カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。
レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)
かいつまんで、引用します。
(もくじ)
□序文(ハーブ・アルパート)
□プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
■第3部 孤独な心
7)悲劇の予兆
8)相つぐヒットの陰で
9)ショービズ界の恋
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース
第3部 孤独な心
7)悲劇の予兆
(つづきです)
アルバムはたちまちのうちにアメリカで百万枚を売り上げたのち、すでに根強い人気のある日本でも急上昇し、〈イエスタデイ・ワンス・モア〉のシングルは日本で75万という驚くべき枚数を売り上げた。イギリスとならび、日本はそれから先何年もにわたり、カーペンターズの主要マーケットとなるのである。
「イエスタデイ・ワンス・モア」
若い頃は
好きな曲を待ちながら
よくラジオを聴いていたわ
そしてその曲がかかるとニコニコしながら
一緒に口ずさんだものだった
そんな幸せなひとときは
それほど昔のことじゃないのに
あの歌はどこへ?と どんなに心配したことか
でもここにあの歌の数々は舞い戻ってきた
久しく会わなかった友だちのように
私はどの曲も大好き
今でも“シャラララ”や“ウォウウォウ”の
コーラスの一つ一つが
光り輝いているわ
“シング・ア・リング・ア・リング”と
歌い始めるのも
とても素敵
今でもすごくドキドキするの
まるで初めて聴いた時みたいに
心を奪われてしまう
まるであの頃のように
過ぎ去った日よ もう一度
カーペンターズのアルバムのイギリスでの総売上げは三十万枚を超え、A&Mレコードのイギリスにおける経済基盤となった。1973年、炭坑労働者による産業ストライキが工場の週3日操業をやむなくさせ、レコード業界にも悪影響がおよんで、生産がままならなくなった。エネルギー危機は深刻なビニール不足を招いた。需要に応えるべく、A&Mの販売ディレクター、ジョン・ディーコンはカーペンターズのレコードをドイツ、オランダ、その他ヨーロッパの各地でプレスさせてはロンドンに送らせた。
A&Mレコードのミュージシャンや重役のなかにはいまだに彼らを“退屈”だと考える者もいたが、ロンドン支社のスタートにあたってこれほど強力な経済的後押しをしてくれたカーペンターズにたいする感謝の念も存在していた。
「カレンは見るからに心配症で、リチャードは彼女をがっちりと保護しているという感じでした。彼のことを、そう、扱いにくい、と言う人もいましたね」
ディーコンが当時を振り返る。
ヒット・チームはここで協力体制を固める。リチャードとジョンが何か月か前に手がけたカントリー調の〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉が時間をかけてトップの座についたのだ。アルバム《スーパースター》以降、リチャードは曲選び、制作にもっと時間をかけたいと考えた。なぜなら《スーパースター》は 満足のいく曲をそろえてのアルバムづくりだとは思えなかったからだ。そしてつぎのアルバム《トッ プ・オブ・ザ・ワールド》がそれになるのだが――のため、A&Mの出版部門アルモからおりてくる曲を ふるいにかけはじめた。
最初のうち、カレンとリチャードは仕上がりのヴァージョンにたいした意気込みを抱かなかったが、やがてその曲はカーペンターズのスタンダードとなり、民間旅客機の離陸のときにしばしばかかるようになった――それは曲が生まれたときの状況と奇しくも一致していた。アイディアがはじめてベティスにひらめいたのが、ナッシュヴィルからロサンゼルスまでのフライトの途中だったのである。
いったん完成させてアルバムに収めてみると、いい曲ではあるが平凡だと本人たちはみなした。だが早い時期の評に、〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉がきわだった曲だというのがあり、カーペンターズはおおいに驚いた。彼らはその他の数曲、とりわけ 〈愛にさようならを〉を優先させていたのだ。
(つづく)
【解説】
リチャードとジョンが何か月か前に手がけたカントリー調の〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉が時間をかけてトップの座についたのだ。
〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉もいい曲ですね。
獅子風蓮