とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

骨董狂い

2010-09-07 23:59:48 | 日記
骨董狂い



 骨董品との出会いは、理屈では説明しきれないものがある。言うなれば一目惚れである。
 私は、もともと陶器についての知識はあまりない。また、先立つものもない。萩焼とか備前焼などは若い頃から聞いているし、益子焼の古い飾り皿が家にある。しかし、志野については全く無知である。ところが、宍道の骨董市で白い一輪挿しを見たときは、何かしら手招きをしているような気がした。近寄って手にすると、ずしりと重い。しかも釉薬が厚くかけてある。だから、肌にでこぼこがある。他の陶器のようにつるりとしていない。えも言われぬ温かみを感じるところは、他の陶器にない点である。淡い黒色の笹があしらってある。いわゆる絵志野である。値段も手ごろ。
 よし買おう。私は決意した。包装して貰って、持ち帰って、じっくり見つめると、陶器とは思えないような愛おしさを感じ始めた。これこそ私のこれからの友になってくれそうだ。いい買い物をした。
 それからというもの、パソコンでありとあらゆる志野を探して見つめた。鼠志野、赤志野、紅志野、練り込み志野。いろいろあるが、やはり白い肌の志野に親しみを感じる。特に、白蝋を流したような肌に、薄墨色で淡く小さい絵を描いたその風情は、私の心の奥底に染み入った。
 後日、平田のリサイクルショップで絵志野の茶碗を見つけたときは、思わずドキリとした。使い込んだもので、変色している。二千五百円!
私はこの値段にも驚いた。この器ももちろん今家にある。
 志野の故郷は美濃。時代は桃山時代に遡る。私の志野狂いは、これからどこに辿り着くのか?                            (2007年投稿)

古物からのメッセージ

2010-09-07 23:55:53 | 日記
古物からのメッセージ



 先日開館した古代出雲歴史博物館に、私のように三回も入館した人はあまりいないのではないのか。私は特に古代史に強いわけではないが、パスポートを購入したおかげで気軽に足を運ぶことができた。
 先ず私は青銅器、鉄器、土器などの形に注目した。そして、形そのものが自己表現だと思った。筒状の突起をたくさん付けた土器(埴輪?)からは、謎めいた呟きが伝わってきた。何かの印が付いていると、私は懸命な意思表示のサインとして見た。そして、そのメッセージを現代語に直して受け止めようとした。銅剣の×印、土器片の文字、銅鏡の年号、銅鐸のウミガメ模様や邪視紋。ところが、解読するだけの知識を持ち合わせていないので、私はただ憑かれたように見入っているだけだった。
 そんな展示品の中に、神宝として展示してあった女房装束の裳(も)を見つけたときは眼を見張った。在職中に中古の文章を教えるときには裳着の儀式のことを必ず教えた。女性の当時の成人式である。ところが、肝心の裳の実物を私は一度も見たことがなかったのである。だから、教室用の図録の形と思いくらべながらしばらくうっとりと眺めていた。
 しかし、残念なことに模様が消えてなくなっている。私はつややかな絹地の古い生地の面に近寄って仔細に視線を這わせた。黒い松が小さく描いてある! ああ、これが海賦(かいぶ)の模様の名残だ。海辺の風景がもとは美しく描いてあったに違いない。広い生地の中の数本の磯馴松(そなれまつ)。その絵が語る物語は、海洋の神々の歴史かもしれない。いや、もしかして、男神との恋物語かもしれない。その手書きの松は終わりを知らぬ物語に私を誘った。(2007年投稿)

見上げる視線

2010-09-07 23:53:38 | 日記
見上げる視線



   鰯雲人に告ぐべきことならず


 この句は難解句として広く知られている加藤楸邨(しゅうそん)の代表作の一つである。私は、十一日の夕方五時半ごろ、仕事を終え、車で平田のある病院に向かおうとした。そして何気なく空を見上げた。上空からの明るい光に誘われたのである。すると、鰯雲(いわしぐも)。しかも空の高いところ一面に広がっている。私は、思わず楸邨の句を思い出した。
 しかし、私の思いは楸邨のそれとは大きくかけ離れていた。というと偉そうに聞こえるが、そういう俳句の世界を超えた自然の不思議な美しさを純粋に感じたのである。私は車庫の前でしばらく空の雲の仔細を観察した。はるかな上空のウロコのような雲の連なり。粗と密。位置の上下。広がり方の整然とした秩序。青空を透かし見るその色彩感。……私はこれは楸邨の句の世界とは全く違うと思った。いや、何も楸邨の句を否定しようという魂胆はない。自然は言葉、想念、情念を超えたところで本来の営みをなしているに過ぎないと思ったのである。当然のことを感じたにすぎない。
 車に乗ってちらちらと上空を窺いながら私は考えた。人間は、いや、私は、平生見上げるということをしない。同じように足許へ視線を這わせることもあまりしない。わき見をすることもあまりしない。車社会の住人である私は、ひたすら正面を見つめて我が進路の安全性を確かめる。遠くへの視線。それは正面に注がれることが多い。
 車を捨てて歩き出すと、自ずと足許を見つめる。そして、はるかな上空を見つめる。左右の景色も自在に楽しめる。私は、短時間であったが、秋の訪れを爽やかに体感したのである。(2007年投稿)

一線を画す?

2010-09-07 22:30:20 | 日記
一線を画す?



いつだったか、ある新人文学賞の選考委員がこういう言い方で選評を書いていた。「……もし、このような欠点がなければ、この新人を文壇に迎え入れていただろうに。惜しまれてならない」。もちろん、その新人というのは私のことではない。
 私は当時若かった。しかも「賞」を目指して猛烈に書いていた。ところが、こういう言い方をされて、はたと立ち止まって考えたのである。文壇に迎え入れる? ではその文壇とは何か。どこに一線を画す見えない線があるのか?
 今でも文学賞というとそのことを考えてしまうのである。だから世の「賞」の選考委員の顔ぶれには強い関心を持っている。最近注目したのは芥川賞である。新しい選考委員に川上弘美、小川洋子の両氏が決定したとか。すると、高樹のぶ子氏と山田詠美氏を加えると九名中四名が女性作家ということになる。
私はこの状況を歓迎している。芥川賞といえば、小説家を志す者にとっては遥かな高峰である。選ばれる作品は、後進の一つの手本となる。飛びついて読んで、我が作品のレベルと比較する。女性作家のセンスには、男性にはとうてい及ばないものがあると考えている。
特に私は川上氏に期待している。彼女の発想は、既存の文学概念を遥かに超えている。キツネやモグラ、それにヘビがごく自然にひょいと登場する。しかし、少しも不自然な感じはない。この作家は飄々としていて、しかも、したたかである。彼女の頭の中には摩訶(まか)不思議なものがたくさん詰まっている。文壇に迎え入れる、なんていう考えは毛頭ないだろう。線引きするのではなく、ひょいとつまみ上げてくれるに違いない。(2007投稿)