とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

妖花と言われているが…

2010-09-11 22:23:50 | 日記
妖花と言われているが…



 木下利玄の歌に名歌がある。「曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる徑」。曼珠沙華を歌った短歌、俳句でこれ以上の名作はないと私は思っている。歌想も表現も明快でゆるぎない。
 いや、私はこの歌の歌論を展開しようというのではない。一つの日本画として私は鑑賞しようと、頭の中で、花の位置、道の角度、秋の陽の高さなどを組み立てて楽しんでいるのである。しかし、私はどうしても秋の川土手を考えてしまう。土手の上方と斜面に数十本の紅い花。白い道は手前から土手の勾配を右に這い上がって行き、土手上の道につながる。辺り一面につよい日差しがふりそそいでいる。
 たくさんの人が歩いて踏み固めた道。だから、もしこういう道に出会ったとしたら私も歩いてみたい。しかし、私が歩くにしては道はあまりにも清らかで静かである。花は燃えるような紅。一歩も進むことはできないだろう。作者はその道を静かな心で通りすぎただろうか。私はその秋の情景を眺めているのが精一杯である。とても通りすぎることはできない。
 曼珠沙華を私は子どもの頃手折って家に持ち帰ることをしなかった。「家が火事になーけんのー」とか「死人がでーけんのー」などと教えられていた。だから、その花を勇気を出して折り取ることがあっても、すぐに捨ててしまった。また、球根に毒があるとも聞いていた。
 しかし、この歌の中の花は妖花ではない。しかも、聖なる道の傍らに今を盛りと咲き誇っている天上の花。作者の澄んだ心が一面に漲っている。私はこの風景を見つめていると、不思議と雑念が消え去っていくのを感じる。 (2007年投稿)

遊び描き

2010-09-11 22:19:53 | 日記
遊び描き



 ある骨董市で法橋光琳と署名した軸物に十数万の値札が付いていた。私は、どうして光琳がこんなに安いのですか? と責任者に尋ねた。そのお方は即座に、いや、遊び書きですよ、とおっしゃった。私はまた驚いて、贋作にどうしてそういう高値を付けるのか、と思ってまた尋ねようと思ったが、止めた。
 彼の文芸評論家小林秀雄は、自慢の軸物が贋作だと指摘され、激怒した。そしてその作品を指摘してくれた人の目の前で日本刀でぶった切ったそうである。これは私の記憶の底にこびり付いている逸話だが、案外他のお方だったかもしれない。
 世の骨董趣味のあるお方の中には、二通りあるのではないのかと思う。一つは、贋作に価値を認めず厳しく排除するというお方。もう一つは世の中から贋作を一掃することはできない、贋作であっても絵柄・作風が自分の趣味に合えば、分かっていても買い求めるという寛大なお方。
 さて私はどちらであろうか。今まで贋作らしきものを、それと知っていて購入したこともある。共箱で安心して買ったものが、箱と中味が違っていて、がっかりしたこともある。また、識箱、共箱自体が作られたものだったこともある。じゃ、お前は右で言うどちらの傾向の蒐集家なのか? と自らに問い掛ける。私はどちらかと言うと、後者の部類かもしれない。骨董の世界にずぶの素人が首を突っ込めば、痛い目に遭うことは百も承知である。
 遊び描きと言われると、私はなるほどと思ってしまう。そういう遊びから新しいものが生まれてくる可能性がある。ただ、プロ的な技術で贋作だけを作り上げる人、組織が存在するとしたら、私は強く反省を促したいと思っている。(2007年投稿)

穂波

2010-09-11 22:15:10 | 日記
穂波



 穂波というと、黄金色の稲穂をすぐ思い浮かべる。しかし、今は田植えが済んだ時季なので、稲の穂はここでは触れないことにする。
 では、麦の穂について……。ということになると、最近出雲平野では、というか、斐川町の田んぼでは、ビール麦がたくさん栽培されるようになった。麦は、冬を越して暖かくなるにつれて、緑のすずやかな穂波を見せて、それが初夏には黄色く色づき、さやさやと穂を揺らしている。緑の穂、黄色い穂。どちらも風情がある。眺めていると、心が静まる。子どもころは、夏になると、小麦の「ハデバ」が出来た。登って穂を引きむしり、掌でほぐすと茶色い麦の粒が出てきた。皮をふっと吹いて飛ばして、麦の粒を噛み締めていると、チューインガムのようになった。味は特にない。ただ、噛み心地がいいのでいつまでも口に入れていた。チューインガムと言えば、「シビナコ(ツバナ)」を思い出す。チガヤの伸び始めた穂を引き抜いて、皮をむいて、中味を出して噛んだ。少し甘味があって、これもまた噛み心地がよかった。
 数日前の夕方、そういうことを思い出しながら田んぼのへりの小道を歩いていると、アスファルトで固めた道の脇に、そのチガヤの銀白色の穂がたくさん風に揺らいで輝いていた。私は、はっとして足を止めた。見渡すと、あちこちに銀白色の穂波が夕陽に輝いていた。私は久しぶりに、本当に久しぶりに忘れていた自然の美しさを間近に見た喜びに浸った。……変わりゆく景観の中でも、昔と変わらぬ営みを続けていく雑草たち。その姿に神々しさを感じるときがある。私はそこでふと思う。まだ感動する心がある。その心さえあれば、……。
(2007年投稿)