d-マガジンで、池田氏死去にともなう特集記事を読みました。
引用します。
サンデー毎日 2023年12月10日号
倉重篤郎のニュース最前線:
池田大作
創価学会名誉会長
戦後最大の宗教指道者の功罪
池田大作創価学会名誉会長が、11月15日に死去した。様々な評価があり得ようが、戦後最大スケールの宗教指導者であったことは疑い得ない。創価学会を巨大化させて世界宗教に育て上げ、公明党を創立して権力を構成するまでに至った。池田氏が戦後日本に刻んだものは何か? 破格のカリスマの功罪を、3人の論者が忖度なしで語る。
(つづきです)
権力者の自己実現と後継者の不在
溝口敦
池田大作氏に関心を持ったのは69年の言論・出版妨害事件以降だ。創価学会に関する本が多数出たが、爆発的な組織拡大を遂げていた学会問題の根幹には、池田氏という個性の占めるウエートが大きい。池田氏という人物に絞って取材すればよりわかりやすく解説できるのではないかと思った。
国会図書館などでひたすら聖教新聞を読み込み、池田氏の動静を追い、見えてきたのは、やはり池田氏あっての学会問題だった。池田氏という強力な指導者がいて、周りの過度な忖度があった。高度成長を背景にした組織の拡大再生産、政界進出を果たした勢いがあった。組織と人間が典型的な形で現れるのが、私の取材対象で言うと、暴力団であり、宗教団体であ ろう。問題の所在がどこか、組織を説明するより組織の中の人間を描いたほうがわかりやすい。
昭和3年生まれの池田氏の元々の基盤は文学青年であり、大正ロマン主義的感傷文学に憧れていた。戸田城聖第2代会長の経営する出版社で少年雑誌を作り、その中で自分も執筆したのが彼の夢実現の第一歩になった。文筆で世に出たいというのが彼の望みだった。とはいえ、彼は創価学会という組織の中でも上昇していく力を持っていた。人心掌握術だけでなく、 ライバルを蹴落とすマキャベリズムにも長けていた。その中で彼は第3代会長になり、創価大学を作り、民音(民主音楽協会)を作り、公明党を作り、組織力を最大限に伸ばしてきた。
文筆的喜びは、複数の証言があるように代筆者を活用する形で、組織拡大の欲望は、新宗教が雨後の筍のように出てくる中、創価学会が勝ち戦を進める中で達成されていった。そういう意味では、彼は自己実現を果たした。闘病生活に入って13年間、その間、自己意識がどこまであったかわからないが、恐らくわが生涯に悔いなし、であろう。
ただ、創価学会のここまでの発展の中で、池田氏自身による独自の路線はない、というのが僕の見立てだ。戸田氏が敷いたレール、開陳した展望の中をひた走りした人生だった。政界進出も与党の一角も戸田プログラムの中にあった。
池田氏は小選挙区制導入には反対だった。公明党が生き残るにはどこかと組むしかないからだ。彼に限らず宗教団体は時の権力に擦り寄り保身を図るところがある。池田氏にとって自公連立は、学会という巨体を存続させる限られた選択肢の一つだったのだろう。
ただ、池田氏は人間不信が強かったのか、後継者を作らなかった。誰一人いない。ライバル排除もあった。そのことは創価学会を、池田氏を最頂点とした後は右肩下がりにならざるを得ない組織として必然化した。池田氏もそれを自覚していたのではないか。
実際に池田氏が病気に臥してから学会票は減ってきている。池田氏が亡くなったからといって弔い合戦をしようとはならないだろう。むしろ高齢会員がこれを機に離れていく恐れがある。池田氏のカリスマ性あっての選挙活動だったわけだが、それがなくなった。
各小選挙区1万~2万の学会票が見込めなくなると、自民は維新や国民民主党と組むことを考える。カリスマ喪失と、公明が自民から距離を置かれることで、創価学会は立正佼成会やPL教団のようなおとなしい、普通の伝統仏教的教団に切り変わっていくだろう。政治との関わりも弱くなる。岸田政権の不人気ぶりでは政権を明け渡すこともあり得る。
【解説】
創価学会のここまでの発展の中で、池田氏自身による独自の路線はない、というのが僕の見立てだ。戸田氏が敷いたレール、開陳した展望の中をひた走りした人生だった。政界進出も与党の一角も戸田プログラムの中にあった。
これはどうなんでしょう。
たしかに大枠では、池田氏は「戸田氏が敷いたレール、開陳した展望の中をひた走りした」といえますが、それまでの狂信的・独善的だった教団を、常識的・融和的に変えていった功績は認められると、私は思います。
獅子風蓮