妖花と言われているが…
木下利玄の歌に名歌がある。「曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる徑」。曼珠沙華を歌った短歌、俳句でこれ以上の名作はないと私は思っている。歌想も表現も明快でゆるぎない。
いや、私はこの歌の歌論を展開しようというのではない。一つの日本画として私は鑑賞しようと、頭の中で、花の位置、道の角度、秋の陽の高さなどを組み立てて楽しんでいるのである。しかし、私はどうしても秋の川土手を考えてしまう。土手の上方と斜面に数十本の紅い花。白い道は手前から土手の勾配を右に這い上がって行き、土手上の道につながる。辺り一面につよい日差しがふりそそいでいる。
たくさんの人が歩いて踏み固めた道。だから、もしこういう道に出会ったとしたら私も歩いてみたい。しかし、私が歩くにしては道はあまりにも清らかで静かである。花は燃えるような紅。一歩も進むことはできないだろう。作者はその道を静かな心で通りすぎただろうか。私はその秋の情景を眺めているのが精一杯である。とても通りすぎることはできない。
曼珠沙華を私は子どもの頃手折って家に持ち帰ることをしなかった。「家が火事になーけんのー」とか「死人がでーけんのー」などと教えられていた。だから、その花を勇気を出して折り取ることがあっても、すぐに捨ててしまった。また、球根に毒があるとも聞いていた。
しかし、この歌の中の花は妖花ではない。しかも、聖なる道の傍らに今を盛りと咲き誇っている天上の花。作者の澄んだ心が一面に漲っている。私はこの風景を見つめていると、不思議と雑念が消え去っていくのを感じる。 (2007年投稿)
木下利玄の歌に名歌がある。「曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる徑」。曼珠沙華を歌った短歌、俳句でこれ以上の名作はないと私は思っている。歌想も表現も明快でゆるぎない。
いや、私はこの歌の歌論を展開しようというのではない。一つの日本画として私は鑑賞しようと、頭の中で、花の位置、道の角度、秋の陽の高さなどを組み立てて楽しんでいるのである。しかし、私はどうしても秋の川土手を考えてしまう。土手の上方と斜面に数十本の紅い花。白い道は手前から土手の勾配を右に這い上がって行き、土手上の道につながる。辺り一面につよい日差しがふりそそいでいる。
たくさんの人が歩いて踏み固めた道。だから、もしこういう道に出会ったとしたら私も歩いてみたい。しかし、私が歩くにしては道はあまりにも清らかで静かである。花は燃えるような紅。一歩も進むことはできないだろう。作者はその道を静かな心で通りすぎただろうか。私はその秋の情景を眺めているのが精一杯である。とても通りすぎることはできない。
曼珠沙華を私は子どもの頃手折って家に持ち帰ることをしなかった。「家が火事になーけんのー」とか「死人がでーけんのー」などと教えられていた。だから、その花を勇気を出して折り取ることがあっても、すぐに捨ててしまった。また、球根に毒があるとも聞いていた。
しかし、この歌の中の花は妖花ではない。しかも、聖なる道の傍らに今を盛りと咲き誇っている天上の花。作者の澄んだ心が一面に漲っている。私はこの風景を見つめていると、不思議と雑念が消え去っていくのを感じる。 (2007年投稿)