■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
■功徳という名のギブアンドテイク 投稿日: 2014年7月18日
こうして創価のまちがいに気づいたみなさんと、客観的な事実に基づいて、創価の実態を明らかにし、問題点を明確にしてきたわけですが、こうした過程の中で、いちばん問題だなと思うのは、やはり学会員さんにまったく罪の意識がないところではないかと思います。これだけ非常識なことをやっていても、相手に迷惑だなとか、嫌な思いをさせてるかもだとか、まったく思わないところ。また選挙違反を何のためらいもなくやれる神経。犯罪ですよ。信仰のためなら犯罪でもよしとする価値観。犯罪者としての自覚がないどころか、自分たちは正しいことをやっていると思い込んでいる点だと思います。いくら創価に部分的にでも「よいところ」があったにせよ、選挙違反だけでも創価がおかしいと批判されて十分な実態なんですが、学会員さんたちはそのことを指摘すると逆ギレしてしまいます。たまに「やっぱりおかしいよね」と感じることがあっても、幹部から「それはあなたの信心が足りないから」「お題目で乗り切って」と簡単に言いくるめられる。幹部の指導は何の回答にもなっていないし、どう考えてもおかしいですけど、それはそれで納得してしまう学会員さんなのです。そして「それは正法を貫くときに必ず競う魔の仕業だ。これこそこの信心が正しいという証だ」などととんでもない屁理屈を言い出します。もちろん、それもみんな上から言われたことを鵜呑みにしているだけなんですけどね。上から言われたとおりのことしか言えない自分にさえ気がつかない。言われたことを自分の考えだと思い込んでいる。つまり自分では何も考えずに、ただただ組織から言われたことだけを、ひたすら信じてやっていれば幸せになれるんだと思い込んでいるわけです。
前に紹介した「いきなりはじめる仏教入門」内田樹・釈徹宗(角川文庫)の中にこう言ったくだりがあります。
『宗教とは「思い通りいかない=苦」であるこの世界を、自分自身を目覚めさせていくことによって受け止めていく体系ではないでしょうか。つまり、「不条理な苦を引き受けていく」システム、といった一面があると思います。ところが、思い通りいかない世界を、傲慢にも「なんとか自分の都合通りにしてくれ!」と超越的存在におねだりしてしまう。「おねだり」が根底にあるからこそ、ただひたすら宗教体系に従順な態度をとる。これは一見、宗教的受動性に富んでいるような態度ですが、「苦を引き受ける」態度とはまったく逆ベクトル。ゆえに、「おねだり」をエサにする制度宗教は。宗教性を成熟させません。つまり、入信したら「こうなる」、この教団に協力すれば「こんなに幸せになる」、という体系をもつ制度宗教はすべて信用できない、という結論に達します。』
まさに創価学会はこの「おねだり宗教」ですよね。私が前々から言ってるのもこのことです。本来、仏教は超越的存在におねだりして願いを叶えるようなものではない。むしろ、そうした価値観を完全に否定するところから仏教が始まると言ってもいいと思います。「執着を捨てる」ということが仏教の基本的な考え方にあるとおり、「おねだり」をする時点ですでにアウトなんですが、学会員さんはそんなこと考えもしません。
そしてこのような「おねだり」の制度宗教には、当然、おねだりする対象が必要です。創価の場合はご本尊ですね。このごろは池田氏が現人神のようになってますが(笑)、創価ではこれはこの世界を司っている法そのものであったり、日蓮さん本人であったりする(人法一箇って任用試験にも出てくるでしょ(笑))んですが、この考え方がそもそも一神教であって、仏教ではない。日蓮は仏教の教義をねじまげて、なんと自分を一神教の神だと言い出したんです。そしてその全知全能の神(本人は自称ご本仏と言ってますけど)である日蓮さんは何もわからない凡夫がおねだりしやすいように、仏の慈悲によってご本尊をつくってやったのだと。
ちなみに「仏法を基調とする」幸福の科学の大川隆法総裁も同じように釈迦もキリストも私の弟子だと言ってるんですが、話がごちゃごちゃになるのでそれはさておき(笑)、つまり学会員さんたちはこうした「ご本尊におねだりすれば何でも願いが叶う教」を信じているということをもっと自覚しなければいけないと思います。自分が信じている信仰は、自分の願いを叶えてもらうために、何も考えることなくひたすらおねだりするというものだという自覚をもってほしい。そしてその自分のおねだりを叶えてもらう対価として、毎年なけなしのお金を貢ぎ、会員を増やせと言われてはご近所から嫌われ、お情けで新聞を購入してもらい、平気で選挙違反をやりまくるんです。仏教の因果律とギブアンドテイクを混同している。これをやったから見返りとして功徳がもらえる。財務をすれば二倍三倍と帰ってくる。「この株を買うと必ず配当が3倍になって帰ってくる」という詐欺となんら変わらないと思います。普通の人なら「これは騙そうとしている」と思います。それ以前にそんな都合のいい話には裏があると思って当然ですが、学会員さんの場合そう思わないところが普通じゃないことの証ですよね。学会員さんは、そうした普通の感覚とか、人としての一般的な価値判断が出来なくなっている状態だということを自覚すべきだと思います。オレオレ詐欺にひっかからない日本一ストイックな大阪のおばちゃんも、創価の詐欺にはひっかかるんですよね。
学会員さんは、浄土真宗のことを「現世の成仏をあきらめて、来世で成仏させてもらうためにひたすら念仏を唱える」といった厭世主義の他力本願だと批判します。「念仏を唱えさえすれば死んだ後に極楽浄土にいける」という考えを他力本願だと批判しますが、学会員さんの言う「このお題目を唱えれば何でも願いが叶う」などと考え方にさほど変わりがないし、「だからありったけのお金を貢いで、折伏や、新聞啓蒙や、選挙運動という仏道修行(?)に励んで、功徳をもらうんだ」というように、浄土真宗とは比べものにならないほど現世の欲に執着して、本来は心の問題である信仰を、ギブアンドテイクの契約であるかのように思っています。では学会員さんが信じている「おねだり信仰」のどこが自力本願なのでしょうか?浄土真宗とは違って現世利益だといいますが、それは単に、死んだ後ではなく、生きている今、目の前の功徳欲しさに目が眩んだ「おねだりをエサに釣られている愚かな魚」に過ぎないのではないでしょうか?学会員さんの一般世間の常識を無視した行動は、こうした現世の功徳欲しさが故の、なんともあさましい姿であると思います。
自分のことが客観的に見れないというのは、なにも創価に限ったことではないですが、それにしても世の中のことが見えなさすぎというのが学会員さんの共通するところではないでしょうか。仏教の基本から完全にかけ離れた信仰をしていることの自覚のなさからはじまり、自分たちが批判している一神教と変わらない教義を信じていながら、なおかつ自分たちだけが正しいと言い切る。そして排他的な選民思想を世界で唯一人々を幸せにできる宗教だと信じて、世間から疎まれていることにも気がつかず、外からの批判はすべて信心が正しいことを証明する魔のせいにして、最終的にはお金と労働力を組織に貢いでいるだけの自分の姿に気がつかない。自分たちは特別に選ばれた存在であり、この信仰に出会えただけでも幸せだと思わせられ、結果的にはお金を巻き上げられるだけ。それでも幸せだと思い続けている学会員さんに、私たちは自分の過去の経験をふまえてアドバイスをしているつもりです。なにも学会員さんがうらやましいとか、憎たらしいなんて思っていないんですよ。創価の実態に気がついた今となっては、べつにこれ以上相手にしなければそれで済むことなのですが、人生を食いものにされ続けている学会員さんたちがあまりに悲惨なので、こうしてなんとか真実に気がついてくれるようなことを、いろんな角度からお話ししているわけです。すぐに気がつくのは無理としても、少しぐらい信心何十年という私たちの真実の声に耳を傾けてもいいんじゃないかなと思います。
長くなりましたが、そこで今回のテーマですが(笑)
「功徳という名のギブアンドテイク」
にしたいと思います。
学会員さんがしきりに訴える「功徳」というものが、本来の仏教でいう功徳というものと違って、かけ離れた即物的な欲を満たそうとする執着であるかをはっきりさせたいと思います。
前回のような体験とはちがって、仏教の教義の話になってきますが、創価の教義が、日蓮の教義も含めて、いかに仏教ではないかをはっきりさせたいと思います。かつて皆さんが創価に教え込まれた功徳とは何だったか、はたしてその功徳なるものをお題目を唱えることによってもらえるというシステムに何の根拠があるのかを検証してみたいと思います。
多少、話が難しくなる気がすると思いますが、皆さんは素朴に「創価が教えてくれた功徳とは、具体的にこんなことでしたよ」といった話をしていただけると嬉しでいす。ここで仏教や日蓮仏法や池田教の教義をひもとくつもりはありません。学会員さんが目をくらませている功徳の正体をみんなではっきりさせることができればいいなと思っています。よろしくお願いします。
■功徳という名のギブアンドテイク 2 投稿日: 2014年7月25日
みなさんよくご存知の童話「桃太郎」。桃太郎にとって、おじいさんとおばあさんは赤の他人です。桃太郎は川に流されて、そのままでは死んでしまうところを、おじいさんに助けられ、何不自由なく大切に育てられたにもかかわらず、恩返しもせず、勝手に鬼退治に行くと言って家を飛び出しました。そのときおばあさんから作ってもらったキビダンゴを横流しして、犬、猿、雉と戦闘要員の契約をして、鬼が島で有無を言わさず鬼を殺戮し、鬼が持っている財宝を略奪しました。自分の島で普通に暮らしていた鬼たちに因縁をふっかけて、皆殺しにして、鬼の財宝を奪い去り、「日本一」の旗を掲げて凱旋したのです。犬、猿、雉はキビダンゴという利害だけで繋がった単なる傭兵です。正義の戦士などではありません。見かけだけの美味しい話に飛びついたら、利用されるだけでろくなことはないという戒めの童話なのかもしれません(笑)。
さて、このひどい話、どっかで聞いたことがありませんか?功徳と言うキビダンゴ欲しさに、鬼が島へ略奪に誘われた学会員さんたち。ただ、略奪したのは鬼ではなくて自分や自分の家族だったというオチですね。
もう大の大人が功徳と言うエサに踊らされるのはやめにしませんか?実際に功徳がありましたか?その功徳というのは、ほんとうにその信心をしていなければ得ることができなかったものですか?ありったけのお金を貢いで、毎日毎日会員獲得や新聞販売や選挙違反に駆け回らなければもらえない功徳って、いったい何なんだろうかって考えたことありませんか?それが宗教のあるべき姿だと言い切れますか?他の宗教をボロクソに罵倒し、不幸になると脅し、果ては呪いの唱題会を続ける団体が、世界で一番正しい宗教だと、どうして考えられるのでしょう。
たとえば
「自分はどうしてこのカラーコピーのご本尊を拝んだら幸せになれると信じているのだろう?」
「自分だけが特別にラッキーなことが起ることを功徳だと思ってやしないか?」
「今までに功徳だと思ってきたことは、この信心でなければ叶わなかったことなのか?」
「子どもさんのいる家庭の夕食の時間に、突然訪問して、長い時間信心の話をやるだけやって満足して帰る自分の行動が、はたして正しいのだろうか?」
「この活動は、その人の幸せを願っての行動なのだろうか?自分の功徳欲しさに、相手のことも考えずにやってるだけのことじゃないのか?」
「脱会した人に、ちょっと不運なことがあっただけで『ざまみろ』と心の中で思ってしまう自分は正しいのだろうか?」
「真剣に悩みを打ち明けても『信心が足りない』『とにかくお題目よ』としか言わない幹部をどうして尊敬できるのだろうか?」
「『功徳はお金の額で決まる』と言われて疑問を感じない自分は大丈夫なんだろうか?」
「はたして今までほんとうに功徳があっただろうか?」
「功徳って何だろう?」
「功徳欲しさに何かを拝むって、なんか人としてあさましくないか?」
「今よりいい暮らしがしたいとか、病気になりませんようにとか、事故にあいませんようにとか、子どもがいい学校に入れますようにとか、このカラーコピーにお願いしている自分って、いったい何?」
「キビダンゴ欲しさに家来になって鬼が島にとっとこついていく犬や猿や雉とどこが違うんだろう?」
「『何も考えずに、疑うことなく、ひたすらこの信心を貫きなさい』って、考えたらまずいことでもあるんじゃないのか?」
「もしかしたら『何も考えずに、疑うことなく、ひたすらお金を貢ぎなさい』ってことなのか?」
「『疑ったら地獄に堕ちる』ってオウム真理教や統一教会と同じことを言ってるけど大丈か?」
「折伏の闘い、題目闘争、選挙の闘い…って、学会活動はみんな『闘い』だけど、家庭も顧みずに闘いに明け暮れることが、どうして信仰なんだろうか?」
「こんな簡単な質問にも答えられないような宗教団体って大丈夫なのか?」
「もしかしたら自分は騙されているんじゃないだろうか?」
「もしかしたらこれって洗脳って言うやつじゃないだろうか?」
このように、普通ならこんな疑問が起きてもいいはずなのに、創価では疑問を持つことは許されません。ちょっとでも疑問を持つような発言をすれば「どうしたの?大丈夫?」「どうかしちゃったんじゃない?」「あの人は信心がおかしくなった」「きっと罰があたる」「せっかくの福運を消す」などなど、全力で疑問を持つことをやめさせようとします。幹部は決して疑問に答えるような指導はしません。「信心が足りない」「お題目を上げよう」の一点張りです。そもそもそんな疑問に答えられるような答えを持っていませんから。
学会員さん、一度、座談会でもいいですから、上にあげた疑問を幹部にしてみてください。そして納得できる回答があれば教えてください。もし、その幹部が答えることもなく、そんな疑問を持つあなたを批難したとしたら、ちょっとは考えてもいいんではないですか?「創価って大丈夫かな?」ってね。
ページを改めましたが、テーマは引き続き「功徳と言う名のギブアンドテイク 2」とします。創価の言う功徳とは、本来の仏教で言う功徳とは全く違います。「この信心をしたものだけが得られる特典」みたいに教えて、本来の仏教からはかけ離れています。そもそも功徳欲しさに信仰をすることを戒めているのが仏教でしょう。それに誰かから特典をもらえるという発想がすでに仏教ではありません。創価の言う功徳が、完全に会員からお金をまきあげるためのエサであることの証明です。そのことに学会員さんは気づくことなく、一生懸命自分の功徳のためにお金を貢いできました。疑えば地獄行きという脅しもセットになって洗脳され続けています。だからどんなに理不尽なことでもやってしまいます。「創価に間違いはない」と思考停止になって、自分のやっていることがどういうことなのかがわからなくなっています。とにかく疑問を持たせない。これが創価の「やり口」です。
みなさん、引き続き「功徳」をキーワードに、もうしばらくお話をお聞かせください。また、現役活動家のみなさんのコメントもお待ちしています。実際の座談会で、どんな会話がされているのかを是非教えてください。とりたてて「功徳」についてでなくてもかまいません。今現在の創価の現場で、どのようなことが展開されているのかを教えてください。よろしくお願いします。
【解説】
対話ブログが非公開になったため、これら以外のコメントを参照することはできません。
詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。
獅子風蓮