とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

鮎の膏薬(こうやく)

2010-09-06 22:28:58 | 日記
鮎の膏薬(こうやく)


 毎年、鮎が捕れる季節になると、思い出すことがある。それは膏薬のことである。鮎の貼り薬には、炎症・化膿(かのう)を防いだり、痛みを和らげたりする効能があるそうである。
 小学校の低学年の冬のある夜、祖母が五右衛門風呂の縁でわき腹をしたたか打ち、うずくまってしまった。私は大声を出して家族に連絡し、父母が助けに来た。床を敷いて横にならせても、あぶら汗を流して苦しんでいた。
 「あきら、お前、直江に行って鮎を貰ってきてごすか」。やっと上体を起こすことができるようになった祖母は、私にそう言った。訳を聞くと、鮎の乾燥させたものを米粒で練って、貼り薬にすると言う。私は、平生可愛がってくれる祖母の言葉に逆らうことはできなかった。日曜日だし、四キロくらいの道のりは、なんともなかった。しかし、空を見上げると、今にも雪が降ってきそうな感じだった。
 不安を押し殺して、貰ったお金をポケットにねじ込むと、新建川沿いに西に向って歩き始めた。すると、空が真っ暗になった。続いて恐れていたことが起こった。雷とともに猛烈な勢いで霰(あられ)が降り始めた。負けてなるものか! おばあちゃんを助けるんだ! しかし、二キロくらい歩いて、佐支多神社のあたりまで進むと、雷が激しくなり、霰が頭や顔に叩きつけるように降り出し、とうとう私は引き返した。
 「お前は弱虫だのー」。すぶ濡れで帰ったら、祖母にそう言われた。私は、ひどく落ち込んでしまった。大事な祖母を助けることが出来なかったんだ……。この挫折感は初老の今でも胸の奥底に淀んでいる。             (2007年投稿)

ミニ西瓜

2010-09-06 22:25:12 | 日記
ミニ西瓜



  わが家には田畑というものが少しもない。だから、土地を耕して作物や花を作るということが出来ない。幼い頃には畑があって、ジャガイモやえんどう豆、キュウリ、そして少しばかりのお花も作っていた。しかし、ある日その土地が借りたものであることを知り、がっかりした記憶がある。わが家で食べる野菜はわが家の畑で作る。これは、長い間の私の夢であった。しかし、今になっても実現していない。もっぱら親戚やご近所でいただいたり、買ったりして食べている。
 「あんたんとこは畑があーかね」と聞かれることがよくある。私は即座に「無いですが、……」と答える。すると、「ほんなら、また持ってきてあげーわ」と知人は親切におっしゃる。私はその度に恐縮している。
 先日、近くのホームセンターに行き、園芸コーナーの花や野菜の苗物などを見ていた。すると、鉢植えの西瓜があった。五、六鉢あるその鉢の蔓には、一つずつ直径十センチくらいの実がぶらさがっていた。子どもの頃、母の里の畑に西瓜がたくさんなっていたことを思い出していた。(西瓜が自分の畑で実ったら、さぞすばらしいだろうなあ)と見とれていると、(そうだ、西瓜が大好きな孫に実がなっているところを見せよう!)という気持ちが心の底から突き上げてきた。千三百円したが、とうとう買い求めた。
 そのくらい出せば、中玉の西瓜が買えたことだろうなどと後悔しながら家に帰った。三歳の孫娘に「ほら、西瓜はこんな風に畑になっているんだよ」と言うと、飛び上がらんばかりに喜んでくれた。私は、その孫の表情を見て、きわめて幸せな気持ちを味わうことができたのである。                      (2007年投稿)

またまた、朝顔

2010-09-06 22:20:18 | 日記
またまた、朝顔



 朝顔が盛りを過ぎるころになっても、私はまだ朝顔にこだわっている。
 例の「朝顔につるべとられてもらひ水」の加賀の千代女の句をそのまま見事な軸物の絵に定着させた人がいたのである。彼の大家鏑木清方(かぶらき・きよかた)である。題名の「朝顔」の文字は自筆で書いてある。蓋の裏書には「清方」の署名と落款がある。いわゆる共箱で、あるオークションの出品作である。
 左下の隅に井桁(いげた)と朝顔の蔓が巻きついた釣瓶の柄が描いてある。青色の朝顔が鮮やかである。その井戸をすらりとした背丈の若い女性が振り返って見ている。色白で切れ長の眼をした美しい顔立ちである。着物の帯と裾模様が黒で、それが長い黒髪と映りあっている。手には紐のついた手桶を持っている。「もらひ水」に出かける途中である。
 この画家は一般の解釈通りの場面を忠実に描いている。それはそれでなかなか爽やかな朝の雰囲気が出ている。……しかし、である。もし、作者が近所の庭の朝顔を眺めている絵を描いたとしたら、もっと面白い絵に仕上がったことだろうと私は思った。「朝顔や……」の句の場面を私は大切に温めているので、この絵に注目したもののどこそこ物足りない気持ちに襲われたのである。しかも、この絵の女性に朝の食卓の準備をするために水汲みをするという生活感を感じなかった。
 生活感? お前は日本画に生活感を望むのか? 私は自らに問うた。いや、私が不満に思ったのは、清方の絵に見られる乙女の生き生きとした表情がない点である。その絵は良家の美女が描かれているだけである。清方はもっと微妙な女性の心理描写をする。……この絵は贋作だなと私は実感したのである。          (2007年投稿)

「日本の歌百選」

2010-09-06 22:13:29 | 日記
「日本の歌百選」



「親子で歌いつごう日本の歌百選」が一月十四日に発表されたことを『文部科学広報』で知った。NHK衛星第二放送で、今月二十一日に放送されることも予告してあった。募集したのは、文化庁、日本PTA全国協議会である。
 「家族が触れあう機会を増やすとともに、貴重な歌の文化を後世へ継承し、文化の力で世代間をつなぐこと」が目的だそうである。様々な世代間のコミュニケーションを目的としているので、「世界に一つだけの花」とか、「涙そうそう」などの新しい曲も選ばれている。また反面、「早春賦」とか、「椰子の実」などの文語表現の歌詞の歌も選ばれていた。
 私は全部歌えるか? そう思って歌詞とメロディーを思い浮かべてみた。しかし、初めて(?)知った歌もいくつかあった。「おはなしゆびさん」などは、歌詞も曲も浮かばなかった。だが、この試みは忘れかけていた名曲に光を当てることにより、ほのぼのとした温かい世界を醸し出す効果があり、試みとしては大成功だと私は思っている。歌を媒介として「世代間をつなぐ」という発想は夢があってよい。今後これらの歌が、現代の殺伐とした世相を潤してくれるのでは、と期待している。
 ただ、一割以上ある文語表現の歌の歌詞の意味を子どもたちにどう教えるのか、「蛍」とか「若葉」などの選に漏れた名曲の影が薄くなりはしないか、といった不安もあるにはある。例えば「仰げば尊し」の歌詞「今こそ別れめ」の「め」を「目」と考えているのではないのか。私も小さい頃、ごく自然にそう考えていた。「め(む)」は意志を表す助動詞である。そこまで分からなくても…、という考えがあるとは思うが、気にかかる点である。 
(2007年投稿)

「に」か「や」か?

2010-09-06 16:35:25 | 日記
「に」か「や」か?




   朝顔に釣瓶とられてもらひ水


 この句は俳人加賀の千代女の有名な作品である。私はこの句から作者の優しい思いやりを感じて、心癒されていた。
 さて、この句であるが、次のような句が元の形ではないか、と主張する人がいた。そのお方は角川書店の元社長角川源義氏である。私は、若いころある講演会でこの説を拝聴した。

   朝顔や釣瓶とられてもらひ水

 表面上、単なる助詞の「に」と「や」の違いじゃないかと受け取られる。ところが、両者の違いは大きなものがある。前者は全体が一つの文章(一句一章)であるが、後者は二つの文章(二句一章)からなり立っている。文章というと語弊があるが、要するに、一つの場面か二つの場面か、という風に言い換えた方がいい。
 後者の句について少し説明したい。一番のポイントは、朝顔が咲いている位置が井戸の近くではないという点である。朝、千代女が起きて、水汲みをしようとすると、おや、釣瓶がない。誰かのいたずらだな。誰だろう。などと高ぶる気持ちを抑えながら近所へ貰い水に出かける。あら、朝顔だ! 千代女は近所の庭に咲いていた花を見つけて、いつもとは違う爽やかな気持ちになる……。
 昔、若い娘さんが住んでいる家の表札や釣瓶を近所の若い男が好意を表す手段として、隠してしまったそうである。だから、千代女は、内心心ときめかせながら貰い水に出かけたのである。
 俳句(俳諧)は面白い。助詞ひとつでこうも意味が違ってくるのである。私は、角川源義氏の解釈が正しいのではないかと今でも思っている。(2007年投稿)