差のある散歩道でしたが、あまり管理はされていませんでした。
いわゆる自然に近いかたちに残されているという感じです。
母屋は萱葺き屋根。今では葺き替えも大変費用もかかり大掛かりだそうです。
中にはいると、単なる農家ではありません。
趣きがあります。正子の書斎、各部屋には正子のコレクションが展示されていました。
客人を招待しご馳走を並べる食卓は大きく、料理自慢の正子の腕の奮いどころか。
食事をしながら楽しい会話が展開される様子が聞こえてくるようでした。
奥座敷は正子の趣味の着物が衣桁に掛けてありましたし、
また別室には透き通った色とりどりのガラス製品が、夏の季節に相応しく畳敷きの上に
無造作に並べられていました。
書斎は正子が執筆していて今休憩…という風情でした。
回廊?には陶器のお皿などの展示もありました。
戦時中は食糧事情の関係で、自給自足の生活がしやすいこの地域で住むという
理由はわかります。
しかし、その後の生涯をここで生活し続けたとのことです。
銀座に染織工芸店「こうげい」を開き、店の経営者になった正子は毎日4時間をかけて往復したそうです。
お店は15年間(正子46~60歳)続いたそうで、お馴染みのお客には青山二郎、小林秀雄たちが
集まり、一時はクラブのような感じにもなり、そのころが一番楽しく充実感もあったそうです。
それでも、ここで住むという気持ちは、余程この環境が性に合っていたのでしょう。
次郎と正子はかなり個性が強い者同志、意見が食い違うと英語で持論を展開させた…
など、日本人でありながらそれを超えたような面白い一生だったのだろうと、
その逸話だけでも思ってしまいました。
(S.O.メモから)
久しぶりに「歩いた~」という散歩だった、武相荘までのコース。それもそのはず!「すわ、鎌倉!」という時に誰が一番乗りか、主君に認められたいと、侍たちは競って鎌倉へ駆けつけた。
「鎌倉早の道」というのが何本もあるそうだ。その一本、鎌倉古道を観光協会の方に案内されて登って下った。
優しいふわりとした色合いの合歓の木は、花盛りだった。
桐光学園高校のサッカーグランドがフェンスの向こうに見えている。寝ないでティファの試合を見たばかり…。
熱く燃える魂もまだ残っているね、私たちにも。正直申して俄づくりのファンでして…?
判らないけれど見ていた…途中はつまらないからパソコンに向かいながら音を聞いていた。
何だろう…ただワァ~ザァ~ド~というような途切れない音がず~っと続く。あれが耳障りだった。
早の道の説明を聞いて、それから歩きだす。滑りやすいような道、湿っているから、毒々しいキノコも見える。
尾根に到着。涼しい風が汗ばんだ肌を通り過ぎる…気持ちのいい眺め…久しぶりの風景に出くわしたような…。
この広い川崎フロンターレのサッカーグランドの前が我らの昼食を予約していた「櫻屋」。
中国・蘇州に行った時の「月落ちて鳥啼く 霜満天に…」の、この漢詩を見ました。
T.K.氏が「いちよう」に旅行随筆文を載せてくださいましたね…と。
すると、そう、これこれ…と、懐かしそうに……。櫻屋の店内です。
うどん、そば屋さんですが、副菜の丼やお皿が自由戴けて、更にデザートに
コーヒーは勿論、カキ氷から、お汁粉のメニューで、お腹一杯。
疲れがいっぺんに逃げ去って行った。
そして「武相荘」へ。写真が自由に撮れないから、ご紹介はあまり出来ずで、残念なり…。
ご案内の近藤さんは、ここの主、白洲次郎氏に子どもの頃田んぼや畑で蝉取りやザリガニ、魚釣りに
次郎氏の子どもたちと一緒に遊ぶ相手をしてくれたという思い出があるそうであった。
英国仕込みのダンディ次郎氏は、こんな田舎暮らしが好きだったそうである。
正子氏の書斎、蒐集品(今回はガラス食器)が、10畳くらいの部屋に所狭しと置いてあった。
足利学校で三つの門があります。最初の門は「入徳」次にあるのが「学校」最後が「杏壇」。いずれも国の史跡指定となっています。
まず入徳門をくぐります。
すると孔子像です。足元には龍が球を持って…天に登るのでしょうか。普通は龍の爪が3本だけれど、ここは孔子へと登るので5本の爪とあり、格が高いのだと表現されているとか?
学校門をくぐりますと、大きな楷樹。孔子の墓の楷樹の種を育てたという。その向かいは字降松(かなふりまつ)。質問をこの松に結んで置くと翌朝にはふり仮名や注釈の答えが付いていたのだという先生と学徒の交流の松。実際、当時の松ではなく、まだまだ小さい何代目かの松らしいが?
ボランティアの説明があって、皆さん熱心に耳を傾け、当時の学生らしい風情で聞かれていました。学校門で記念写真を撮りました。
「西階の不断梅」 この梅は木から落ちない梅で、熟してそのまま黒い種となるまで木についているのだそうです。縁起を担いで受験生には「落ちない」という有難い願望の木となっているそうです。
南の池。鴨がちょうど羽を休めていたのか、子育ての一休みをしていたのか?この池の形は羽を広げた鶴の姿をかたどっていますとの説明がありました。心字池もよく目にするけれど、これはあまりに達筆過ぎて心と象っていると言われても、あまりよく判らなくて「ふーん、なるほど!」と思う程度だったのですが、今回は「本当だ鳥の形だ」とよく判ります。
向こうにお部屋があるのは、校長先生のお客間で、この庭は北側の庭。南側の池の鴨が休んでいた庭よりも北側の庭が格が高いとのこと。そして南は鶴を模していたが、北の池は亀の形に池ができていると説明がある前にわかりました。
観光協会の青い旗を持っておられるのが案内のボランティアをしてくださっている方。二千和会の旗はMr.Takahashi。彼は、最近土日を設定されていて 出席がしにくかったが、「月曜日でありがとう!」と参加され、責任をもって初めから最後まで旗を持って下さいました。ありがとうございました。
前日までの雨が嘘のように晴れ渡っていました。そして、その翌日は雨。雨と雨の日の間を縫うように決めて、まるで神さまが私たちに微笑みを送ってくれたようなバスツアー当日でした。
輝く日差しの中を一路栃木県足利市へ。バスは27人乗りで中型バスではありますが、高速料金は大型バスに適用されるとのこと。やはり快適な乗り心地と、適当な広さのある車内でした。
バスの駐車場には今日のためAsadaさんが手配してお願いしていましたボランティアの方がお待ちくださっていました。歩道橋から見る足利学校の風景です。
足利学校の創建について諸説があるそうです。①は平安初期小野篁説 ②鎌倉初期足利義兼説 ③室町中期上杉憲実説。
上杉憲実の頃に足利学校の歴史がはっきりしてくるのですが、16世紀の初頭には生徒が3千人を数えるほどに、優秀な人材が集まったということです。その出身者には世に注目され後世に名を残すような人物が輩出されたということです。それ故にフランシス・コザビエルにより海外に紹介されてもいた有名な学校であったとのことでした。(凄いですね。)
ウィキペディアから引用 「足利学校の教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。」
また、「足利氏居館跡である鑁阿寺(ばんなじ)」へもボランティアさんが、ついてきてくださったが、檀家では無い方にはご案内をお断りされているそうで、建物や参拝をする程度でした。
ただこれを記入している私は、写真を撮ったりすること、周辺に目を向けることに偏り、折角ボランティアさんの意味深い説明を小耳にはさむ程度にしか受け取れずにいる立場を選んでいた自分を反省しています。
6月29日(月)足利学校を中心としたバスツアーが実施されました。梅雨時の企画です。
雨降りになったとしても仕方がないという気持ちでしたが、そこは誰しも同じ…どうせ行くならお天気でありますように、と。
前日が大雨でした。その翌日の予報も栃木方面は辛うじて雲と、半分は傘のマークがあり、余りお天気は期待しない方がいいかなと、自分を戒めてもおりました。
初めから雨でも不平は言わないと覚悟をしていましたが、雨戸を開けたら、立派な晴れ模様。だ~れも不平は言わせない!と、誰かさんが言っているような…??
「やったね。お天気ちゃん!」
「私、雨女よ。いつも私が行くと雨なの」と脅かしてくれたYoshieちゃんは弱気になってくれたのか。
「私は晴れ男」と以前言っておられたKojimaさんの顔が浮かんできました。
Asadaさんは張り切っておられます。縁の下の準備を真剣に取り組まれて下さって、この明るい今日があります。「お陰さまで」と感謝です。
久しぶりのKatagaiさんのにこやかなお顔。あ~、ゲストで参加された皆さんの晴れやかな、けれど神妙な表情…。
今日の皆さんを象徴するような“なかよし観光”と書かれた水色のバスが、サティの辺りにまっていてくれました。
座席決めのカードに期待して座席に着きました。晴れやかな軽やかな表情の皆さん。「よかったね、晴れて!」今日はこの一言から始まります。
YGさんはパソコンの具合が芳しくなくとうとう新しいVISTAに切り替えられた。ゆえに登場を待ち焦がれているのに、なかなかアップロードがない。しびれを切らして、またSOが登場した。お許しあれ~~~~
二千和会は八年目。過去という歴史が少しできた。そのために振り返ってみたい気もして、積み重ねてきた実績の事実を見てみる。(2006年6月は…) クリック
2005年6月の18日、松戸・北小金にある別名紫陽花寺とも言われている本土寺を訪れた。
紫陽花と花菖蒲の時期に見事に当たった。広さのある一面の花盛りは、我々さえも花の一部にされてしまったような感覚で圧倒された。
3年前? みんな若いですね(↑)。そんなに年月を過ごしてはいないと意識のなかでは思っているのに、振り返ってみなさんの映像を見返してみると、思っているほどに時を経てしまっているのか?と気になるくらい、この瑞々しい若々しさが輝いています。
これが正直な私の感想です。
でもみなさんの中にはそれ程でもない、今もこの頃と同じだよ、と感じられて、反論したい方もおありだと思います。
その方は今も変わらずにお若いお方でしょう!
または、反対にその頃から若さというより、年を重ね、知識を授受し、見聞をさらに深め広めたいという“意欲”をとっても重く大事にしておられる方ではないでしょうか?
そうですね!
生きている限り日々前向きにいろいろと積み重ねられることが喜びであると、こうして書いてみると気づかされます。年を積み重ねることは肉体が老いても気持ちは更に伸びて成長していることですよね 。
このブログのスローガンは、 会報「いちよう」を通して、人生がさらに豊かに広がるよう 「今も青春!」の心がけで楽しく交流しながら散策しましょう。…ということですからサミエル・ウルマンの詩でも謳っているように、その本髄を思い起こして、更に前向きに『心まで老いてはオトコ(オンナ)が廃る』というものと、胸を張って、歴年齢ではなく精神年齢の若さを保つことである、と自覚して生きましょう!
ねっ。
何気なく会報の記録を開いて見た。この梅雨時の頃の散歩には何処辺りを散歩していたのだろうと、思いながら過去を紐解いてみた。たまたま2004年6月の写真記録が思い出深く感じられたので、ここに登場させてみよう。
ちょうど、山田先生が私たちグループに「二千和会は卒業」と言われた年で、一人歩きを始めたばかりであった。
そこで二千和会の運営委員で渋谷の散策と決定。大内さんがご案内役を務めてくださった。会長はあの頃から徐々に歩き難そうになっていらしたように思う。その回は、珍しく会長欠席ではあったけれど、会員の皆さんは張り切っておられた。やはり、今より4歳若いということは何をするにも大きいのだと、今と考え合わせると解る。
大内さんが、下調べを綿密になさって我々を案内してくださった。堤義明や経済界にも触れて西武百貨店前の交差点を渡る。
大内さんの持っていらっしゃる「緑色の旗」は、まだ「二千和会旗」がないため、目印となる布を大内さんが用意された。大勢の人が行き交う中で、迷子にならないようにとのご配慮だ。
恋文横丁では、恋文を代筆してくれるアルバイトがあったので、代わりに文案を作り小遣いを稼いだ文筆家もいたという。
そしてNHKスタジオ見学。そのあとゲーテ記念館などを回って2.26事件の慰霊塔や国木田独歩の居宅跡だったか?まで足を延ばして帰路に着いたと思う。
鎌倉文学館のバラ園 ばらまつりの期間に撮影
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
なぜなぜ赤い。
赤い實をたべた。
白い鳥、小鳥、
なぜなぜ白い。
白い實をたべた。
青い鳥、小鳥、
なぜなぜ、青い。
青い實をたべた。
上の二つの詩は白秋の詩です。
当たり前のことを言っているのでしょうか?
「何事の不思議なけれど…」と。
けれどその言葉とは裏腹に
不思議と感じて書いたことは彼の発見であること、
これは、おそろしいまでの感性。
*
何故に私はわたしなのだろう…。(SO)
先日、国立劇場の伝統芸能情報館で、文楽の映画で鑑賞したことをここに登場させました。
その4日後朝日新聞の夕刊に情報館について掲載されたのでちょっと嬉しくなり切り抜きました。
参考までにあの時のチラシもアップロードしましょう。
上は表紙、下は13日の詳細(見難いですが…)
この近くになかなか良い雰囲気の天満宮が…と案内していただきました。さすが、東京生まれのF.K.さん。「方向音痴なのよ」と言いながらもてきぱきとご案内です。
この鳥居の足元がまた素晴らしいのよ!と、多分注意を促してくださらなかったら見逃してしまうだろうことを、指摘してくださる。
こうして小さな狛犬が柱に居て、穢れないように守っていてくれているのだね!そういえば、狛犬もそれぞれのお宮で特徴があるんです、とずーっと前の七福神めぐりの時にF.K.さんがおっしゃって「あれっ!?私と着眼点が違うわ。」と感じたことを思い出していた。
版画をご趣味にされていらっしゃるので目の付け所が違うのね。そしてその後、JCⅡフォトサロン、焼き物の加守田章二展を彌生画廊に案内して頂いて、素敵な作風に魅せられる時間も頂いた。
道すがら枯れかかった花から種を頂いたり、徒に伸びた枝を小さく手折って挿し木にしてみようかな…と。でも挿し木は土や環境に合わないと難しいのだが、私も…と真似して試みることにした。何だか、彼女の魅力にも触れてとても面白かったし良い午後であった…。