用事で出たついでにぶらりと「大多喜」に立ち寄ってみました。
『房総の小江戸』と言われる『大多喜』
古い街並みが残っています。
渡辺家住宅
TV東京の「何でも鑑定団」に出ていた「日本画家・(故)渡辺包夫さん」のお家
現在も家族が住んでいます。
新緑が目にしみます。
徒歩5分以上は歩きます。
大多喜城
帰り路、『波の伊八・行元寺』こちら→ の小さな案内板を発見
車を降りて、こんな坂道を上っていくと
残念(;一_一)
平日は見ることはできません。
用事で出たついでにぶらりと「大多喜」に立ち寄ってみました。
『房総の小江戸』と言われる『大多喜』
古い街並みが残っています。
渡辺家住宅
TV東京の「何でも鑑定団」に出ていた「日本画家・(故)渡辺包夫さん」のお家
現在も家族が住んでいます。
新緑が目にしみます。
徒歩5分以上は歩きます。
大多喜城
帰り路、『波の伊八・行元寺』こちら→ の小さな案内板を発見
車を降りて、こんな坂道を上っていくと
残念(;一_一)
平日は見ることはできません。
6月1日発行の「会報39号」は、珍しく日にちに余裕を持って出来上がった。27日午後には、発送に漕ぎつけ市井に出回る出版物のように、早目の発行ができたので嬉しい。
新聞や週刊誌、月刊誌は「○月号というと、○月よりも早めに出るのが当たり前。だから月刊誌・季刊誌の準備には、2、3カ月も前に依頼原稿を締め切るのが常識。
そのようなことは出来ないまでも、明記されている発行日の7日くらい前には、発送したいといつも思っている。現実は諸事情が絡んで、ぎりぎり発行日に間に合うかまたは遅れて発送…という状況で「いちよう」は発行となっているのだ。
印刷は、現在、男女共同参画の“ハーモニープラザ”の2階印刷室で、手作りしている。同好の会のはじめの頃は、お互い知らない者同志で、指導の山田俊雄先生のご都合もあって、頻繁に散歩は行えない状態だった。約3か月間隔のパラリとした繋がりで役員としては、どんなものかと思ったりした。
そこで会員同志が、紙面でお顔を会わせ親睦をはかるつもりで会報を編集しだしたのだが、お陰で10年になろうとしている今は、会員それぞれがすっかりお馴染みとなっている。
会報の紙面が、会員間を結ぶ大きな力を発揮してきていると自負し、何とか皆さんのお役に立ちたいと思って働いているのだ。
会報や、お知らせの印刷は、影絵のように黒子のように、我ら『木曜午後のレディース・トリオ』が、させてもらっている。スケジュールの調節で、ほぼ毎回木曜日午後に集まる。
ハーモニープラザ初代館長は元NHKアナウンサーの加賀美さん。
印刷機を使用させてもらったはじめは、用紙さえ持参すれば、製版は無料だった。それが製版1枚に付き50円と有料になり、今月から、プリント機が新しくなったからと、一気に製版1枚100円と、値上がってしまった。
セルフタイマーで、黒子、いやいや…、“木曜午後のレディース・トリオ”が揃って…三脚で写真を撮った。記念の写真は、タイミングを外してシャッターが下りたので、笑い顔が少々不自然だけれど、許してね。
このコーナーは休憩室。自販機や小さなキッチンも備えられている。
ここで、きょうは“折りと組み”をして、封筒にいれる作業をした。散歩の記念写真も入れて、あとはセブンイレブンで宅急便を頼む手順だ。
少し前まで、広尾という遠くの宅急便センターに持ち込んでいたのだけれど、1,2日の差が出ても仕方がない…と、近くにあるコンビニでの発送になっている。
テニスコートと駐車スペースの境のところのフェンスに絡まった植物はちょうど花が咲いて、芳香を放っていた。なんという名前の木かしら?
仕上げの段階で、大事な写真が見つかって、それを差し込んだりの作業を伴ったが、今のところ「しまったー!」という、校正ミス、文章のダブりや抜け落ちた(レイアウトの急な手直しなどすると時々見つかって、そんな大打撃を感じてしまう。)個所も ない。仕上がってから見つかって、後のマツリ…ということがよくあるので緊張の時間だった。編集から開放されて、会報・万歳。
レディース・トリオは、みんなどっぷり疲れたぁ~。この緊張感…印刷の僅かばかりの位置のズレ確認、色合いの濃さ薄さ、裏表のページの確認、製版の時の文字・写真となっているかの確認…などなど、張り詰めた神経で印刷する。
手にとれば、一般の単なる広告でも、カラーで上出来のすごいページを見慣れているから、この会報の印刷はお粗末に見えるかも知れない。けれど、素人の手作り…売られているものより、只で配布されるものより、ず~っと大変なのです。
その辺りは、会員の皆さんはどれだけ分かってくれるのだろうか?
疲れるはずだよね。コーヒーブレイクで、この時の疲れをほんのチョッピリだけれど癒す時を持つ。そんな気持の押し売りはいけないと分かってはいるけれど…。期待してはイケナイのだけれど…。
一方向からみると、正当な評価が得られないことは空しいものと感ずるね。いつもは、違う面から考えて生き甲斐とか、喜んで読んでもらえて嬉しいとか思うのに…。
今日は低気圧で、洗濯物もカラリと乾かない日だったなぁ~~。
会報39号が、ようやく纏まって、今日最初の1ページと最後の16ページを、カラーコピーの印刷をしてきた。
次回の散歩のご案内も出来た。あした(正確には今日か…。零時を回ってしまっていた。)木曜日の午後はプリント印刷を会報7枚(14ページ)と案内状1枚を、中央区のハーモニープラザでする予定である。
次回散歩は、二千和会行事・散歩の活動も50回を迎える。
そのご案内も印刷するのだが、ほんの50歩100歩のところだが、早目のお知らせである。
東京・町田市にある、白洲次郎・正子の旧邸『武相荘』とその周辺の鎌倉古道“早の道”を歩く予定。
白洲次郎は、イギリスに留学してジェントルマンの姿勢をしっかり身に植えこんできている。それが、世界大戦で日本が敗れ、その戦後処理に戦勝国アメリカと、堂々とした態度で、交渉をする吉田茂首相を援けた。マッカーサーの天皇に対する態度に注文をつけ、首相の演説は巻紙に毛筆で書いたものを読みあげさせた。
もちろん吉田首相は英語で演説をしようと準備もしたのだが、日本語でのスピーチが良いとのサジェッションをして敗戦国ではあるが、立派に日本人の意地を見せた。
そのような次郎と、奥さんの正子。正子もそんな夫に引けを取らず…釣り合った夫婦であった。一流の審美眼をもって趣味だとは言えないような専門家の目を持って蒐集家としても凄かったようだし、執筆作業も専念していた。
夫婦喧嘩は英語でやり合ったと言うし、直接お会いしてその人となりに触れたかったなぁ。ちょっと望みが大きい? 正しく言いなおします。直接はとても無理だけれど、TVなどで対談したりするのを見て聞いてみたかったと思うのである。
戦中から東京の中心を離れ田舎暮らしをした。農業も教えてもらいながら励んだらしい。都会的なダンディ・ボーイが、である。戦禍と食糧難に陥らないという目算もあったと言う。
あまり言ってしまうと面白さや、見た感激が薄れるからこの辺で。
明日午後は印刷。B4判の用紙が足りないので購入し、参加者の集合写真プリントを用意しなければ! (まだしていなかったことに気づく。)そして、母の主治医との面談を申し渡されていたので、午前中のうちにしておかなければ…。
もう、深夜だ…寝なくては! この頃生活のリズムが狂ってしまうほど、編集にのめり込んでていたから…。
つい先ほども、版下を見ていたら会員から、送られてから、そろそろ2か月前ともなろうという時の写真を思いだして、慌ててレイアウトを変えた。
今載せてある写真を小さくしたり削除したりして、どうにか収まった…良かった~。そのことを思いだして、なんとかセーフで…危ない・危ない…良かった~思い出して救われた想いだった。
ちょっと目を離した隙に、また花が咲きだしている。手を加えることもなく、オキザリス、カルミアの姿にまた出会えた。またこの季節が巡り来たんだね…。
旅する私。
今どの辺を歩いているのかしら?
どちらの方向に歩いているの?
行き止まりは見えてはいないだけなのか…?
二つの息する空間をもっているので、どっちの空間の友だちに貰ったか、いつもらったかははっきりしていないのだが、片づけものをしていたら一枚の紙片が出てきたので、友達に面白いのでどうぞ…って差し上げたら、「あら、この詩を知っているわ。でも、どこで見たのかしら?」と。
彼女もそれをみたことがあると言っていたので、もしかしたら、そのご当人から、もらっていたのかも知れないと、ふと思った。
6番まである面白い詩である。なるほどと頷かせる詩である。そうか、そうすればいいのかと教えてもくれる詩である。老人の教訓と思う詩である。
下記の詩の作者を調べてみました。
1892‐1991 明治~昭和時代の古書店主。明治25年11月25日。40年大阪で露店の古本商となり、大正4年くもじゃ天牛書店を開店。戦後、道頓堀で再興。大阪府古書籍協同組合理事を務めた。平成3年6月2日死去。98歳。和歌山県出身。著作に「われらが古本大学」。
ぼけたらあかん 長生きしなはれ
天牛 新一郎作(94歳)
1.年をとったら 出しゃばらず
憎まれ口に 泣き言に
人のかげぐち 愚痴言わず
他人のことは 褒めなはれ
聞かれりゃ 教えてあげてでも
知ってることでも 知らんふり
いつでもアホで いるこっちゃ
2.勝ったらあかん 負けなはれ
いずれお世話になる 身なら
若いもんには 花持たせ
一歩さがって ゆずるのが
円満にいく コツですわ
いつも感謝を 忘れずに
どんな時でも ヘエおおきに
3.お金の欲を 捨てなはれ
なんぼ ゼニカネあってでも
死んだら 持って行けまへん
あの人は ええ人やった
そない 人から言われるよう
生きてるうちに バラまいて
山ほど 徳を積みなはれ
4.そやけど それは表向き
ほんまに ゼニを離さずに
死ぬまでしっかり 持ってなはれ
人にケチや 言われても
お金があるから 大事にし
みんなベンチャラ 言うてくれる
内証やけど ほんまだっせ
5.昔のことは みな忘れ
自慢話は しなはんな
わしらの時代は もう過ぎた
なんぼ頑張り 力んでも
体がいうこと ききまへん
あんたは偉い わしゃあかん
そんな気持ちで おりなはれ
6.我が子に 孫に 世間さま
どなたからでも 慕われる
ええ年寄りに なりなはれ
ボケたらあかん そのために
頭の洗濯 生き甲斐に
何かひとつの趣味持って
せいぜい長生き しなはれや
ブログにもいくつか同じ詩が登場していました。有名な詩だったんですね。老人大学か、介護施設のお勉強で作詞して、評判になったのかと思っていましたが、そうではなかったのですね。立派なおじいさんでいらっしゃるから、このような詩が生まれたということが判りました。(’10.05.22 21:50 追記)
仕事の関係で、裁判所によく行っている息子の話を聞いて、『お母さんも一度行ってみたいわ』と言うと、『勝手に行けば…』とつれない返事。
と言う訳で勝手に自力で『千葉地方裁判所』へ行ってきました。
「裁判員法廷見学ツアー」に参加しました。もちろん無料です。
「裁判員裁判制度」が始まってもう1年になります。
もし、裁判員に選ばれたらこういう手順をたどります。という設定でツアーがスタートしました。
まずこれからの流れをDVDで見ます。
そして、この当日の「質問票』に記入⇒裁判官との面接
何人かが選ばれ、その中から最終的に「くじ引き」で6人の裁判員と補充裁判員が決定
裁判員に選ばれた人の『宣誓書』
いよいよ、法廷に入りました。
201号法廷は千葉地裁の中で一番広い法廷。
100人弱の傍聴人席があります。
本物の裁判官の質疑応答の後は、この中自由行動。
カメラもOKなので、裁判官席に座ってみました。
テレビで見る限り、裁判官席はとても高い位置にあると思っていましたがここの法廷は、階段3段位のもの。
被告人席
『法衣』も着てみてください。ということで着てみました。
ちょっと似合わないですね。
こちらの方、なんだかしっくりとお似合い(知らない人ですけど)
コンビニもあります。
「自販機」もあります。そして、その飲み物の安いこと・安いこと
350ミリのお茶が90円。変なところで感動してしまいました。
なぜ安い??
今日のお土産
裁判所には縁がない方が幸せかと思いますが、どんな所か一度見に行っても良いかも。
ご無沙汰しています。ただ今39号の編集中で、それに没頭しています。
例のアメリカドライブ旅行の紀行文をお願いして、その掲載写真が私のイメージとはズレがありました。写真のピントがどうも甘いのです。輪郭がはっきりとしていなくて…残念な気がしました。「折角だから直接写真を見てください」と、AKさんからのお申し越しがありました。
パソコンを使わないAちゃんは御主人にお願いしてメール送信してくれていますが、何度か私から面倒なことを承知で、お願いしていました。二度もやり直しをして下さって送信して頂きましたので、申し訳ないなぁと気が引けていました。
「いっそのこと、お会いした方がいい、直接アルバムを見てください…」との電話があり、即その場で行くことにしました。到着まで小1時間かかるのですが、電話の1時間後にはお目にかかってアルバムを開いていました。
何が気になるかというと、送られたそれら写真のピントが鮮明では無かったのです。メモリからの写真ではなくて、プリント写真をスキャンしたものを、送信して頂くしか手が無かったからです。
このアルバムを貸出ますからと、A4判プリントが多数枚入りの厚さ3,5cm、重さ2kgのものを預かりました。
家で改めてスキャナーを通してみようと思ったのです。
こんなに大きな写真からスキャンすれば、会報には縮小して載せるのだから、これらのピンボケ状況からは改善されると思ったのです。
結果は私の考えが甘かったのです。うちのスキャナーがAKさんの所より良くないということも判りました。すなわち、送ってもらっていた方がうちのから取ったものより色合いも良いのです。…がっかり…そして―
あれこれお願いしたホットケーさん(AKさんのご主人)に、大変ご面倒をかけたことを、ここでお詫びし、感謝を申したいと思います。ありがとうございました。
その時、アメリカにご一緒されたMKさんも、Aちゃんと同じ地区にお住まいですし、私の到着を待ちうけてくださいました。そして旅行の感想の様々をお聞き出来ました。
でも私は知っています。
いろいろと、あれこれ伺っても、彼女たちの万分の一も分からないってことを。
AKさんは原稿に書かれています。すなわち“百聞は一見に如かず”と言うことなのです。その写真によって切り取られる風景の外側も、行って、見て来ている人は見えているのです。空気を感じ触れて辺りの匂いやその時の足の疲れ、そして喜びと感激をも…さまざまに体感している人とは、所詮分り切れるものではありません。
私が転んで腰を痛めなかったら?…と思うと残念です。でも、負け惜しみを言わせてもらえば、それで良かったとも言えます。
その間私が日本に居なくてはならない、いろいろのことが…ありましたから。
そう、二千和会散歩も欠席せずに、この10年間皆勤で、会報編集にも散歩の実感があるので、“編集も身が入る”ってものですから。
このGWを利用して、都下にいる白寿の姑を見舞いました。車3台で集まりました。今年8月の誕生日に、百歳になります。病院に併設の介護施設です。シャガールのイメージの絵が、玄関ロビーに掛けられていました。やっぱり、絵画は観る人たちの心を豊かにしてくれるものです。
しばしの間姑に交え、触れあう時を持ったことを大変嬉しく思いました。姑から、将来の明るさと元気さを頂きました。勇気を頂きました。さすが、夫の母親だ、しっかり老人力を蓄えている、と納得もしました。
お祖母ちゃん本人にとっての、子どもも、孫も、曾孫も、孫の夫(孫の結婚式には老いていてもう列席しなかった。遠くて会う機会も少なかった。)も、母と話を交わすことが出来て、大いに感激しました。
しょっちゅう会っているわけではないので、「長女Mの上の子ども◎ちゃん、下の子ども☆ちゃんよ…」とか、「次女Cの子どもの△ちゃん、○ちゃん」と一々指差しして紹介すると、孫の名前の方はすぐ判って「Mか!」「あ~C…」と頷いて納得してくれましたが、さすが曾孫は紹介しなくては判りません。
久しぶりだったので、私たちを判らなくても、忘れてしまっても驚かない…と覚悟していました。しかし、確かな母は、孫以上は、判ってくれていました!!
更に嬉しかったのは、曾孫たちと握手して「みんな、いい子だ!」「みんな良い子だ!」「みんな好い子だ」と、力強く言うのです。
「お祖母ちゃんの良いとこを受け継いでいるからよ。みんな良い子…なのはネ。」…と、思わず背中をさすってしまいました。暖かい、しかし痩せた小さな背中になっていました。
こちらの病院では、「3か月になるから、そろそろ別の施設を探して移って下さい」とは言われないのかしら?
本当に弱い者にとって、哀しい辛い法律です。実母の場合は、そう言われてはいますが、新しい所が見つからないし、心が休まる親切な優しい皆さんがお世話してくださるので、新しい施設が満員なのを幸いに、長く同じところに滞在してしまっていますけれど……。ちょくちょく移ったり新しい環境に慣れずに不安を抱きながらでは、命も縮まってしまいます。
姑のように長生きして、しっかりと自分のことも出来て、物事が判るお年寄りになりたいものです。
以下は「健康ライフ」からの抜粋です。
百寿者は1950年には全国で97人でした。2003年には2万561人と、約200倍に急増しています。2003年の100歳到達率(百寿者の同年出生数で割る)は175人に一人になりました。
かつて、百寿者は遺伝的エリート集団と考えられていました。近年の報告でそれが必ずしもそうではなく、心身ともに弱くても、100歳に到達できるという結果が出ています。
全国47都道府県で、百寿者の人数が最も多いのは東京都です。その百寿者を全国の代表と考えて、調査した結果があります。
身体機能
日常生活に必要な基本動作(食事、着替え、トイレ、入浴、歩行など)ができ、自立できている人は約2割、ほぼ寝たきりは約4割でした。栄養状態の指標である血清アルブミン値は低く、低栄養であり、百寿者の多くは虚弱でした。
視聴覚・認知機能
問題がない割合は視覚で約3割、聴覚で約2割でした。認知機能で認知症が認められないのは約2割でした。
百寿者と聞くと、自立した元気な高齢者と考えられることが多いですが、寝たきりや認知症の割合も多く、理想的な老いの困難さを示しています。
70~80代の高齢者は日常生活の自立の度合いが低くなると、幸福感が低下する関係が見られることが多いようですが、百寿者は、身体的に衰えていても幸福感は大きいようです。その感情は、ほかの人より長く生きているということ、つまり生き残り競争に勝利したということから生じていると考えられます。100歳ということで、周囲の人から称賛を受ける機会も多く、良い感情をもつ機会が増えてくることも影響していると考えられます。
以上の百寿者調査から浮かび上がった百寿達成の条件は、
病気:百寿者は糖尿病の罹患率が低く、動脈硬化の進行も遅かった。
生活習慣:飲酒率はあまり変化がないが、喫煙率はかなり低い。
性格:男性は神経症傾向が高い(健康に注意し、病院にかかることが多い)
女性は外向性(対人交流がおおく、ストレスが発散しやすい)と誠実性(さまざまな場面で成功につながる)が高い。
男女とも調和性が低い(マイペースである)。
ということになります。
百寿を達成したけれど、認知症の割合が高いことを避けるには、身体機能の低下(=認知機能の低下)を防ぐために食生活を重視(特にたんぱく質)することが指摘されています。
また、認知機能を高めるために周りが過保護にしないこともあげられています。
(参考:健康ライフ 通巻19338号)
今年も筍が出る時期となった。病の床にある母も小康状態となったので、我々若い者組みは例年のように筍バーベキューを楽しめる雰囲気となった。
やれやれ…と、いつもどおりに集まれて幸せ気分になれた。
若い者組と言ったけれど、息子、娘、娘婿、甥夫婦、妹夫婦、勿論自身の夫婦は、それなりに年を経た。食べる量もそれなりに。
しかし、この空気の美味しさのなか、青い空の下で戴くバーベキューはいつの間にか、たらふくお腹の中に入ってしまう。年なんだから、こんなに多くは要らないと私は思って生ま物が残るのを心配するが、なんの、なんの!
焼肉用の牛肉、豚肉、串焼きに鶏肉、そして下味のしてあるタン、牛、豚も。さらに海老、烏賊、ソーセージに加えて、餃子、たこ焼き、焼きそば。
野菜にはキャベツ、ピーマン、玉ねぎ、椎茸、エリンギ、茄子、カボチャ、さつま芋、茹でトウモロコシなど。
デザートには西瓜、苺、シンプルケーキ。
材料は持ち寄りで、大まかにはどんな物を用意すると決めていても、いろいろと集まって、結構たくさんの種類となる。
子どもたちはまだ良いのだが、中年以上の大人たちは完全に食べ過ぎ…と、自覚はあっても、つられて口に運ぶ。(仕方がないね。今日だけね。)……自分に言い聞かせながら。
格別美味しいのは焼き筍。
焼き芋に通ずる美味さがある。材料を調理する時に、出し汁の中に旨みが溶け出してしまうわけで、材料の旨みだけを味わうより、煮汁も啜って美味しく感ずるのがふつうである。
しかし焼く調理は、特に炭火の中でじわじわと材料に火が通っていくから、戴く時には、本当に美味しいものが口に運ばれるのだ。焼く調理法は美味しいはずだ。
食べるのに飽きると、竹トンボ、竹ぽっくりをその場で細工して貰って、それであそんだり、大縄跳びにバドミントンを車から持ち出してあそんだり…。幼稚園前の小さい子も交えて遊べるし、参加しなくても見て楽しむ術も覚える。
60年以上も前、食糧事情が日本中悪かった戦後の頃に、こちら方面で暮らしたこともあるので、懐かしい思い出体験にもつながる、ザリガニ取り……。老いても懐かしく子ども時代に戻れるような時を、大人たちは楽しんだ。
(いいね、田舎暮らしも…)。自然に親しみ自然の中で過ごしたことは、自身の豊かさと奥行きの深さを事あるごとに感じながら、今の暮らしに感じる。だからこそ、この小さな孫世代にも、僅かな時間にしろ、このような経験を積んで生きていって欲しいと思うのだ。こんな他愛のない経験が、孫たちの未来に大きな可能性をもたらすかもしれないと、思っているのである。
好い一日でした。後片付けもみんなですれば気持ちがいいね…。
妹夫婦、甥っこ夫婦に感謝、感謝で、親族の心の絆もまた強くつながっていくような時間を頂いた気がした。
連休のはじめの日、これまでの曇りがちの気候や、雨模様が多かった時とガラリと変わって、久しぶりの晴天で、まばゆいばかり。国道をまたぐ歩道橋から車の列を眺め、母が休んでいる方角を眺める。
待ちに待った春、いや、もう立夏も過ぎていた。桜は開花予想をはるかに遅れて咲き、そして八重桜を咲かせた。咲きだしも寒かった陽気だったが、それが幸いして桜の花見時も長く楽しめた。
会報の名前にも由来した「イチヨウ」が咲いていると判断して、この八重桜を撮ってみた。下の写真の八重桜は「普賢象」(フゲンゾウ)。花芯に緑の芯が二つ見えるが象と見立てたものとか。 八重桜は派手で重々しくもあり、強そうで、ソメイヨシノのか弱い咲き方ではなくて、比較的長い時期、人々を楽しませてくれている桜花である。(ソメイヨシノは散り方が潔いというべきで、咲き方はか弱くはないと訂正します。)
桜の向こうの丸い屋根は体育館である。
若々しい緑。このような時期の葉っぱは人間を励ましてくれているような気さえする。優しく弱弱しいと言えばそうだけれど、命の芽吹きの元気さ、溌剌さを感じさせてくれる。
ケヤキは空を見上げて、近くを見ればドウダンツツジ、そして躑躅の花盛り…気持ちが良いものである。
この藤の樹は、通りから奥に引っ込んでいるので、虫害にあっても見逃されたのか、幹の芯がやられ穴があき細くなっている老木である。けれど、こうして花の咲く時期には立派な花房をつけて…健気なことと心打たれる。
柔剣道場、弓道場、テニスコート、そして体育研究棟、…など体育に関わる建物も一通り揃っているが、9月の国体にはまだ会場が他にも出来てくるのだろう。水泳はプールでなければならないのでここが最適だが、ヨットレースとかカヌー競技など水に関する競技はここでは出来ないし…しかし、そんな競技も国体でするのか、はっきりはしらないのだけれどネ。
フェンシングもあるのかな? 選手となる方たちは技を磨くのは大変だろうが、目標が定まり励みにもなることだろう。
5日のアクセス数を見てびっくり!
閲覧ページ522、アクセスipが、45だなんて…。こんなに多くの数字は見たことも無かった。嬉しいという感情がちょっぴりで、不安と不思議な気持ちが覆いだしてくる。
会員と会員の知人にのみお知らせしているだけの「非公開」設定にしている。
何故かな?どうしたことだろうか?
連休で休んでいた会員・知人が、久しぶりにアクセスしてくれたのだろうか?
GWの近場散歩。千葉総合スポーツセンター内を散策した。
正面のながい階段が見える。ここは滅多に使われたことはない。メインの華やかさを伴うお祭りのような時を想像できるが、私はここが開かれ使われるような機会には、一度も恵まれてはいない。…というより、そんなことがあったとしてもそれを覗きにくるような若さ・元気さは無いのかなぁ…と反省もする。
メインスタジアムに通ずる長い階段である。
メインススタジアムの隣は野球場。高校野球の県大会で夏は賑わう。普段でも土日など若いエネルギーが感じられる人々が野球に限らずどこかしらの施設を利用されている。
’73年に開かれた時の記念のモニュメント、「若潮」
もうひとつの記念碑は入江侍従長の歌碑
よべよりの雨はいつしかふりやみて ひとびとはつどうふ千葉の広場に
この歌により、当日のからりと透き通ったような空が目に浮かぶ。そして感激にふるえる人々の姿も。しかし、「よへ」とは、夜半のことなのだろうが、古語的には「よへ」と表現するのだろうか。「よは」(夜半)を、「よハ」と書かれたのだろうか。ず~っと、疑問を感じているので、誰か教えてください。
短歌を楽しみ、趣味の域を超えているような方から解答を得ました。
「よへ」は、夜辺のことです。仮名書きの表記ではよく、濁点をあらわさないで書かれるけれど、読みは「よべ」です。(5/14追記)
スタジアムを内側から捉えた。今までになく強い日差しで、一回りゆっくりと施設、施設を外側から覗きこみながら歩いて2時間弱。首筋が赤くなり日焼けしてしまった跡が、家に帰って見たらあった。やれやれ…疲れたぁ~。足も痛い…。
日時計は間もなく12時。この傍の水泳競技場は荒んだ姿になっていると日頃思いながら散歩していたが、その施設はやはり造り直すようで、飛び込み台やプールのコンクリートの瓦礫が山をなしていた。昔、子どもが小さかった頃ここのプールにも遊びに来たことを思った。
ゆめ半島千葉国体の開催時期は、今年9月25日~10月5日の予定とのことだ。
こちらラグビー、サッカー競技場の芝はすっかり整備も整いさすがに「ひろ~い」。写真に撮ると実際よりも広く見える…。
八重桜、花ミズキ、牡丹、三色菫、タンポポ、藤の花…場内の散歩道は花や木々の瑞々しい緑に輝き、ようやく清々しい初夏の陽気を体に受けて爽やかだ。昭和の時期を記念したこの頃の陽気はいつも清々しさにあふれている。
「病気見舞いに何が良いですか」の問いに「五月の風をゼリーにして持ってきてください」と、応えられたというその感覚の持ち主、立原道造に憧れてしまう。
そんな気の利いたことがいくら病の床にいたとしても、言える? とても、とても真似もできない…ただただ、うなってしまうだけ…。そんな言葉を吐く人…それだけで尊敬してしまうなぁ。
そんなこんなで、ぶらりと散歩。「五月の風」と言いたかったが、これは5月には一日早い、4月30日のお昼頃のことであった。