とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

竹林十字軍

2010-09-01 23:04:24 | 日記
竹林十字軍



 昭和五十年ごろだったろうか、草刈十字軍の創始者である足立原貫氏(富山県立大学教授)の講演を聴いたことがある。足立原氏は、山林に除草剤を空中散布するという計画に反対し、人海戦術で下草刈りをしようと呼びかけた。この自然保護の運動は脈々と現在も受け継がれている。またその活動が映画化された。
 先月二十九日の「島根日日新聞」「あんぐる」の竹林整備のボランティア活動(斐川町)の紹介記事を読んでいて、そのことと頭の中でつながった。
日本の国土の七〇%は山林である。その山林が深刻な竹の侵食被害を受けている。私もその状況を直接見た。子どもの頃キノコ採りに興じた里山に竹がびっしり生えていて、スダジイ、ナラなどの広葉樹が瀕死(ひんし)の状態になっていた。
 原因については第一に竹が生活上の必需品でなくなったことが挙げられる。また、里山を管理する人がいなくなったことも起因している。山が荒れれば、そこに生きている動植物の生態系にも影響が出てくる。川にも海にも直接・間接的な影響が出てくる。
では、里山を救済する手立てはないものか。行政的に無理であれば、竹林ボランティア活動を全国規模で興すしかない。名付ければ「竹林十字軍」である。そして、竹炭、竹酢液、バンウール、竹箸などの生活用品、竹の民芸品などの生産・普及活動を活性化し、竹林のオーナー制を拡充することが急務であると思う。
 竹の間伐は樹木の場合より危険性が低いと聞いている。だから、子どもでも参加できる。筍の時期であれば、筍掘りも楽しめる。私もそういう活動が近くであれば参加してみたいと思っている。(2006年投稿)

大当り

2010-09-01 22:59:23 | 日記
大当り



 昨年の十二月二十九日のことである。その日はこの冬初めて雪が積もった。朝十時ごろ妻から職場に電話があった。事故車が家の東のブロック塀にぶつかって、塀が壊れた、という連絡だった。私は不思議と驚かなかった。(またか……)という感じで受け止めた。三年くらい前も同じような事故が起こったからである。
 夕方帰って損壊の程度を確認した。車庫の角の柱が二mくらいの倒れた塀を支えていた。(この前より被害は少なくてすんだ)と思い、ほっとした。前回は十mくらい倒れたから、(ひどいことをやってくれたなあ)と怒りが込み上げてきた記憶がある。
 事故現場である交差点と私の家までの距離は、東側に空き地があるために二十mくらいは離れている。事故の原因のほとんどは一時停止違反である。だから、違反して飛び出した車に、たまたま通りかかった車が接触して、勢いよくあらぬ方角へ飛んでいく。交差点の北側の田んぼに落ちることもあれば、横転したままで転がっていくこともある。二台もろとも田んぼに落ちたこともあった。
 その交差点は県道空港線にあり、年間に十回くらいは事故がおきるが、幸い今までに死者が出たことはない。信号機を設置してくれるように頼んだことは何度もある。しかし、いまだに実現していない。「今に死者が出ますよ。そうならないうちに……」と関係者に何度も言っているが、一向に話が通じない。
 家の塀が壊れるくらいは何とか辛抱できる。壊れれば直せばいい。しかし運転者や歩行者の人命に関わる事態になれば、これは取り返しがつかない。大当りは宝くじやガラポンの世界に留めてもらいたい。そのためにも是非信号機の設置を! (2007年投稿)

退職者の悲哀

2010-09-01 22:45:14 | 日記
退職者の悲哀



 行きつけの病院での出来事である。無人受付機にカードを差し込むと、タッチパネルの画面に、「受付はできません」と表示が出た。おかしいなあ、と思って再度試みたが、また同じ表示が出た。しばらく思案してやっと気がついた。ああ、そうか。今日は四月の初めだ。年度が変わって私の加入していた任意継続健康保険が期限切れになったからだ。
私はその時はすでに国民健康保険に切り替えていたので、再診受付の窓口に行こうとした。しかし、何とも言えない不快感が私の胸の中に広がっていった。「あなたの保険は期限切れですので、ご面倒ですが、窓口までお越しください」などと表示できないものか。そう思うとよけいに混乱してきた。受付係の女性は差し出した保険証を当然だという感じでコピーして私に返し、「すみません」というお詫びの言葉も言わなかった。この女性はディスプレイの表現を案外知らないのかも知れないと思い、私は苦情を言わなかった。一昨年の退職直後にも同じようなことがあった。行きつけのある薬局に行って受付係に処方箋を渡すと、血相を変えて私に保険証の提示を求めた。
 先日の新聞に、医療費の未払いが公立病院で多くなってきたと書いてあった。そのことと私のそういう嫌な体験は繋がっているようだ。しかし、患者の気持ちを考えた対応ができないものか。頭から疑ってかかるという姿勢は腹に据えかねる。
 医療費の個人負担の割合が年々増えている。私のような年金暮らしの世代には冷たい世の中になっていきつつある。人口比から言ってしかたのないことだと思いつつ、退職者の悲哀をかみしめている。(2006年投稿)

退行現象

2010-09-01 14:32:38 | 日記
退行現象



 「君は今何を読んでる?」。友だちが数人集まった席で、読書の話題になった。私にそう問うた友は哲学書にはまっているらしい。私はとっさに「漫画だよ」と答えた。するとその友は「君は若い! 俺なんかもう漫画はついていけない」と言った。私は複雑な気持ちになった。
 実は、私は満二歳の孫と一緒にアンパンマンの絵本やビデオやDVDを見て感激していたのである。最近「読書している」と堂々と言えるような本は読んでいない。孫と毎日接していると、どうしても関心の対象が子ども向きのものになる。我が家ではもうアンパンマンが三世代の共通の話題になってしまった。
 で、そのアンパンマンであるが、不思議なことだらけである。他の者が食事をしているのに、立って見ているだけである。しかし腹がすいている者を見ると、自分の頭を千切って与える。ヒーローなのに、顔が濡れたり、汚れたりすると急にパワーがなくなる。喜怒哀楽をあまり表情に出さない。煙突から出入りする。この世に誕生した三十年前には細い瞳だったが、今はぱっちりとした丸い瞳になっている。体の内部の構造は全く分からない。鉄腕アトムのようなロボットでもないらしい。
 それから、「アンパンマンの歌」の中でも重要なオープニングとエンディングのテーマの歌詞に「胸の傷がいた」むとか「もし自信をなくしてくじけそうになったら」という暗い言葉が出てくることである。……挙げればもっと出てくる。
断っておくが、私はこのキャラクターが好きである。だから孫とともにのめり込む。しかし、入って行けば行くほど、謎が深まる。だから面白い。しかも孫と心の世界を共有出来る。私は歳を重ねるにつれて幼児返りをする自分に気づいて、これでいいのかと、ふと思う時がある。                          (2005年投稿)

足もとにご注意

2010-09-01 14:30:02 | 日記
足もとにご注意



 足もとを見られるとか、足をすくわれるという言葉がある。体を支えている足の大切さを改めて見直させる言葉である。その足を保護するのが履物。昔とは違い、履物も種類が多くなってきた。足もとにその人の気品が漂っていると思うことがある。しかし私の履物についての思い出は気品などとは縁遠いものである。
 先ずはつっかけの話……。現役時代、ピータイルの職場の廊下を歩くにはスリッパよりも私にはつっかけが足になじんだ。しかし、ビニール製のものはすぐどこかに裂け目が出来たり、土台がはがれたりした。歩き方に癖があるらしく、かかとの部分が斜めにちびてきた。千切れた片方を引きずって歩いていたこともある。だから一年に何回か取り換えた。
 定年が間近になってきたある日、思い切って皮製のものを買った。「これがいよいよ最後の上履きになる」と思うと、心が浮き立ってきた。履き心地もよかった。ところが、足形状に窪みができ、しまいには親指とかかとが当たる部分の革に穴が開いた。見るも無残なつっかけ。私はそのつっかけを履いたまま退職した。
 もう一つは革靴である。面ファスナーで絞めるようにした茶色の頑丈な靴だった。足の形になじんでくると、愛着が湧いた。だから通勤でも外の作業でも、最後の十数年はそれ一足を仇のように履いた。汚れが染み付き、あちこちに傷がついた。つま先はすりへって色が消えてざらざらになった。同僚の靴と私の靴を並べて置くと、まことにみすぼらしかった。そして買い換えることなくそのまま退職した。その靴を退職後二年経った先日、やっと磨いてやった。
 脚下照顧ならぬ脚靴照顧。私は改めて自分の足もとを見て、だらしない男だと思った。 
                                 (2006年投稿)