獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:ボウヤさん登場(2)

2022-01-13 01:19:08 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■創価での家族との関係    投稿日: 2014年7月9日

では、シャナナさんから創価の問題点を浮き彫りにする上でも、とても鋭い質問がありましたので、今回のテーマは「創価での家族との関係」
>みなさんはどうやってご家族に非活・未活・脱会を伝えられましたか?
熱心な家族に伝えた際、創価に家族がのめり込んだり、心がおかしくなったりしませんでしたか?
との質問に対する、みなさんの体験やお考えをお聞かせください。
創価のまちがいに気づいたものの、家族に創価をやめることを簡単に言えないで悩んでいらっしゃる方がたくさんいると思います。そもそもそんなことで悩まなければ行けないこと自体がおかしいんですけどね。
でも現実問題として創価をやめるのは容易ではないというのが実態です。とくに入信動機のない2世3世の方は、一緒に住んでいる親兄弟が活動家だったりする場合が多いですし、活動家は当然のように「やめれば不幸になる」と本気で思っていますから、とてもやっかいですね。
私の場合、すでに父が亡くなって、母も認知症でわけがわからなくなったので、遠慮なく辞められたわけですが、もし両親とも健在だったらこうはいかなかったでしょうし、両親に多大な心配をかけることに罪悪感を感じたに違いありません。世の中にはそうしたかたちで悩んでいらっしゃる人も多いと思います。親だけでなく、相手が奥さんとかご主人だったりする、もしくは恋人だったりすることもあるでしょう。
「自分はこうして脱会できた」「思い切って打ち明けた」「理解してくれた」「理解はしてくれずに、逆に悩まれて心が壊れてしまった」などなど様々だと思います。
そこで、自分が抱えている悩みは、決して自分だけではないということがわかるだけでも、たいへんな勇気をもらえるし、いっしょに同じように悩んだり、アドバイスをもらったりできることは、解決に向けての大きな力になると思います。
みなさん、今現在でも、過去の話でもけっこうです。創価に関して家族との軋轢をお話いただければと思います。そして解決された方のお話もぜひ聞かせてください。


●ボウヤ (2014年7月11日 02:50 )
signifieさん
こちらこそ宜しくお願いします。
カトリーナさんが以前、深夜の会合は激減して常識的になっているなどと書かれていましたが今夜も日付変わるまで唱題会でした(笑)
以下、signifieさんの質問に回答させていただきます。
・入信動機
私は3世で生後1ヶ月で入会しました。本部職員の家庭に生まれ育ち(signifieさんのお父様は議員でしたね?)、最終学歴はやはり…創価です。同級生は全国幹部や民音職員、新聞販売店主etc。妻も元本部職員です。
・組織の現状
共通認識でありますが、活動家の減少は著しいものがあります。青年大会は必死に結集して統監比20%…。一言で言って「組織にも教義にも魅力が無い」のでしょう。学会的に言うと「長の一念」が足りないということなのでしょうね。
・創価の矛盾
こちらのブログで皆さんがコメントされている通りのことを活動家(青年部層)は肌で感じています。全員が全員、他人の迷惑顧みずの盲信ではありません。擁護するような言い方になるかもしれませんが。部員さんは友人に折伏・新聞啓蒙することに大変な苦痛を感じながらも、組織に煽られて恫喝されてやっています。会ったことも無い「先生」にお応えするために。最近全国幹部が来た会合で「退転者の共通する特徴」を挙げていました。曰く、『「確固たる師弟観」が無かった人間達』だと。それを言われたら会合参加者の9割は退転者予備軍ですね。やっぱり幸せになりたくて、悩みを克服したくて信仰している訳で、なぜ「先生にお応えするために」「喜んでいただくために」活動しないといけないのか本当に判りません。
私と先生との初めての出会いは入学式でした。仰々しく式途中から大拍手の中登場した先生の第一声、
「みんなさぁ、そんな安物の吊るしの背広の上着なんか脱いじゃえよ」確かに先生のスーツは遠目からでも高級そうでした。。でも経済的に厳しい状況で、息子の晴れの日にと母親が無理して買ってくれたスーツだったんですよ、先生。
すみません、最後は関係無いことですね

●セイコ (2014年7月11日 13:09 )
創価家族の問題はあまりに切なくて酷いですね。
私の母はバリ活でもセンセー命でもありません。
ただご本尊様は絶対だし、創価があったから今の自分がある、そこだけはどうやってもうごきません。信念ですね。思い込みに過ぎないんですけどね。
イカリングさん
うちの母も似たような言動たくさんありましたよ。
会合等ではうなずいておいて、家に帰ったら文句たらたらとか。仲よさそうなのに、あの婦人部長には気をつけろ、とか。創価のダブルスタンダードここにもかって感じです。
2世3世は子供のころから「お父さん、お母さんを大切に。」「親孝行しなさい。」と必要以上に刷り込まれてるので、親の期待に応えようとして、自分をおさえたり、いい子でいたりしてしまう。
でも、もういいんじゃあないですか。時には自分の想いや疑問、怒りも思いっきりぶつけても。そのうえで、誰にいわれなくても自分なりに親を大切にしていけばいい。
子供が自立することが親孝行だと聞いたことがあります。
親を超えないと自立は難しい。
子供に自立されて困るのはだれでしょう?
こんなところでも、宗教心をうまく使って創価にがんじがらめにしようとしていますよね。
会合に一切出なくなり、勤行、唱題も同時にやめたんですが、母の題目の時間がふえましたよー。ホントわかりやすいです。
創価の問題点も話しましたがなかなか冷静ではいられないです。最後はバトルになってしまいます。今では都合が悪くなると逃げるんですよ。
母も80歳超えてますし、これ以上のことを言っても、もう無理だと思えるんです。
一緒にくらしていると、腹立たしいこともたくさんあります(創価がらみで)
新聞も財務も無駄だといっても、私の気持ちだから、とか、そんなことを言うもんじゃない、とか。
一生、こんな感じで創価がついてまわるのかな、と思うと憎らしくなることさえあります。でも、どうなんでしょう?あの年で真実を知るというのは。お互いを認めつつ干渉しないほうがいいような気もしますし。手探りしながら答えをさがしていくしかないのかな。皆さんどうされてるんでしょうね。
さきほど自立ということをかきましたが、
親は捨てられない。でも親に対して憎しみの心がある。こんな矛盾した状態は私がまだ子供なのでしょうか。
私は女子部時代仕事が平日休みで、終業も20時で早い方でしたので、ほとんど活動していませんでした。覚醒していろんなブログを読んだりしたなかで「ありさの一行日記」という女子部の方のブログがありました。バリ活から心を病んで覚醒し非活に。その後の家族との関わりも書いてあったとおもいます。2007年で終わってますが、会員さんが矛盾に悩み苦しむのは、今もその頃もなにも変わってない
、むしろ酷くなってる気がします。参考までに、読んでみてください。
シニフィエさま
こちらでの他ブログの紹介すみません。

●ボウヤ (2014年7月12日 04:36 )
signifieさん
お心遣いいただきありがとうございます。
このすがすがしい早朝に本部の3級試験と任用試験の受験者リストを作成していました。何やってんだと言われてしまいますね(笑)
先ほどカトリーナさんの最後のコメントを飛ばし読みしましたが、同じ学会員として単純に恥ずかしかったです。言葉の上滑りっぷりを意図して書かれているのだとしたら天才的だと思いました。signifieさんをはじめ、こちらにコメントを寄せていらっしゃる方達の方がよっぽど真剣に学会の問題やそれぞれの人生と向きあって戦っていらっしゃいます。
私自身は狭い学会の価値観しか知らずに生きてきたので、世間知らずの「ボウヤ」です。
皆さんの書かれている通り、現実として学会に起因する問題は、テーマである家族との関係についても無数に見聞きします。「信心に励むことが最大の親孝行である」と刷り込まれる子ども側、「子どもへの信心の継承は親の信心の姿勢いかんで決まる」と重圧を掛けられる親側、軋轢を生むに決まっています。我が家の両親は常々「子ども達は創価学会に使っていただくために、入会した時から学会に預けた」と言います。私は生後1か月で学会に引き取られた模様です。
「THE洗脳」なのは判っています。少なくとも我が子には口が避けても言えるセリフではありません。しかし本気で両親にそう言わせてしまうほどの学会の破壊力、凄まじいです。

●signifie (2014年7月12日 11:53 )
とても現役活動家とは思えないボウヤさん(笑)、おはようございます。
私も生まれてちょうど一か月目にお寺に行ってご受戒をうけたそうです。いわゆる2世はみんな生まれて一か月目の日だそうですよ。それからもの心つくまでに、数えきれないほど大石寺に行き、数えきれないほどの学会歌が赤ん坊の身体に染み付いていったようです。自宅には、いつも当たり前のように学会員が出入りし、仏壇のある部屋は、支部別の折伏成果表と唱題表と大きな筆文字のスローガンがびっしりと貼付けてありました。まるで我が家は年中選挙事務所のような有様でした。父が公明党の議員でしたので選挙の時は自宅が選挙事務所となり、台所は婦人部の炊き出し隊に占拠され、私の居場所なんてありませんでした。
まだ字も読めないうちから勤行をし、方便品・寿量品を暗唱する私をみて喜ぶ親の姿に、子どもごころに喜んでいました。親は勤行・唱題をすれば喜んでくれる。少年部員会や座談会に行けば喜んでくれる。いつのまにか小学生の私は学会の会合の運営にまで携わるようになっていました。二人の姉は、私ほど信心をしていたわけではありませんが、困ったことがあると仏壇の前に座って、一生懸命願い事をしていました。そんな姉たちの姿を見ながら「困った時だけすがるような虫のいいことをしても願いが叶うわけないじゃん」と心でつぶやいていました(笑)。
私が生まれたのは昭和30年代前半。ちょうど東京タワーができたころ、つまり映画「ALWAYS三丁目の夕日」のあの雰囲気そのままの時代です。まだ学会二世の数もそれほど多くはなく、会合にいくたびに「シニフィエくんは福子だからいいねえ、うらやましい。すでにすごい福運をもって生まれてきたんだね」と言われてきました。私もまんざらではなかったですね。自分は特別に幸せな星の元に生まれてきたんだと、本気で思っていました。そりゃそうでしょう、生まれてずっと、そんな環境で育ったのですからね。今思い出すだけで目眩がするくらい残念でなりません。生まれた時から人生の選択肢が奪われ、創価のゆりかごにゆられて育ちました。最初からなんて不幸な星の元に生まれてきたんだろう。
中学生のとき、創価学会というだけでバカにされ、いじめられました。同級生にとりかこまれ「南無妙法蓮華経」の大合唱、「お、一家和楽が来たぞ」「さわるな、なんみょうが伝染る」そんなことをされているなんて親には口が裂けても言えません。両親には未来を担う信心強情で優しい心をもった勇気ある正義の創価学会っ子を演じていました。そのうち私は、周りで学会を誹謗中傷する人たちに「何とでも言え、この信心こそが正しいんだ。あとで不幸になって吠え面かくなよ」と心でつぶやくようになりました。そうとう歪んでますね(笑)。こうして自分の家庭と世間との隔たりを感じながらも、正しいのは自分たちなんだ、バカにするまわりが間違っている。辛いことがあったら、まず仏壇の前に座る。何も考えずに一心不乱に唱題していました。小学生なのに平気で10時間唱題もしていました。今考えたら気味が悪い小学生ですよね(笑)。
学生部の時は、やたらと周りに学会の正しさを訴える、うざい学生だったと思います。「イエスキリストの聖書について学びませんか」と勧誘に来たキリスト教の学生をつかまえて「聖書ってぇ、文学としては面白いけどぉ、宗教の経典として考えるのってどうなの?現実離れしてるよねぇ。宗教は現実の生活に即してなきゃ本当の宗教とは言えないんじゃないのぉ」なんて、ぶん殴りたくなるような学生でした(笑)。同じ美術科の同級生とも「今夜は朝まで人生と宗教について徹底的に語ろう!」なんて言いながら、知ったかぶりの宗教論を炸裂してましたよ。今思い出しただけでも、顔から火が出ます。もう完全に100%創価脳でした。
ただ芸術活動に専念しているときは、つまり美術科の学生として作品制作をしているときは、自分の中の創価を封印していました。そうじゃないと作品なんか作れません。それは自分なりの処世術だったのかもしれません。創価に依らない自分の人生観が芽生えたのも、この芸術活動のおかげだったと思います。私は高校時代からシュールレアリズムにとても惹かれるようになって、超現実主義的な絵画を目指していました。大学に入ってからは、もっと専門的にシュールレアリズムを学ぶようになりました。アンドレ=ブルトン、イブ=タンギー、マックス=エルンスト、サルバドール=ダリなどが中心となり第一次大戦前後にヨーロッパで起こったシュールレアリズム運動は、いわゆる左翼思想やフロイトの深層心理学とも深く関係していて、マルセル=デュシャンを発端とした既成概念の打破を前面に打ち出したダダイズムとともに、現代アートの出発点となった芸術運動です。
その考え方の大きな特色は宗教の否定でした。それはそうでしょう。すべての既成概念から解放され、知覚のレベルを深層心理から掘り起こして、表現の可能性を探ろうとするときに、宗教的な戒律があっては話になりません。また当時のヨーロッパの芸術家の多くがコミュニストであり、第一次大戦の重苦しい空気の中で、著名な芸術家も夜な夜な共産主義社の集会に通っていました。そして思想的に社会主義に偏った多くの芸術家のなかでも、とくにシュールレアリズムは宗教(=キリスト教=戒律主義)を否定します。
美術家の同級生にはすぐさま突っ込まれました。「おまえシュールやってるのに宗教家かよ」ぐうの音も出ません。その頃から、自分の中の創価と芸術は別腹になりました(笑)。この矛盾に悩むことはなく「それとこれとは別」自分の中でそんなご都合主義が平然と成り立つようになりました。今考えると、いかにもの創価脳ですよね。でも、生まれたときから徹底的に作り上げられてきた創価脳の私から創価をひきはがし、創価のまちがいを気づかせてくれたのは、この芸術活動のおかげだったのかもしれません。
しかしそんな私が創価が100%間違っていることに気づくのに30年の月日が流れました。その間、創価の組織はおかしいとは思いつつも、日蓮の信仰に間違いはないと信じていました。この世界そのものが道理であり、森羅万象はこの正法によって司られ、生まれながらにしてこの法にめぐりあい、信じることができた自分は、最高に福運がある特別な人間なんだと本気で思っていました。なんだかんだ言っても、自分は他の人間とは違うんだといった、それこそ学会で言うところの増上慢そのものでした。「普段はそうでもないんだけど、突然とんでもない頑固者になる。こうと言ったら自分の考えをまげない。自分の非を認めない。ごめんなさいが言えない。反面謝れば済むと思っている」これは妻にも散々言われてきたことなんですが(汗)、自分的にはきっと長年積み重ねられてきた創価脳のなせる技だと思っています。これさえなければ、性格的にはとってもいい男なんですけどね(笑)。
功徳欲しさに必死に祈る姿は餓鬼界の命。人を見下し、自分が一番と威張り散らす姿は修羅の命。人の幸せを祈っているようで、じつはその見返りに目が眩んでいるのは畜生の命。その結果、功徳どころか、家族をも巻き込んで苦しむ姿は地獄そのもの。そうした自分の姿を自ら仏法に照らすことができない創価のご都合主義は三悪道・四悪趣そのものではないでしょうか。三悪道・四悪趣とは何をさすのかという問題を任用試験に出して欲しいですね(笑)。答えはもちろん創価学会員の命そのもの。これに正解すれば、一発で青年教学1級ですね(笑)
ボウヤさん、痛い話ですみません。でもこれは自分の過去の愚かさや過ちを振り返ってのことなんです。こうして自分のしてきたことを言葉にすることによって、客観的に自分の人生を眺めてみる。ボウヤさんは、まだまだこれからの人生があります。どうにでもやり直しの効く人生があります。私はすでに今年で56歳です。自分に残された人生は「余命」でしかありません。どうか私のように、この歳になって後悔だらけの人生を歩まなくて済むように、しっかりと真実に目を見開いて、自分の人生を構築していっていただきたいと思います。
創価によって失うものは大きいです。得るものなどひとつもありません。なかには創価で培った人間関係や絆の話をもちだす人がいますが、それは創価でなくては得られなかったと言うようなものではありません。せめてそう思いたいだけです。そう思わなければ、あまりにも無駄な人生だったと認めざるを得ないからだと思います。厳しいけど、辛いけど、自分の人生の失敗という現実と、きちんと真っすぐに向き合っていくことでしか、「余命」に賭けるものはないと思っています。そう言う意味では、ボウヤさんの人生は、自分次第でどうにでもなる。なにもかもがこれからです。どうかその誠実な人柄を創価なんぞに押しつぶされることなく、自分の人生を自分で切り拓く、勇気ある人になってください。…なんだかどこかの名誉会長のスピーチみたいになってしまいました(笑)。信濃町には今日もこんなふうに池田氏のメッセージの原稿を代行している人がいるんでしょうね。

●ボウヤ (2014年7月13日 00:47 )
signifieさんの私に向けられた言葉、何度も何度も読み返しをさせていただきました。芸術のことは門外漢で難しかったですが、signifieさんの幼少期から置かれてきた環境、またそれらに対して自身が抱いていた感情、驚くほど似ていました。
signifieさんは芸術活動をきっかけに学会は誤りであることに気付かれたんですね。私は今まで「疑問を持つことは魔の仕業である」という言葉の前に思考停止して終わっていましたね。学会員特有の「根拠の無い他者(非活動家の方々や非学会員の方々)に対する優越感」…私が一番疑問を持ち、嫌悪感を感じていたのはこの一点です。カトリーナさんや白ユリさんは学会員であり同志なのでしょうが、人のことを小馬鹿にするような言動は本当に許せませんでした。例え自分と異なる価値観を持つ相手に対しても最大限に尊重し、大切にすることを教わったはずでは?相手の価値観を「理解しよう」とすることと、「受け入れる」ことは違うと思います。
私がこちらのブログを拝見し始めてからの2ヶ月間で、自身の組織で改善出来たことは本当に限られたことだけでしたが、
・アポ無しでの家庭訪問禁止
・目標達成のみを目的にした聖教新聞多部数購読禁止
・会合の結集は部員さんの仕事や家庭の状況を最優先し、
無理強いさせない
…etc
これらのことを各部長と話し合い決めました。上からはこってり絞られましたが…。
まだまだ不十分だと思いますので、皆さんの知慧をこれからもお借りしたいと思います。(「そもそも活動するな!」とは言わないでくださいm(__)m)
レモンさんへ
質問頂いた件に回答させていただきます。
私の父は新卒採用ではなく、中途採用でした。
一般企業で昇進もして、さあこれからからという時に声を掛けられたそうです。仕事にもやりがいを感じていた中ですが、「断る」という選択肢は用意されていません。上司の引き留めや信心していない兄弟の猛反対を振り切り、本部職員となったそうです。数年前に定年退職しました。たまに酔ったときに「あの時会社に残っておけば良かった」「祈ったら何でも叶うなんて大の男に言って聞くと思うか?」「婦人部は世の中を知らなさすぎる」
などの「暴言」を息子の前で吐きますが創価スイッチの入った母親に激怒されショボくれています。組織運営への批判は数々持っているようですが、信心自体に対する確信は揺らぎないものがあります。

●モニカ (2014年7月13日 08:20 )
白ユリさんの発言は貴重です。
学会員さんの本音中の本音を言ってくれてます。
普段の排他的な思考回路と非常識な行動を、ツッコまれると
「そんなことないわよ」
「そんなこと思ってないわよ」
と頑なに否定して認めたがらない学会員さんが多い中、白ゆりさんは正直です。
自分はこの信仰を持ってるから特別偉いと思ってるし、当然、他は見下していますよ。それが何か?
はい、退転者は邪魔ですから地獄に堕ちればいいと思ってます。実際堕ちるでしょうね。
私は選ばれた者よ。ふるいにかけられ、残ったホンモノよ。あなたたちとは格が違うの。
黙って聞いてれば調子に乗って、学会員がお人よしと思ったら大間違いよ。
退転者なんか同志じゃないんだから、どんなにボロクソ言っても怨嫉にはならないのよ。
あなたたちは魔にたぶらかされているのがわからないの?魔はまともに戦ってもダメだからね。徹底して責めるわよ。それが真の慈悲ってもんだわ。
悪は攻め抜いてこそ正義よ。
そう思ってるくせにすっとぼける人が多い中、きっぱりと本音を言われてますね。
前に「びっくりしないので、どうか率直に仰ってください」と書いたら、ちゃんとそうして下さいました。ありがとうございます。
学会員の皆さん、白ユリさんの仰ってることは少しでも自分に当てはまりませんか?
こればっかりだと嫌になるだろうと、いろんな指導を混ぜていますが、創価は間違いなくこれを教えてますから。
そうしてこれが、この信仰の本質なんだと気づきましょう。


解説
中学生のとき、創価学会というだけでバカにされ、いじめられました。同級生にとりかこまれ「南無妙法蓮華経」の大合唱、「お、一家和楽が来たぞ」「さわるな、なんみょうが伝染る」そんなことをされているなんて親には口が裂けても言えません。両親には未来を担う信心強情で優しい心をもった勇気ある正義の創価学会っ子を演じていました。そのうち私は、周りで学会を誹謗中傷する人たちに「何とでも言え、この信心こそが正しいんだ。あとで不幸になって吠え面かくなよ」と心でつぶやくようになりました。そうとう歪んでますね(笑)。

シニフィエさん、中学生時代にけっこういじめられていたんですね。
私は、そういうふうないじめを受けた記憶がありません。
シニフィエさんはお父さんが公明党の議員だったり、有名すぎたんでしょうか。
私の場合は、家が貧乏だったから、自分の家の宗教をあまり前面に出さなかったような。
要するに、人前で、創価学会員であることを自慢しなかったということです。
でも創価高校を受験したくらいだから、自分なりの信仰心はもっていたのかな。
最近、記憶があいまいで……すみません。

モニカさんのいう「白ユリさんの発言」というのが何を指すのか分からないので残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮