80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

ウィスキーを飲みながら (その2)

2016年11月02日 18時28分26秒 | 考える
この所、どうにも、疎外感を除去できない。
併せて、体調不良。


他人から逃げ出して、人混みに紛れる。
語りかける相手とてなく、語りかけてくる相手も居ない。


ベンチに腰を下ろして、ボォーーッとして、
向かいの窓に映る時計のデジタル表示を眺めている。
時計は、こちらの気持ちなんぞ気にするはずもなく、
素知らぬ顔で時を刻んでいく。

疎外感に、倦怠感が重なって、身の置き所が見つからない。

そんな気分だ。

といって、ここからどこに行けばいいのだろう?

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間どもの虚しい義理や
約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて
平然として死んでいく。だが堕落者は常にそこからハミだして、
ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであ
るけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なお
もて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが
淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、
この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は
常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、
この道が天国に通じているということに変わりはない。
坂口安吾 「堕落論」より


少々、長い引用になってしまった。

もとより天国に行けるなどとは思っていないが、気分的には随分
救われている。

繰り返し読む、私の好きな文章だ。


身の置き所がなく、一人彷徨うというのは、人間の宿命なのかも
知れない。

などと、一人うなずき、納得したふりをする風来居士だ。