獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ラストステージ:新しいスレッドにコメントを移される その9

2021-07-15 04:15:23 | 対話ブログ

●たらこ唇の天使(2021年1月31日 01:14)
 曾根俊雄さんのおっしゃった「日蓮正宗も創価と手を組み発展した経緯から、社会に非を認め謝罪することから、再スタートしなければならない事があるはずだと考えます」というお言葉に、私も全く同感であります。

 それで獅子風蓮さんが、曾根さん及び私のこういう思いに対し、さてどんなお返事をくださるか期待していたら、「何回もいいますが、私は日蓮正宗を代表する立場にはいませんので、過去の『謗法払い』について何かしろと言われても困ります。」というお言葉でありました。半ばがっかりし、半ば予測していた通りだったなと感じております。

 浄土真宗、曹洞宗、日本基督教団の牧師さんや住職、果ては一般信徒さんのブログなどを見ますと、決まって「戦時中のわが国、とりわけ、わが宗門/教会がアジアの人々へ及ぼした罪業を差個人として謝罪します」という言葉をよく見かけます。自省を通り越して自虐の域にまで進んでいると申し上げざるを得ません。なにしろ、彼らはみな戦後生まれであり、宗門/教会の戦争加担の罪とやらに、何ら責任を負う必要もないからであります。そりゃあ彼らは「道義的責任はありますから…」とか言うでしょうけど、そこまで自分を責めないでと言ってあげたい!

 この点、日蓮正宗のいかなる僧侶も、一般信徒も、1950~70年代まで全国各地でやらかしていた「謗法払い」という名の文化破壊を謝罪とはいわぬまでも反省した言葉を見かけたことがございません。ある意味、上記の浄土真宗、曹洞宗、日本基督教団の関係者らよりは、精神的にはるかに健全だとさえ思われます。

 ところで、大分県の16世紀以前の歴史は、肝心の寺院古文書が相当に失われているので不明な点がたくさんございます。これひとえに、カトリックに入信した大伴宗麟が、豊前一国(すなわち今の大分県)の寺院を焼き払い、その際、大量の古文書が焼かれたためであります。この点について、日本のカトリック教会が謝罪したという話を聞きません。でもローマ教皇ですら、かつての南米や中米におけるインディオ文化の破壊を陳謝しているぐらいです。だから、近い将来、長崎大司教あたりが、大分まで行って何らかの謝罪、もしくは反省の挙に出ることでしょう。

 日蓮正宗さんは、こういう世界の動きには疎いようです。日顕さんに比べると、日如さんという人は、はてどんな人なのか印象が薄いのですが、宗門のイメージアップを図るためにも、獅子風蓮さんのような人をもっと重用してくださることを念じてやみません。

 signifieさんの御指摘なさった通り、日蓮正宗のような閉鎖的で傲慢な組織が、非信者をうならせるような芸術文化を産み出せるはずもありません。彼らが例の幸福製造機クンを大切にするのは結構なことですが、「邪宗」をも含む日本文化全体に対しもっと謙虚になれば、創価と組んでいた時代を取り戻すのは不可能でも、昭和初期ぐらいの勢力と威信とは充分回復できるのではないか、と思われます。

 そうそう、大石寺が、かつて仏像を造らせたとかいう日精上人をもっとリスペクトしたり、この日精上人を含む数多くの法主を送り込んでくれた京都の要法寺さんと和解の握手をしたりすれば、社会が大石寺を見る目も好意的なものへと変わって参りましょう。でも……駄目でしょうね!
 
  最後に、日寛さんという人は幼き頃、自宅へ托鉢に来た諸国行脚の行者を前にして、『法華経』を唱えつつ、阿弥陀仏を拝んでるのは矛盾だとかなんとか言ってやり込めたそうですが、そういう白黒二元論的なものを最も好まないのが、わが国の主流的な文化であります。

  もちろん、主流的な文化(日蓮正宗さんのいう「邪宗」もその一翼を担う)は、非主流的な文化(日蓮正宗とか、エホバの証人とか…)を尊重する義務を負います。でも、正直なところ、尊重される側は――つまり、日蓮正宗さんは――いったい誰のおかげで奇妙な教義を堂々と恥ずかしげもなく唱えていられるのか、ということにもっと思いを致してほしいものです。「邪宗」が作ったお米を食べ、「邪宗」が作ったトイレットペーパーでお尻を拭いているのだということに、謙虚に素直に目を向けてほしいと思います。そうしてこそ、自分たちがかつて平然と「謗法払い」で踏みにじった文化財に対し、申し訳も立つのではないでしょうか。長くなってしまい、恐れ入ります。


●signifie(2021年1月31日 04:17)
獅子風蓮さん、とにかく獅子風蓮さんはすぐに感情的になって、人に何かを伝えようという意志よりも、人の言葉を勝手に悪意にとって、思い余った感情(特に怒り)をぶつけることに頭がいっぱいになってしまって、そんな感情的な言葉を書けば書くほど読み手がうんざりして読む気が無くなるなんて考えきれなくなるんですよ。はっきり言ってしまえば、私が獅子風蓮さんのコメントを別のスレッドにしたのも、このままではブログのクオリティや信頼性が下がり、何より読まれなくなってしまうことを危惧したからです。

私が冷静さを失い、大変なブログ管理をなさっているシニフィエさんの気持ちを理解できず、失礼な言葉を使ったことについては謝りたいと思います。

わかりました。獅子風蓮さんは冷静さを失い、私に暴言を吐かれたことを認めて謝罪されるのですね。それではこのスレッドは削除しないようにします。

獅子風蓮さんは私に対してもう一つお願いとして、

もうひとつ御願いですが、日蓮仏法を捨てきれない人間もいるのですから、信仰の対象である日蓮や御本尊を侮辱するような言い方は、やはり控えていただければと思います。創価学会や池田氏については何を言ってもいいです。信仰の対象ではないのですから。

と言われています。
これもあちこち主語が省いてあって、私にはどう解釈していいのかわかりませんでしたので、もう一度確認しますが、これは「創価学会や池田氏は『自分にとって信仰の対象ではないからどんなに侮辱しても構いませんが、』自分が信仰の対象としている日蓮や御本尊を侮辱しないでいただきたい」という意味なのでしょうか?
それとも先日、私が日蓮のことを「悩乱坊主だと思っている」と言ったことで腹を立てているのでしょうか?もしそうであれば、完全に勘違いされているので説明します。私は獅子風蓮さんに対して「お前の信仰の対象である日蓮はただの頭のいかれた脳乱坊主だ」と言ったのではなく「もし日蓮が本当に日蓮正宗の教義の通りの人間だとするならば、日蓮は悩乱坊主と思われても仕方がないと思う」と自分の考えを自分のブログで述べたのです。つまり、私は日蓮本人をディスっているのではなくて「日蓮正宗や創価学会の基本の教義である日蓮本仏論が本当に日蓮が言っているとしたら、日蓮は頭のイカれた脳乱坊主と言われてもおかしくないと思う」という意味です。鎌倉時代の日蓮本人をディスっているのではなく「日蓮本仏論こそ正しい仏教の教えであって、そのほかの宗教はみんな間違いだ」と言っているのがおかしいし、他人の信仰の対象をわざわざ否定するのはおかしい思っていると述べたのです。おわかりになりましたでしょうか。

ただ単に「他人の信仰の対象を侮辱することは遠慮していただきたい」なら話は普通にわかります。しかし「創価学会や池田氏については何を言ってもいいです。信仰の対象ではないのですから。」というのは、獅子風蓮さんの言う「冷たすぎる」には当たらないのでしょうか?

その上で、あらためてお聞きします。

獅子風蓮さんは創価学会を宗教だと思いますか?

とにかく、この質問にだけは答えていただけませんか?

もし獅子風蓮さんが創価学会を宗教だと思っているのであれば、獅子風蓮さんは学会員さんの信仰の対象を平気でディスっていることになります。しかも日蓮や御本尊を侮辱することは許せないが、創価や池田は侮辱しても構わないと言ってるんですよね。つまり獅子風蓮さん自身が宗教である創価学会の信仰の対象を侮辱しているということになります。
もし獅子風蓮さんが創価学会を宗教ではなくただの詐欺集団だという確信のもとで「創価や池田は侮辱しても構わない」と言うのであればそこは私と考えが同じだと言えます。何度も言いますが、私は創価が宗教ではないという確信があるからこそ創価を批判すべきだと考えています。

これで私がなぜ獅子風蓮さんに「創価を宗教だと思いますか?」としつこく質問している理由が少しはわかっていただけたでしょうか?

確かに私は創価学会と池田氏のことはボロクソ言います。むしろ言うべきだと思って言っています。創価学会はそれだけのことをしたのだから、批判されるべきだと思っています。世の中にというよりも、被害者である学会員に対して創価学会の現実に気づいてもらうために繰り返し言うつもりです。創価学会が宗教ではなく戦後最悪の詐欺集団として多くの学会員を不幸に陥れてきたからです。それが今まで散々な目にあってきた創価学会員さんたちを黙って見逃すわけにはいかないからです。私は「創価学会は宗教ではない」と確信できたからこそこうして批判を通じて学会員さんに「気づいてください」と呼びかけ続けています。これが私のこのブログのスタンスです。
だからこそ、獅子風蓮さんに「創価学会を宗教だと思っていますか?」という質問で、獅子風蓮さんのスタンスをお聞きしているんです。何度も何度も聞きました。なぜこの質問をするのかもその度に説明してきましたが、獅子風蓮さんは今だに答えてくれません。

獅子風蓮さんはご自分のブログで「小さい違いにこだわり自分の考え以外は認めようとしないシニフィエさんにはがっかりしました」と言われておられるそうですが、「創価を宗教と思うか思わないか」ということのどこが「小さい違い」なんですか?小さいどころか、創価を考える上で一番大きな違いだと私は思いますよ。

しばらくロム専になるとのことですが、せめてこの質問にだけは答えて欲しいと思います。