獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅢ:いよいよ再開です(11)

2022-08-25 01:35:48 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
(私はシニフィエさんの主張に必ずしも賛同するものではありません)

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■罰なんかなかったよ       投稿日: 2016年12月17日

みなさん、たくさんのコメントありがとうございます。
とくに第3ステージになってから、コメントの内容がますます深くなっているように思われます。あのような形で休止になって、今後どうやって再開したらいいのか、またどのような形で継続できるものなのか、正直わかりませんでした。テーマ設定にしても、これまで通りでいいのかもわかりませんでしたので、手さぐりの再開でした。幸い皆さんからのコメントが以前と同じくらいの数になりましたし、以前よりも増して内容が深くつきささるようになっていると感謝しています。
皆さんから次々と寄せられる創価の恐ろしい実態は、少し読んだだけでも、創価学会がまともな宗教ではないことなどすぐにわかることなのですが、皆さんが一様におっしゃるように、創価に騙されている間は、そのことにどうしても気づけない。そしてその原因が気づくことに対する異様なまでの恐怖心がそうさせているということもはっきりしました。もともとありもしない功徳と罰に翻弄され、自ら人生を狂わせている学会員さんが、1人でも多く皆さんの渾身の訴えを目にすることで、なんとか自分で自分の人生を考えるきっかけになってくださればいいと、ますます願わずにはおれません。
学会員さんに「創価の活動をいくらやっても功徳なんかないよ」といくら伝えても、それはその人の人生を頭ごなしに否定するだけのことになってしまうし、創価はそうしたときの都合のいい言い訳もちゃんと用意しているので、学会員さんは自分にとっての都合のいい言い訳として、ますます創価の殻に閉じこもってしまいます。
それよりも「創価を疑っても罰なんかないよ」と伝えるほうが、いくらかは届くのではないかと思うようになりました。学会員さんは創価を一途に信じようとすることで、罰への恐怖心を無理やり消し去ろうとします。一心不乱にカラーコピーの曼荼羅に題目を唱え続けるのは、仏教が一神教的な他力本願のおねだり信仰と勘違いした上での「功徳が欲しい」というのもあるでしょうが、同時にどうしても心の底から湧き上がってくる創価への不信感、あるいはどうしても不信を抱いてしまう自分の心を否定しなければ恐ろしくてしかたがないといった恐怖心を、思考停止によってごまかそうとしているように思えて仕方ありません。日々の勤行唱題は、真面目な信者でいることの安堵感というよりも、現実の問題を勤行唱題によって逃避し、そんな自分の心の底から湧き上がる不信感と恐怖心を、さらに勤行唱題によって封じ込めてしまう日々なのだと思います。現実の問題が解決されないばかりか、自分の心を否定し続けることの日々がいつか精神のバランスを崩してしまうのは当然のことだと思います。勤行唱題というのは、アドレナリン分泌によるその場限りの高揚感と現実逃避をもたらすだけであって、何一つ問題の解決にはなりません。
「今の自分を疑っても罰なんかないんだよ」と言ってあげるのは、じつは学会員さんが心のそこに封じ込めているいちばん望んでいる言葉なのではないかと思いました。それを他人が言ってもなかなか通じるものではありません。要は最終的に自分が自分に対して「疑っても罰なんかないんだよ」「自分の心に正直でいいんだよ」と言ってあげられる。つまり何よりも自分を信じることが大切なんだと気づくことで、初めて自分が何をしてきたのかが理解できるのだと思います。
このブログにある20000近くのコメントは、そんな「創価によって自分を見失っていた人たちの赤裸々な記録」です。これから30000、50000、100000と積み重ねていきたいと思います。これこそが創価学会の実態であるという動かし難い実証を、これからも皆さんとともに残していきたいと思っています。どうかこれからもよろしくお願いします。
ということで、今回のテーマは「罰なんかなかったよ」とさせていただきます。「創価を疑うことは死ぬほど怖かったけど、思いきって自分の心に正直になったら、まったく恐れることはないし、もちろん罰なんかあるわけないこともすぐにわかったよ」という皆さんの体験のお話しをお願いします。
それと、おかげさまでこのブログの500万アクセスが、どうやら来年の1月末に達成できそうです。そのときはまた皆さんでお祝いしましょう!これまで100万アクセス達成ごとにお祝いしてきましたが、今度はなにしろ5000000アクセスなんですから(笑)いつもよりもっと派手にお祝いしたいですね(^ω^)

●セイコ (2016年12月17日 17:31 )
創価を離れて3年が過ぎましたが、至って平穏に暮らしております。
むしろ、あの忙しい生活から開放され、心も時間もゆとりができました。
嫌な人、苦手な人と無理して付き合う必要もないですし。
仏道修行?自分が成長できる?とんでもない。私にとっては何の罰ゲームだ、くらい苦痛でした。
スピリチュアルな人達からいわせると、波動を下げるような人に、自分から近づかなくていい。
愛想笑いしてる自分が嫌いでした。
活動から離れて随分たった時、以前信頼していた幹部から「寂しくない?」と聞かれました。
いや、全然。むしろ新しい知り合いできました。
暇ができたので、ガーデニング(というよりただの庭いじりです)を始めたら散歩やヲーキング途中の人とも言葉をかわす機会もふえました。
隣に住んでるにも関わらず、今まで顔を合わせることもなかった娘さんとも親しくなりました。
何が嬉しいって、新聞頼まなきゃあとか、選挙のお願いいつ言おうとか、へんな下心無しでお付き合いできることです。
まだ、こわいですか?
罰なんかないとして、これから困った時とか、悩んだりした時にどうしたらいいんだ?
とかも思いますよね。
今まで乗り越えてこられたのはご本尊様があったから。
ではそれが、何の力も無い、ただ無駄に高いだけの紙だとわかったら。
今まで乗り越えてきたのはあなた自身のちから、ではないでしょうか。
自分を信じてください。カラーコピーの紙にはなんの作用もありません。
それでも不安なら、信仰と組織を切り離して、自分だけで信仰してみてもいいかもしれませんね。
本来、宗教は自立を促すものであるべきなのに、組織にとって都合のいい依存症の人間を作り出してしまうことのほうが罪ですよね。
罰について、とあるお坊さんが「ひとが悪いことをして苦しまないように、道徳、倫理を説いた仏教の言葉遊び的なものです。」とか
又、別のお坊さんは「罰というものは、本来仏教には存在しないものであります。なぜならば、全て私達にもたらされるものは、苦、だとしているからです。」といってるみたいです。
人生、なにがあるかはわかりませんが、現実を受け入れることのできる自分でありたいです。

●元栄光地区婦人部 (2016年12月17日 18:57 )
こんにちは
学会2世、元白蓮Gでもあった元栄光地区婦人部です。
「罰なんかなかったよ」
今回もとても良いテーマですね。いろいろ書きたい事が頭に浮かびます。
私にまず言えることは、「かと言って脱会して良い事が起こるというわけでもない」ということです。
これを前置きしておかないと、「信仰体質」の人はまたもや何がしかの宗教に依存してしまいかねません。
脱会後、私自身は全てが好転したわけではありませんでした。長年培ってしまった宗教的思考「自分のことより困っている人を見たら救わねば!」という考え方のせいで、不幸そうな人を助けずにはおられず、結果的にいろんな人に振り回されるという波乱万丈な人生を歩みました。
創価学会にいた時は、「因果の法則」という思想を徹底的に植え付けられました。
原因がなければ結果はない!と、似非科学的な思想です。
これが科学であれば、きとんと何がどう作用してこのようにな結果になったのか説明できるものですが、学会で言うところの因果の法則は、全てが「推測」でしかあり、信じるしかありません。
脱会後の私は、「なぜ因果の法則なんて証明もできないものを自分は信じてしまうのだろうか?」と自問自答をしました。
やがて、見えない未来への不安から「信じたがっている自分」がいて、あたかも普遍的な法則のように思い込んでいるからだと理性的には考えられるようになりました。
ところが、理性でわかっても、いざ因果の法則が存在しない世の中を受け入れようとしてもとても困難でした。
つまり、必然の対局である「偶然」というものがどうしても受け入れられないのです。
まるで高い山の上から透明なガラスの上に足を踏み入れようとして怖くて進めないような感覚とでも言いましょうか。
ここまで来れば後は自己暗示をかけ続けました。自分自身の心を呪縛しているモノがわかったわけです。
「世の中に必然などない、すべて偶然、たまたま」
するとあら不思議、偶然ということがとても有難く素晴らしいものに思えてきました。
だから、明日どうなるかはわかりません。人生を保証するものがなくなったわけです。
でも、苦しんだりのたうち回ったりするかもしれないけれど、それらも全て含めた人生を生き抜くことこそ、この世に生まれた人としての「生」を謳歌することだ!と思えるまでに自分は強くなれました。
普通の人が聞いたら「そんな当たり前のこと・・」と笑うかもしれませんが・・・(^_^;)

●009 (2016年12月17日 19:32 )
50代 元創価な009です
(^o^;)
小学生のころ
四人で学校の机を囲んで
「鳥居」のマークと「ひらがな」と
「数字」と「はい」「いいえ」って書いた紙の上で、10円玉を四人の人差し指の先っぽで持ち上げて、お告げをもらうオカルトっぽい遊びがありましたね。
コックリさん、コックリさん
どうぞ、お入りください。
お入りになったら
「はい」にお進みください。
10円玉→→→「はい」
まじ!ゾワゾワ~・・(*_*)
最後に、コックリさんが鳥居から帰らないとかなりヤバイ事になるって、みんなが真剣な顔しながらやっているのを、横から涼しい顔で見ていたのは、いつも何故だか鳥居をくぐらない変な奴です(笑)
私からすると、創価のバチもコックリさんのタタリも同じレベルの話です!
って言ったら、覚醒途中の方は気を悪くされると思いますが、カルトと言われる教団のパターンはどれも同じです。施設に監禁しているか、野放しだけど精神的に隷属されているかの違いだけで、人の恐怖心を煽って繋ぎ止めているに過ぎません。ちょっと体罰が有るようなカルトもあるようですが・・
その意味に於いては、日蓮という坊さんは、日本のカルトの走りなのかもしれません。
日蓮の教えは
当時の末法思想に便乗し、庶民の恐怖心と不安感を旨く利用して信者を獲得する為の教えです。
あの有名な龍ノ口の法難ですら、僧籍に有るものを処刑すれば「祟り」が降りかかるという時の権力者の恐怖心を逆手に取って、絶対に殺される筈がないという前提の上で暴れまくったという見方もあります。そもそも龍ノ口の法難で火の玉だか何だかっていうくだりは日蓮以外の文献は無いですからね(笑)
創価の指導もそれに乗っかっているだけの事。
言っているのは「信じなさい!疑ってはいけない!」「退転者は地獄の境涯です」それだけです(笑)
ではここで・・
皆さんが、大好きだった人間革命でも読んでみますか(笑)
『ここで伸一は、信心の究極は、「無疑曰信(むぎわっしん)」にあることを語っていった。「『無疑曰信』とは、『疑(うたが)い無(な)きを信(しん)と曰(い)う』と読み、何があろうが紛動(ふんどう)されることなく、どこまでも御本尊を信じて疑わぬ信心です。その信心に立った時、三世十方(さんぜじっぽう)の仏(ぶつ)・菩薩(ぼさつ)が必ず守るであろうことは、御聖訓(ごせいくん)に照らして間違いありません。』と。
すごいですよね!
この学会マニュアル(笑)
家族が病気で苦しもうが、会社が潰れようが、リストラされようが、毎日毎日もがき苦しむような苦しい事があっても、悲しい事があっても、あなたが幸せに成らないのは、あなたの「信じる力が弱いからですよ!」って言ってんですよね。
おいおい、どんだけぇー?!
って思いますよ(笑)
ところが、
こんな指導も創価脳にかかるとこうなります。
(バリ活ブログから引用)
『私は、この言葉を教えてもらった時、「疑い無きを」とは疑わない事とは、少し違うと教わった。疑っても疑っても、その疑いは、お題目をあげていくとともに、晴れていくのだと。そして、やがてご本尊を疑わない自分になるのだと。』
あー
悪夢だー、俺こんなアホだったんかー
(;_;)
疑っても疑っても・・って
それちゃうやろー?
?外部の方の為に解説?
『無疑曰信』は、その昔中国天台宗の、中興の祖(6番目)と言われる妙楽(西暦750年頃)が法華経宣揚の為に書いた『法華文句記』にある言葉です。
『疑い無きを信と曰い、明了なるを解と曰う。』
これを日蓮は、
大変な仏道修行なんかしなくても、特別な呪文を唱えると摩訶不思議、摩訶不思議!誰でも成仏してしまうのだー!ありがたやーありがたやー
信じなさいっ!
とにかく信じなさい!と言い出しました。
『一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり』
こんな感じです。
これにとセットになっているのが罰論ってやつですね
覚醒段階の皆さん、
バチなんかありませんよ(^o^)/
普通の生活に速く馴染みましょう。
レモンさん、ジンジャーさん
ありがとうございます。
ジンジャーさん、落ち着いたようでよかったですね!
長くなりました m(_ _)m
009でした

●ミドリムシ (2016年12月18日 12:29 )
皆様こんにちは。二世でバリ活20年、ユル活4年、非活もうすぐ3年のミドリムシです。
レモンさんがおっしゃっていたように、もし罰があるなら脱会した人達が戻って来る筈ですよね。
私も最初はそのつもりでした(笑)
私も二世ですので幼少より刷り込まれた罰論が恐ろしかったです。
そこで私が最初に試したのは『実験証明』です。牧口初代会長が言っていた『大善生活実験証明座談会』でしたっけ。あの逆をやってみようと思った訳です。勤行、唱題、会合出席を一切止め、生活がどうなるかを試してみようと思ったのです。
もし、罰らしき物が起こったら直ぐに活動を再開しようと(笑)
結果…何も起こりませんでした。
その後覚醒はドンドン進み非活生活まっしぐら、現在ではご本尊…いや、「無駄に高い紙」も捨ててしまいましたが、何も起こっておりません。
何かの御書に『謗法の者は一年、三年、七年が内に罰が当たる』みたいな事が書いてありましたが、勤行止めてそろそろ六年、後一年で何かあるか?多分何も無いでしょう。
多分、創価脳の方々は同じく御書に『来世で堕地獄必至の者は現世で何も起こらない』とか言うんでしょうね。
もう、何も気になりませんが。
ただし、元栄光地区婦人部さんもおっしゃっていたように、取り立てて良い事がある訳でもありません。
しかし、良い事も悪い事も起こるのが人生。馬鹿げた創価の活動に時間とお金と労力を取られる事が無くなっただけでも功徳かも?(笑)

●suzuki (2016年12月19日 13:10 )
私は元学会員で、今は日蓮正宗の法華講員です。
今はまわりに感謝し、常に幸せを感じながら生きています。
学会が宗門から破門される1年前に家族全員で脱会し、以来ずっとお寺にお世話になっています。
学会員当時、両親はバリバリの活動家でした。
選挙のとき、お菓子を配りながら近所をまわったりもしました。今考えると賄賂ですね・・
当時私は小学生でしたが、それでも池田センセイ、池田センセイと、池田教と化していく学会をみて、なんかおかしいなと思っていました。
クラスにも会員の子供が何人かいましたが、自分も含めて問題児ばかりでした。
成績も非常に落ち込み、精神状態も不安定なことが多くなりました。
そんな折、学会に疑問を抱いた父が脱会を提案し、家族全員一致で脱会を決意。
近所に学会員が多く、引っ越しをすることになりましたが、お寺の近くに住むことが出来ました。
お寺に通ってご住職様のお話を聴くたびに、日蓮正宗の教えは本当に素晴らしいと、実感するようになりました。
学会にいたときのことが嘘のように、精神も安定し、成績も良くなり、友達関係も良好でいじめられることもなくなりました。
学会をやめて、お寺につき、20年以上経ちますが、本当に学会をやめてよかった、お寺につくことができて、本当に幸せだと日々思っています。
私の通っているお寺には、私を含め、元学会員の方がたくさんいらっしゃいます。みんな学会に疑問を持ち、本当に幸せになれる教えを求めてお寺に来ている方々です。
日蓮大聖人様の教えは本当に素晴らしいです。学会で教えていることは、日蓮大聖人様の教えではありません。
ぜひ、お近くの日蓮正宗のお寺へ行ってみてください。学会の現状のことも、本当の大聖人様の仏法のことも親切に教えてくださいました。
1人でも多くの方が、正法に帰依し、幸せになれるよう毎日ご祈念させていただきます。

●signifie (2016年12月19日 19:21 )
suzukiさん、初めまして。
管理人のシニフィエです。コメントありがとうございます。
suzukiさんは、子どもの頃は創価学会員で、今は父親の判断で家族全員が日蓮正宗の信仰をされているということですね。
このブログをある程度さかのぼってご覧になったらわかることなのですが、このブログでは創価学会の問題について皆さんにお話を伺っています。日蓮正宗にはできるだけ触れないようにしています。とはいえ、創価問題の一端を担っている日蓮正宗のことにまったく触れないわけにもいきませんが、あったとしてもあえて必要最小限にとどめています。あえてと申しましたのは、少なくとも私は日蓮正宗はもちろん、日蓮の教義に対してはかなり懐疑的な考えを持っています。ただそれを取り立てて問題にすると、本来の創価問題の焦点がぼけてしまう可能性があると思っているからです。例えば日蓮正宗は創価学会を破門するまでは池田大作のいいなりになって、学会員を不幸にしてきたことの事実に関して何ら謝罪をすることなく、創価学会と同レベルの罵倒合戦、訴訟合戦を続けています。その目的は、創価学会からいかに信者を獲得するかの競争をしているように見えます。しかし、ここで今更そんなことを問題にしたところで何の解決にもなりません。ですから「あえて」日蓮正宗の問題に関しては必要最小限に抑えているというわけです。
当たり前の話なんですが、このブログでは個人の信仰に関しては何も言いません。憲法によって信仰の自由が保障されている日本において、そんなことは許されないからです。しかしながらご存知のように創価学会では「この信心をしなければ罰があたる」「あいつは創価から離れたからろくな死に方はしない」などといった言葉で繰り返し学会員を心理的に追い詰めるなど、信仰の自由はおろか、とんでもない人権侵害を平気で行うような組織です。私たちはそのようなあからさまな犯罪行為に異議を唱えています。間違っても宗教はこうあるべきとか、この信仰をするべきだなどといった発言はここではしませんし、するべきことでもないと考えています。
つまり、suzukiさんが日蓮正宗の信仰をすることに関して、私やこのブログに参加してくださる方は何も言いませんし、言うべきことではないと考えています。と同時に、suzukiさんはこのブログにおいて日蓮正宗の信仰を勧めるような発言をするべきではないと考えます。例えばsuzukiさんご自身が自分で立ち上げたブログでそうした発言をすることは自由です。ただ、他人のブログで特定の宗教を勧めるような発言は誰であろうとすべきではないと思います。ですからsuzukiさんは「日蓮正宗の信仰をしましょう」とこのブログで発言すべきではないと私は考えますがいかがでしょうか。

●あすなろ (2016年12月20日 10:34 )
signifieさんのsuzukiさんへのコメントに同意します。
私も日蓮の教えには懐疑的です。というか強く否定します。
日本は信教の自由が保証される法治国家ですから何を信じても自由。個人の裁量に委ねられていますので批判めいたことは言いませんが…。この際、宗教書を読まれたらいかがと思います。仏教研究の大家と言われた東大の故中村元先生の本がいいと思います。
特におすすめは三枝充悳さんとの共著「バウッダ」(講談社)ですね。原始仏教から大乗仏教へ釈迦の教えの真実が書かれています。
テーマとかけ離れてすみませんでした。

●ルフラン (2016年12月20日 02:08 )
こんばんわ!
マリーさん、本当に皆さんの体験よんだり、かくことで忘れた記憶が甦ってくる、ここはすごいブログですね、びっくりです(@_@)
レモンさん、じーんとしてくださり嬉しいです。
昨日も2番目の娘が花籠をかかえ、看病(風邪)にきてくれ、嬉しかったのですが、うつるのですぐ帰ってもらいました。
レモンさんの新婚時代をその後、池田の婦人に置き換えて考えてみました。
話が飛びますが、「香峰子抄」、、あんなにつまらない本がミリオンセラーになんでなったのか、どんなに考えてもわからなかったのですが、ここで、理解できました。何冊も一人の人が買って誰彼となく贈呈していたんですね。半強制的に勉強会資料として私も買って読みましたが、記憶にないほど、つまらい本でした。
そして、勉強会、げっ、ほんとにやるんだ。しかも、一人ひとり、感想を述べよ。。。つまらなかったと言えば空気が悪くなる。
私は、先生がご執筆中、なにかあったとき、すぐ行けるよう、奥さまは廊下に布団をひいて寝たことが偉いなと思いました、、みたいなことを、言った記憶があります。
他の会員さんも、すごいねぇ、立派だねぇ、真似できないねぇと抽象的な意見しかなく、ちっとも、勉強会っぽくありません、得るものは何もありませんでした。
その後、他の人もつまらなかったのか、ブックオフにはずらーーーとかねさんの本は100円で並んでいました(高い)。
確かに池田の妻は大変なご苦労があると思います。しかし、お手伝いさん、子供シッター、料理人などいて、かねさんは活動しているだけでよい身分だったのですよね(活動してたのか?)。
しかも、有り余るお金でまわりからチヤホヤされていた。
途中から、池田に付き添うようになり、ツーショット写真が見られるようになったとき、思わず、笑ってしまいました。かねさん、いつも池田の隣に、同列に、微妙に隙間を作って離れてたっています。バッグは腕を曲げてもつわけでなく、どーんと腕を下におろして無造作に持っています。足も開いていてO脚をごまかす訳もなく棒立ちですね。カメラマンやスタイリストも池田夫婦が怖くて何もいえなかったんですかね?
有名人夫婦のスナップでこれ程あか抜けない写真は初めてみました。
また、池田は私が女子部のころ、恋愛禁止にしたり、戦いきって結婚しなさいとの指導をしていました。おかげで40過ぎで子供なしの戦いきって結婚した元婦人部がゴロゴロいます。戦いきったわりに離婚も多いです。
でも、かねさんは、戦う前に20歳で結婚したんですよね。社会の厳しさのなんたるかも不完全な状況で、婦人部指導したり、会員さんが尊敬できるほどの本を良くだせましたね。
なん十年創価にいても、池田家は、天皇家よりわかりませんでした。。。闇が深すぎて。。。

●三代悲報 (2016年12月20日 14:19 )
みなさん、はじめまして三代悲報と申します。
約10年前に脱会済み、40代三世、元男子部です。
ラインでは地区リーダー、S班でダサイジャケット着て着任してました。
自分は創価脱会→正宗に入り→そして正宗で未活動。信仰そのものが嫌になり現在に至っております。
正宗を勧めてる方がいらっしゃいましたが、自分も管理人様と同意見です。
元を正せば創価の元凶は日蓮正宗です。
法華講の方々も今回のテーマ罰の事をよく言われていましたよ。退転したら?とか、学会員は?とか。
結局…創価辞めても一緒じゃねぇか??と思い華麗にフェードアウトしました。
伝統仏教か新興宗教の違いだけで、根本の思想はまったく同じ。目くそ鼻くそです。
日蓮さんの教え自体がアレですから…
創価も正宗も罰と功徳で人々の心を縛り付けてます。身をもってカルトサーフィンした結果です。どちらもヤったから幸せ。辞めたからバチが当たったなんて事はなかったですよ!
今は何も縛りがない無宗教が一番幸せだと感じております♪
管理人様のあまり触れないようにしていた配慮は理解できますので、承認はお任せ致します。

●スマイル (2016年12月21日 14:50 )
池田にまつわるエピソードはいろいろありますね。
汽車に乗っていて、隣のお腹すかせた親子に弁当を買ってあげたとか、謎の池田の手紙とか。
あと森ケ崎海岸の歌のキリストに入信した友人は後から創価に入会したと噂がありましたよ。
基本的に『宗教ビジネスのために作り話をつくる。伝統を作る』なんですよ。
蒲田の戦いとか関西の11111世帯とか。
あんなの適当ですよ。
とにかく伝説作りです。嘘でもなんでも伝説作っておくと、そのうち人は記憶が曖昧になったり引っ越したり、死んだりしますので、嘘か真実かわからなくなります。それが狙いです。
ちなみに嘘ついてると、嘘つき本人も嘘が本当だと思うようです。以前勤めていた組織の長がそうでした。
創価って、とても上手に人を動かしています。牙城会とか創価班とか、フツーやらないですよ。
ストーリーを作ってそこに人を参画させる手口。
見破れば簡単です。

●Toppo (2016年12月21日 18:50 )
スマイル様のおっしゃる通り、池田にまつわるエピソードは、美談に属するものは、残念ながら(?)ことごとく、口コミで伝えられた作り話みたいですね。もちろん事実を脚色したという程度のものもいくらかあるでしょうけれども。
逆に、矢野氏をはじめ、長年にわたってすぐそばで池田を見てきた人たちが書いて居られる眉をひそめたくなるような話の方は、どうも殆ど全部本当のようです。
ちなみに、私の妻は学生の頃(40年程前)にじかに池田に会っています。道端での会話ですが。一言、力強く言われたそうです。「いいかい。絶対退転しちゃいけないよ。何があってもついてくるんだよ」と。
一目でカモだと見抜いたんでしょうかね。いまだに妻の洗脳は深く、ちょっと解けそうにありません。
まあ、辛抱ですな。
殆ど無意識にパッ、パッと人をコントロールする言葉を発してきたんでしょう。麻原も福永も多分そうじゃないですか。
真実は何かの拍子にだーっと明らかになるものと思います。

●あにき (2016年12月21日 19:02 )
非活約1年、二世、アラフィフのあにきです。
まるちゃんさん。その支部婦人部長、脳ミソ逝ってますね。
30年ぐらい前になりますが、学生部のときは、本尊流布ができていないと、班長の次のグループ長には成れませんでした。本尊流布ゼロのメンバーは、学会の活動家としては、失格の烙印を押されていたのです。
面接のときなどで幹部がそうしたメンバーを罵倒するのをよく見てきましたが、そのたびにイヤな思いで一杯になったことを思い出しました。
今はどうかわかりません。ただ、折伏成果の付け替えが横行したということは、創価の力が落ちてきた証左でしょうね。

●ルフラン (2016年12月21日 20:59 )
こんばんわ!
うちは、子供の一人が社会人になり、転勤で家を出る時、入会カードを書かせられました。しかも、私の了解もなく。子供部屋をお掃除しているとき、初めてみて、入会者が子供の名前になっていたので、驚きました。
すぐ、地区婦人部長に電話で、抗議しました。「うちは生後3ヶ月で入信していたのを統監で知っていますよね。分所帯の用紙になぜ、書かせないのですか?活動もして、役職もあって、それで、新会員っておかしくないですか?」っといったら、「そういうもんです、継続して、活動ができるし、書類上のことだけでなにもおかしいことはありません」と、言われてしまいました。子供も新しい人生の出発に波風たてたくないとのことでしたので、黙って見送りましたが、今だに納得できません。
紹介者が誰になったのか分かりませんが、そんなあざといことをしてまで、数や実績が欲しいのでしょうか?
創価のやりぐちは異常です。いい加減です。数の操作を一生背負う人生で末端の幹部の方は幸せですか?
前レスに折伏の横取り記事が出ていましたので、ふっと、過去の苦い経験が思い出され、罰のような生活を送っているのは、一体どちらなんだろう、、。
今は罰どころか、二重人格にならず、せき立てられず、無駄な時間も労力も奪われず、見栄すいた事もしない。正直に生きてゆけることがこんなにも、素晴らしいことなんだと、日々の幸せを噛み締めています。
大きな災難も長い一生にはあります。でも、毎日、数にせかされ、自分に嘘をつき活動をすることを考えれば、自分自身に降りかかる大きな苦悩を乗り越える努力に一生懸命のほうがよほど、人生が輝くと思っています。そこに、罰など、ありません。
創価では、策や方法にはしるな、黙っていのれ!みたいな思考停止型指導があります。
人間の頭は飾りじゃ、ないんだから、困ったとき色々考えるのが、当たり前の人間です。

 


解説
「罰なんかなかったよ」というテーマで、いろいろな人がコメントを寄せています。

私自身、創価学会を辞め、罰なんかなかったと断言できます。

ただ、これまで長く信じていた信仰を捨てること、ましてやご本尊を破いたり焼いたりする行為は、軽々にすべきではありません。
それなりの精神的な葛藤や、鬱状態を生じることがあります。
とりあえず非活になり、少しずつ時間をかけて創価の思考から離れていくのがよいのではないでしょうか。
ご本尊をお返しすることになったとしても、これまでの感謝の念を込めて本部に郵送すればいいだけのことです。

私自身はその後法華講に移り、そこの古い体質にあわず、「法華講みかつ」状態です。
でも、心のよすがとして、信仰を捨てなかったことを良かったと思っています。
私の経験を他人に強制するものではありません。


獅子風蓮