獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅢ:おてもやんさんの活躍(3)

2022-08-31 01:47:53 | 対話ブログ

●の文章は、シニフィエさんの対話ブログ記事「これからどうしますか?」についたコメントの引用です。


●ジョンソン3号 (2017年1月5日 09:09 )
男子部時代は地区リーダー、創価をやって、いや やらされていました
疑問を持ってからやったことは、学会について書かれたことを徹底的に読みました
「創価学会独立独歩」「創価の彼、無宗教の私」から宗教学者 島田さんや矢野さんの本まで
自分で判断できないから他人の意見を求めていました
これからですか?
知り合いの学会員は私を避けているので、関わり合わないように日々淡々と自分の人生を歩んでいきます
不幸自慢に付き合うほど暇じゃありませんので

 

●おてもやん(元栄光地区婦人部) (2017年1月8日 09:11 )
元がっちがちの2世白蓮のおてもやんです。
みなさんが葬儀の話をされてるので、思い出してしまった我が母の葬儀の話です(再連投ごめんなさい!)。
狂信者の父が喪主で当然のことながら学会葬でした。友人葬を仕切っていたのが顔見知りの幹部。お通夜の日には私の会社の人たち多数と、学会の人たちが多数、それぞれ半数くらいだったでしょうか、集まりました。
お通夜はまるで学会の会合のようなノリ。「池田せんせいから、XXXX の栄誉ある称号を頂戴いたしましたー!」と何やら額縁を手に他高く掲げてました。
父親は得意げ。私は腸が煮えくり返る想い。
翌日の葬儀では、一転して、なんと学会員は誰一人いない。私の会社の社長や会長、学会員ではない親戚の叔父や叔母だけでした。寂しいものでした。
やがて、一段落して落ち着き、香典袋の整理をしていた時のこと。
ありがたいことに、私の会社の方々から本当にたくさんのお金が集まりました。続いて学会員からの香典の集計を父がとりました。
なんと、ほとんどゼロ。1万あったかなかったか。
友人葬は香典を持っていかなくても良いというルールみたいなのがあるとは聞いていましたが、「なんだ・・・これだけか・・・」と、父が肩を落としつぶやくのを見てしまいました。
財務で文字通りスッカラカンで、母の葬儀を極力出費を抑えるしかなかった父。
あれだけいた同志の皆さんから頂いた香典がほんのちょびっと!!
大勢で学会風を吹かせ押しかけて通夜振る舞いはしっかりたいらげて嵐のように去っていく学会員達・・・それが学会葬なんだなと・・。
がっくりする父をなんともまた複雑な気持ちで見てるしかありませんでした。
あと、お通夜の時の受付を学会の婦人部が「私たちがやります!」としゃしゃり出てくれたわけですが、「受付の一人が香典をいただかないとか言って受け取ってくれなかったから」と後日香典を渡してくれた会社の同僚がいました。
学会員だと勘違いされたのでしょうが、学会員に葬儀を任せるとトンデモないなと痛感した件でもあります。
今は、グーグルのストリートビューで父の家を検索し、公明党のポスターが家の正面に何枚も貼り付けられてるのを確認し、たまに生存確認する程度です。(便利な時代ですね)
脱会したと嘘をついて婿養子に入った弟が父の面倒を見てますが、父が亡くなっても多分連絡は来ないと思います。
私には、脱会したということで早々に絶縁された兄がいます。
兄達家族と私の家族で、今後の創価の成り行きを見つめていきたいです。


●哉文 (2017年1月9日 10:16 )
こんにちは。脱会→日蓮正宗に改宗した、哉文です。 40 代のいいおっちゃんです。「これから」は、言うまでもなく、法華講員です。メインテーマからは外れてすみませんが、散見される宗教についての皆様のお考えについて、信仰者の立場から書いてみました。
脱会者で私のように法華講員の人は大勢いるし、中にはここを覗いている人もいるでしょうが、投稿はされてないみたいですね。そもそも、我々のような者は傍観が精一杯で、脱会した講員も、他の信仰に行った人も、面倒なことしたくないと、投稿しないことでしょう。(多分あんまり見てもないでしょうが)ここはいわゆる「無宗教」が常識な場で、そうでない者は何か言えば叩かれるかもしれず、黙っているのが賢明なわけです。私も、これを最後にします。 
私のように、脱会したけれど、やはり「無宗教」では済まされないという人もいます。ここにいらっしゃる多くの方と同じように、一度は創価にいて、「詐欺につかまってしまった」と自覚し、人生を大きく反省することになっていたわけです。
ところが、創価の経験だけで「宗教」まで語るわけにはいけません。「創価がダメだ」から「宗教はダメだ」との結論は、「かつてある中国人に騙されたことがある」から「中国人はダメだ」のような偏見に見えて、「もう少し、中国人について知ってください。いろんな中国人がいるんです。」と言う中国人(例です。中国人の方すみません)の気持ちになるわけです。
人類の数千年の歴史の中で、宗教は誕生し、探求され、変遷して今に至っています。その過程差別を生んだり戦争を生んだり、必ずしも良い歴史ばかりではもちろんありませんでしたが、人類が何故に宗教を求め、信仰してきたかと問えば、究極的には、我々の生命がどこから来てどこに行くのかがわからないことへの探求でした(もちろんすべてではないでしょうが)。死んだ後自分がどうなるのかという恐れに発する飽くなき探求心から、宗教は変遷してきたのです。もともと死への恐怖から、人間は命の有限さに気づくことで、他の動物にはできない文化と文明を築いてきたはずです。
それで、学会から目を覚ました後宗教そのものを否定してしまう事は、先人たちの長年の探求の過程も成果も確認せずに、それらに蓋をし、否定することになると思うのです。
この世の中で、信教は自由です。何を信じてもいいし信じなくてもいい。ただその「自由」とはどのような意味での自由なのかと問えば、社会的な意味での自由に違いありません。この社会にあって、何に祈ろうが、何にも対しても祈らないでおこうが、自分で宗教を開こうが、自由ですが、それは社会的な制裁から自由ということで、生前や死後の未知なる世界に対しても、自由かどうかはわからないのです。今の社会の常識や権利、法整備は、長年の苦労の末勝ち取ってきたものではありますが、宗教的真理とは無関係です。一地域の一過性の形態でしかありません。それが正しいわけでもありませんから、「自分の人生は正しかった」と言って死んでいっても、その先何が待っているかとは無関係な「正しさ」です。
この宇宙、生命を貫く何らかの真理があります。その真理に対して、今世の自分の考えや行動は何らかの背徳行為を行っているかもしれません。探求してわかる問題かはわかりませんが、探究しなければわからないことでもあります。そして仮にその真理が一つだとすれば、現在説かれている 1 つ以下の宗教が、その真理を握っていることになります。我々信仰者は、それを探求しています。
その探求は、必ずしも現世利益に直結するものではありません。今世で何か良いことがあれば、それは信仰のおかげで、悪いことがあれば怠惰のせいだと考えることは、創価学会以外にも多くの宗教に見られることですが、なかんずく創価学会の特徴でもあります。第二代会長の戸田先生は、「この世から貧乏人と病人をなくす」と言われ、戦後学会を再興しました。学会をやめた今も、私も大変尊敬する指導者ではありますが、日蓮正宗の信仰からすれば、その信念は価値論を土台とした 1 つの形態にすぎませんでした。正宗はそもそも現世に大金持ちになることを勧めておらず、「必ずお金持ちになれる」とも言いません。それどころか、「必ず病気が治る」とも言いません。信仰の目的は別のところにありますが、正宗の話なのでこれ以上触れません。ただ、信仰は必ずしも現実のこの世の中のためではなく、死後を見つめて行っているものです。だから、「宗教がなければ生きられない弱い人、情け無い人」もいるでしょうが、それはその人の問題であるのと同時に、その人が信仰する宗教の中身の問題でもあります。おしなべて宗教一般が、「弱いから信仰する」などと考えるのは、有史以来の先人たちに大変無礼な偏見に見えて仕方ないのです。
ちなみに、宗教に対する偏見を訴える為に他の宗教まで含めた話を書きましたが、個々の宗教については、知らなすぎて話せません。(匿名さんと管理人様の会話は私にはレベル高です^ ^)ただ、創価を辞めた人たちが、宗教に偏見をもたず、宗教を改めて見つめ直されることを願って書いてみました。
長文失礼しました。
管理人様皆様、しばらくの間でしたが、ありがとうございました。たまに覗いてます。( ^ω^ )

●スマイル (2017年1月9日 10:28 )
幹部の指導についてもう少し記憶を書いときますね^_^
昔、男子部の地区リーダーに任命になったときに『地区リーダーの心得』のようなワープロ打ちの20ページほどのマニュアルをもらいました。
圏単位の研修で配られたものでしたので、県幹部が作成したものか、かなり良くできたマニュアルでした。
『家庭訪問には2人で行く』とかいろいろ事細かに書いていました。
その中に『部員さんの指導については、必ず御本尊様と池田先生につながるように持って行くこと』と書いてありました。
『信心に目覚めることが本当の幸せだ』と当時信じていましたので、特に疑問持ちませんでした。
自身の体験から書き込みます

県の男子部長に、仕事や家族の病気などで指導受けたとき、『池田先生だったらどうされるか?を題目あげなさい』と指導を受けました。創価脳でしたが、さすがに『こいつあかんわ』と思いました。
方面の中心会館で相談室で指導を受けたこともあります。就職の方向性とかの悩みでした。
『そんなもん、自分で決めろ。広宣流布のためにとの一念で題目あげて祈ると必ず良い方向に向く』と。
東京の本部の相談室でも指導を受けたことがあります。
内容は忘れましたが、『あなたが学会活動に頑張ることがそのまま広宣流布になります』とか言ってました。
おそらく本部のマニュアルでもあるのだと思います。
創価の組織はとてもよくマニュアル化されていると思います。
『宗教界の王者』ならぬ『ファーストフード宗教フランチャイズ最大手』でしょう。
創価の信仰なんて質の低いファーストフードレベル。加えて迷惑行為のオンパレード。
『毒入り本尊を、人の弱みに付け込んで売り込み、毎月のみかじめ料としての新聞をしつこく購読させ、財務と言う名のカツアゲを毎年繰り返す』
話それましたσ^_^;
ビジネス書ではマイケル・ガーバーの仕組み化経営の本がベストセラーですが、創価も徹底的に仕組み化に取り組んでいますね。
今まで四つの地域、県の創価の組織を経験しましたが、日本どこでも金太郎飴のような会合、指導、活動内容でした。
ファーストフードフードにはそれなりのメリットがありますが、どうあがいても魂を込めた職人の料理にはかないません。


●おてもやん(元栄光地区婦人部) (2017年1月9日 11:10 )
哉文さんへ
初めまして。元2世のおてもやんです。
>おしなべて宗教一般が、「弱いから信仰する」などと考えるのは、有史以来の先人たちに大変無礼な偏見に見えて仕方ないのです。
仰る意味はわかります。
ただ創価学会や日蓮正宗の信仰は、人間本来の強さを奪うものだと私は思います。
宗教とは何か?は私はよく考えました。なにがしかの強大な力や法がこの世を支配しているのだと想像し仮定し、そうして作りあげた想像の産物に傅き隷属することで、自分は守られ、何をするにも神や法が担保してくれると考えている。
これがキリスト教やイスラム教、創価学会や日蓮正宗などの信者に共通するものではないでしょうか。
これら宗教は、宇宙の法則だの人智を超えただのと言っておくことで不可侵的なものにしていますが、宗教を信じ切ってしまう人間の心理がわかってしまった私には、そんな安全域にある「法」や「神様」など、不要でしかありません。
せっかくなので日蓮正宗に関して言うならば、創価学会と徒党を組んでいた時代もあります。日蓮正宗の教義も、人を呪縛し精神の苦行僧にするものです。
また、第二代会長の戸田の話が出てきましたが、ポルノ雑誌なども出版していたただの飲兵衛です。質問会集を読まれたことがありますか?抱腹絶倒のインチキな教義でいっぱいですよ。私の大事なお宝書籍です。
教学的にも、日蓮の御書はどれが真筆で偽所とか学術分野で明らかではありません。日蓮正宗には、宗派の違いを乗り越えて他の日蓮系宗派とどれが正しいのか共に研鑽される事を願います。
尚、私個人は普通に自然崇拝です。
朝起きて「太陽さん今日もありがとう」、夜になれば「太陽さんおやすみなさい」。ご飯を食べる時は大地の恵みに感謝。魚や肉を食べればそれらに感謝。家族にも感謝。生きてるって素晴らしい。楽しい、腹減った、つらい、悲しい。
宗教を信じていた時より、もっとダイレクトに「生」を感じられて良いです。
対話ブログで議論をぶつけるのは私は避けたいのでこの辺にしておきます。
管理人さんへ。不適切でしたら削除していただいて構いません。


●signifie (2017年1月9日 15:59 )
キリスト教の匿名さんや日蓮正宗の哉文さんのお話、ありがとうございました。創価以外の宗教の話については、このブログではあえて言及しない方針ですが、その場に応じて管理人の私が必要と判断した時に話題に取り上げていこうと思います。匿名さんに関しては、理解が得られたと思っています。哉文さんも、たいへん深い考察の中で宗教について模索されていらっしゃるので、あらためて宗教そのものについて考えるきっかけとなりました。ありがとうございました。
日蓮正宗については、創価と切り離して考えることの方が不自然だと思いますし、創価との問題も継続中ですから、創価問題を考えていく中では、どうしても避けては通れないと思います。個人的には日蓮という鎌倉時代の僧についてや、日蓮正宗の教義そのものについても、いろいろと問題があると思いますが、もっと問題なのは、創価学会を破門するに至るまでの宗門に問題がなかったのかどうか。つまり破門するまでの50年以上もの間、日蓮正宗は詐欺集団創価におんぶにだっこで大きくなってきたことをどう説明するのかということです。つまりここをはっきりしないのは、宗門は創価学会という詐欺集団の実態を承知していながらその片棒を担いでいたことを認めざるをえなくなるために、創価との蜜月の日々については触れないようにしているのではないかということです。もっと言うなら、宗門は創価の実態を知っていたにもかかわらず、学会員が宗門に支払う冠婚葬祭、墓地事業などの莫大な利益に甘んじていたことも否定できないのではないでしょうか。これは日蓮正宗は宗教法人として存続していけるかどうかにまで及ぶ大問題だと思います。だからこそひた隠しにしているのではないかと疑われても仕方ないと私は思っています。日蓮正宗の問題とは、教義の内容に不備があるとか、本来の仏教として矛盾があるとか、そういったことよりも、創価と一緒に何をやってきたのかということを隠し続けているところだと私は思います。このブログで日蓮正宗について話題に挙げるとすれば、日蓮という鎌倉の特異な僧のことや、教義そのものについて議論するのではなく、日蓮正宗は創価が詐欺団体だという実態を分かっていたのかどうかについてだと思います。
日蓮正宗が創価を非難するのであれば、創価が破門されるまで日蓮正宗の外護団体として正しく機能していたのかを、当時の収支を明らかにするなどして明確にしてもらいたいと思います。つまり、日蓮正宗は創価からどれだけのお金が流れていたのか。それは宗教法人として適切であったのかどうかを、明確な証拠とともに示す必要があるのではないかと思うのです。
私は日蓮が末法の本仏であるという前提で語られる日蓮正宗の教義を、ときどきジョークも交えて「地球が丸いことやアジア大陸以外の大陸や文明の存在すら知らないで、全知全能の神であるかのように説法していた日蓮」といった感じて批判してきましたが、そんなことだって信じる人の勝手ですからどうだっていいと思ってます。納得して信じることができるなら、それはそれでその人の「宗教」なのですから、他人から何も言われる筋合いはありません。たまにジョークにするぐらいです。しかし、創価問題の中で日蓮正宗を語るのであればジョークでは済まされないということです。日蓮正宗は創価と組んで何をやってきたのか。このことをはっきりさせなければ、日蓮正宗に創価を批判する資格すらないと私は考えます。この問題は、いずれ独立したテーマとして取り上げたいと思います。

●signifie (2017年1月9日 17:25 )
中学高校の頃、友だちや学校の先生から「シニフィエくんの家の宗教は何?」って訊かれたときに「日蓮正宗です」と答えて、決まって「日蓮宗なんだ」と言われるので「いや、日蓮正宗!日蓮宗と日蓮正宗は違うんだよ。日蓮宗は間違ってて、その名の通り日蓮正宗が正しいんだ」と胸を張って念を押してたことを思い出しました。ほんとどうしようもない子供でしたね(笑)
「宗教とは何か」ということがあいも変わらず答えの出ないテーマとして何千年ものあいだ語られてきました。「宗教とか何か」とは同時に「人間とは何か」「自分はどこから来てどこへ行くのか」といった哲学的命題です。誰しも思春期の頃にぶつかっては打ちのめされる命題です。しかしそんな時に明確な答えを用意している団体があって、生まれた時からその明確な答えの中で生きていくしかない人生がある。それが創価学会の家庭で生まれた子どもたちです。その明確な答えとは「自分で考えてもしょうがない。すべてはご本尊様が決めること。このご本尊様を信じることが幸せになれる唯一の方法だ。そしてこのご本尊様をちょっとでも疑ったら地獄に落ちて、永遠に幸せになれない」これが創価学会の家庭に生まれた子どもが、ものごころつくまでに徹底的に植えつけられる哲学です。
「宗教とは何か」
この疑問はきっとこれからも人間を悩ませ続けるでしょう。先日の匿名さんの話の中でも語られていた「キリスト教において神とは何か人間は知るすべを持たない」といったテーゼ。これはキリスト教に限らず、宗教のかなではよくある話でもあります。言い方を変えれば「人間よりも崇高なものを人間が把握できるわけがない」といういわば思考停止の論法でもあります。「考えたってどうせわからないんだから、そこはそういうもんだって信じるしかないだろうが」ぶっちゃけて言うとこういうことですよね。まあ、それが宗教だと言ってしまえばそうなのかもしれませんが、この論法を金儲けの道具に使ったのが創価学会だということです。「とにかく祈るのよ」「先生と呼吸を合わせて」「すべてをご本尊にお任せするんだ」「信こそ成仏への道」「疑えば地獄」こんなどこに行っても金太郎飴の幹部の指導。こうしたフレーズは御書にもあるので、会員はさもまことしやかに納得せざるをえません。


「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(開目抄)
これ現代語に訳すると
「YO!ブラザー!どんなつれえことがあっても疑ったりさえしなければフツーに幸せになれるんだぜ。サイコーだろ。神様が救ってくれるんだから心配すんなって。今が不幸だからって文句言ってんじゃねえってよ、まったくよ。オレがいくら口すっぱくして怒鳴っても、みんな疑ってばっくれんだよな。結局よ、おまいらみんなその程度だってことよ。いつだってここってときにばっくれやがる」
どうですか。思考停止そのものでしょ。


もう一つ
「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(聖人御難事)

「おまいらいつだって油断すんじゃねえぞ。ちょっとでも緩めば魔がやってくんだぜ。わかってんだろな」
脅してますねえ~


御書もこれくらいわかりやすく書いてれば、そのあたりの暴走族が会員になるかもしれません(笑)。
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(生死一大事血脈抄)

「俺様の家来ども、よく聞け。俺様の言うことを聞いて、ただひたすらナムナムしとけばいいんだよ。俺様の言うことはこれだけだ。俺様の言うこと聞いときゃどんな願いも叶うってもんよ。ただし、一人でも言うこと聞かない奴がいたら、みんな揃って地獄行きだ、わかったかボケ!」
そういえば学生部時代にこの「生死一大事血脈抄」全文を暗記させられました。
わかろうがわかるまいが関係なく、一文一句をスラスラと言えるまで、何度も何度も声に出して覚えさせられました。まるで軍隊です。徹底的に思考停止人間に仕上がります。(笑)
宗教とは、言い換えれば思考停止とも言えます。「何しろ考えたってしょうがないほど偉大な力に支配されているんだよ。ガタガタ言うんじゃねえ」ってことです。
この世の全てを理論で説明しようとした哲学の天才デカルトでさえ、神に関しては特別扱いしてしまいました。人間が明確に神(キリスト教上の神)を否定したのはニーチェだったと思います。ニーチェ以降の哲学者から、神のいないこと前提で世界を解き明かそうとしたわけです。そう思えば、ニーチェはそれまでの人類2500年の哲学史最大の分岐点を作り出したのかもしれません。
この辺りの話は長くなるのでまたの機会に。

●担々麺 (2017年1月14日 02:52 )
はじめまして。トピックスに合ってるかどうか分かりませんが、自分の気持ちを整理するためにも書き込みをさせていただきたいと思い、文章をつづっています。
私は、学会2世の30代後半女子部です。現役職は公表を控えさせていただきますが、仕事のため実家を離れて一人暮らしでありながら、活動にもきちんと顔を出していたため、周囲はきっとバリバリの活動家と思っています。白蓮も20代前半に、1年だけ経験したことがあります。
ところで、こちらのブログは、現在結婚を考えている、非学会員(学会大嫌い)の彼から教えてもらいました。昨日初めて見たのですが、目から鱗というか、「あるある!」と思えることだらけだったというか、福子でありながら、これまでに幾度となく、もやもやと疑問を持った自分はおかしくなかったんだと、胸のつかえがおりるところがたくさんありました。
ほんの、1,2ヶ月前までは、「ネットに書いてある学会批判など嘘ばかりだ!」と息巻いていた私ですが、彼が根気強くマインドコントロールから抜け出すための風穴を、私に開けてくれました。そうすると、さまざまな学会批判の情報が、そのとおりだと思えるようになりました。
とくに、このブログのみなさんの、以前学会員だったからこそ苦しんだ体験の話、本当のコトだからこそ、これだけ私にも響くんだと思います。
疑問をあげると数多くなるなあと思いながらも、いちばん最近では2015年の勤行要典の御観念文変更ですね。
いちばん最初の、「東に向かって諸天善神の守護」のところが、東も向くことなく「諸天供養の題目」という雑な扱いになったことです。朝一番の大事なところなのに、東に向かなくていいの???と思って、勤行要典が変わっても、前のやり方を通してました。もちろん、初代・二代・三代会長までを「永遠の師匠」としたところにも違和感を感じ、「まだ池田先生死んでないのに!というか、個人崇拝みたい!」と思ったのも、新しい勤行要典を受け入れられなかった理由です。
2014年にも、11月に教義の変更ありましたね。こちらのブログの書き込みを見て思い出しました。当時の聖教新聞を見て「???」と思い、その後幹部の集まる会合で報告みたいな形で説明がありましたが、たぶん末端までは行き届いてないかと思います。
というか、10年ちょっと前に、勤行自体、五座三座から方便品自我げ(漢字変換できなかった)に大幅縮小されたのも「いいのか?こんなことして?」と思いました。
あと、20年ほど前、高等部時代には、その頃の組織名が、地元の地名を差し置いて「大勝支部」「常勝支部」「最勝地区」はてまた「池田支部」「戸田県」などと変えられていったことに疑問を持ち、高等部担当者に尋ねたこともありました。なんだか、自分の愛する地域がないがしろにされている気分だったんです。しかし、担当者からは納得いく理由はもらえなかったと思います(なんと言われたか覚えてないです)。
ところで、私の30代後半という年齢で、なにか感じられた方もいらっしゃるかと思いますが、これまで私は学会員という理由だけで、何度も結婚の機会を逃してきました。幸せになるはずなのに、幸せから遠のいてばかり。そんなときに、学会の人たちから言われるのは「それは良かったのよ。もっといい人があらわれて幸せになるんだから。」と同じことばかりでした。それはいつ?本当に?私はこんなに苦しんでいるのに!どれだけどれだけ、苦しめばいいの?それもだんだん苦しみ方がひどくなっていく!
「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる」
この御書の一節が足かせとなり、正法を信ずるが故に自分は迫害されるんだ、仕方ないという考えも抜けきれず、じゃあどうしたら「春」になるんだという苦しみばかりが増幅されました。
そんなときにいまの彼とおつきあいすることになって(詳細は省きますが)、私が学会と知って、ショックを受けたそうですが、(先に学会員と知っていたら付き合ってなかったとハッキリ言われました)、こうして私が学会脳から脱却するための風穴を開けてくれました。感謝です!
以前の人と付き合っていた時のように、学会活動を頑張ったら幸せになれると思って、休日の予定は会合を優先して、丸一日かけて遠方の会館に部員さんを乗せて出かけたり、平日の夜も会合と家庭訪問のために食事のお誘いを断ったり・・・こんなことをしていても春は来ませんよね。
ただ、私は狂信的な池田信者ではなかったです。
日蓮大聖人の教えを守る宗教なら、池田大作氏は師匠ではなく弟子の一人に過ぎないと、思っていました。これは、戸田会長時代に入信した祖父も言っていたそうです。
だから私の中にはもともと、師匠としての池田氏はなかったのです。だから、師弟不二の意味は最後までよく分からないままでした。(なんちゃって青年教学1級もってるのに分かってないという・・・)前述した、新勤行要典の個人崇拝じゃ?との疑問もここから沸きました。
選挙の時とか、同級生とか友達とかに、ずいぶんお願いをしました。会合に誘ったこともあります。けど、幸いなことに、これまで私の友達は、私から離れていません。よかった・・・
このスレッドは、「これからどうしますか?」でしたので、これからのことを書きます。時期はまだ分からないけど、今の、風穴を開けてくれた彼と結婚する方向で動いています。統監は、詳しく方法とか書くといろいろばれるので省略しますが、実家の地区にも戻ることなく、限りなく退会に近い幽霊部員となります。あとは、名字を変えてしまうと、たぶん誰だか分からなくなると思います。実家の両親は、共に学会員ですが、了承しています。「結婚したら相手の家に従いなさい」と言ってくれています。娘の幸せを願う、本当の親心なのだと感謝しています。

 


解説
担々麺さんは、「ゆんちゃんさんの創価男性との結婚の悩み」(8/28)の回にも出ていましたね。
私は、法華講員ですから昔ながらの勤行要点を使用しています。
初座で諸天善神に守られ、一日がんばれそうな感じが好きです。
なので、創価学会員が新しい勤行のやり方で初座をないがしろにしていると聞いて残念な気持ちになりました。

獅子風蓮