前回、寺社に油かけ事件について書きましたが、彼らをはじめ、彼らの予備軍にもなりかねない様な、霊の戦いに明け暮れている、ある種のクリスチャンが曲解しそうな聖句の一つを、思いつきで上げてみました。
もっともそれ相応に長年クリスチャン生活をしている人なら、
「そんな事今さら」
と思われるかもしれませんが、これはあくまでも、それも思いつきで、クリスチャンでない人向けに書いているつもりです。
また、他にも思いつく聖句も有るのですが、代表的というか、分かり易いというか、そして当時の私の経験思いついたものを上げてみました。
新約聖書「エペソ人への手紙」6章
11節: 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
12節: わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
13節: だから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
14節: すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
15節: 平和の福音の備えを足にはき、
16節: その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
17節: また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
(↑以上)
まぁ、時と場合によってはこの様な思いも必要かもしれませんが、毎日の様に朝から晩までこんな事考えて、霊の戦いに明け暮れて祈っていたら、疲れてしまいます。
ふと、聖霊運動に片足を突っ込んでいた10数年前の頃を思い出して、ちょっと書いてみました。
ところで、病人にオリーブ油をぬって祈るという記述は聖書に見られますが、油を異郷の建造物やその他他宗教の施設の物にかけるたりぬったりするといった記述は、少なくとも私は思いつかないのですが、いかがでしょうか?
ちなみに、寺社への油かけ事件の容疑者、金山昌秀の説教ですが、 再生してから、そう2分もしないうちに、注連縄に油を塗ったという発言が聴かれます。
https://www.youtube.com/watch?v=WPDHYPCy65Q&feature=youtu.be&t=1h32m25s
と、実は今週の日曜日にうちの教会、つまり札幌バプテスト教会の礼拝説教が、上に上げた聖句の次の箇所で、ついこんな事を思い出してしまったというのが、正直なところです。
「エペソ人への手紙」6章
18節: 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
19節: また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、20節: わたしのためにも祈ってほしい。
わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
そこで少しはその時のメッセージを思い出す意味からも、せっかくですから説教要約を載せておく事にします。
(以下↓
http://sapporo-bap.jimdo.com/説教要約/
からです。)
説教要約
6月7日
『 誰かのために祈れるということ 』
エペソ人への手紙6:18~20
今年度の教会のテーマとして「①神を愛する」「②隣人を愛する」ということを覚えていますが、その具体的な表れとして、段々と祈祷会に出席される方が増えてきていることは、大変喜ばしいことだと感じています。特に「毎週来ることはできないけれど、まずは来てみました」という方が増えてきたことで、結果的に色々な方々と一緒に祈ることができています。そこでは、まさに「誰かのために祈る」ということがなされることで、教会がしっかりと立たされているということを実感しています。
第三回伝道旅行に際して、パウロはエペソの教会に二年以上も滞在しました。しかし、それはあまり前向きな滞在ではなく、パウロを取り巻く状況はあまり良くなかったために起きた計画外の事態でした。ただ、思いがけず滞在期間が延びたことで、結果的にエペソの教会の人たちとは大変親密な関係にもなったようで、パウロが最終的にエルサレムに向かう時にも、ミレトスの港にエペソ教会の人々を呼び出して、最後の別れをしています。このエペソ人への手紙は、そのようなエペソの人々に向かって、パウロがローマの獄中から言葉を送ったことが想定されています。その中で「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」(6:18)と語られていること、また続けて自分自身(パウロ)のために祈ってほしいと語られていることは、注目に値します。つまり、他者のために祈るということにおいて、教会がしっかりと立っていくことを、この著者は大事に語ったのです。
今日の午後には「開拓伝道について考える協議会」が予定されています。私たちの教会にこの“新しい教会づくり”というビジョンが与えられ、歩みをなし始めてから8年経ちました。「具体的に何かが動き出したか?」と言えば、まだでしょう。しかし、焦らずに、まず「誰かのために祈る」というところから丁寧に始めていきたいのです。そのことこそが、私たちの教会の原動力となっていく時、その先に私たちが進むべき道がきっと示されていくと信じているからです。
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もっともそれ相応に長年クリスチャン生活をしている人なら、
「そんな事今さら」
と思われるかもしれませんが、これはあくまでも、それも思いつきで、クリスチャンでない人向けに書いているつもりです。
また、他にも思いつく聖句も有るのですが、代表的というか、分かり易いというか、そして当時の私の経験思いついたものを上げてみました。
新約聖書「エペソ人への手紙」6章
11節: 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
12節: わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
13節: だから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
14節: すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
15節: 平和の福音の備えを足にはき、
16節: その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
17節: また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
(↑以上)
まぁ、時と場合によってはこの様な思いも必要かもしれませんが、毎日の様に朝から晩までこんな事考えて、霊の戦いに明け暮れて祈っていたら、疲れてしまいます。
ふと、聖霊運動に片足を突っ込んでいた10数年前の頃を思い出して、ちょっと書いてみました。
ところで、病人にオリーブ油をぬって祈るという記述は聖書に見られますが、油を異郷の建造物やその他他宗教の施設の物にかけるたりぬったりするといった記述は、少なくとも私は思いつかないのですが、いかがでしょうか?
ちなみに、寺社への油かけ事件の容疑者、金山昌秀の説教ですが、 再生してから、そう2分もしないうちに、注連縄に油を塗ったという発言が聴かれます。
https://www.youtube.com/watch?v=WPDHYPCy65Q&feature=youtu.be&t=1h32m25s
と、実は今週の日曜日にうちの教会、つまり札幌バプテスト教会の礼拝説教が、上に上げた聖句の次の箇所で、ついこんな事を思い出してしまったというのが、正直なところです。
「エペソ人への手紙」6章
18節: 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
19節: また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、20節: わたしのためにも祈ってほしい。
わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
そこで少しはその時のメッセージを思い出す意味からも、せっかくですから説教要約を載せておく事にします。
(以下↓
http://sapporo-bap.jimdo.com/説教要約/
からです。)
説教要約
6月7日
『 誰かのために祈れるということ 』
エペソ人への手紙6:18~20
今年度の教会のテーマとして「①神を愛する」「②隣人を愛する」ということを覚えていますが、その具体的な表れとして、段々と祈祷会に出席される方が増えてきていることは、大変喜ばしいことだと感じています。特に「毎週来ることはできないけれど、まずは来てみました」という方が増えてきたことで、結果的に色々な方々と一緒に祈ることができています。そこでは、まさに「誰かのために祈る」ということがなされることで、教会がしっかりと立たされているということを実感しています。
第三回伝道旅行に際して、パウロはエペソの教会に二年以上も滞在しました。しかし、それはあまり前向きな滞在ではなく、パウロを取り巻く状況はあまり良くなかったために起きた計画外の事態でした。ただ、思いがけず滞在期間が延びたことで、結果的にエペソの教会の人たちとは大変親密な関係にもなったようで、パウロが最終的にエルサレムに向かう時にも、ミレトスの港にエペソ教会の人々を呼び出して、最後の別れをしています。このエペソ人への手紙は、そのようなエペソの人々に向かって、パウロがローマの獄中から言葉を送ったことが想定されています。その中で「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」(6:18)と語られていること、また続けて自分自身(パウロ)のために祈ってほしいと語られていることは、注目に値します。つまり、他者のために祈るということにおいて、教会がしっかりと立っていくことを、この著者は大事に語ったのです。
今日の午後には「開拓伝道について考える協議会」が予定されています。私たちの教会にこの“新しい教会づくり”というビジョンが与えられ、歩みをなし始めてから8年経ちました。「具体的に何かが動き出したか?」と言えば、まだでしょう。しかし、焦らずに、まず「誰かのために祈る」というところから丁寧に始めていきたいのです。そのことこそが、私たちの教会の原動力となっていく時、その先に私たちが進むべき道がきっと示されていくと信じているからです。
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