夏休みです! 夏休みと言えば、子どものころは楽しく開放感あふれて、自由な気持ちで過ごせた期間でした。
扇風機も中流家庭と呼ばれるほとんどの家庭には、あるか無しかのそんな子ども時代のことを思い浮かべると、今の夏の気温とは格段に涼しく過ごしやすかったように思います。地球の温暖化が実感されます。
ひまわりが似合う暑い夏のころ、私は二番目の子どもを出産しました。
ちょうど、アポロ11号が人類初の月面着陸をして画像を全世界に放映しました。同時通訳なんていう能力を発揮する人も現れました。深夜から早朝にかけてテレビ中継された人類の「月面への第一歩」の中継放送を、私のお腹の中で聞いていた二番目のベイビー。
歴史的な瞬間を見たいと、夜更かしをして、普通の方の何倍も暑く感ずる妊産婦の太めの身体で、テレビ画像を見ていました。
あとで月面着陸はトリックだとか騒がれましたが、その時は興奮して見た覚えです。
だから出産予定日より10日も前に少し慌てた様子で、「初めまして、私があなたのベイビーよ!」と人間の世界に生まれてきました。
その子は二番目の夏生まれの女の子。(最初の子は秋生まれの女の子。)
二番目の娘の誕生日に、ちょうど訪問できました。普段はお勤めをしているので、邪魔にならないように、孫たちの生活時間も崩さないように、私は気を使って訪問を遠慮しているのです。娘夫婦は「そんなこと気にしないで度々来て下さいよ」と言うのですが、遠慮と言えば美しいですが、上の娘より遠いということもありました。
ママやお祖母ちゃんになると、ロウソクを年の数だけ飾ることは大変です。夕食後の生クリームケーキじゃメタボリックシンドロームになっている私に嫌われると、本当に頃合いのケーキ! 少し小ぶりだからロウソクは一本を10歳分?いや、まだまだあるはずですが?
それは立てないことにしましょうね。
アポロ計画の話をしているのだから、それ以上言う必要も無いですね。
みんなで6等分としました。残った1つは誰がたべたでしょう? 忘れましたが生クリームはやっぱり美味しい。たまにはケーキを食べることはいいですね…! みんなのお顔を見ながらね。
本堂までの途中に釈迦堂がある。善光寺に比べてキラキラしているお堂が右手に見えた。ふらりと寄る。釈迦堂だ。国宝で釈迦涅槃像が安置されている。
お参りしてから何かいいお土産がないかと目を向けてみた。
お茄子の根付けの形で「ボケ封じ」、そして黄金の杖、高下駄、鈴がぶら下がった「健脚守り」が目に入った。
茄子はボケると美味しくないし、ボケやすいから自分のボケを茄子に譲り、引き受けてもらうという洒落の心も読み取った。違うかな?
年老いてもそうありたい…と何となく手にしていたら、「おまじないしておきますよ」とお店番をしているご住職の奥さんらしい方が言われた。そうか!そうだよね! お守りはおまじないの類なんだ…と改めて思った。
お守りは多分心の安定・安心を得たいための「おまじない」に過ぎないことだと改めて気づかされ、納得した。
下の写真の背景は善光寺の本堂の奥の方が見える。阿弥陀様が安置されている。
本堂の中には、病の治癒信仰「撫で仏」が、おびんずるさま。お顔は人々に撫で回されて、鼻も目も肩もお体中が磨り減ってつるつるになっている。
おびんずるさまの肩越しに見えるのが、ご本尊を奉ってある祭壇。右端の丸い柱と柵を進んで行くと、漆黒の闇の中に入って行く。これこそ本当の闇で一筋の明かりも見えないお戒壇めぐり。ご本尊の真下あたりに錠前があって真っ暗闇の中を手探りで巡ってその錠前に触って来れば、極楽に行けるという約束がとれるという。
今回はお戒壇めぐりはしなかったけれど、こんな闇があるのかと思えるほど、真っ暗! 壁を伝って鍵に触れる…やっぱり安心する心を自覚できるから有り難いのかも知れない。
本堂の本尊下にある真っ暗な通路を手探りでたどり、本尊真下にある「極楽のお錠前」と呼ばれる鍵に触れること。鍵に触れることで本尊との仏縁が深まり、極楽往生が約束される・・・というもの。お戒壇めぐりを可能にしている本尊を安置する高床になった瑠璃壇と、その下の通路という構造は撞木(シュモク)づくりと言われ、1707年(宝永4年)に完成した江戸時代中期の仏教建築の傑作とされている。(インターネットから)
善光寺本堂から山門に向かう境内の、帰路方向右側に親鸞聖人の石像がお立ちになっている。
前に会報に私の祖父の墓石について記述させていただいき、拓本を取ったそのものその写真のお墓(少し変形加工してあります。)。納骨の儀式をそっと写させて頂いた。
忙しいことだ。この暑いのに大変な日々を送っている。
このたびは、法事のため長野へと向かった。父が存命ならどうするだろうか?と考えると、私は如何に遠くても大変でも亡き父がするであろうように、動こうと思う。私に課せられた宿命とも思って責任を果たすべく実行している。
前回は葬儀・告別式で出かけたが、その際松代の辺りを少しぶらぶらと散策した。今回は四十九日法要。遠いので折角出かけるのだからと、懐かしく父や祖父の思い出を温めながら、善光寺周辺をぶらついた後、本家のある松代に出向くことにした。
長野新幹線東京駅ホームの利用者の皆さん。出掛けはあまり好い天気ではなかったのに長野に近づくにつれて晴れてきた。
長野駅前バスターミナルの1番乗り場は善光寺行き。駅よりの乗り場では「ぐるりんバス」が周遊していて乗り降り自由・どこでも乗車券は100円。 そのバスを利用して善光寺まで。
駅前街灯の標識はNagano Sta.とある。
父は「好い子だけが善光寺さま御仏のお加護が授かる」と、仁王様は悪い心をもっている人間はここを通さぬと、強い顔をして見張っていてくれるのだと説明した。
「こわ~い」と感じた。そうして幼いながらも善い心、優しい心、正しい心で生きていくことを理解させてくれた。
仁王門 仁王門は宝暦二年(1752年)に建立されましたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、現在のものは大正七年(1918年)に再建されました。この門には善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられています。
仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に高村光雲・米原雲海の作であり、その原型は善光寺史料館に展示されています。(善光寺公式ウェブサイトから)
山門 寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門です。屋根は大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなりましたが、平成十四年から十九年にかけて行われた平成大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されました。
楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っています。(善光寺公式ウェブサイトから)
別所沼の写真をもう少しアップしておきましょう。
別所沼公園入り口付近に、水質試験とか浄化試験とかのエリアがあって、折角の眺望が、妨げられていた。
Akoさんからの説明では、メタセコイアの枯れ葉が沼床に沈み腐り難いので、これがヘドロの素になって沼が汚れて来たから綺麗に澄んだ水に戻そうとの努力をしているのだと言う。
上左:公園の案内板 上右:Akoさんのお勧めスポット。何箇所かに常備されている浮き輪からの沼の風景を撮る。船に乗っている気分が写せた!
下左:手前の3つの小さい島は浮島。そう言われないと不思議さも感じなかったが、風が頃合いに当たるとスーッと風に押されて動くのだ。え!と目を見張った。 下右:Akoさんとボランティアのお当番を引き継いだ方が窓際に見える。こちらのお一方(おひとかた)からハガキのプレゼントがあった!
ハガキを下さった方はこのハウスを実現化された北原さんの奥様。お二人とも元教師の仲良しご夫婦とか。たまたま通りがかったと言われたが、一人でご案内役という変則的な半日だったので応援にいらした様子だった。そしてここに訪問の私にも、このハガキのプレゼント…という訳です。如何にも凉し気な模様入りの素敵なハガキ。
「差し上げます!ただし条件がひとつだけあるの。まもって下さる方に上げることにしています。このハガキでラブレターを書いてくださいね。それは単に愛のハガキ(同性でもいいのよね、と私の心の中で頷いていたら…見透かすように。)ではなくて、男性に宛てなければいけませんよ。」
また、夢の配達人に出会いました。
歓談中の二人は流れさってしまうこの時を、お互いに映像に残しておきました。
N駅に降りたってわくわくした気持ちで眺めた別所沼公園方向をパチリ。そして帰路、走っている電車内で、もう一度その方向を写真に納めました。
次にはいつ来られるか?来られないかも知れないのだから、やはり「一期一会」の精神が生きて、とてもいい時間を過ごせたことを満足感とともに振り返っている。Akoさんありがとう!
思い切って行ってしまいました。会ってしまいました。
「弱きものは、おのずと群れを成して行動する習性あり」…女性特有の持って生まれた性質は、弱い私にもあるし、そんな育ち方をしたと思っている。幼い時には特に他と同じでなければ嫌だと、同化したがった。両親から個人のもつ性質をもっと大事にしなさいと、自分は自分で他の人とは違うのが当たり前に考えなさいと注意された。
弱さが未だに脳裏を支配しているようだ…。
こんな老木になっても伸びる余地もあるやも知れないと、思い切ってこのたびは冒険をした。
特定ブログを3、4年間愛読させて頂き、気持ちの上では親しんで私なりに彼女(あるブログの作者)のことを理解していたつもりだけれど、実は朧に想像するだけで自分の目で確認したくなった。駄目元は覚悟のうえでブログ作者に、会ってお話を伺いたいとメールしてみた。彼女は、雲を掴むような存在の私に会うことは、私以上に不安だったろうと思う。 …けれど会うことを承知してくださった。
彼女Akoさんは、趣味や考え方が私にも似ている、通ずると勝手に解釈し、親しい気持ちであった。またブログを見たり読んでいくと、彼女は絵画、画家たちにお詳しい。
彼女のブログは私の知識欲を充分に満たしてくれる。勉強家の彼女を尊敬する。また、2年前には介護し続けたお母様を亡くされたこともあり、コメント欄に書き込みをしながら、徐々に私を理解してもらい、お互い不安感のない間柄に少しずつなってきていたと思う。
そんな時にAkoさんがボランティアをなさっているヒアシンスハウス(詩人・立原道造の設計図に従い実現された建物)のお当番の日を指定してくださった。
「あなたの時間が取れるなら、別所沼までお出かけください。」とのお誘い。
多分、Akoさんも、恐る恐るお誘いになったと思う。同じ世代の女性たちは、似たような世相の、同じような社会環境の常識のなかで育ってきている。だからその用心深さもよくわかる。
けれど自分も、他人さまも「信じなければ」何も始まらない。
思い切って行動に移そう!別所沼の風景を見たいし、沼を愛する心いっぱいのブログページを読ませて頂いて感じていた優しく奥ゆかしく頭脳明晰だと判断させて頂いたAkoさんに会おう…と決心したという訳だ。正直に言えば、尻込みしつつ…だが、しかし!…会いたい!という心境であった。
初めて降りたったN駅 陸橋からの風景。
どうしたら辿り着けるかのご案内は、Akoさんから詳しい地図がメール添付されて来ていた。
私の最寄駅から1時間半くらいで着くのでそれ程遠いわけではないが、こちらの方角には知り合いが無く、全く初めての土地、私にとっては不案内で馴染みのない不安が伴う土地でもあった。
そのN駅の改札口を出て、高い位置の歩道橋から見渡せたので、方向音痴の私でも迷わずに行けると判った、あのすっきりとした姿のメタセコイアの木立ちが見えた。その下は別所沼公園だろう…と心浮き立つ感じがした。
会報「いちよう」の第2号に、いつも寄せてくださる片貝さんの文章が、「立原道造」について少し触れていらした。片貝さんご自身も建築関係に生業をもたれたこともあったという…関係からか、道造の言葉、詩、設計図などに関心をお持ちだったご様子。道造の有名な「5月の風をゼリーに固めて持ってきて欲しい」のフレーズを会報に書き記されたので、強く印象に残っている。
その道造の心に近づけるとわくわくしながら、訪れたのは7月。そろそろ梅雨も明けるかという時期なので、そんなには爽やかな空気とは言えないし、むしろ無風で暑い。
Akoさんが、氷をご用意になってきてくださって、ハンカチで氷を包んで首筋などに当てて涼味を振舞う心づくしは、これから後もず~っと私の心に残っていくだろうと思う。
公園内の散歩は沼の周りを歩いただけではあったが、彫刻や神保光太郎の碑などもあるそうだ。次に来る楽しみのために見ずに残した。
彼女とは公園内の会館でお食事を共に頂き、旧知の仲のような親しさでおしゃべりできたことが、嬉しかった。朧気だった彼女に初めて出あった印象は想像のままであった。ただ一つその域を越えたことは、吉永小百合に似ている!ということくらいだった。
こういう縁というか邂逅は、意図されたものでない部分がことさら凄いことだったと、今、つくづく思いこのことをつい反芻してしまうのである。
右の写真の幹の根元にあるのは根である。気根ということをAkoさんの説明で知った。大銀杏の枝からぶら下がった気根は鎌倉八幡宮でも見ることが出来たが、下から盛り上がっているのは初めて見た。この不思議な木は、落羽松(らくうしょう)という木だそうでメタセコイアに非常によく似ている。見分け方はわずか葉の互生か対生かで、わかるくらいだそうだ。
この風景をキャッチしたのは私の旧き良き友達。「旧き」なんていうのは少し間違っている。「古くからの…」と言うべき友達である。
その友達の写真を、こうしてブログアップすることもご承知してくださっている。そのことは私に信頼の心を示してくださっていると解釈して喜んでいる。送られたその一部を載せさせて頂く。
これはモスクワとサンクトペテルブルグの風景、すなわちロシア西部を旅して来たと言う。「これを見て気分を替えてみてください…」と、流石私の友達。そして、ちょっとだけお姉様です! 私が今よどんでいることを察してくださっている。「お見通し~!」なんですね。
日本には無い風景だ。全く空気が違う。噴水がこの画面をさらに盛り立てている。
Akikoさんに「旅の説明してくださらないかしら?」とお願いした。以下は彼女の投稿です。
ロシア西部の旅 A.Shibata
セントレア(中部国際空港)→インチョン(韓国)→サンクトペテルブルグ→寝台車でモスクワへ→インチョン→セントレア
この経路での旅でしたが、ロシアは東西9000kmの大国、
そのほんの一部を見たことになります。
サンクトペテルブルグといえば真っ先に、エカテリーナ二世の名前が浮かんできます。主人を失脚させて女帝の座に収まった人ですが、美術にかけての貢献はすごいものがあったようです。十人を超える愛人がいたことも有名ですね。67歳のときに18歳のボーイフレンドがいたとか。ちなみに67歳で亡くなっています。
エカテリーナ宮殿の金色の大広間、盛大な舞踏会が行われたのでしょう。外壁のブルーと白のあでやかな様にも圧倒されます。ピョートル大帝の夏の離宮庭園では、多くの噴水と滝が織り成すアンサンブルに目を奪われます。
エルミタージュ美術館は、ロマノフ王朝時代の宮殿が美術館になっていて、個人的にはちょっと落着かない美術館だと思いました。絵画そのものより、室内装飾に目を奪われるからです。本来はエカテリーナ二世専用の美術館だったそうです。
どこの国でも権力者の行き着くところは「絢爛豪華」の一言に尽きるようです。大国であればますますその意向は強いものになっています。武器庫にあった装飾品に散りばめた宝石類の大きさにびっくり!でした。
ロシアはいま百夜。午後11時ころにやっと夜のとばりが下ります。逆に冬は午後4時くらいから暗くなるんだとか。長い暗い冬、日本人には想像し難い陰鬱さでしょう。
サンクトペテルブルグからモスクワへは寝台車による650kmの移動です。コンパートメントの二段ベッド、友人は落っこちるのが怖いと下段にしましたが、わたしは後学?のため上段で眠りました。大丈夫、落っこちはしませんでした。とっても狭い幅ではありましたが。
モスクワ市内をはじめ、スズダリなど教会の多い所を訪ねました。「アカの広場」とは、美しい広場のこと、「クレムリン」は、城砦のこと…はじめて知りました。
ボリショイサーカスでは、ライオンが5頭も出てきて“わぁ!すごい!”と見ていましたが、2頭は素知らぬ顔、きっと老獣?だったのではないかしら。
ロシア正教のお坊さんは黒い衣にお髭そして黒い帽子。教会の天辺には玉ねぎ様のたおやかな輝き、この丸みに親しみを感じたほどでした。
現地案内人のアレックスさんはとても親切で、日本語も素晴らしく上手。
“3年位前からロシア出身のソプラノ歌手、アンナ・ネトレプコが大好きでよく聞きます”と言うと、バスの中で“これは、あなたの為にね!”と、彼女のCDを聞かせてくれました。
ロシア語で“ありがとう”は、なんて言いますか?の問いに、“スパスィーバ”と。アレックスは“これ魔法の言葉ね”と、言いました。
(五行歌) “ありがとう”
は
世界中で
通用する
魔法の言葉 Akiko
最近興味を惹いたり珍しく可笑しく感じたもの
小さいお魚 鑑賞用にコッピーというめだかより小さい赤い鰭をもつ魚
始終眺めて、元気でいるかいと声を掛けている。
綺麗だけど、弱い魚。ちゃんと観てやらないと容易く死んでしまうと言う。これは目休めですが、
次は 頭を休めてもっと楽しく…?!
ちょっと気取って瀬戸内寂聴の源氏物語を、暇にまかせて、ティータイムです。
ティータイムは大体いつも…かな? そして面白い形のトマトがありましたので、
思わずここに訪れたみなさんにちょっとサービス?です。
鳥に見えますか? えっ~!?! 変なの!
なんて幸運だったのだろうと思う。歯肉に赤い斑点が消えないので歯根にヒビが入ってしまったことが判明、そんな瀕死の歯根が助かったのだから嬉しい!
以前のブログ(←クリック)に私の歯を一旦抜いてから治療して元の位置に埋め込む歯科手術をして頂いたと報告した。
今現在、歯は落着いてあるべき位置の歯肉に納まっている。この画期的な手術をしてくださった中川先生が教育家庭新聞〔5月24日版)にインタビュー記事として掲載されたことを知った。
東京歯科大 4階「保存科」待合室から玄関前を写す。白い花のような木はヤマボウシ
外傷を受けた歯を再び植えるなんて…抜け落ちた歯は捨てるしかなかったのに…。特に子どもたちがスポーツや遊びのなかで、思わぬ事故に遭遇してしまい、歯を傷めることがあった。
虫歯でもない健康な歯が傷を負い、抜くしかなかった歯、どうしようもなかった歯だった。そんな時子どもの歯は助かるのだって!
それこそ捨てるなんて、勿体無い!
傷を負った歯でも、歯根膜を「ティースキーパー『ネオ』」という薬・保存液に浸して、48時間(たとえ土曜日に事故が起こったとしても、月曜日までは保存したいという)は口の外にあっても自分の歯として再び役にたつようにしたいと中川教授は考えられて、研究開発された。本当に画期的な研究成果だと、特に弱い歯をもつ人間は敬服し感謝である。
この薬は、ここ東京歯科大ばかりではなく、一般の歯科医院や学校に歯の保存液が置いてあるそうなので、参考までにお知らせしますね。
左の小さい方の新聞記事コピーの右側上に掲載されている「歯根膜を守り再植を可能に」の見出しの欄が話題の保存液についてが書かれている。
とにかくもう抜くしかないのかと諦めかけた歯を持っている者にとっては、嬉しくて小躍りする気持ちである。悪くなった歯の、根の部分はまだ傷みが少ない訳で、少しでも自分の歯を活かして使えるようになった道が開かれたのだ。中川寛一教授にありったけ感謝いっぱいを捧げたいと思う。
これは高積雲? うろこ雲とかいわし雲と言われる小さな雲が集まっているから、巻積雲ですね。
午後の、そろそろ夕方となる薄っすらと赤く染まった雲で、夏本番が待たれるところだ。風が出てきたので肌に涼しい。
ざわざわと木の葉を揺らす風。通り過ぎてゆく風の姿。ゆれて楽しんでいるような木の葉たち。
この写真は上のものとは別の日に撮ったもの。
今、モッコクの樹も白い小さい花を一杯につけている。樹の下をみるとその小さな花が一杯に落ちている。このあと緑の小さな小さなラッキョウを逆さにしたみたいな形の実を付けて、秋にはそれが紫めいた黒い実になるどこにでも眼にするあの実である。
これは蘇鉄。一年中変わらない元気さで葉の色艶もつやつやと光っている。ただ元気すぎて葉っぱの先に手が触れると痛いのが気になるくらいだ。お墓にお供えするときも他の花たちに添えて一葉を組んで供えると、鮮やかで彩りのよい花たちは早く枯れるけれど、この蘇鉄だけは結構長く生き生きとした緑色で、安心させてくれるから、庭からいつも切り取って添えることにしている。
近くの散歩道に、トウカエデの並木がある。
ひところ騒がれた、ど根性大根を彷彿とさせる樹がある。
大根はアスファルトの狭い割れ目から頑張って太く成長しているさまがテレビで取材されたが、この一本のトウカエデは、ガードレールにも負けじと幹を年々太くしている。
それがなんと! 私は恐れおののく…。
まるで今、成人病になる危険性をはらんだ話題の単語、“メタボリックシンドローム”の中年以上のお腹みたいに、少しずつせり出しているのである。
ちょっと慌てて写真に収めた。ピンボケをお許し下さい。
横から(右から左から)眺めて、このど根性さに思わず「お前は偉いねぇ」と、うなってしまう。トウカエデの樹、メタボリックさんは頑張っているけれど、このガードレールが古くなって取替え時には、この道の管理の人はどのような処置をとるだろうか?…と静観している。
問題のメタボリックさんは、一番手前の樹。
後姿?は凛として立派だ。
実は4年前ごろから、この樹をキャッチしている。今日久しぶりに以前の写真(パワーポイントで作成したアルバム。BGMを入れて説明の言葉をニュース番組で表現するようにアニメーションで動かしたりした、アルバムを作成した。その中の1画像だけコピーする技術はないので、ここに現せないのが誠に残念。)と比べると完全にメタボリックの症状は進んできている。
私はこのメタボリック君の姿に刺激を受けて、慌てて近くのスポーツクラブに足を運ぶ。1回300メートルくらいは、どうにか息切れしながら泳いで来るのだが、焼け石に水程度なのだろうか?
すご~く疲れるから、折角運動しても食べたくなるから、仕方ないね…と、効果もあまり期待しないで、諦めている部分が大いにあるのだ。
梅雨のせいかも知れないが、気分がスキッとしない。毎日の天気がいけない。
そう言えば天気のことで、以前の「いちよう」で、私のアンケート回答文を30号記念食事会時に読み上げた…。その文の中であまり使わなかったけれど、よく耳にする言葉を使ってみた。
それは『のうてんき』という言葉。まず、私は和英造語(これも、果たしてこう言うのか?)で、No Tenki 「ノー・テンキ」だと思い“お笑い的ユーモア”と判断して、良いお天気ではない、天気には関わりない、転じて、周りの風景には関係ない陽気なこと…全く本来の意味とは違う勝手な解釈だった訳であったのに、使った。
「あれ! ノウ テンキ…違うのじゃないの?」
「それってあまり好い意味では使わないよ。」
「関東では好い意味なのかも知れないが、関西では…」
…まだ、編集にも入らなかった時。
そう…「記念号」のために、皆さんに声をおかけして、「食事会を兼ねて散歩会のこれまでを振り返りながら、仲間同士の和やかなおしゃべり会をしましょう!」と企画して、お集まりいただいたときである。
前以ってアンケートを組み、まず恥ずかしながら、自分自身の回答をひとまず話題のきっかけとして、読み上げていた時にご指摘を受けたのである。
さっそく、YGさんはいつもご持参の電子辞書を取り出して調べてくださった。
「のうてんき」は 【能天気・能転気】 軽薄で向こうみずな者。なまいきな者。
柳樽62「声色で講座を叩く能転気」*『広辞苑』から。
あとで調べた他の辞書『新明解国語辞典』では、
【脳天気】 〔関東・中部方言〕常識はずれで、軽薄な・様子(人)。
*表記・もと「能天気・能転気」と書いた。
さらに後日インターネット「日本語俗語辞典」によると、
能天気とは、呑気で軽薄なこと。または、そのような人。【年代】 江戸時代~ 【種類】 -
能天気の解説 能天気とは呑気で軽薄なことや安直なこと。またはそのような人をさす。更にそれが転じ、生意気な人を指しても使われる。能天気が普及したのは古く、江戸時代の書物には既に使われている。のうてんきには実に様々な表記があるが、一番多く使われるのは能天気。以下、脳天気、能転気、のーてんきがある。更に最近ではノー天気という表記もあるが、どれも意味は同様。脳天気という表記は昭和時代後期から使われるようになったもので、小説家の平井和正が広めたといわれている。
…とあった。話し合いもなく、もしも一人で会報を組んで編んでいたら、もっと恥ずかしいことになった。こんな恥をかいたという発表をしている方が恥ずかしいんじゃないの~? (いいえ!ひとつまた、利口になったと感謝したことであった。)
まあ、未だに「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」を実行している私である。
どちらも恥としても、インターネットにアップするのは、尚更に恥と言うものだけれど、「オバタリアン」の図々しさも運のよいことに育んでいるようで、申し訳ないことである。こんな性質だから決して今、巷では流行ってきているという「うつ病」にも陥ることなく、無事に過ごせるようになったのであろうか。
こんな性質にも感謝しなくっちゃ…ネ。
今の季節は樹の花や実がなっていて梅雨の晴れ間を見ては、顔を上げて歩いている。
上の写真は槿(ムクゲ)、その下は合歓の木(ネムノキ)、そして山桃(ヤマモモ)…には、実がついている。